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エッセ essais 3


目次


 

つつましさについて 98.10.11

買ったCD。

GUSTAV MAHLER Symphony No.9 in D Major Leonard Bernstein-New York Phiharmonic Sony Classical.
FRANCIS POULENC Musique chorale religieuse Eric Ericson-Netherlands Chamber Choir Globe.
LEOS JANACEK String Quartets Guarneri Quartet PHILIPS.
ALEXANDER BORODIN Symphonies 1&2, In the Steppes of Central Asia Vladimir Ashkenazy-Royal Philharmonic Orchestra DECCA.
ERNEST CHAUSSON Poeme, Piano Trio, Piece, Andante et Allegro Devoyon, Graffin, Hoffman, Neidich, Chilingiran Quartet Hyperion.


初めてマーラー9番の4楽章を聴いたのは、ゴダールのフィルム"Je vous salue, Marie"のなかでだった。
この曲に併せて少女が踊るというシーンに圧倒され、つよい印象を受けた。ちかごろあらためて聴きたく思い、CDは実家にあるものだから、新たに購入した。
フランシス・プーランクは、以前にオムニバスのCDで彼の素晴らしい曲をひとつ知っていたことから購入した。その曲を含む、上質な声楽のポリフォニーによる聖歌集である。
あとの3枚は、中沢新一による『音楽のつつましい願い』において紹介されていた作曲家のものを探したものだ。

作曲家を選ぶことにおいて、本にまとめるにあたって、「つつましさ」をモチーフとしたところが彼らしい。彼は自身の持っている弱さの部分を隠さないひとだから。そんなに自分の弱さをさらしたく思うひとはいない。僕自身音楽の好みに関して照らしてみても、ラヴェルが好きだともジェズアルドが好きだとも、あるいはマーラーの5番の4、5楽章が好きだとさえ、人に云ったことはあるし、そのような曲と自分の重さを天秤にかけることを考えたことを告白しもしたと思う。しかしながら、自分がスクリャービンという作曲家のあるピアノ曲を好きだということはどうも云えない気がしていた。スクリャービンという名を出すことさえ稀だった。それはその音楽がまさに自分の弱い部分、裏面史的側面を晒してしまうものであるような気がしたからである。

この本の中には、山田耕作がスクリャービンの音楽に出会うシーンも描かれている。中沢新一は東方的「イコン」の文化を併置し、「霊と肉は両極のように遠く、おのずから世界を異にするものかと思うと、それは別個の二つではなく、まったく不可能不可分の一つであること」(自伝)を山田耕作がそのときに学んだことを説明しようとしている。「この音楽を作り出している知性は、ドイツ音楽の論理(ロジック)とはおよそ異質なもので、むしろヨハネ福音書が冒頭に語り出している、あの古めかしい「ロゴス」という言葉を連想させるような知性なのだ。おそろしく古代的で、おそろしく未来的な何か。とてつもなく病的でありながら、あらゆる人の病気を治癒する力を備えているようにも、感じられる。」

西欧近代の論理がひろくいきわたっている現在においては、つつましさとは、とてもネガティブな概念なのである。「近代」的意味での「個人」の属性としてはちっとも肯定的要素として評価されない。それゆえに、この本に登場する作曲家たちも、東欧、ロシア、南米といった、ヨーロッパから見て周縁的な場所に住んだひとたちであることは、けっして偶然ではない。音楽においても、「近代に突入した西欧の音楽」は、「ふくらんでいくエゴの幻想と、『創造』へのパラノイア的な熱狂につきうごかされていた」のである。

さて、彼らのうち3人の作品を今回聞いてみて、それぞれにすぐれた音楽的感性で「音楽そのものへの前奏曲のような」音楽を聴かせてくれたが、なかでもエルネスト・ショーソンの作品に関しては、僕は、たいへんな感銘を受けた。初めて聴いたときから、自分がこの音楽を愛することができると、これほどまでに確信できた経験を、おそらく持ったことがない。「濃密なエロティシズムの香り。それは、この音楽を発生させているのが、死の力であるからだ。」「謎のようにして生まれ、謎のままに消えていくものとしての音楽」。ここまでにあからさまに語られると少したじろぐが、僕自身「世の中で最もエロティックなものは音楽だ」と認識していたことと重なり合うものとおもう。実際上の手法としても、全体の中でのピアノの用い方、和声の構成、次に来る和声をリアルに予測し同調できるというような感動じみた快感。僕に作曲の才能がそなわっていたならばきっとこのような曲を作りたく思うに違いないという確信。初めて自分が本当に親しみを感じる音楽に出会えたというような気がし、殆ど目頭が熱くなるほどだった。

ところが、このショーソンについては、東欧の人でも、南米の人でもない。パリなのである。それでどうしてこんなにまで繊細な?

きっとフランスという国には、そうしたマイナーカルチャーが息を塞がれないだけの許容力があるのではないかと僕は想像する。「マイナー文学」についての素晴らしい考察を遺したドゥルーズも他ならぬフランスだったし、交通事故で不慮の死をとげたロラン・バルトという批評家のあの限りなく繊細なクリティックも、いまふたたび思い出される。

Le plaisir du texte : tel le simulateur de Bacon, il peut dire : ne jamais s'excuser, ne jamais s'expliquer. Il ne nie jamais rien : <<Je detournerai mon regard, ce sera desormais ma seule negation.>>
…テクストの快楽。それは、ベイコンの模倣者のように、次のようにいうことができる。決して弁解せず、決して釈明せず、と。それは決して何物も否定しない。《私は目をそむけるだろう。それが、今後、私の唯一の否定となるだろう。》

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最終更新日04/09/10

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