7月17日(木)

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(仕事)

 同室のマラさんは、博士課程の学生である(と思う。少なくとも博士の学位は持っていない)。しかし、彼は研究室で雇用され、その給料で自分の生活を賄っている。彼自身も、プロジェクト推進のために雇われ、仕事として研究を行っていると意識しており、プロ意識は高い。日本の若手研究者(特に博士課程の学生)との境遇の違いは大きい。多分、研究(仕事)に対する(プロ)意識もかなり違うのではないか。研究室では、マラさんに限らず、多くの若者が自分の研究(仕事)に誇りと責任を持って取り組んでいる雰囲気を、ひしひしと感じる。
 給料をもらうことには、自分の行動に対する積極的な意識を育てるという役割もあるように思う。日本の一部の学生が、本業(と本人達が思っていないことが問題なのだが)である学業よりも、給料をもらうためのアルバイトを優先しがちなのも、お金のためだけではないのかもしれない。給料支払の代償として、雇い主は一定の責任を求めるが、責任には当然権限が伴う。彼等はアルバイト先では、小さいながら権限を伴う仕事を行っており、自分の工夫や裁量を生かせる楽しみ(少し大げさに生きがいと言ってもよい)も生じる。一方、彼等の勉強は完全に受動的になってしまっており、楽しみが生じにくい。
 残念なことに、アルバイトでこなせる仕事は、普通、長期的には工夫や裁量を加える余地の少ない単純作業なのである。容易に他人で置き換え可能であり、一生を捧げてもよいと言える人は少ないであろう。彼等がいくらアルバイトを熱心にこなしても、得られるのは小さな権限を伴う社会経験(それでも全く社会経験のない他の学生には誇れるが)とわずかなお金に過ぎない。失った青春の時間に対して、余りにも少ない報酬である。
 元気に外で遊ぶ(この時期、夜9時を過ぎても遊んでいる)フィンランドの子供達と、熱心に研究に励む若者達を見ていると、どこか日本が選んだ社会のしくみは、抑えどころをはずしているのではないかと思ってしまう。現在、日本の社会が、高校生以下の子供達に受動的な勉強を押し付けているのも、その見返りとして(?)、多くの大学生にほとんど勉強しないこと許容しているのも、ボタンのかけ違えのような気がする。
 今日は、自分でもまとまっていない考えに付き合っていただきありがとう。

(コーヒー)

 フィンランド人は、コーヒーをよく飲む。研究室の休憩室のキッチンにもコーヒーメーカーが2台ありフル回転で働いている。タンペレに来た当時、このペースに乗せられて、一日に4杯ほど大きなカップにコーヒーを飲んでいたが、どうも寝付きが良くない。時差ボケならば逆に、夕方早い時間に眠くなるはずなのに、どうもおかしい。もしやと思ってコーヒーを一日2杯に減らしたら、寝付きが良くなった。平均的なフィンランド人は、どれだけコーヒーを飲むのだろうか。実は知らない。
 ロバニエミのホテルでも、コーヒーはコーヒーメーカーで作るが、紅茶はティーパックであった。おいしい紅茶を作ろうとする熱意が感じられないのである。ポットで作れば紅茶だっておいしく飲めるものをティーパックでは味が落ちる。ついつい、ホテルの朝食はコーヒーを飲むようになってしまう。
 私は、紅茶が好きなのだが、朝アパートで入れる以外は、結局、コーヒーを飲んでいる。コーヒーのきつい味自体には慣れてきた。


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