目次へ戻る
途切れた道
学校の帰りに、友達と一緒になっておしゃべりしていくのが最近の高校生の唯一の楽しみだった。だから、毎日ホームルームの時間が終わったあと、自習用に開放されている教室に溜まって勉強をするふりをしながら様々な話に熱中するのが日課なのである。
北代牧もまた友達と一緒に学校に残って勉強していく普通の高校生で、独特の澄んだ瞳以外は特に目立つ特徴もないし、それを不満に思うような性格でもなかった。年頃の友達に比べるとおしゃべりが得意というわけではないので、どちらかというと聞き手に回ることが多く、面倒見の良さと責任感の強さでみんなから信頼されていた。ただ、どこか華やかさに欠けるので男子とは縁が薄かった。成績がいいこともそれに影響しているのかもしれなかったが、そういうことを気にかける風でもない。
この日もまた、一時間以上自習教室でのんびり勉強していたが、先生が見まわりに来て生徒を追い出しはじめたので、彼女らはしぶしぶ腰を上げて下校することにした。お互いに手を振って三々五々別れて帰っていく姿は内戦が始まる前と変わらない風景で、彼女らの誰もがいつかこうしたのどかな習慣が崩される日が来るかもしれないと心の深層で思うことがあるにしても、自分にそれが起こるとは誰も思っていなかった。平穏の終焉は突然やってくる、ということを理解するには彼女らは若すぎた。
牧が駅を降りて歩き出すと、街に騒然とした気配が漂っているのが強く感じられて、彼女は周りをきょろきょろと見回しながら早足でいつもの道を辿り続けた。しかし、その騒擾は自宅のある団地に近づくほど強まり、とうとう被災地特有の建材破片による埃っぽさが目に付くようになりだして、彼女はかばんを抱えて走り出した。団地のほうに人々が集まっている。何かに心臓を掴まれた感覚のまま走り続けて、辻を曲がったところで信じられないものを目にした。
自宅のある棟の東側が大きく崩れている。その崩れている一角に丁度自分たちの住んでいる場所があった。彼女は声にならない悲鳴を上げると、人々の間をかき分けて全力で走りはじめた。何がどうなっているのか理解できなかった。
それからの数時間は牧にとって自分が何をしていたのか思い出せるときがくるとは考えられないほど、ショックの連続だった。ようやく自分を取り戻したのは、病院に担ぎ込まれていた母の横で悄然としている妹の姿に心が痛んだときだった。簡易ベットの横に座っていた妹が顔を上げてこちらを振り返ったときの心細そうな表情が、彼女に自制心を取り戻させたのである。お母さんのためにも、綾のためにも、私がしっかりしなくては。彼女はその瞬間に、悲しむのは後に、ずっと後回しにすることにした。
喧騒渦巻く廊下側から声がしたのは、もう夕方になってからのことだった。
「お取り込み中にすみません、協力隊の者ですが、何かお手伝いできることはありませんか」
振り返ると、そこにカーキ色の作業服に身を包んだ男が入り口に立っている。ヘルメットを被り、片手には丈夫そうな鞄を抱えている。牧はその声に聞き覚えがあった。相手は入り口に立ったまま、彼女のほうを向いてはいるものの、床に目を這わせている。
「上尾‥‥くん」
「はい。こちらの病院に収容された被災者の方々の支援をする担当になりました、協力隊員の上尾です。よろしく」
「ねえ、なに他人行儀なこといってるの、上尾君でしょう」
「そうです、北代さん」
学校でみるぶっきらぼうな感じと、いま目の前に入る丁寧な物腰の落差のために、牧には同じ上尾だとは信じられなかった。綾のほうはこの不審者に対して明らかに警戒している。
「上尾君、そんな変な言い方やめて。ねえ、ここで何してるの」
彼のほうはしばらく諮詢していたが、二、三歩、部屋の中のほうに足を進めると、肩の力が抜けたようだった。
「被災者の人たちにいろいろ便宜を図るのが俺たち協力隊員の役割なんだ。だから、なんでも気軽に使ってくれていい。守秘義務があるから、人には余計な話をしたりしない。でも、その、俺では具合が悪いだろうし、他の人と変わってもらうように上申しておくよ」
「いや、私は別にいいから。でも、上尾君、こんなことしてたんだ」
牧にまじまじと見つめられて、上尾は居心地が悪かった。
「それで、被災票をもらってきてあるから、被害状況を申告してくれるかな。それに合わせていろいろ手当てや補助がつくから。ここだと他の人もいるから、ちょっといいかい」
「わかった。綾、ここはお願いね」
上尾について出て行く姉を、綾は黙って見送った。
病院はどこも人でごったがえしていたので、上尾は周りに邪魔されずに話が出来る場所を捜すのに一苦労だった。階段途中の踊り場に空いているベンチがようやく見つかったので、牧を座らせて自分もその隣に腰掛ける。まだ制服姿のクラスメートは、被災したというのに、驚くほどしっかりしていた。
「それで、何をどうすればいいの、上尾君」
「まずは、どういう被害にあったかで申請書類が変わるから、状況を教えて。あの部屋にいたのはお母さんだよね」
「そう」
「その、かなり様子が悪そうだったけど、お医者さんはどんな具合だと言っていたのかな」
「首振ってた。お母さん、だめかも知れないって」
あっさりと言うので、思わず上尾は彼女のほうを見上げる。牧は淋しそうに笑った。
「いいのよ、上尾君がそんな顔しなくても。とりあえず、死に目には立ち会えそうだし」
「そうか。でも、良くなるかも知れないから。あと、あそこにいたのは妹さんかな」
「綾っていうの」
「それで、お父さんとはもう連絡とれた?」
「死んじゃった。ほぼ即死だって」
牧は、自分でも自分の冷静さに驚いていた。ちょっとの間があいたが、相手は書類に目を落としたままだったので、その表情を彼女が読み取ることは出来なかった。彼女自身、自分を薄情な人間とは思っていなかったので、涙が全然でないのが不思議だった。
「その、お父さんは今どこに安置されてるの」
「ここの地下。一応ここまで搬送されてきたけど、私も綾も間に合わなかった」
「そうか。残念だったね」
「いいの。ありがとう」
冷血な女だと思われてるかも、と牧は内心感じていた。でも、お父さんがいなくなって、お母さんがあんな状態では、私が頑張らなくてはいけないんだ。綾のためにも、しっかりしよう。
「お茶、飲むか。水筒にお茶が入れてあるんだ」
「え?ああ、ありがとう」
唐突に上尾がお茶を勧めてきたので戸惑いながらも、北代はコップを受け取ろうと手をだした。そのときになって初めて、自分の手に血の気がないことに気付いた。私の手、こんなに白かったかな。
「両手でコップ持つといい」
彼女がコップを差し出すと、上尾はぬるくなったお茶を半分ぐらい注いだ。
「ずいぶんぬるいけど」
「うううん、これでいい」
生真面目な顔でお茶をすするクラスメートを、上尾は黙って見ていた。学校でほとんど話をしたことはなく、しっかりした人だろうぐらいには思っていたが、こういう状況でここまで落ち着いている被災者は珍しい。何も知らなければ、ふだんの彼女と違いを見分けられないだろう。ただスカートにうっすら残る土埃の跡が、彼女の上に何が起ったかの証拠だった。
「私と妹、ってどうなるの」
わずかに髪がほつれたままになっていることに気付かないまま、彼女はコップに向かって呟く。上尾は書類の端を整えると、冷たい灰色の壁にもたれて天井の蛍光灯を見つめる。
「なんでも力になるから」
「じゃあ、宿題とかもしてくれる?」
「は?」
「冗談。はい、ありがとう」
笑ってコップを返す北代は、学校で見かける彼女そのままだった。上尾は我に返ると、彼女に被災票の記入方法を教えはじめた。彼女は説明に聞き入ると、しっかりした字で記入をしていく。かすかに病院の外の喧騒が窓から聞こえはするものの、病院の白い蛍光灯のもとでは全てが非日常的に思える。通学している同じ高校内で同学年の被災者を担当するのは、上尾にとってこれが初めての経験で、どこまで協力隊員としてのきちんとした態度をするべきなのかが分からず、やりにくさを感じていた。
「ここは何を書くの」
「あの家が住めない状態のときに、他に近所で住む場所の当てがあるかどうかを書いて下さい」
「そんなの、あるわけない。ふざけてると思わない、この質問」
「そう言われましても。仮設住居の割り当てとかが優先してもらえます、そういう場合」
牧は不意に顔を上げて上尾のほうを見る。笑いをかみ殺している様子だ。
「なに、その馬鹿丁寧な言い方。そんな喋りかたしなくていいってば」
「いつもこうだから、ついそうなっちゃうんだ、北代さん」
「協力隊員ってみんな若いの?」
「いいえ、ていうか、いいや、退役した軍人の人とか、元警官とかのもっと年食った人のほうが圧倒的に多い」
「へえ、じゃあ私はラッキーだったわけね」
「ラッキー、ていうけど、大変なんだよ、これから」
「はいはい、分かってるわよ、それぐらい。さ、こんなものでいいかな」
「ありがとう。じゃあ、手続きすすめておくから」
「もうこれだけでいいの」
「とりあえずはね」
「らくちんなものね。上尾君、もしかして私に特別サービスしてくれてるの」
まだこの事態を真剣に受け止められていないのではないだろうか。上尾はこのクラスメートをほとんど知らないだけに、相手の軽口に戸惑っていた。
「そんなことしない。これは正規の手続き」
「ちぇ、分かってる。さ、母さんのところに戻ろう」
そう言って、彼女は元気良く立ち上がって、窓の外を覗いた。上尾は広げていた鞄を片付けながら、皺のついた彼女の制服の背中を見ていた。
「お母さん、早く意識が戻るといいな」
「そうだね」
もう外はかなり暗い。少女はくるっと振り返ると、手で軽く合図して先に立ち、病室に向かって歩きはじめた。その様子も元気なものだ。が、彼女が窓の外を見ていたとき、観察力の鋭い彼は彼女の手が微かに震えているのを見逃せなかった。
北代の父親である誠治の葬儀は、非常に簡単なものだった。急ごしらえのテント張りの合同葬議場に並べられた棺のうち、北代のところに参列したのは知人、職場関係の人、近所の人だけで、親戚がまったく来ていなかった。しかし、姉妹の代わりに病室に残っていた上尾は、そのことを知る由もなかった。荼毘に付された父親の骨を、なきじゃくりながら綾が拾い上げていく。被災して半分潰れた死に顔を見ても涙を流さなかった妹が、今は泣いている。牧は、その横で丁寧に骨壷に骨を納めていきながら、自分の涙はどこにあるのだろうと暗い気持でいた。もう優しかった父さんの顔を見ることは一生できなくなったのに、なぜ私は涙を流さないのだろう。
もう暗くなってずいぶん経ってから、北代達は骨壷を提げて帰ってきた。制服の紺色に骨壷を覆う白布の対比が痛々しい。そこには、上尾が見たくないものがあった。上尾の心の暗部を突き刺す痛みが鈍く反響する。しかし、顔色はよくないものの、クラスメートの姉のほうは喋り出すと相変わらず普段と変わりない口調で、母親の容態がどうだったかを確認してくる。
「ああ、特に変化はない。予断は許さないけど、状況を考えれば悪くない、と回診に来てた先生がいっていたよ」
「そう。どうもありがとう、上尾君。もういいわ、後は私達で母さんの面倒見るから」
「大丈夫かい。疲れてない」
「大丈夫よ」
語気がきつくなったのはその一瞬だけで、また普段通りの調子に戻る。
「とにかく、お母さんが気がつくまで私達でずっとついているから」
「そうか。分かった。でも、俺はこの病院と横の施設の応援に割り付けられているから、この建物の中をうろうろしているし、何かあったら遠慮なく呼んでくれていいから」
「はいはい、頼りにしてるからね、上尾くん」
その軽い口調の裏の彼女の心情までは上尾は読み取れなかった。
牧がベット横のパイプ椅子でうつらうつらしていると、かすかに人の気配が近くでする。目を開けると、非常出口の明かりの中に、クラスメートの姿があった。逆光で表情は分からないが、その手に毛布を持って広げている。
「ジャージでは少し寒いだろう。毛布の割り当てをもらってきた」
まだ眠い頭の彼女は、ただ渡されるままに毛布を肩からかけて体に被せる。温かい。
「勝手かとは思ったけど、長椅子で寝ている妹さんにもかけておいたから」
「まだ‥‥がんばってたの」
「朝までには寝るし、大丈夫。明日には食料の配給も回せそうだ」
「そう」
逆光のシルエットが少し揺れる。
「疲れてるんだろう、お母さんには俺がついていてあげるから、今は寝たら」
「ありがとう、でも起きてる。お母さんが目を覚ますまで」
「そうか。じゃあな、また来るから」
シルエットはくるりと向きを変えると、共同病室から薄明かりの廊下へと姿を消していった。
「お母さんの意識が回復したの」
「えっ」
「今朝、もぞもそとお母さんが体を動かしたから、思いきり呼びかけてみたら、目を開けて。すごく嬉しかった。ただ、意識が遠いみたいで、何回も話し掛けないと、返事してくれなくて。でも、私と綾のことを理解してくれたし、被災したことも理解してくれた。起きているのが辛そうでまた寝てしまったけれど、とにかくなんとかなるかもよ、しいさん」
そう話す彼女の表情は明るい。しかし、上尾は担当医の言った言葉を忘れてはいなかった。脳挫傷と肝機能及び腎機能不全で、回復の望みはない。せめてもの救いは、苦しまずに済むだろう、というものだった。その言葉を一緒に聞いていた彼女が忘れているとは思えなかった。微妙な気配を読み取ったのか、彼女は機能性一点張りの配給容器からシチューを掬いながら上尾のほうを見る。
「もちろん、あまり過度な期待はしていない。けれど、いくらかでもお母さんと話がまた出来たなんて、夢のよう。まだ私達も運が尽きてないわけ」
牧の目つきは独特で、くりっとした一重の眼差しが上尾を貫くように見つめている。落ち着いた、静かな湖のような目をしている、と上尾は何度もその目に会うたびに思うようになってきていた。
「それはよかった。今度目が覚めたら、教えてくれる」
「もちろん。紹介してあげる。お母さんに男の人紹介するのは小学生以来。お母さん、どんな顔するかな」
彼女がシチューの残りを丁寧に食べおわるまで、上尾は複雑な思いでその仕草を見守り続けた。
静かに眠り続ける北代の母を見つめながら、上尾は主治医を姉妹と訪れたときのことを思い出していた。四十がらみの医師から病状の説明を聞いても、彼女は顔色を変えなかった。妹のほうは蒼白な表情で姉の腕をしっかり握り、医師と姉の顔をかわるがわる落ち着きなく見比べていた。
「気を落とさないで。それでも容態が安定すれば、回復する見込みがでてくるから。容態が急変したら、遠慮せずにすぐナースコールするように。いいね」
「はい、わかりました」
返事もしっかりしていて、取り乱す素振りもなかった。被災者がみんなこんなに冷静なら、協力隊の仕事もずいぶん楽に違いない。とは言え、自分と同じ十七歳の人間がこうも立派にしているには、相当な努力が必要なことを上尾は経験から知っていた。
話が済んだ後、診察室を出ようとしたとき上尾だけが呼び止められた。姉妹が出ていったことを確認してから、そばに近寄るように合図をするので、今更あれだけ容態が悪いと言っておいて秘密にしておくようなことが残っているのだろうかと不思議に思いながらも耳を医師に近づける。
「君が協力隊員だから、悶着が起きる前にこれだけは伝えておきたい。見ての通り、この病院は現在パンク状態だ。私も三日帰っていない。本当ならもっと彼女らの母親に外科的治療法がないわけではないが、それでも直る可能性は一、二割だろう。しかし、その労力を今はここで生き延びられる可能性の高い患者への治療に向けている。分かってくれ」
「北代さんの容態が持ち直せば、治療してもらえますか」
すぐに切り返してくる相手に、医師はむっとした表情をしたが、上尾はそれを無視した。
「術前術後の処置をするスタッフと手術室とが空けばもちろんしよう。あの状態でそれまでもてば」
「それを聞いて安心しました。ありがとうございます」
「万全の体制で臨んでも率が悪いことを忘れないで」
「はい。それと、このことを正直に伝えて下さってありがとうございました」
医師の眉間に寄っていた皺が少し緩んだ。
「君も私もなんの役にも立たんよ、戦争の前では。せめてあの子達の面倒を手伝ってやってくれ。こっちの看護婦たちも疲労しきっている」
「はい。それでは失礼します」
それから後、まだこのことを彼女らには伝えていない。たぶん、おばさんはもう長くはないだろう。やや目鼻立ちのくっきりした寝顔を、そのほとんど開かれることのない唇を、娘二人がずっと擬視していることにこの人はいつか気付くだろうか。それとも、知らずに旅立ってしまうのか。
「この調子だと紹介するのはまた後になりそう」
ジーンズ姿の北代が後ろからやってきて、そっと母親の腕をなぞった。もちろん母親からの反応はない。優しい表情で母親を見つめる北代の眼差しは何かしら人の注意を惹かずにはいられないものがあった。どこにでもいるような平凡な印象の彼女だが、ふとした拍子にまともにその目の奥まで視線が合うと、その一瞬だけ全く違った印象を受ける。上尾にはそれがどうしてかが分からなかった。
姉妹の母親である紀美子の意識は希にしか回復しない。姉妹も、もう母親と言葉を交わせる時間がそうはないと感じ取っていた。そのために、彼女らは狭い病院の一室に、ずっと3日間寝泊まりを続けていた。着替えもろくに出来ない環境では看病に無理があるとは承知していても、自分たちの母親と一瞬でも話をする機会を逸したくない一心で、なかなか病室を離れようとしない。どのみち、自宅に荷物を取りに帰ったときに、もう団地は住める状態ではないと公団の関係者に釘をさされていたので、彼女らに行くところはなかった。食事は配給を上尾が届けていたが、椅子に座ったままやソファで横になっただけで寝る彼女らが体調を崩すのも時間の問題であった。上尾は、見かねて二人に風呂に入ってきちんと休むように勧めた。夜の間、母親の近くから離れることに頑強に抵抗した彼女らも、せめて風呂に入って疲れをとってほしいという上尾の言葉には考え込んで、近くに銭湯があるという情報まで提供されて、とうとう折れることにした。
ただ、二人同時には嫌だということなので、一人ずつ時間をずらしていくことになり、上尾はまず綾を案内することになった。
牧の妹の綾はかなりの美少女で、上尾も顔だけは学校で知っていた。しかし、道すがらむっつりと黙りこくったままだったので、彼女のその美しさも今は形無しだった。この点で、姉と妹は対照的だった。彼女は銭湯の前まで来ると頭をぺこりと下げただけで、結局一言も喋ることはなかった。それでも、上尾はその無口ぶりに腹を立てるより、その心中を思って同情した。被災者に接してきた経験からいえば、この妹のような振る舞いは普通よくあることなのだ。
まだ明るい時間だったが、彼女が銭湯から出てくるまで銭湯の前で上尾は待ち続けた。この界隈は比較的治安のいいほうと言えるが、知らない街を一人で歩かせるのは今の少女の精神状態を思うとさせられない。
銭湯から上がった綾は、久しぶりにいい気分で靴をはいて外に出た。心のつかえがとれることはないが、少なくとも体の調子はよくなった気がする。銭湯の前の通りに出てみると、例の上尾がそこに立っていた。彼は変に笑いかけてきたりはしない。話をしてくることがほとんどないので、人見知りする彼女にとってその点は有り難い。
「病院、戻ろうか」
その彼が少し距離をとったまま先に歩き出すので、彼女はその距離を保ったまま後についていく。ともかく、協力隊の制服に身を包んだこの男が姉と同じ歳でクラスメートだとは信じにくかった。姉のほうでも、この人を苦手にしているのではないだろうかと感じるときがあった。それというのも、この人への呼び名が、時々変わるのだ。普段は、上尾くんと呼んでいるのに、ふとした拍子にしいさんと姉が呼ぶことがある。最初は誰のことだか分からなかったが、呼びかけるときに醸し出される雰囲気からすれば、案外、しいさんというほうが馴染みのようで、しかも似合っている。彼はしいさんと呼ばれても不思議な顔をしないし、高校三年という学年よりずっと大人びて見える。
それとも、それはあの協力隊の制服のせいだろうか。
晩に病室に立ち寄った上尾は、初めて姉妹の母親の目が開いているのをみた。彼が来たことに気付いた牧が嬉しそうに手招きするので、上尾は気兼ねしながらもそのベットの傍らに立つ。微かな生気が漂うその顔立ちは、彫りが深めでなかなか美人である。ただ、その美しさは綾のそれとは異なり、雰囲気自体はむしろ牧のほうに近かった。こころなしか声の感じも似ている。かすれ声でなければもっと似ているのかもしれない。何よりも驚いたのは、子供たち相手に彼女が笑っていたことだった。容態から考えればそのような余裕があるとは上尾には信じられなかった。もはや痛みも感じられないのか、それとも。
上尾が横に来ても、牧は母親と話し込んでいた。
「お手伝い?」
「そう、上尾くん、ていうの。クラスメート」
「彼?」
「いやだ、違うよ、母さん、協力隊の私達の担当の人がたまたま上尾くんだったの」
「母さんちっとも知らなかった。牧も大きくなったのね」
「何言ってるの、母さん、そうじゃないって言っているでしょ」
「いい人?」
「よく分からない。でも、少なくとも頼れる。今はいろいろ助けてもらっているんだ」
「そう」
婦人が目線を上げて見つめてくるので、上尾は軽く会釈する。クラスメートから頼れると言われて少し恥ずかしかったが、それを顔には出さずに済んだようだった。
「上尾くんね、よろしく」
「はい」
布団から手が伸びる。とはいっても腕を上げる力はもうない。上尾は決まり悪い思いをしながらも、牧や横に座る綾に遠慮しながら彼女の手をとって握手した。
「本当に、この子達をよろしく」
「はい」
「頼れるのはあなただけだから」
「大袈裟ですよ、おばさん」
「あなただけなの」
それまで手を合わせていただけの彼女の手が、突然力強く上尾の手を握り締めてくる。意識に靄がかかったようなそれまでの容態からすると、伝わって来る力強さとその背後にある意志の堅さは畏怖すら感じさせるほどだった。目元が牧を彷彿させる。しかし、想いを込めたその握力は長くは続かず、時間とともに急速に指から力が抜けていく。同時に、意識のほうもまた限界に近づいてしまったらしく、まもなく彼女はまたいつ果てるとも知れぬ眠りに落ちた。
次の日の朝、上尾は姿を見せなかった。しかたがないので、食料等の配給品を受け取るために書類に指定されていた集積所まで牧が行ってみると、混雑の中、全く見知らぬ六十代の男性が応対に現われた。
「あの、上尾くんは」
「すいません、被災票を見せてもらえませんか。三一〇六番ですね、こちらが配給品になります」
上尾が相手だった間、一度も番号で呼ばれたことがなかったので、彼女は急に心細さを感じた。人込みにも関わらず、その場に彼女の知り合いは一人もいない。相手の男性は忙しそうだったが、彼女は構わずに尋ねる。
「すみません、昨日まで担当してくれていた上尾さんはどうされました」
別の荷物の山に向かおうとしていたその男性は怪訝そうな顔をしたが、それでも足を止めてこちらを向いてくれた。
「こちらの協力隊では、部門ごとに別れて仕事をしているので、被災者の方ごとに担当がつくことはないんです、お嬢さん。何の担当の人だったかわかりますか?」
「え、いえ、ただ上尾という名前で、若い男の人で」
相手は困ったような顔をしたが、後ろのほうを振り返って、喧騒に負けないような大声で叫んだ。
「誰か上尾隊員を知ってますか?私は今日こっち入ったから知らないんです」
すると、奥で打ち合わせをしていた集団の中から、かなり年輩の男性が手を上げてでてきた。
「なんだい、坂上隊員」
「いえ、副長、この人が上尾隊員という人を捜しているらしくて」
副長と呼ばれたそのごま塩頭の男性は、おうおう、という顔をして牧のほうに近づいてきた。しかし、牧のほうはもちろんこの男性にも心当たりがない。
「すっかり忘れとった、いかんいかん。するとあんたが北代さんだね」
「は、はい」
「補給部の上尾隊員から頼まれとったのを忘れとった。何か問題があるのかな」
「いえ、そういうわけではないんですが、上尾隊員はやめたのですか」
「やめる?彼が?」
面白そうなことを言う、といういたずらっぽい目をしてその小柄な初老の副長は言葉を返した。
「そんなことできんよ、彼にはな。昨日、蕪町のほうで面倒があってな、彼はそれに狩り出されて転属になったんだよ」
「そうなんですか」
「そんなに気を落としなさんな。この坂上隊員だってなかなかハンサムじゃろ。ま、年はどうにもならんがな」
「そんなんじゃありません」
「事情は聞いとるよ。ま、でも、あいつも蕪やその近辺では人気者だから、あいつが行かなくてはいかんようでな。がまんしてくれないかい。困ったことがあれば、坂上隊員か、この岸田まで言いにおいで。協力隊の規則上、えこひいきはできんがな。お、呼んどる、呼んどる、じゃあこれで失礼するよ」
またひとしきり笑うと、副長と呼ばれる人は奥へ戻っていった。坂上隊員と呼ばれていた目の前の男性はちょっと困ったような顔をする。
「そういうことなら、隊の命令でもあるし、私が相談にのります。何か問題でも?」
「いえ、今はいいです、ありがとうございました」
足早に協力隊の集積所から離れながら、彼女はいったい上尾がどういう立場の人間だったのかが思い描こうとしていた。とにかくただ一つ確かなことは、もう誰にも頼れない、ということ。
「いや、彼らに来てもらって助かったよ。あそこの住人は偏屈なのが多いから、こちらの部隊の年食った者が説得に行くと、かえって話が混乱する」
「特に、あの一番若い隊員はよかったですね、嫌な仕事も平気で引き受けてくれて」
「あれのお陰で、他の隊員もいい意味で負けん気をだしてるようだ。そりゃそうだ、自分たちの子供より若い人間が殊勝に働いていれば、悪いことはできん」
数日の大混乱のあと、避難指揮所ではようやく住民の移動に目処がつき、臨時に編成された応援部隊の解散が今朝発令されていた。応援部隊は若い隊員で構成されていたので、彼らがいなくなると、指揮所の平均年齢は三十歳は上がった。指揮官らの話を聞いていた事務員が口を挟む。
「あれ、隊長はご存知なかったんですか。彼は蕪町自治会長のお気に入りなんです。特に指名して回してもらったんですよ」
「あの散々文句言いに来ていた禿げ親父のか。そういえば最近苦情があがってきてなかったな。あのじじいを黙らせられるのなら、ずっとこっちにいてもらいたいな」
「そんな無茶な」
事務員は、髪の薄さなら隊長は例の自治会長といい勝負だと内心思っていたが、口にはできなかった。
実に一週間ぶりで、上尾は空き家同然の家に帰ってきた。ほこりが玄関や台所にうっすらと積もっているようにも感じられたが、今の上尾にそれを気にする余裕はない。幸い昼間なので水圧が高く、シャワーを浴びることができたので、少しだけ生き返った気がする。湯上がりの上尾は、居間の日向で髪を乾かしている間に、我知らず眠りに落ちていった。
一度目の危篤の時は、主治医の先生も呼べたし、頑張ることもできた。しかし、今度は、病院全体が忙しいし、先生はオペに入ったばかりで当分出てこられない。それに、もう念押しされていた。覚悟もできていたつもりだった。
でも、もうどうしたら分からない。北代は吸い寄せられるように電話台に近づいていく。彼女は、震える指使いで、初めての番号を回していた。
最期の瞬間は静かに訪れた。うわごとのように子供たちの名前を呼んでから半日が経過していた。上尾が到着してすぐ後で、主治医の計らいにより紀美子は個室に移された。一つには静かに最期を迎えさせてあげようという気持からだが、その一方で同室の患者達に死を意識させたくないという配慮も働いていることも上尾は知っていた。姉妹もそれを感じてはいたが、ただ礼を言って素直に部屋を移っていた。そして、日付が変わろうというころ、外の暗闇を暗幕にして個室の大きな窓に医療計器の表示が映り込んでいたのだが、その中で脈動していた輝点が横一直線に滑りだしたのである。同時に、微かに聞こえていた周期的な電子音も途切れた。上尾は医師を呼ぼうと席を立ちかけたが、ベットサイドに並んで座る姉妹の背中が全く動かない。息をつめていると、椅子の上でずっと握りこぶしを作っていた姉のほうの手が、すっと開いて、妹の肩を抱き寄せた。
「10分後に先生をつれてきて」
自制の効いたその声も、今は闇に消え入りそう。上尾ができるだけ音を立てないようにそっと立ち上がってドアノブに手をかけたとき、背後から弱々しいむせび泣きがはじまった。
「大丈夫よ、綾、私がいるから」
上尾は静かに廊下へ出ると、そっとドアを閉じた。
上尾は、三十分してから主治医を病室に案内した。姉妹は覚悟をつけたのか、もう落ち着いていた。医師は黙って看護婦と共に死亡確認をすると、両手を合わせる。みけんに皺を寄せて臨終を伝える主治医の横顔をみて、上尾は彼のつらい立場を垣間見た。主治医は医療器具を外して、死亡証明書にまだ朝の来ていない新しい日付を書き込み、そっと牧に手渡す。それは、姉妹にとって父親の死から丁度十日後であった。こうして、姉妹は孤児になってしまったのである。
実際、その日は病院にとっても最悪の一日であった。この日だけで、二桁もの入院患者が亡くなったのである。その中で、葬式を挙げる余裕のない人たちの弔いのため、合同葬儀がその日中に病院の隣に建つ公民会館で行われた。上尾は非番であったが、担当の坂上隊員と共に準備にあたって、少しでも葬儀の場が良くなるように働いた。それが上尾にできる精一杯だった。
葬儀中に焼香に訪れてくれた人は、近所で同じく被災した人たちだけだった。友達には今は知らせないで欲しいという希望を聞いていたので、姉妹の関係の人が来てないのはともかく、斎場に付き添った上尾はその場に親戚が一切いないことをその時になって初めて知った。一人身の被災者にはそういうことは時々起こるが、子供がいるような家族で、しかも入院してから10日経ってからの葬式に誰も来ないのは珍しい。どうしてなのか聞いてみたい気がしないでもなかったが、打ちひしがれている姉妹にそんな無粋な質問ができるはずもなかった。
日が傾きかけたころ、姉妹は火葬場を後にした。二人とも喪服代わりに制服を身につけていて、妹が位牌を、姉が骨壷を抱えている。火葬場から姉妹のマンションまでは遠いが、二人とも歩いて帰るつもりのようなので、上尾も送るつもりで一緒に歩きはじめる。荼毘に付されるときにかなり取り乱していた妹も、今はもう大丈夫そうだと、上尾はそれとなく観察していた。一方のクラスメートの方は、淡々とした表情で埃っぽい道を歩いていく。骨壷の重さも馬鹿にならないとは分かっていたが、こればかりは代わりに持つべきものではない。
「上尾くん」
「なに」
「ありがとう、来てくれて。非番で休みだったんだ」
「いいよ、気にしないで」
「そんなに学校休んでいていいの」
「まあ、なんとか今のところは。出席数って案外少なくても大丈夫なんだ。宏野がノートとか貸してくれるし」
「じゃあ、お礼にこれからは私のノート貸してあげる」
「いいって、そんなにしなくても」
「私の気が済まないから」
「気持ちは嬉しい。でも、こういうのは貸し借りじゃないから。ほんとに困ったら、そのときはノートたくさん見せてもらうから」
「うん」
車通りの少ない幹線道に沿って、三人は歩き続ける。昔はこの界隈もそこそこ繁栄していたらしいが、内戦が激化してからは寂れていく一方で、時折往来に混じる軍用車が街の雰囲気を如実に表していた。上尾は道中、姉妹の顔を見ないようにと、周囲の建物を観察し続けた。
被災現場に戻って改めて眺めると、公団住宅のコンクリート建築はかなりひどく破損していた。もう辺りは暗くなっていたが、その棟の直撃弾を受けた側は電気がついていない。すでに全員に避難勧告が出ているのだろうと上尾は推測した。被災した当初は、TTIが管制を敷いて、綿密な検証をしていたらしかった。GOTSの新型兵器ではないかとの噂が立っていることまでは上尾も知っていたが、もちろん真相を知る術はない。階段のところまで来てみると、案の定掲示板には入居者向けに避難勧告と退去命令が出されていた。文面をざっと読んだ限りでは、建物の強度が危ないらしい。姉妹はもうそれを知っているようで、それを読もうとはしなかった。
「本当にいろいろありがとう、上尾くん」
「いや、うん」
妹のほうも小さく頭を下げてくれたので、上尾は少し嬉しかった。俺でも役に立ったんだ。
「退去命令が出てるから、引越ししたほうがいいよ」
「ありがとう、でも頑張ってここに住む。行くとこないし」
彼女がちょっと困ったように笑うのをみて、上尾はアドバイスしておいたほうがいいと感じた。
「ここは公団だから、避難勧告と退去命令が出たら、たぶん一ヶ月から二ヶ月で本当に退去させられるんだ。どの道ここにはそんなに住めないよ。どっかに移らなくちゃ。被災申請のとき、避難・転居先にどこを挙げたんだい」
「書いてない」
上尾の心配とは裏腹に、彼女のほうはあっさり答えてくる。
「上尾くんの後にきた坂上さんって人にも言われてたんだけど、当てがないもん、しょうがないよね」
「当てがない、て、じゃあ政府収容を希望、にしてないだろうな」
相手の突然の剣呑な口調に、彼女のほうが戸惑っているようだった。
「何、いったい。坂上さんにも政府収容にはならないようにしておきなさい、て強く言われたから、お母さんがそうしないように、て」
母親のことを口に出して、初めて相手の感情が揺れたのを上尾は感じた。いったい、俺は何をしてるんだ。彼女らのつらさを知らないはずないのに。これ以上彼女らを刺激しないように、注意して言葉を選び直して口を開く。
「その、政府収容はよくない。でも、そうしなかった、てことはどこかに当てがあるということだろう。そこに寄せてもらえよ。こんな時勢だから誰だって助けてくれると思うし、なんか事情があるなら、協力隊の名前とかでよければ出していい。何でも手配してあげるから」
妹のほうが顔を上げて姉の様子を見ている。その姉はというと、相変わらず笑みを浮かべてはいるが目が笑っていない。
「本当にいろいろありがとう。正直言って、しいさん、いえ、上尾くんがこんなに親切だとは知らなかった。でも、これは私達の問題だから。そんなに上尾くんに頼ってられないし。さあ、綾、上がるわよ」
妹はうなづくと、階段を上がりはじめる。上尾は何といって呼び止めていいのか分からず、続いて彼女が階段を上がっていくのを呆然と見送る。その足音が、途中で止まった。
「上尾くん」
おかっぱ頭の彼女の頭が階段の手すりの向こうからひょこっと顔を出す。
「はい」
「どうせすぐ分かることだから、これだけは謝っておきたいの」
上尾にはやっぱりなんのことだかさっぱり要領を得ない。
「坂上さんに、政府収容を避けるためにどうすればいいか聞いたの。そしたら、避難先になんでもいいからとにかくまず記入しておけばいいって言われてね。知り合いでもなんでもいい、名目だからって。まさかここを本当に追い出されるとは思ってなかったから」
「あ、ああ」
「それで、その、しいさんの住所書いちゃった。ごめんなさい、迷惑かけないから。それじゃね、お休み」
それだけ言うと、上尾が何か言おうと考えがまとめられないうちに、階段を上がる音と、ドアが閉まる音がした。彼のほうは、まだしばらくその場から動けなかった。
数分間は公団住宅の入り口で立ち尽くしていたが、上尾はようやく足を動かしてゆっくりと帰りへの道を歩きだした。しかし、敷地を出て通りを曲がったとき、建物が見えるようになって、薄ぼんやりした明かりが唯一被災した側についているのがみえて、上尾の手に感触が蘇った。あのおばさんと病床で握手した力強い感触。くるりときびすを返すと、今度はうってかわって速い足取りでその明かりを目指して戻りだした。
コンクリート片が散らばり埃舞う階段を二段ごとに駆け上がって、月明かりで北代という表札を確認する。物音は何もしない。鉄製のドアをノックすると、コンコンという音がよく響いた。ほどなく微かな物音がして、チェーンロックの隙間から牧の顔が覗いてきた。
「上尾くん、どうしたの」
その瞬間まで、自分でも本気でそう考えているのかどうか自信がなかった上尾だったが、口を開いてみると迷いがなくなっていた。
「俺の家、来いよ。家のほうは余裕あるし」
薄暗がりの中、彼女は目をぱちくりさせている。
「でも、そんな」
「今晩は寒い。うちなら暖かい」
「でも」
「ここは電力制限もかかってるんだろう。ガスも停まっているし、家に来てゆっくり休みな」
「うん、でも‥‥」
「妹さんだってもう疲労のピークだろう。体とか壊したら困る」
「困るって、なんで上尾くんが困るの」
不思議そうな彼女の言葉も尤もだった。
「思い出したんだよ」
「なにを」
上尾は自分でも馬鹿みたいだ、と思いながらも、正直に答える。
「一週間ぐらいまえに、君のお母さんと話しただろ。あのときに頼まれたことをね。さあ、支度して。とりあえず今日は着替えと最低限の日用品だけでいいから」
「本当に、いいの。迷惑じゃない」
「全然」
上尾の全くもって簡潔な答に、それまで申し分けなさそうな顔をしていた彼女の顔が、ようやく笑った。
「それなら、そうさせてもらっていいかな」
彼は相手の顔を見つめられず、目の前の壁に掛かったタペストリーに向かってうなづいた。
「待ってて、すぐ用意するから」
それから程なく、上尾と北代姉妹は夜道を歩きはじめた。妹のほうは、事情が良く分からないためか、不機嫌ともとれる表情だったが、それでも姉の言葉には素直に従っている。上尾が姉妹の荷物の一部を持って、妹が両親の骨を抱えている。地味な私服を身に纏った彼女らは口数も少ないまま、上尾の後ろについていった。
上尾の家は閑静な住宅街の中にあった。住宅街に入ったころから、二人の様子がなんとなくそわそわしだしたので、上尾は自分の家が見えてきた時点ですぐにそのことを教えた。それは、生け垣に囲まれた家で、敷地面積の割に建物が小さい。庭の様子は外からはほとんど見えなかった。
「さあ、着いた」
門に掛かっていた鍵を外して、鉄の柵を開けると、ちょうつがいの軋む細い音が上尾と姉妹を迎えてくれる。上尾が先に立って振り返ると、二人はようやく恐る恐るという感じで庭に入ってきた。庭の草木はかなり荒れているが、今は暗いので目立つことはない。すたすたと玄関まで先に来た上尾は、二重になった頑丈そうな鍵を両方外して、ドアをゆっくり開け、すぐに玄関の明かりをつける。急激な照明の変化に北代姉妹の目が順応するまでに少し時間がかかった。
「さ、上がって」
しかし、玄関の入ってすぐのところで牧が足を止めたままなので、当然、妹も動かない。靴を脱ぎ終えた上尾はその様子にようやく気がついて、鞄を持って立ち上がった。怪訝な顔の上尾をみて、牧が慌てて口を開く。
「その、ご家族の人に挨拶をしたいかな、なんて」
ところが、上尾はその言葉を聞いていないかのように、鞄を玄関の奥に移して二人のために場所を作る。小さな玄関である。彼は二人に背を向けて、さらに奥にある廊下の照明のスイッチをいれた。
「今いない」
「ああ、それで私達を呼んでくれたの。なんか変だと思った。でも、勝手に上がっても怒られない?」
「え、ああ、いいよ、大丈夫。そんなこと気にしないから」
「ふうん。今日帰って来られるの?それとも、私達を呼べたぐらいだから、しばらくお留守?出稼ぎ?」
「しばらくは帰ってこないから。さあ、はやく上がれよ」
「それなら、上がらせてもらいます。さ、綾」
妹は相変わらず無表情なまま、姉の言葉にうなづいて靴を脱ぎだした。
「とりあえず、君ら用に部屋をちょっと用意するから、こっちの居間で待っていて。散らかっているけど、気にしないで」
「ふーん、上尾君が散らかしたんだ、これ」
「申し訳ない。十分もすれば上の片付けがすむからここで待っていて」
散らかっているとはいっても、実際には本と新聞やチラシが広がっているのが目立つだけで、あとはクッションがあちこちにいっている程度である。上尾はクッションを二つ並べると、居間を出ていった。残された二人は、ちょこんとそのクッションの上に座り込むと、落ち着きなく部屋の様子を見渡してきょろきょろする。階段を上がっていく彼の足音を確認したあと、綾は姉のほうを向いて小声で今しか聞けないことを尋ねてみることにした。
「お姉ちゃん、どういうつもり。あの人のことよく知らないんでしょう」
「そうね」
姉の返事はそっけないもので、相変わらず部屋の中に並んでいるものを眺めている。薄いクッションの上で背筋を伸ばして正座している様子は人形のようでもあった。
「綾」
「何よ」
「家で、あれからまだ寝たことがないじゃない。私、あそこで寝られそうな気がしなかった」
「‥‥」
綾が考え込んだまま膝を抱え込んで顎を膝頭の上に載せる。牧がくるっと向きを変えて妹の顔を覗き込んだ。その目が母さんを思い出させるのよ、姉さん。
「それに、今まで外泊なんてしたことなかったじゃない。せっかくのチャンスでしょ」
時々突拍子のないことをいう姉の言動も、綾には慣れたものだった。笑える台詞ではなかったが、これが姉なりの気の回しかたなのだ。そう思って綾が黙っていると、姉は机の上の白布で覆われた二つの箱に手を伸ばして、そっとなぞる。
「そうか、父さんと母さんも一緒だから、外泊とは言えないかもね」
その穏やかな言い方が綾には堪らない。もう少しで自制が崩れそうになったとき、階段を降りて来る足音が耳に入ってきたので、彼女はぐっと全身に力を入れなおした。
「こっちが台所で、手洗いと風呂場はこっちとあっち。ここは和室で客間みたいなものだけど、いまはいろいろ荷物が置いてあるから、使えないんだ。それで階段を上がって、こっちが俺の部屋で、君らはここを使って。兄さんの部屋だったけど、もう使ってないから」
案内されて中に入ると、何も整理する必要が感じられないぐらいきちんと整頓された部屋だった。姉妹にはいったい彼がこの部屋のどこを改めて片付ける必要があったのか分からなかった。本棚にはまだ綺麗な本が並んでいる。色褪せていないところをみると、つい最近まで読まれていたものなのだろう。
「本当は客間を整理したほうが広いんだけれど、今はここで我慢して。悪い」
「ううん、これだけ広ければ十分」
「そう。じゃあ、落ち着いたら降りてきて。夕飯にしよう」
そう言って部屋を出ていく上尾を慌てて牧が引き止める。
「夕飯って、どうするの」
「どうするって、そりゃ作って食べるんだ」
「しいさん、いや、上尾くんが?」
「そう」
「じゃあ私が作るわ」
上尾は溜め息をついて振り返った。
「作るって、いいから、今日はゆっくりしてな」
「そうはいかない、材料買ってきて私が作る」
「もう遅いから店は開いてないし、ありあわせならなんとか材料あるから」
「じゃあ手伝せてよ。上尾くんの料理じゃ心配で」
その冗談に対して、上尾は口を開きかけたが彼女の表情を見て口を閉じた。相手の顔がいたずらっぽく笑っているのに、それだけではない何かを感じたのだ。
「そういうことなら」
「うん」
彼女は勢いよく立ち上がると上尾の後について部屋を出ていった。
夕食は簡単なものだった。上尾は自分がずっと家を空けていたことを忘れていて、当然、冷蔵庫にも根菜類以外は何も残っていないこともすっかり忘れていた。後ろに牧を連れて台所に立ち、冷蔵庫を開けてから後悔した上尾だったが、後ろの彼女はそのことについて気付いているのかいないのか、は何も言わないで皿を出したりお米を磨いだりして彼を手伝ってくれた。
「悪い。ハッシュドポテトぐらいしかできない。買い置きが尽きてるの忘れてた」
「うううん、平気」
「ごめん」
「いいってば」
炊飯器をセットすると、今度は上尾の横に立って、彼が器用な手付きでジャガイモを剥いていくのを見守る。
「炒めるのは私がやろうか」
「いや、いい」
「でも」
「お姉ちゃんは結構料理うまいから」
上尾がどきっとして振り返ると、いつのまにか牧の妹の綾がそこに来ていた。
「そ、そうか。じゃあ、頼んでみようかな」
「了解。油はどこ」
「あ、その棚の中」
「ああ、これね。で、上尾君は味の濃いのと薄いのとどっちが好き」
「薄いの」
「ふうん。じゃあ薄めに作ります」
牧がコンロの前を占領すると、上尾は自分の隣りに女性が居ることを初めて意識した。上尾自身より僅かに背が低い彼女は、器用にフライパンの中の食材を操っている。
「そろそろできるから、お皿を」
彼女の手つきに見とれていた上尾が我に返って皿を出そうとしたら、もう妹が食器棚に手を伸ばしていた。平皿が積まれているところに手を持って行きかけている状態で、黙って上尾を見かえしている。
「ああ、その皿でいいよ」
彼女はその言葉を聞いて、すばやく三枚の皿を用意した。見事な手際で、上尾は自分が手を出してはいけないのではないかとすら感じはじめていた。
この夕食は、誰にとっても初めての体験だった。食卓にならんだ料理は一品であとは御飯だけという簡素なものだったが、その一品の味がよく量も十分にあって、成長期の上尾を十分に満足させてくれた。牧の皿を見ると、人並みぐらいは口にしたようだったが、綾のほうがあまり芳しくない。人見知りするせいだからなのか、まだ上尾に対してほとんど口を開かないし、そもそも箸をあまり動かしていない。二人を気落ちさせまいと口を開こうとする上尾だが、元来があまり口達者ではないのでそれは無理な相談だった。
「その、北代って、学校で見てると上にお兄さんかお姉さんがいて、君が下かと思ってたんだ」
「どうしてそう思ったの」
「いつもマイペースな感じがしてたから。周りともよく遊んでるけれど、一人っ子という感じではなくて、相手みながらマイペースを守ってるって感じがして」
上尾は自分でも何を喋っているのかわからない。さっきからずっとこの調子が続いていた。
「それを言うなら、しいさんこそマイペースじゃない。そういう意味では目立ってるの、知ってる?」
「俺が」
「そう。だいたい、しいさんなんて綽名がつくぐらいだから、みんなそう思ってるわけ」
綾がもうまったく箸を動かさない。話をしながらも、上尾はそれが気になっていた。
「それは勘違い。しいさん、っていうのは、Cが三つというところから来ているんで、様、という意味ではないんだ。だからしいさんというのは綽名で呼び捨てているのと一緒」
「なんだ、そうだったの。全然知らなかった」
こういう会話にも、妹は全く心ここにあらずといった風情で、とうとう箸を置いてしまった。
「綾ちゃん、もうごはんいらないかい」
「いらない」
相変わらずの素っ気ない返事は会話を続けさせてくれない。
「上尾くん、私ももうご馳走様」
「しいさんでいいよ、友達にもそう呼ばれ慣れてるかkら」
「しいさんね。分かった」
そう言って彼女は立ち上がると、皿を集めて流しに持っていくと、上尾が何か言うよりも早くもはや皿を洗い出していた。彼が腰を上げるよりも早く、妹のほうが姉の横に並んで場所を占拠する。
「北代‥‥」
「いいの、座っていて、これぐらいはするから」
「でも」
「体動かしたほうが気が紛れるから」
明るい口調ではあるが、彼女のその言葉に上尾は返す言葉がない。
「わかった、じゃあお風呂用意してくる。すぐ入りたいだろう」
上尾が席を立つとき、振り返った妹と偶然に目が合った。彼女は暗い表情で、ぷいっと横を向いてしまった。年下の女の子と話をしたことがない上尾にはどうすればいいのか分からず、ジーンズ姿の二人の後ろ姿を見やって、首を振って風呂場のほうへ向かった。
お風呂は、上尾が気を利かせて二人から入るように勧めたので、最初に牧が入ることになった。居間に残った上尾は、壁にもたれてクッションの上で座り込んでいる綾と二人きり。上尾は新聞を読んでいたが、相手のことが気になって読むことに集中できなかった。彼女はといえば、部屋の反対側の隅に座って、積んであった雑誌をめくっている。その俯いた視線が今は心ここにあらずという風情で、生気のなさのために、整った目鼻立ちが人形のように浮いている。
「お姉さんにも言ったけど、鏡とかドライヤーとか、洗面台にあるものはなんでも使っていいから。今日は疲れただろうから、お風呂入ったら寝たほうがいいんじゃないかな」
「そうする」
声に元気がない。しかし、それは人見知りをしているからではなく、疲労が溜まっているためであった。今日までのことを思えば当然だろう。微かに風呂場から水を打つ音が漏れ聞こえてくる。彼女の微かな息の音まで聞き取れるような静寂を中断するものは何もなかった。
トレーナーに身を包んだ牧の髪はまだ濡れていて、蛍光灯の光を良く反射している。上尾より少しだけ背が高かった兄のトレーナーを、上尾より少し背の低い牧が来ているので、袖が幾分余っているが、それがかえって彼女に似合っていた。微かな石鹸とリンスの匂いが部屋に広がる。
「ありがとうね、しいさん。本当に久しぶりにゆっくり体洗えたから」
「いいよ、そんなこと。それより、布団の用意をしなくちゃ。今、二階の部屋に入っていいかな」
「うん、もちろん」
客間から一組の布団を出して来ると、それを抱えて二階に上がり、まずそれを二階の床に引く。それから、その部屋の押し入れに入っていた布団を出してその横に並べた。余裕はなかったが、寝るには十分なスペースが取れて、上尾は一安心した。
「こんな感じかな。シーツは新しいのを出してあるから、安心して使って」
「ありがとう。よく考えてみたら、人の家で寝るのって、初めて。なんかどきどきする」
湯上がりの彼女にむやみに近づかないように上尾は気をつけていた。上尾がシーツを伸ばしながら整えていくと、彼女も反対の裾を布団に折り込んでいく。
「外泊とかしたことないんだ」
「もちろん、ホテルとか旅館は別よ。でも、人の家は初めて」
親戚の家とかは、と喉まで出かけた言葉を上尾はかろうじて飲み込む。両親の葬式に何の連絡もないぐらいのだ、そんな付き合いがあるはずもない。
「だから、迷惑したらごめんね。勝手がよく分からないものだから」
「いちいち気にしなくていいさ。自分の家だと思ってゆっくりしていけよ」
「私の家より広いけどね。その、しいさんがいいって言うのなら、のんびりさせてもらう」
「ああ」
机の上に置かれたままの遺骨と位牌がなければ、上尾には彼女の母親の葬式が今日だったということを忘れそうだった。しかし、位牌は確かにそこにあるし、事実彼女は時々それに目を遣っていた。
「さ、できあがり」
ちょうどその時、風呂から上がってきた綾が部屋に入ってきた。その姿をみて、上尾はもう少しで笑ってしまうところだった。
「お風呂、でました」
彼女の体にはどうにもトレーナーが大きすぎたようで、袖と足が余っている。それをなんとかしようと折り返した跡が見られるのだが、あまりうまく出来ていなかった。
「あらま、もうちょっときちんと袖を折ったほうがいいんじゃない」
「そんなこといっても」
「なかなかかわいくていいよ、それ」
綾は姉に袖を折り返し直してもらいながら、上尾のほうをきっと睨もうとした。しかし、上尾の目と表情が思いのほか優しくて、それに失敗した。膨れた顔をしようとしてもうまく出来そうにないので、綾は壁を睨むことで我慢した。
「妹をナンパしないでよ、しいさん」
「しないよ」
北代のトレーナー姿もいい、と言いたかったが、なぜかそれを口に出来ない。
「じゃあ、俺はこれで。あとは、俺も風呂に入ってすぐ寝るから。お休み」
「お休みなさい」
上尾は二人のものとなった兄の部屋を早々に出ていった。
ところが、風呂から上がって髪を拭きながら居間に来てみると、姉妹がそこにいた。綾の服の裾はもうきちんと巻き上げられている。
「どうしたんだい、二人して」
「なんか、私達だけ先に寝ると悪い気がしてね」
「待っていてくれたんだ」
「‥‥ん」
正直言って、上尾は北代がこれほど殊勝な人間だとは思っていなかったので、嬉しくもあり戸惑ってもいた。
「ありがとう。でも、もう遅いし、今日は本当に二人とも疲れているだろうから、もう寝よう。さ、俺ももう二階にあがるから」
「うん」
上尾は髪を拭き上げると、そのまま戸締まりの確認をして、姉妹と一緒に二階に上がった。
「じゃあね、お休み」
「お休みなさい」
「お休みなさい」
部屋に戻っていく綾が挨拶してくれただけでなく、ドアを閉める前に牧が小さく手を振ってくれたので、上尾は気持ちよく自室に戻った。そう、こんなことをして寝るのはいつ以来だろう。本当に、お休みなさい、と言って寝たのがいつなのか、上尾には思い出すことが出来なかった。いつからしていないのか、思い出したくなかった。
真っ暗な廊下の中で、上尾は毛布を腕に抱えたまま、じっと立っていた。時計は2時を回っている。寒冷前線のためか夜半から急に冷え込んできて、それが上尾の目を覚まさせたのだ。いや、原因はそれだけではなかったのかも知れない。彼女らもこれでは寒かろうと、階下から毛布を取ってきて、姉妹の部屋の前まで来たとき、その部屋から微かに洩れて来る音が何かようやくわかったのだ。音はなかなか止まなかった。上尾はずっと彫像のようにそこに立ち尽くすしかなかった。
どれほどそうしていたのだろう。上尾が気がつくと、その微かな声は止んでいた。
「あの、北代」
中でごそごそという物音がした。次いで、ドア越しに小さな声が返ってくる。
「ごめん、うるさかった」
「いや、冷えてきたから、風邪引くといけないと思って、毛布持ってきたんだ。使って」
「‥‥ありがとう」
布団の擦れる音がして、ドアが少し開く。電気はついてなかったのでお互いの顔は見えなかった。
「はい、これ」
「ありがとう。ごめん、綾が泣き止まなくて。あやしていたんだけど」
「いいよ、俺は物音では起きないほうだから。じゃあ」
そう言って、上尾はすっと引き下がっていった。彼女自身の鼻声が上尾にそこにいてはいけないと教えてくれていた。そこには、上尾が見たくないもの、思い出したくないものがあった。世の中にはなぜ戦争があるんだろう。開かない両親の部屋のドアを一瞥して、彼は自室に戻っていった。
手を握ってやって、ようやく妹が寝付いた後も、牧はまだ眠れなかった。使い込まれた毛布特有の匂いが鼻をくすぐる。窓から漏れるかすかな街灯の明かり以外に照らしてくれるものがないので、部屋の中は真っ暗に近い状態である。こうして暗い部屋の中に取り残されていると、何かに押しつぶされそうで、両親が亡くなったことを純粋に悲しんでばかりはいられなかった。
上尾が渡してくれた毛布のお陰で、寒さを感じることはもうない。いつから彼はあそこにいたのだろう。彼からもらった毛布には、彼の体温が伝わっていた。体温が移るほどの長い時間、妹が泣き止むまで。そして、私が落ち着くまで。
張り詰め通しの彼女の心はもう限界を迎えていた。いつしか眠りの国に着いた彼女の寝顔には、涙の跡が一滴ついていた。彼女自身は自分が涙を流していることに気付かなかった。
翌日、牧が恐る恐る起きだして着替えを済ませても、上尾が部屋から出て来る気配はなかった。寝起きを見られずに済んだこと自体は彼女や妹にとって有り難いことだったが、学校に行くなら用意を始めなくてはいけない時間が迫ってきている。しかし、自分たちが学校に行くには何の準備もできないことに思い当たると、暗い気持ちがまたしても心を覆っていく気がしてくるのだった。
布団も片付け終わると、彼が起きて来るまですることがなくなってしまって、居間でテレビでも見ているしかない。朝の放送はまず内戦の状態を伝えていた。アナウンサーのいう小康状態という言葉が耳につく。小康状態でも人は死んでいく。私達のお父さんやお母さんが亡くなったことなど、物の数にすら入らないんだ。
「お姉ちゃん」
牧がニュースをじっと見ていると、綾が口を開いた。昨日から、妹の調子がおかしいのが気になっていたが、一晩寝てもそれは直っているように見えないのが牧の気に掛かる。今の妹の声の調子も元気がない。
「なに」
「学校行かなくちゃ」
「そうね。一回、家に戻らないといけないか」
「うん」
ニュースがTTIの新しい部隊編成について伝えていた。逞しい体つきの兵士達が訓示を受けている様子が流れる。
「一旦、家に戻って制服とか勉強道具取って、それから学校行こう」
「うん」
学校に行ってからどうしていいのか、皆目見当もつかない。なんとなく友達にも言いにくい気がする。それに、学校が終わってからどこに帰ればいいのだろう。手渡されていた資料によると、生活手当てはあまり多くない。食費や学費のことを考えると頭が痛い。どこかに部屋を借りようにも、保証人のない未成年二人では話にならないだろうし、家賃も払えない。必死にいろいろ考えても、彼女にいい考えは思い付けなかった。その悩みとは無関係に、庭でのどかに鳥が鳴いている。しばらく二人の会話がまた途絶えたが、今度は大きな物音でその静寂が破られた。
「しいさん、起きたみたいね」
実際、階段を大変な勢いで降りて来る音がして、上尾が洗面台に姿をあらわした。
「もう起きてたのか、おはよう」
顔を拭きながら居間を覗いた上尾は、クッションの上に座っている姉妹の視線を感じて、初めて自分が情けない格好をしているのに気がつき慌てて身繕いする。
「すぐ朝御飯用意するよ。それからとりあえず君らの家に行って、学校の用意して行こう」
「それなら、私、朝御飯の用意する」
「といっても、本当に白御飯しかないから。すぐ着替えて来るから、冷蔵庫の中で何か食べたいものがあったら出しておいて」
「うん」
上尾はそう言うと、駆け足で二階へ上がっていった。牧が冷蔵庫を開けてみると、果たしてほとんど食べ物は入ってなかった。あることはあるのだが、乾物やすぐに食べられそうにないものばかり。根野菜はあったが、料理している時間がなさそうなので、あきらめて佃煮を出して、乾物と味噌で味噌汁だけ用意した。出来上がった頃に上尾が降りてきて、それを見て目を丸くする。
「どうしたの、私、余分なことしたかな」
「いや、逆さ。味噌汁を朝から飲めるとは思ってもみなかったから」
「それぐらい作れるわ、馬鹿にしないで」
「嬉しいんだ。ありがとう」
思わず感謝されてしまった彼女は面映ゆかった。
「さあ、食べよう。綾ちゃんもどうぞ」
相変わらず表情が硬い彼女が席に就くと、三人が揃っての食事となる。
「そうそう、ご両親が亡くなられたことは僕のほうから担任に連絡しておく。学校の他の人には黙っていたほうがいいから。いい?」
御飯に箸をつけながらこっくりと牧がうなづく。
「じゃあ、今日はこの後、家のほうへ回ろう。それから君らが先に学校に行って、その後で僕が学校に行くから。一緒に行って変な噂立てられるとまずいかも知れないからね」
牧はしばらく黙って御飯を食べていたが、思い切って話を切り出すことにした。
「あの、上尾くんに相談にのって欲しいことがあるの」
「しいさんでいいよ、学校でみたいに」
「その、これからのことなんだけど、どうするのがいいのかな。正直に言うと、遺族年金でどうやってやりくりつけていっていいのか分からない。ほら、私ってそんなに算数得意じゃないから」
上尾は味噌汁を口から離して、テーブルごしにクラスメートを見る。
「嘘つけ、結構成績いいくせに」
「えへへ。でも、私、学校やめて働こうかな」
綾の手が止まった。上尾はお椀をテーブルに置いて、牧の様子を伺う。
「仕事の口、中退しても難しいと思う。あと一年だろ、がんばれよ」
「そんなこといっても無理そうなんだ。あの家を直して住んで、それでも生活費足りないかもしれない。綾より、私のほうがうまく働けると思う。年も上だし、去年の文化祭での喫茶店、私うまかったんだから。ね」
綾が姉を見つめても、姉は平然と御飯を食べ続けていた。
「最悪でも、寄宿舎には行きたくないし。なんか協力隊のみなさんがあそこに反対するし。寄宿舎に行ってしまったら、学校行くの大変かな。どのみち、定期代のほうが高いか」
上尾は口を結んだ。それから、指を組んでそこに目を落としながらちょっとだけ彼女のほうを盗み見る。その視線に気付いた彼女が上尾を向いて笑う。
「どうしたの、変な顔して。しいさんは協力隊員だから、なんかアドバイスもらえるかと思って聞いてるんだから、何か答えて。ねえ、アルバイトの口とか知らない?」
「本当に親戚の人とか、知り合いの人とかいないの」
「うん、そういう意味ではこの世の中と繋がりの薄い家庭ね、うちは」
その言葉が上尾の体を貫いて、急に目の前の彼女の影が薄くなったような気がしてきた。
「前にも言ったように、あの団地はもう追い出されるから住めないよ」
「うーん、困ったもんね」
口を尖らせているその表情のどこまでが真剣なのか分からない。
「それなら、お父さんとお母さんに、しばらくの間でいいから置いてもらえるようにお願いしてもらえないかしら。私、なんだってするから」
「えっ」
「昨日泊まらせてもらったことは黙っていてね。勝手に泊まっていたことが分かると、私達が不埒な人間かと思われちゃうし。ね、こんなこと頼める義理じゃないけど、お願い」
上目使いに両手を合わせておねだりするような仕草に、上尾はすっかり勘を狂わされていた。
「ね、しいさんにもサービスするからさ」
「サービスって、なんか気持ち悪いな」
「年頃の女を捕まえて気持ち悪い、とは失礼ね。でも、お願い」
「‥‥うん。聞いてみる」
「わあ、ありがとう、しいさん」
その上尾の表情に一瞬翳りが走ったのを、綾だけが見ていた。
久しぶりの学校は、牧にとって新鮮で、なにか以前とは別世界のような感じがした。友達らは彼女が少し被災したとしか知らされていなかったので、みんな心配してくれたが、彼女が笑顔で大丈夫と答えると、すぐに教室の中は日常に戻った。唯一困ったのは昼御飯で、友達と食べられないのでどうしようかと考えていると、先生から呼び出しがあり、職員室にいってみると弁当が届いていた。
「おっちょこちょいね、あなた。遅刻した他の学生が、門のところでお家の人から預かったそうよ」
狐に化かされたような気持ちでそれを受け取って中を覗いてみると、さらに二つに分かれていて、それぞれに小さく牧、綾と書いた紙が挟まっている。彼女はその足で一年のクラスに行くと、妹を呼び出した。
「なに、お姉ちゃん」
「お弁当。忘れてたでしょう」
「忘れてたって、でも」
周りに悟られないように彼女はウインクすると、また放課後ね、とだけ言い残してそこを立ち去った。
友達のところに戻って、一緒に御飯を食べる友達に気付かれないようにしながらも、彼女はその中身に興味津々で、それを顔に出さないようにするのに一苦労した。いかにも即席臭いおかずはおせじにもおいしいものではなかったが、彼女に元気をもたらしてくれた。
「よう、しいさん、昼からご出勤とはいい身分だな」
「まあな。おれの席、まだあるか」
「あるよ。宿題も溜まってるぞ」
「やれやれ」
昼休みの終わり頃に、教室の入り口あたりが騒がしくなって、いつものように上尾が入ってきた。数人の男子とじゃれあったあと、鞄を放り出して、何やら笑いながら宏野と話し込んでいる。
「ね、上尾くん、またさぼってたのかな」
「じゃない?何日かぶりだもんね、来たの。牧は休んでいたから知らないだろうけど、あいつここんとこあんまり学校来てなかったのよ」
「あれは病気じゃないね」
「あいつが?まさか。さぼり、さぼり」
「バイトとかかな」
「違うでしょ。公認バイトなら、呼び出し食って叱られたりしないもん」
「そうね」
牧はその間、黙って友達の言葉を聞いていた。上尾のほうを見ていると、彼と一瞬目が合って慌てたが、向こうは全くの無反応だった。はすに構えた上尾の、クラスでの評判はあまり芳しいものではない。しかも、午後の授業早々に居眠りを始めて、早速怒られている始末だった。
弁当に挟まっていた紙の裏には、迎えに行くから自宅に帰っているように、と書いてあったので、放課後になると牧は妹を待ち伏せして、二人で自宅に向かった。学校に来ても、あまり妹の感じがよくならない。なんとしても妹の心の支えになりたいと思う牧だったが、どうしていいのかは分からない。とにかく今は近くにいてあげることしか、彼女に出来ることはなかった。
夕方に上尾がダンボール箱をいくつか抱えてやってきて、姉妹は当面生活に最小限必要な衣服と日用品、学用品を詰め込んだ。本格的には週末に運ぶことにすればいい、と上尾が言う。牧が尋ねてみると、家を使ってもらうのは構わないということになった、という答えが返ってきた。ただ、妙な噂が立つとよくないので、友達などの人の出入りは控えてほしいとのことだったので、牧らは素直にそれを守ると約束し、三人は自転車に荷物を括り付けて、上尾の家に戻ってきた。
部屋は現在使っている部屋をそのまま使うことになり、荷物もそちらに運び込まれた。上尾が一気にたくさん運んでくれるのに対して、妹があまり運ばないので牧は内心感心しなかったが、口に出してまで注意はしなかった。
その日の晩、冷蔵庫には様々な食材が貯えられていた。上尾が料理を始めようとするので、牧はまたその役目を半ば無理矢理引き取って、台所に立って料理に勤しむ。実は彼女はあまり料理したことがなかったのだが、それでも何回かは母親を手伝って練習をしていたので、それほどひどいめに遭うこともなく食卓に料理が並んだ。上尾がそれらを満足げに食べ切ったので、彼女も一安心する。食事の後も、彼女は上尾に後片付けをさせなかった。仕方がないので、上尾のほうはまた風呂の用意に回った。風呂にお湯を張りはじめてから台所に戻ってきてみると、牧の姿だけで綾の姿は消えていた。ジーンズ姿の牧は皿洗いを終えて、手を洗っている。
「そうそう、これ、家の鍵。ないと明日から不便だろうから。妹さんの分もあるし」
「本当にありがとう、しいさん。ごめんね、迷惑掛けて」
「気にしなくていいよ。それより、妹さんは」
「もう上に行っちゃった。あの子、結構人見知り激しいから、まだしいさんに慣れてないんだと思う」
「そうか、それならしょうがない」
「気分悪くしないでね、本当は綾はいい子なんだから。それより、お父さんとお母さん、いつ帰ってこられるの。すぐでなければ、電話ででもお礼をいいたいの」
「いいよ、もう済んでいるから」
「でも、直接言ったほうが」
「しなくてもいい」
上尾と話をするようになってもう数日になるが、牧には彼が時々冷たく思えるときがある。彼女はそれ以上頼み込まなかった。不自然な空白が二人の間に走る。上尾は立ち上がると、牧に仕草で居間に移るように促し、彼女が座ったところへお茶を入れて持ってきた。
「妹さんもそうだけど、北代さんもあまり疲れてるんじゃないか」
その言葉に、牧は思わず吹き出してお茶をこぼしかけてしまった。
「何その、北代さん、て。誰のことかと思うじゃない」
「君のこと。他に誰もいないんだから」
「家にいる間はそれじゃ私と綾の区別ができないでしょう。牧、でいいってば、ここでは。友達からいつもそう呼ばれてるから」
「なんか、呼びにくい。いいのかい」
「いちいち、北代さん、じゃあね。名前が短いから、渾名なんてついたことないの」
「俺なんか、名前関係無しに渾名ついているのに」
「いつかその由来の話してね。せっかくお風呂入ったんだし、綾に入るように言って来る」
「ああ」
彼女はお茶を最後まで飲み干すと、流しで湯呑みを洗ってから二階へ上がっていった。上尾は彼女の体の調子について聞くのをはぐらかされて釈然としなかったが、ようやく冷めてきた自分のお茶をゆっくり啜りはじめるのだった。
牧が来てみると、部屋の端に布団が敷かれていて、そこに妹が横になっていた。
「綾、お風呂入ってるそうよ。なあに、もう眠いの」
「‥‥うん」
布団から出てきた妹の顔が赤い。牧は慌てて妹に近寄った。布団の横には今日運んできたダンボール箱が二つばかり並んでいる。その一つには妹の着替えが入っていて、いくらかひっくり返した跡があった。
「どうしたの、顔赤いじゃない」
「お姉ちゃん、ごめん、風邪引いたみたい」
その申し分けなさそうな表情に、牧は首を縦に振ってそっと妹のおでこに手をあてがう。その手に熱い感触が伝わってくる。妹は上目使いにその手と姉とをかわるがわる見つめている。牧はそのまま手で妹の柔らかい髪を梳いてやった。
「心配ない。すぐよくなるから」
「このこと、あの人に黙っていて」
「どうして?」
「だって、これ以上あの人に何も言わないほうがいいだろうから」
「そんなこと気にしていたの。今ははやく風邪を治すことだけを考えてなさい。お風呂どうする」
「せっかくだから入っておく。起こして、お姉ちゃん」
「この甘えん坊」
姉の力強い手に、綾は少し元気を取り戻した。平衡感覚はおぼつかなかったが、足元に注意して階段を降りると、彼女は上尾と顔を合わさずに済んだことにほっと感謝の溜め息をつきながら、風呂場に入っていった。
いつになくその晩も夜中に目を覚ました上尾は、これはもしかして二人が家にいることで自分の気持ちが昂ぶっているからではないだろうかと思いはじめた。協力隊の仕事の後から今に至るまでずっと休みがなかったので疲れが溜まっているはずなのに、二日連続で夜中に目が覚めてしまう。これは上尾にしてみれば珍しいことである。すぐには眠れそうになかったので、部屋をそっと抜き足差し足で出て水を飲みに行く。
階下では、台所の電気がついているらしく、ドアの隙間からその光が廊下に洩れている。就寝前には確かに消したはずだと疑問に思いながらそっとドアを開けてみると、食卓に小柄な人影が伏せていた。ドアが開いたことにも気付いていない。
「綾ちゃん」
小声での呼びかけに振り返った少女の顔が赤い。
「すぐ寝ます」
そう言う彼女の目が赤くて声も掠れて、誰の目にも風邪を引いているのは一目瞭然である。
「風邪引いているみたいじゃないか。待ちなよ、風邪薬出してあげるから。おいってば」
彼女は上尾の言葉を無視するかのように立ち上がろうとして足元が揺れ、食卓の上においてあった空のコップを倒してしまった。乾いた音が台所に響く。
「そんなに具合悪いなら、座っていれば。すぐ薬出すから」
「いらない。それより、姉さんが寝てるから静かにしていたい」
「は?」
「やっと姉さんが寝たんだから、静かにして」
「分かった。でも、その調子だと薬は飲んだほうがいいと思う。さあ、座って」
一旦は部屋を出て行こうとした彼女だが、立っているのもしんどそうな様子で、逡巡したあと椅子に座りなおした。警戒しているかのようなきつい視線が上尾を突き刺す。しかし、彼のほうはそれに気付いているのかいないのか、全くその視線に反応しないまま薬を音もなく取り出して、水と一緒に少女の前に置いた。仕草で飲むように促された彼女は黙って薬を飲む。
「二階にあがれるか」
小声での質問に、むっとしたような表情でうなづくと今度は多少ゆっくり立ち上がる。上尾もそれに合わせてゆっくりついていく。しかし、歩くのに壁を使わなくてはいけないようで、足取りが頼りない。それでもゆっくり階段を上がって、ようやく二階まで辿り着くまでの間、上尾はずっと後ろについて静かに彼女の様子を見守り続け、余計な手出しは一切しなかった。
部屋に戻ろうとする彼女に、上尾は一言も話し掛けず、そのまま黙って見送った。ドアを閉める最後の瞬間に、彼女と目が合ったが、それだけだった。
昼になって日差しが強くなってきたので、綾は思い切って階段を降りて居間まで移ることにした。薬を飲んでいるので、熱は下がってきている。誰もいない家は妙に静かで、別世界に迷い込んでいるような印象を彼女に与える。実際、彼女はこれが別世界であればいいのに、と独りごちていた。まだ自分の生活の激変に自覚がない。なんでこんなところに、見慣れない家に私はいるんだろう。彼女は首を振ると、一番陽の当たる場所にクッションをならべ、その上で猫のように横になる。団地の南向きの部屋でよくやっていたことだが、ここには、行儀良くしなさい、と叱ってくれる母さんも、笑って毛布を渡してくれる父さんもいない。彼女は独りで、涙が頬を伝うに任せた。
いつのまに寝てしまっていたのか、綾には自覚がなかった。暖かい感覚に包まれていて、中途半端な外の明るさが目を刺激する。誰か電気をつけたのかな、とまで考え及んで初めて、自分がどこにいるかを自覚した。慌てて目を開けると、自分がなぜか毛布を被っている。同時に、夕暮れの部屋の端で新聞を読んでいる人間がこちらに振り返った。
「起きたみたいだね。楽になった?」
上尾だった。綾は慌てて自分の服装に乱れがないことを確認して、さりげなく髪を整える。しかし、上尾が彼女のほうを向いたのは一瞬だけで、また新聞に目を落としていた。
「姉さんは」
「まだ帰ってない。ここで寝てるのは関心しないな。上できちんと寝たほうがいいと思う」
綾は毛布を折りたたむと、ゆっくり立ち上がって階段を上がっていった。毛布の礼を言えないまま、部屋に戻って布団に潜り込む。熱が少しずつ下がっていっているような気がした。
学校から帰ってきた牧は、とるものもとりあえず妹の様子を見に行って安心してから、着替えて居間に降りてきた。トレーナー姿の彼女を家の中で見るのは、高校で見るのとは違った印象を上尾に与える。
「綾の風邪もこの調子なら大丈夫みたい。ごめんね、心配かけて」
「気にしなくていい、て言っているだろう。それより、留守番していて。俺は買い物行ってくるから。綾ちゃん、て何か好物があるかな」
「なによ、そんなのいらないから」
「いらない、てなあ。じゃあ、なにか甘いものでも買って来る」
「気持ちはうれしいけど、甘やかさないで」
出かけるために立ち上がった上尾は、彼女と目を合わさないまま買い物袋を取り出す。
「それと、君の好きな食べ物は」
「いらないってば」
「今日ぐらいはいいじゃないか。元気だしてほしいし」
「でも‥‥」
「アイスクリームでいい?」
困ったような顔をしながらもうなづく彼女の表情に、上尾は笑って応えた。
「じゃあ、行ってきます」
牧は彼を玄関まで見送ると、首を振りながら妹のところへ戻っていった。
この日の夕方、またしても牧は御飯を作る役目を上尾にさせなかった。上尾が買い物から帰ってきて夕食の支度をしようとすると、自分がするからといって上尾を振りきり、コンロの前を占拠してしまったので、彼はどうすることもできなかった。
「俺だって、御飯作れるんだけどな」
「いいから。泊めてもらっているんだし、これぐらいする。私の料理の腕を信用しなさい」
上尾はその後も何か手助けしようとして周りをうろうろしていたが、結局何もさせてもらえないで、皿を出したりするぐらいしかできなかった。
綾の前にはお粥が並べられ、まだ赤い顔をした彼女は大人しくそのお粥をゆっくりすすっている。牧のほうはもう大方御飯を食べ終えていた。うっすらと額に汗が浮かんでいる。長袖の地味な服はこの時期の気温には十分対応できるものだが、彼女はハンカチで額を拭って汗を払ったりしていた。
食事もほとんどおしまいに近づくと、上尾が冷凍庫からアイスクリームを出してきて、ひとつづつ姉妹の前に並べる。よくあるバニラアイスだか、贅沢品扱いされ街から最近姿を消しつつある社会的状況のもとでは、食卓に並ぶのは比較的珍しいことだった。
上尾が勧めると、綾は姉の顔を伺ってからおずおずと手を伸ばした。上尾自身、率先して蓋をあけてパクパク食べ出す。牧はといえば、蓋の裏のアイスを丁寧に掬って、ゆっくり口に運んでいた。
「おいしい。暑いもんね」
「そんなに暑くないぞ。コンロの火に当たったのか」
「そうかな。そうね、汗かいちゃったし」
そう言いながら彼女は穏やかにアイスクリームを食べ続けた。
山のように溜まった学校の宿題をやっつけるために、上尾は食事のあと、部屋に戻って机に向かっていた。綾が部屋に戻ったあと、食事の後片付けを牧がすると言うので、もう半ば流しに立つのをあきらめて、勉強をさせてもらうことにしたのである。宿題の幾つかは出席日数の代わりにしてもらえるものなので、いい加減に片付けるわけにはいかない。手のひらの、ノートと擦れる部位が真っ黒になっても、上尾はまだ問題を解くのに熱中していた。時間の経つのも忘れて勉強を続けるのは久しぶりで、気がつくともう時計は十二時に近づいていた。まだ課題は半分ぐらいしかできていなかったが、今日中に片付けないといけないわけでもなかったので、背伸びをすると教科書を閉じて寝る用意をするために部屋を出る。
廊下も階下も電気は消えていたので、上尾はもう二人は寝たのだろうと思いながら、風呂に入ってゆっくりする。しかし、湯船のお湯の量からみると、どうもまだ入ってないような雰囲気がして、上尾は湯上がりにお湯を捨てずに二階の奥の部屋をそっとノックした。
「上尾だけど、もう寝たかい」
小声でドア越しに話し掛けても返事がない。上尾は躊躇してから、ドアをゆっくり開けた。部屋の中央の電気はついていないものの、机のスタンドだけは明りが灯っていて、その明りの下で牧が机にうつ伏せになっている。トレーナー姿のままで、机の上には勉強道具が広げられていた。床の上にはもう布団が二組敷かれていて、片方では綾が無邪気な寝顔で布団にくるまっている。上尾は妹のほうを起こさないように注意しながら、机に近づいてトレーナーの上から肩を叩く。間近で見る彼女は思ったよりずっと華奢で、台所で頑張っていた時の印象とはまるで違っていた。
「牧、牧。そんな格好でいると疲れも取れなかろう」
「うん?」
ようやく彼女は眠そうに顔を上げ、上尾が目の前にいることを認識すると姿勢を正した。その間の一瞬だけ存在した眠そうな顔は、今やもう引き締まって、少し困惑しているようにも見える。
「お風呂どうするんだい。もう十二時だよ」
「うん、入る。あれ」
声が掠れている。もうそれだけで、どうやら妹の風邪が姉にもうつったようだということが分かって、気まずい沈黙が流れた。顔を顰める彼女に対して、上尾は何も言わずに廊下まで先に出て、彼女が出て来るのを待つ。すぐに彼女も着替えを脇の下に抱えるようにして部屋を出てきた。上尾が廊下に立っているのを見つけると、視線を合わせずに階下に降りて行こうとする。
「明日は、二人ともゆっくり休んで」
階段を降りかけていた彼女は、くるりと振り返って、真剣な表情で反論してくるが、その声も掠れていた。
「でも、そうはいかない」
「風邪引いてるんだ、無理してどうする」
「無理してない」
「その声のどこが無理してないんだ。明日は寝てろ」
「でも」
「無理に動いてたら、俺にまでうつるだろう」
その言葉でようやく口答えするのをやめた彼女だったが、不服そうなことはその様子からありありと感じられた。上尾自身も話の持って行き方が悪いことは理解していたが、どうしていいのかよく分からない。彼女の冷たい視線を浴びて、
「その、はやく治すほうがいいと思うから」
と付け足した言葉も逆効果という気がして、上尾は気まずい思いを噛み締めていた。彼女の口は開きかけたものの、結局それは言葉にならずに、彼女はそのまま階段を降りていった。夕食のときとは別人のように固いその表情が上尾の心に棘を残したのである。
深夜二時。ほどんど暗闇に近い部屋の中で物音がしたような気がして、綾は目が覚めた。まだ頭がくらくらして、あまり風邪が治っている感じからはほど遠い。寝返りを打とうとして、彼女は枕元に人影がいることに気付いた。
「なにしてるの」
「様子見に来たんだ」
光の加減で、綾のほうから上尾の表情を見ることはできない。
「ずっと?」
「そんなことないさ、今はたまたま。はい、寝汗かいているみたいだから」
よく絞ったタオルを渡されて、綾は顔を拭う。確かに気持ちがいい。隣りでは姉が静かに寝ている。タオルを返すと、上尾は物音をさせずに洗面器とタオルを持って立ち上がった。
「起こしてごめん」
「‥‥」
「お休み」
「お休み」
ドアが閉まったあと、階段を降りていく足音が綾の耳に届く。額や首の周りがすっきりしたのでずいぶん具合がよくなった気がする、と思いながら、彼女は布団を被り直した。
翌日になると、綾の症状がかなり治まってきた代わりに、今度は牧のほうが風邪に負けているようで、朝からそうとは見せないようにしているものの、けだるい様子だった。上尾は自分も看病に残ろうかと言ってみたが、そんなに大層な病気じゃないから、と牧は笑って断った。昨日同様にお粥を作っていこうとした上尾だったが、綾がそれぐらいならもう出来るから、と言うので、彼は時間ぎりぎりまで粘ってから学校へ出かけていった。
「さて、お薬飲んで寝ましょう、お姉ちゃん」
「うん。ここね、薬は。何でも揃ってる、結構準備いいんだ。あれ、これは?」
「あ、それは緊急連絡先。昨日書いておいていってくれてたの」
「協力隊事務局?」
「そこ経由で上尾さん呼び出すように、て」
「そうか。学校に直接電話できないもんね」
その事実が、二人に身寄りのないことを思い出させる。牧は薬を飲むと、妹と一緒に部屋に戻った。窓が開けられているので、日中は光が良くさし込んで明るい。
綾は布団に入っても、まだ寝付けそうにないので姉のほうを向いてみたが、もう寝ているようで声を掛けられなかった。寝付けないので、部屋の本棚を眺めてみたが、あまり綾の興味を引くようなものがなく、仕方がないので協力隊から渡された様々な資料に目を通して眠気を誘おうと決心して、順番に資料を読みはじめた。
学校から帰ってきた上尾は、もう綾が起き上がっていて掃除をしているのを見て目を丸くしていた。掃除機のノズルを手にして台所にいた綾は、間の悪い思いで掃除機のスイッチを切る。風邪を引いて寝ているはずなのに、起きて用事をしているのは信義違反のような気がしながらケーブルを巻き取りはじめた。
「もう、風邪治ったの」
制服の上着を脱ぎながら上尾が話し掛けてくる。綾は黙ってうなづいて、ケーブルを巻き終えて掃除機を持ち上げた。
「そうか、良かった良かった。快気祝いしなくちゃ」
思ってもいない言葉だったので思わず顔を上げると、嬉しそうに彼女を見守る上尾とまともに目線が合ったので慌ててまたそらす。
「お姉ちゃんが風邪引いてる」
「あ、そうか。でも、ばらばらにやれば二回できる」
「そんなのだめ」
「ちぇ。でも、思ったより早く治ってよかった、ほんと」
変な人、と綾は思ったが、上尾が安心した表情でいるのをみると、そう悪い気もしない。
「でも、無理はしないで。後は俺がするよ。あ、あと、二階はしなくていいから。いいね」
最後の言葉だけがとってつけたように別人のように低い声だったので、彼女はまた警戒心を抱きはじめ、言葉少なに返事をすると掃除機を片づけて部屋に戻っていった。
今日の夕食はあまりおいしいものではない、と食事中にこそ言わなかったものの、部屋に戻ってから姉妹はどちらも小声でお互いそう思っていることを知って、頭を抱えた。今朝の食事がまともだったので油断したのだが、これでは明日までに風邪を治さないといけない、と牧は悲壮な決意をしていた。妹も料理はそこそこできるが、上尾が風邪が治るまで妹に水仕事をさせない心積もりらしいので、人見知りする綾にあの上尾を押しのけてまで料理してほしいとは言いにくい。一週間もすれば綾もなんとか馴染むだろうけど、とまだぼんやりする頭で考えながら、彼女はいつしかまた眠りに就いた。
綾が服を畳みなおしていると、階下で電話の音がする。電話や玄関での応答はしないように釘をさされていたので出るわけにはいかないが、何回かベルが鳴っても取る気配がない。手洗いでも行っているのかな、と思いながら彼女は念のために階段を降りてみた。電話は居間と台所の境目にある。階段を降りきったところで電話の呼び出し音は鳴り止んでしまった。手洗いにもお風呂にも電気がついていないので不思議に思いながら居間に入ってみると、机の上にかぶさるようにして上尾がだらしなく寝ている。綾は知らないふりをしてようかと思ったが、その時にまた電話が鳴り出したので飛び上がりそうになった。それなのに、彼には全く聞こえていないようで反応がない。さすがに気が引けたので、綾は一大決心すると、上尾の肩を叩いた。
「あの、電話鳴ってる」
たぬきね入りしているのではないかというほど、思い切って叩いても反応がない。
「あの、電話」
思ったより大きな体を揺すると、ようやく反応があった。
「ん、なに」
「電話」
「え、あ、はい」
突然スイッチが入ったように上尾は跳ね起きると、電話に飛びついた。あまりの早業に、綾はあっけにとられた。電話口で応対する上尾の口調が硬い。復唱される彼の言葉は、それがあまり嬉しいものではないことを告げていた。
「はい、一二○○城瀬支局集合、臨時出頭命令第五種、了解しました。上尾慎二隊員、直ちに向かいます」
電話を切ると、向かいに膝立ちでいる少女に、上尾は笑いかけながらちょっと困ったような顔をした。
「ごめん、急用ができたので、出かけてくる。財布のあるところはもう知ってるね。くれぐれも他の人とこの家で顔を合わせないように。じゃあ、俺、用意があるから」
綾がやっとの思いでうなづくと、上尾は部屋から出しなに振り返って、
「ああ、起こしてくれてありがとう」
と言うが早いが階段を駆け登っていった。綾も我に帰ると、階段を上っていった。
深い眠りについている姉を起こすには忍びなかったが、知らせないわけにもいかない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「うん、なあに、綾」
「あの人が、出動命令で出かけるって」
「なんのこと」
ねぼけている姉には、妹の言っていることが伝わらない。
「あの、しいさんが、協力隊の命令で居間から出動するんだって」
「今、ていうけど、今何時なの」
「十時半」
「本当に?」
「嘘言ってもしょうがないじゃない、もう出て行く用意してる」
「分かった」
何が出来るわけでもないとは分かっていたが、それでも黙って見送るわけにもいかない。取るものもとりあえず、起き上がって部屋を出たところに、上尾と廊下で鉢合わせになった。病院で見慣れていたあのカーキ色の協力隊の作業服にリュックを担いで帽子まで被ったそのいでたちは、夕方に見た上尾とは別人のようで、牧は言葉を失った。
「風邪少しは良くなったかい」
「少しましになったみたい」
「いい傾向だね。俺は出かけてくるから、後はよろしく。面倒見てあげられなくてごめん。じゃあ」
振り返って行ってしまおうとする上尾に、何を言っていいのかよくわからない。
「あの、いつ帰って来るの」
「うーん、そればっかりは。でも、今回は臨時出動だから時間は短いと思う。明日の晩ぐらいかな。それじゃ、もう時間ないから」
そういうと、上尾は今度は一気に階段を降りて、彼女らに追いつく余裕も与えずに玄関を抜けていった。階段を降りて追いかける彼女らに、
「玄関の鍵閉めておいて。行ってきます」
の声だけが届いて、彼女らが玄関についたときには、もう外で自転車の音が離れて行っていた。二人は顔を見合わせると、牧がドアまで行って鍵をかけた。がちゃり、という重い音がした。
雨のために出来た水溜まりに、ぽつりぽつりと点いている街灯が映り込んでいる。その水溜まりで水飛沫をあげながら自転車が人気のない住宅街を通り抜けていた。自転車の彼が被っている帽子からも水しずくがつばを伝って流れおちていく。その自転車が静かに速度を落として止まった家にはまだ電気が灯っていた。上尾はちょっとしかめ面をしながら自転車を門の中に押し上げ、帽子を脱いで雨露を払う。玄関で物音がして、鍵の外れる音とともにドアがそっと開き、牧がちょこんと顔を出して左右を見渡すのを見て、上尾は彼女に手を振った。きょろきょろしていた顔がぱっと明るくなる。
「お帰り、しいさん」
「ただいま。まだ風邪残っているんだろう、寝てろよ」
言いながら自転車置き場から出てくる上尾は全身濡れ鼠で、彼女は驚いてドアを開け放つと彼を迎え入れた。
「もう風邪は大丈夫。今日は学校行ったぐらいだから。それより傘もレインコートもなかったの。びしょぬれじゃない。まだお風呂おいてあるから、入って」
風呂があるとは思っていなかった上尾の顔が我知らずほころぶ。
「ありがと。しかし、もういくらなんでも夜中だし、寝てて」
「そうもいかない。それにしてもすごい汚れかたね。何があったの」
「土木作業だったから。じゃ、風呂入るから」
上尾は靴下を脱ぐと、足の裏だけぬぐって辺りが濡れてしまわないように早足で風呂場に入ってしまい、牧は肩をすくめると台所の勝手口のところから雑巾を持ってきて上尾の足跡を拭き取っていった。
湯船はまだ十分に温かかった。そのことからすると、彼女らはずっと起きて粘っていたらしい。いったい今日帰ってこれなかったらどうするつもりだったんだろう、と思いながら上尾は、やっとのことで風呂からあがり、そこではたと困ってしまった。着替えがない。一刻もはやく風呂に入りたい一心で来てしまったので、当然といえば当然のことであるが、いまは一人暮らしでないことが恨めしかった。しかたがないのでバスタオルを体に巻き、様子を伺いながらそっと風呂場を出ようとしてドアを開けたとき、間の悪いことに二階から降りてきた降りてきた綾と鉢合わせになってしまった。
「きゃあ」
上半身裸でバスタオル一枚の男がいきなり出てきたら彼女の精神衛生に悪いだろうな、と思って、
「ごめん」
と言って廊下を回り込んで階段を上がって行こうとしたら、なんと上には牧もいた。
「いや、着替えが部屋なんで、悪い。君らがここにいるとは思ってなかったんだ」
さすがに彼女はクラスの着替えで男子の上半身裸なんか見慣れているせいか、恥ずかしがって目をそらしたりはしない。ただ、目を大きく見開いているのは同じで、上尾は少し気恥ずかしかった。階段をそそくさと上がって部屋に入ろうとする。
「その傷、なに」
「え、あ、ちょっと向こうで。擦り傷だし、大したことない」
ドアを閉めると、ようやく上尾は息をついた。学校では女子に半身裸などよく見られているので気にならないはずだが、なぜか家ではまた違う感じがする。ともあれ、上尾は下着を探しだすと傷に触らないようにやっとの思いで着終わった。いわれてみると確かにまだ擦り傷の部分が生乾きで、痛いのも道理である。
「しいさん」
ドア越しに牧の声がしたので、上尾はトレーナーも着るべきかどうかで悩んだが、かさぶたが乾くまでは半ズボンにTシャツでいることにした。
「なんだい、もう二時になるんだ、寝ないと」
「救急箱はどこ」
「いいってば、こんなの」
少しの間があった。
「見つけ出すまで寝ないからね」
上尾は素直に降参することにした。困ったような顔をしながら、ドアを開ける。牧と綾はこの家に来て以来ずっと着たきりすずめのトレーナー姿で、二人並んで立たれるとあまり学校で女子と話をしたことがない上尾は負けそうだった。
「ほんとう、擦り傷だって」
「私、中学のときは保健委員やっていたんだから」
「いったいいつの話をしてるんだ」
話をしながら上尾は階段を降りて、救急箱を押し入れから取り出す。
「いったいどうしたの」
上尾が座って自分で消毒薬を塗り出すと、横で牧がガーゼを切りはじめた。
「いいよ、張らなくても。張るとひっついて剥がすの大変だ」
「でも、その腕のところはかなりひどいから」
向きを変えようと消毒薬を置いて足を組み替えている間にその薬を取り上げられてしまった。返してもらおうと手を伸ばしても、彼女は患部に塗ろうと待ち構えている。その横には三角座りで綾が姉の様子を見守っているので、上尾は囲まれた気分でどうにもやりにくかった。
「こっち向けて。自分では塗りにくいでしょう、その辺りは」
「いいって、これまでも自分でしてきたんだから自分でできる。それより、夜更かしして風邪引き直したらどうするんだ、せっかく治ったのに」
「こっち向けて」
思ったよりがんばる彼女に、上尾はどうにも対処できない。とうとう根負けした上尾は、白旗をあげて足を彼女の方に向けた。
「動かないでよ」
以前に保健委員をしていたせいかどうか、彼女の手際はなかなか見事で、消毒薬が傷にしみて我慢をしなくてはいけないはめになることはほとんどなかった。擦り傷はそれぞれは確かに深い傷ではなかったが、両手両足全部についていて、しかも一度についたものではなく数回に渡ってついたものであり、牧は口をすぼめながら丁寧に薬を塗っていく。
「いつもこんなに怪我するの」
「そんなことない。今回は体力勝負できつかったし、ちょっとへばってミスしただけ。なんたって、突貫工事だったから」
「ごめんなさい、私たちのせいで」
体を捻じっているときに、背後から小さい刺すような声がして、上尾は首だけ綾のほうに向けて、三角座りのひざの上にあごをおいている綾のほうを見やった。
「は?」
「綾から聞いたの。ずっとゆっくり寝られない毎日だったのに一昨日も看病してくれてたんだってね。クラスメートに聞いても、ずっと学校で居眠りして叱られたそうじゃない。その状態で協力隊に行く羽目になって」
「ずっと寝てないのが怪我した原因なんでしょう。ごめんなさい」
上尾はきょとんとして、彼女たちのほうに向き直す。とにかく、妹のほうと話をしたことはまだ数えるほどしかない。
「あんまり関係ないよ。仕事にかかると寝不足になるのはしかたないし、俺は下っ端だからいろんな仕事がまわってくるんだ。病院でもあちこち走り回ってたろ?」
「そうじゃなくて、行く前から。私が風邪ひいて、お姉ちゃんにうつして。一昨日だって一晩中様子見ててくれて」
「そんなこと気にしないで、風邪は誰だって引くんだから。怪我は俺の不注意で、誰のせいでもない」
「そんなこと言ってもだめ、綾が見てたんだから。一晩中私たちのこと覗き見してたって」
「覗き、て、いや、その、ごめん、悪気はなかったんだ。ただ心配で」
上尾は頻繁に姉妹の風邪の様子を晩に見に行っていたことが露見して、しどろもどろになっていた。その様子をみて、牧は微笑みながら消毒薬を片づける。その笑顔をみて、上尾自身も少し落ち着きをとりもどして、傷に触らないようにしながら座り直す。牧は広げていたガーゼも畳み直した。
「覗きのことは全然気にしてないし、許してあげる。そんなに私や綾のこと心配してくれてるなんて思ってなかったし」
上尾は安堵の息をつく。綾のほうの生真面目な表情は変化していないが、許してはくれそう。そう思ったとき、救急箱を閉めた牧が顔を上げ直してきたので、彼女とまともに目線があう。はじめてみる牧の真顔は瞳の色が深く、まっすぐ見つめられると上尾は自分が射抜かれたような、そんな気がしていた。
「ねえ、しいさんが私達のことをいろいろ世話してくれるのは嬉しい。でも、正直言って、それで協力隊の仕事に支障があったりするようだったら、私達の立場がないわ。だから、何でももっと頼んでよ。このままではしいさんのお父さんお母さんにも申し訳ないじゃない」
上尾はガーゼの端を弄びながら、しばらく言葉を返さなかった。牧にも綾にも、彼が何かを言おうとして考えている途中だということがわかっていたので、上尾の一挙一動を見守っている。
「牧にしても、綾ちゃんにしても、とてもしっかりしていて、感心してる。それでも、心配で仕方がないんだ。君らの心のううちを思うと」
言い返そうとする牧を、上尾が手で制する。
「口で何を言っても、分かってもらえないだろうから。二階に来てくれる」
上尾がそう言って立ち上がるので、牧と綾も大人しく彼についていく。なんといっても、言葉を切り出したときの彼の辛そうな表情が、彼女らから言葉を奪っていた。二階に上がると、すぐ右のドアの前に立つ。
「ここはまだ入ってないよね」
「うん」
上尾の表情が少し穏やかになった。
「ありがとう、約束守っていてくれて」
「だって、お父さんとお母さんの部屋って聞いていたから」
「そう。そうなんだけどね」
そう言いながら、ドアノブに手をかける。牧は、彼が深呼吸していることに気付いた。
「君らに嘘をついていてごめん。俺には、父さんも母さんも、兄さんもいないんだ。‥‥みんな、死んでしまったから」
牧の手がじっとりと汗ばむ。
「この部屋には、仏壇が置いてある。どうぞ」
かちゃりと音がして、ドアは微かに軋み音をたてて開いた。仄かに線香の香りがする。部屋はそれほど広くないが、家具があまりないので畳が広く感じられる。部屋の奥には、簡単な仏壇が作られていて、幾つかの位牌が並んでいた。その前には、小さい真っ白の布で覆われた小箱が三つ並んでいる。姉妹にはそれが何であるかは自明であった。
部屋に入ってからの上尾の表情は、またいつもの調子に戻っていて、廊下で見せていた緊張した様子は今はもうない。
「座布団あるから、はい」
押し入れから出された座布団が仏壇に正対して並べられ、上尾もそこに正座した。
「父さん、母さん、兄ちゃん、新しい居候を紹介します。北代牧さんと、綾さんです。よろしく」
よく通る声で位牌に向かって上尾が話し掛けて手を合わせて礼をするので、牧も綾も慌てて手を合わせて頭を下げた。しかし、頭を上げると、もう上尾はあぐらを組んで楽な格好で座っていた。
「ごめんな。最初だけはきっちりしておきたかったから。もう楽にしていいよ」
頭を上げた牧は、仏壇の横に架けられている何枚かの写真に目が釘付けになっていた。どこかの繁華街の様だが、あらゆる物が現場に散乱している白黒写真が、撮影地点を変えて何枚も撮られている。軍と消防の人間らしき人影があちこちに立っている。
その視線に気が付いた上尾は、体の向きを変えて自分もその写真に向き合った。
「二年前、大阪市内の繁華街で爆弾テロがあったんだ。日曜で、珍しく兄ちゃんも父さんと母さんの買い物に付き合って出かけててね。で、ドッカーン」
よく見ると、四枚目の写真の手前の黒い斑は血のりのようで、気分が悪くなってきた牧は視線を上尾に移した。
「父さんと母さんは、もう遺体が何がなんだかわかんない状態。兄ちゃんも虫の息で、すぐに。俺、間に合わなくて」
背中を向けているので、牧は上尾の表情を伺うことができない。
「あの頃、俺、反抗期でさ。あの日、俺も一緒に行かないか、て母さんが誘ってくれたんだ。でも、兄ちゃんとも当時反りが合わなくて、行かなかった。行けばよかった」
声が微かに揺れている。しばし上尾の息遣いだけが牧の耳に入る全てだった。しかし、その息の乱れはごく短い間しか続かず、上尾は息を落ち着かせると、体の向きを彼女らのほうに戻して座り直す。
「その後、いろいろ紆余曲折があって、協力隊に入隊して独り暮らしをしてるんだ」
淡々とした口調の上尾からその感情を読むことは難しい。あまり表情の動かないその顔を見ながら、牧には思い当たる節があった。二年前といえば高校一年のころ。まだ上尾とはクラスが一緒になってなかったのでよく知らないが、よく授業をサボっていたらしい。彼に関する噂がよくないのは、まんざら嘘ばかりでもなかったんだ、と目の前で頭を掻いている穏やかな上尾を見ながら牧の考えは頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
「君らみたいな例は少ないけれど時々あって、俺のときのことを思うと他人事と思えなくてね。独りぽっちは、本当に寂しいから」
「心配は嬉しいけど、私達は大丈夫」
「そうか」
牧は、綾がこちらを見ている視線を感じていた。誰よりも強い自制心が牧自身の心の拠り所であり、父がそのことでいつも彼女を誉めていたのも、彼女の心の支えになっていた。
「さて、もういいだろう。ここを出よう。線香臭くなる」
「うん。綾、行こう」
姉妹は座布団を片付けると、上尾より先に部屋を出た。廊下の空気は線香の匂いもせず、いつも通りである。牧は、家の中が自分にとって見慣れたものになりつつあることを意識せずにはいられなかった。
その次の日のことだった。夕方遅くにかかってきた電話にでた上尾は、短いやりとりをして電話を切った後、大急ぎで二階に駆け上がった。姉妹の部屋のドアをノックをして、ドアが開くのももどかしく話しはじめる。
「今から協力隊の分隊長が来る。君らのことが分隊長に知れると大事なんだ。たぶん大丈夫とは思うが、服は全部クローゼットにしまって、大急ぎで小物もダンボール箱の中に片付けてくれ。それから、君らには済まないが、安全だと分かるまで押し入れに隠れていて。完全に大丈夫になったら、君らの名前を呼んで出してあげるから」
勉強していた牧と、本を読んでいた綾とは上尾の切羽詰まった表情をみてもどういう状況が起こっているのか分からない。
「え、なに、どういうこと。その分隊長って人は?」
「駅から電話掛けてきたんだ、もう数分で来ると思う。はやく、事情は後で説明するから、はやく」
上尾が血相を変えて急かすので、姉妹もとにかく言われるままに部屋を大急ぎで片付けると、上尾が作った押し入れの隙間に入り込んだ。
「1時間はかからないと思う。とにかく、絶対に物音を立てないで。部屋も暗くするけど、我慢して」
「うん」
「それじゃ」
押し入れの襖が閉められると、姉妹は肌のふれあう狭い場所で息を潜めて上尾の階段を降りていく音を聞いた。
「なんだろうね、お姉ちゃん」
「静かに。あの様子からすると、相当なことなんだから」
「うん」
闇に飲み込まれそうな綾の恐怖感を和らげてくれるのは、姉の温もりとその規則正しい呼吸のリズムだった。そして、それからすぐに呼鈴が鳴った。
真っ暗な部屋の押し入れの中で、呼鈴が鳴って以来、牧と綾はずっと息を潜めていた。もう小一時間が経とうとしていた。もう我慢が限界、という状態になってきたとき、ようやく下で物音がして、誰かが玄関を出ていく気配がした。それから階段を上がって来る足音がして、二人はますます緊張を高めたが、上尾がその階段から彼女らの名前を呼ぶのが聞こえてきたので、長い間持続させていた緊張をようやく解き、狭い押し入れを出て電気を点けた。眩しかった。
一方、協力隊の分隊長の突然の来訪が済んだ上尾もようやく一息ついた。ドアをノックして、二人に声をかける。
「もう済んだ。出てきても大丈夫」
牧がドアを開けて仕草で中に入ってもいいような身振りをしたので、上尾は久しぶりに二人の部屋に入った。
「あの人と話しをしていると、どうも気が立ってね。反りが合わないんだ。それはそうと、あと二ヶ月で任期が終わるので、その手続きについても話をしていて遅くなったんだ」
「それはおめでとう。いつから協力隊のお仕事していたの」
その言葉の内容の割りには、彼女の表情が暗いことに気付かないまま上尾は額面通りにそれを受け取った。。息を詰めていたことで彼女たちの気持ちがささくれ立っていることに、彼は気がついていなかった。
「任期は二年だから、一年十ヶ月前からかな」
「それなら、これまでにいろんなこと体験したんだろうね」
「ああ、学校の他の生徒の被災に立ち会ったのも四回ぐらいあった。家族を亡くした子供の世話とかね。そういう子が国民青少年寄宿舎に送られたりしないように骨を折ったりしたこともある。あそこの設立趣旨は孤児となった子供たちを、保護者が見つかるまでの間養うところなんだけど、実際には留置場みたいな施設で、しかも収容人員オーバー気味ということもあって非常に環境が悪いんだ」
それは事実に対して控えめな表現であった。
「それじゃ、これまでここで何人もここで預かってきたの」
「いいや、直接この家に入れたのは君らがはじめてた」
「え、どうして?」
「たいてい親戚がいたから。君らは親戚縁者が全然ないというし、君らのお母さんにあそこまで頼まれたんじゃ無碍にも断れないし。本当は、協力隊員は、被災者に直接個人的に援助してはいけないんだ。見つかったら弾劾委員会もので、困った状態なんだけど」
彼女の表情が翳った。
「やっぱり迷惑だったんだ」
「いや、そんなに気にしないで。ただ、分隊長の顔見てたら見透かされているみたいでさ」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。俺はただ約束を果たしてるだけ。さ、俺は勉強するから。お風呂入るなら先にどうぞ」
そう言うと、上尾は軽く手を振って部屋を出ていった。
その頃から、相変わらず人見知りしてまだろくに上尾と話もしない妹とは対照的に、牧は積極的に上尾の世話をするようになった。例えば、
「ねえ、御飯食べる?」
「勉強見てあげようか」
「傷の手当て、しよう」
といった具合で、最初は怪訝な顔をしていた上尾も、にこにこ笑っていろんな世話をしてくれる彼女に調子を狂わされ、いつしか、もしや彼女は自分に気があるのではないかとの思いさえ浮かびはじめるのだった。
そしてもちろん、その度合いが実は彼女が被災書類や条項、それに寄宿舎に関する暗い新聞報道へ目を通すほど強くなっていることなど、上尾には知る由もなかった。ただ毎日が浮かれ気分で楽しい、彼にとってはただそれだけだった。
「ねえ、どうしてしいさんにあんなに甲斐甲斐しくするの」
「そんなに変?」
「変。だって、最近の姉ちゃんって家では彼にべったりじゃない。あんなの、見てて気持ち悪い。やめて」
「でもねぇ」
「もしかして、お姉ちゃん、彼のことが好きなの」
牧は作った笑みを浮かべて前を歩き出した。
「毛嫌いするわけではないけど、別に好きってわけでも」
「じゃあ、あの振る舞いはなに」
「だって、彼に嫌われたら、行くところないでしょう。働いて部屋借りてもいいんだけど、ちゃんと学校出るのが父さんと母さんの願いだったし。だから、せめて私が卒業して働けるようになるまでは、あの家に居させてもらわなくちゃ」
「それで媚び売ってるの」
少し妹が嫌そうな顔をしたので、牧もあかんべえを返してからまた横に並んだ。特売のキャベツを二、三個手にとって品定めをはじめながら、妹に返事をする。
「そう、媚びでも何でも売っちゃう。恋人のふりだってやっちゃうから。どうせ奥手そうだし、大丈夫よ。私がにじり寄ったって、手を握ろうとさえしないような奴よ。愛人になるなんてのもいいわね、面白そう」
「媚びを売る必要はない」
牧と綾は突如響いた背後からの声に凍りついた。振り返ると、普段着の上尾が冷たい目をして立っていた。
「そんな姑息な手を使わなくても、お前たちを追い出したりはしない。だから、いらないもの売る必要はない」
「あの、しいさん、本気で言ってたわけではないから。冗談よ、冗談」
「冗談も必要ない」
「しいさんは何を買いに来たの」
危険な雰囲気を感じ取った綾はその場を取り繕おうとして話の矛先を変えようとしたが、空の籠を持ったままの上尾はそれに乗ってこなかった。牧のほうは言葉を継げずにキャベツを持ったままじっとしている。口を開こうとしても相手の冷たい眼差しがそれを許さない。
「恋人のふりも、愛人の真似も金輪際するな」
小声で吐き捨てるように呟くと、上尾はそのまま二人と反対の方向に去っていった。牧はその後ろ姿に唇を噛んでいたが、持っていたキャベツを籠に入れると妹を促して次のコーナーに移動して買い物を再開した。それきり上尾の姿は見えず、帰り道の姉妹の会話はほとんどなかった。
「はい、しいさんの好物も料理に入れておいたよ」
これまでと同じ調子で牧が御飯の案内をすると、上尾はちらっと彼女の方を見て表情を変えないまま、
「そう、ありがとう」
とだけ言って、それ以上は何も喋らないで箸を取って食べはじめた。彼女はまたスカートをはいていた。
「ね、お茶いる?」
「自分で入れる」
「そう、じゃあここに置いておくね」
上尾の抑揚のない言葉にもめげず、牧はきゅうすを机の中央に置いてにっこり笑いかけた。その笑顔にも彼は応えず、上尾は黙って食べ続ける。一方の牧は、気まずい空気をまるで感じていないかのように上尾に世話を焼き続けた。
部屋に戻ってすぐ勉強を始めていた上尾に牧が声を掛けてきたのは、まだ昼下がりで、外の景色は埃っぽい青空が広がっていた。ノックの音がするので、どうぞ、と呟くと、元気良く牧が顔を出して中を伺う。上尾が顔も上げないので膨れっ面して彼の勉強机のすぐそばまで近づくと、彼の座っている椅子を揺すった。たまらず上尾は机を掴むと、文句を言おうと彼女のほうを振り返って、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「なんだい、いったい」
「ね、私達が使っている布団、干していい」
「いい。勝手に干せばいいだろう」
「でも、大きいから独りで干せないし、手伝って欲しいな」
「なんだよ」
「布団カバーもできれば変えたいし」
「‥‥分かった」
「やった」
ぱっと花が咲くように笑うのが、彼女には本当によく似合う。しかも、今日は何を思ったのかジャージではなく、明るい色のシャツに膝の見える丈のスカートを着ていた。平時なら取りたてていうほどの装いでもないが、一人暮らしになって長い上にあまり女子と話をすこともなかあった上尾には、今はその姿が眩しい。しかし、その全てが自分に取り入るための策かと思うと、暗くて粘っこい澱のようなものが心の奥底に沈着して、身動きが出来なくなりそうな感じが彼を取り巻いていた。
二人は布団を降ろすと、二組ともベランダに並べた。次いで上尾が掛け布団にかける新しい布団カバーを出してきて、上端部分に当て布をつけるために裁縫道具まで用意してくるので、牧は目を丸くし、ついで面白そうに上尾が一枚目を苦労して付けるのを横で見ていた。
「すごい、しいさんってまめなのね、見直した。ねえ、私にもやらせて」
横で見ているといっても、本当に肌が擦れ合いそうなところから覗き込むようにして上尾の手元を覗いてくるので、上尾の鼻腔のごく近くを彼女の髪が通り過ぎる。上尾が身を離しても、一向に効果はなかった。
「私、家政科はそんなに得意じゃないけど、しいさんよりはうまいから。ねえ、やらせて」
ふざけて針と当て布を奪いにくるので、勢い余って牧は彼の前を横切るような形で手をついて、二人は交差するような状況になった。ほんのわずかな間だけ気まずい沈黙があったが、
「あはは、ごめんごめん。強引だったね」
と彼女はまた笑って体を起こして、ずれたシャツの肩口をつまんで正す。
「わざと挑発しているのか」
「そういうわけじゃないわよ、やあね」
「もうそういうのはいい、て言っているだろう」
「あ、もしかして、この前のスーパーでのことを気にしているの。あんなの、綾の手前、照れてみせただけよ。本気にしないで」
いたずらっぽく笑う彼女が、上尾の暗い気分の中央に油を注ぐ。
「じゃあ、本気にしていいのか」
「うん。いいよ」
あくまでにこにこして目の前に座っている彼女に対して、上尾の心の中で猛烈な反発心が芽生えてきた。膝立ちになって、彼女のシャツの肩を掴んで後ろ向きに押し倒す。彼女は虚を衝かれた格好で後ろの座布団に倒れるかたちになったが、すぐまた笑顔に戻った。
「強引なんだ」
その張り付いたような、見下した笑顔が上尾の癇に障る。彼は彼女に覆い被さる格好のまま、右手を彼女のおなかのところに持っていくと、シャツの分かれ目に手を入れて、裾を掴んだ。その感触に彼女の目が大きく見開かれて宙をさまよう。上尾はもう勢いでその右手をぐいっと巻き上げると、なめらかで瑞々しい肌と、形のいいおへそが外気に曝されて、彼女の体は半ば海老反りのように硬直する。
「いやっ」
細い、しかし切り裂くような声が蛍光灯に照らされた彼女の喉元からほとばしり、上尾の手はそこで止まった。彼女の深い瞳から、泉のように涙が湧いてきた。それでもまだ、彼女の表情は笑顔を作ろうとし続けている。
「‥‥ごめんなさい。‥‥いいよ。しいさんがそうしたいなら、私、いいから」
上尾の手がゆっくり下りていく。その手は、元通りにするために上着の皺を伸ばしさえした。
「好きでもない相手にそんなこと言うなよ」
「‥‥」
唇を噛む彼女の顔は、もう泣き顔にしか見えない。それは、上尾が見る初めての彼女の泣き顔だった。
「もう、こういうことはしない。だから、そちらもやめてくれ」
「で、でも、どうすればいいの。家もないし、私みたいなのが働くのはまだ無理で、綾だってまだ高校一年よ。ここで、ここ追い出されたら、間違いなく寄宿舎送りじゃない。綾をそんなところへ行かせるわけにはいかない」
「心配しないで、ここにいていいんだから」
「そんなの、あてに出来ない。口約束なんか。あの子のためなら、私、なんだって」
「それで、こんな芝居か。もっと自分を大事にしてくれよ」
「口先の約束なんて、あてに出来ない。昔、うちに親戚って人が来たことがあって、その人がお父さんを騙していった。あの後、私達すごく大変だった。優しく見える人なんて、そんなもん」
「もう少し信じてくれ。な」
「‥‥それに、しいさん、淋しいって言っていたじゃない。だから、私、元気づけてあげたくて‥‥でも、私じゃ役に立たない‥‥みたい‥‥」
堰を切ったように泣き出した彼女の横で、上尾は座ったまま石のように横を向いて黙って俯いていた。座布団の上に仰向けに横たわる彼女は両手を顔の前で組んで泣き顔を隠していたが、肩を震わせ、シャツが揺れている。上尾はそこから立ち上がることもせずにいたが、しばらく経って、体を支えるために絨毯についていた右腕の柔らかいところを彼女の柔らかい滑らかな髪に触れさせた。牧の頭頂部の揺れの感覚と、上尾の肌の温もりの感覚が行き交う。それ以上の動きを上尾は見せなかったが、彼女もそれを避けようとはしなかった。
そのとき、突然、外から玄関の開く音がし、その足音は階段を猛烈な勢いで駆け登ってきて、最後につむじ風のように綾がドアから出現した。仁王立ちになる少女の前に広がる光景に、その表情が蒼白になり、次いで般若のような形相になっていく。綾は泣いている姉のすぐ横で平気な顔で座っている上尾に近づくと、手に持っていた学生鞄を勢いよく振りまわして座っていた上尾の横面を張り倒した。
「お姉ちゃんに何したのよ!」
上尾は張り倒されても何も言わない。
「え、何したの、この悪魔!出て行け!」
さらに二、三回殴り付けても、上尾は姿勢を変えなかった。綾がとうとう鞄を振り上げそこなうと、ようやくその鞄を抑えて立ち上がり、体格でふたまわりも負ける綾は思わず一歩引いて睨み付ける。
「大丈夫、何もしてないから」
「してなかったら、なんでお姉ちゃんが泣いているのよ!よくも泣かせたな、この、この!」
「ごめん」
「はやく出て行け!」
牧と上尾との間に体を入れて鞄を振りかざす綾の姿を見やる上尾の眼差しに憧憬が混じっていたことなど、姉の身を守るのに精一杯の彼女が気がつくはずもなかった。
上尾はそれきり俯くと、幽霊のようにひっそりと部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。
「馬鹿ヤロー!」
妹の最後の一言にも、上尾は一瞬動きを止めただけで、自室に戻っていった。
上尾は激しい自己嫌悪に陥っていた。彼女が彼のことを思って優しくしていてくれたのに、それが想いを寄せてくれているのと違うというだけで手のひらを返したように彼女に冷たく当たって、最後には彼女を最後まで追いつめてしまったのだ。泣き出したときに見えた牧の健気な姿と、綾の姉を護ろうとする強い姿には光が差しているようにさえ見えた。その前で、上尾は影のように消えてしまいたかった。髪をかきむしっても無駄なことだった。
それから、上尾と姉妹はまるで他人のようになった。綾の上尾に対するあからさまな敵意も、上尾は甘んじてそれを受け入れた。綾は決して上尾と姉を二人きりにさせなかった。会話も少なくなった。それでも上尾は構わなかった。警戒されてはいても、姉から何か説明があったのか、綾は上尾に殴りかかることもせず、上尾の存在を否定もしなかったからである。
一度、風呂上がりの牧と廊下ですれ違うことがあった。二人だけで顔を合わせるこんなチャンスはなかなか来ない。綾に気付かれないように、上尾は囁くような小声で彼女に思い切って頭を下げた。
「あのときはごめんっ」
「‥‥ん」
頭を上げると、風呂上がりで上気したままの彼女と目があう。その目が、微かに笑った。自然な、野原に咲く小さな花のような笑顔で、そのまま彼女は小走りに部屋へ上がっていった。
ぎこちなさが消えるまで、十日間以上が費やされた。そうして、姉妹はこの家に住んでいるという実感をようやく感じはじめたのだった。
目次へ戻る
1998/09/20