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地には雨、空は虹

九州入りを果たした頃から、周囲を行き交う人々の視線が上尾や北代姉妹に突き刺さるようになってきた。上尾はもちろん、北代姉妹もあまり南方人特有の彫りの深さがない上に、こちらで普段よく使われている独特のサンダルではなく、靴を履いてきていたのも見分けられた理由であった。そして何より、言葉のイントネーションが違うので、口を開けばどうしても異邦人であることが知られてしまう。 もちろん、いつもいつも白い視線ばかりというわけではなかったが、上尾にはやりきれなかった。上尾自身は仕方のないことだとしても、牧と綾はいわば実家に帰ろうとしているのだ。二人はといえば、もう覚悟は決めてきていたので、有形無形の嫌がらせにも黙って耐えていた。

駅前のタクシー乗車拒否はさすがに堪えた。新倉という集落に行けばよさそうだとまで調べはついているのに、その集落までタクシーで行こうと小さな駅前広場に出てタクシー乗り場に行こうとすると、停まっていた数台のタクシーがやにわにエンジンをかけて出ていってしまったのだ。最後の一台は、駅前を出て行く前に乗り場の前をゆっくり行き過ぎるので上尾が思い切って声をかけると、運転手はペッと唾を道路に吐き捨てた上で、上尾と後ろに立つ姉妹を睨みつけてからエンジンの回転数を上げて出ていってしまった。じりじりと焦がすような日差しが三人を容赦なく照りつける。
「どうしよう」
「しかたがない、歩くさ」
「でも」
「駅員の人に道順を聞いてみよう」
しかし、駅員に聞いても黙って首を横に振るだけだった。周りに立っている人たちの視線が刺すように痛い。それでも、一人が交番を指差してくれたので、そちらに聞くことにする。
さすがに交番の警官は道を尋ねると、無視したりはしなかった。ただ、地図を広げる前に、こちらをじろっと見据えて、尋問してくる。顔が笑っていない。
「で、そこへ何しにいくね」
本当のことをいうべきかどうか迷った。
「知り合いの家に行くんだ」
「知り合い、って他所者のおまんらがなんでこんなとこに知り合いがいるね」
上尾が逡巡していると、後ろの牧が近づいてきて、警官の前に立つ。
「私たちの親戚がそこにいるはずです。たぶん、祖父母が」
警官はしげしげと牧を上から下まで見つめると、首を傾げる。
「私、クォーターです。あまりそうは見えないことはわかってますけど」
「ふん、まんざら嘘でもなさそだね。なんせこんたとこまで乗り込むとは、度胸いるしね。でも、はっきり場所わかるんかね」
「いえ。ただ、わしん、という苗字だろうと」
「わしん?そんな苗字の奴、この界隈にはいねぇ。間違いじゃねか」
三人とも、それが一番の心配だった。とにかく、情報が少ない。
「でも、ほら、母の持ち物に書いてあるんです」
鞄の中から小箱を取り出す。牧は、もうこの警官を信用することにしていた。結局、誰かを信じていかなくては人は生きていけない。出てきた本の裏表紙には、和真紀美子、とあった。警官はその名前書きを見て、得心したようで、急に厳しい表情を緩めた。
「そりゃ、わさな、て読むだ。確かに和真はここいらでも変わった苗字だからな。間違いじゃなかろうよ。そっか。じゃあ、バス乗っていくんだな。宮小口行きってバスが今丁度待ってるから、それ乗って新倉ってとこで降りればいい。ここから20分ほどさ」
「ありがとうございます」
「んにゃ、気つけてな。今はみんなギスギスしてうまくねえから」
「はい」
わさな、きみこ。お母さん、そんな名前だったんだ。交番から出てバス停のほうへ向かいながら、牧は頭の中で何回も復唱してみていた。北代紀美子ではなかったころのお母さん。どんないきさつがあって、お父さんと知り合ったんだろう。この先で、私は血の繋がった誰かに会えるんだろうか。
「牧、危ない」
腕を強引に引っ張られて彼女は転びそうになった。ヒュン、と音がかすめて何かが飛んでいき、カランカラン、と乾いた音が響く。飛んできたのは空缶だった。上尾は、二人を庇うようにして飛んできた方向を睨みつけている。数人の子供が逃げながら囃す声が聞こえてきていた。
「本気で狙ってはいなかったみたいだな」
ようやく緊張を解いた上尾の傍で、牧はまだ液体の入ったその空缶を拾い上げ、ごみ箱についっと捨てた。
「そうね。でも、どちらの為にも、当たらなくてよかった」
その平然と空缶を片付ける態度が、駅前広場でそれとなく一部始終を見ていた他の人たちにどれほど効果的か牧は承知しているのだろうか、と上尾は周りをそれとなく見まわしながら思った。
「さ、行きましょう。綾、お金まだある?」
「うん」
しかし、上尾自身、彼女がそこまで立派で余裕のある態度を取れたのが隣に支えとなる人がいたからこそである、とは考えもしていなかった。

暑い夏の昼下がり、長い庇がこの地方独特の家の奥で、七十過ぎの老婦人が花を花瓶に生けていた。背筋をピンと伸ばし、畑で切ってきた花の枝を丁寧に払って、位置を吟味しながら差していく。今日は晩に寄り合いがあるので、特に気を使っていた。なのに、玄関のほうが急に騒々しい。あの足音は内間さんね。あの人、親切なのは有り難いけれど、歩くってことを知らないから。いつも駆け回って、賑やかなこと。
「巴さん、いるんだろ、大変だ」
六十過ぎの小男である内間は、なぜか夫の顕宰と馬があって、今でも挨拶抜きで巴の家に上がってこられる数少ない人間だった。今も、履き物を脱ぎ捨てるようにしてあがって来る。老婦人は溜め息をつくと、それでも玄関のほうに声をかけた。
「内間さん、こちらです。どうしたんですか、いったい」
「あ、いたいた、いや、大変だ、紀美子ちゃんの子供が来とるぞ」
「えっ」
いつも穏やかな巴ばあさんの滅多に見られない姿がどんなのであるかといえば、それは今だった。口をぱっくり開けて、およそこの人らしくない。
「どういうこと」
「新倉のバス停で、うちのかあちゃんが変な若い他所者三人とバス一緒に降りたんだ。どうみても北モンの顔つきなんだけど、こんなとこまで来て、しかもきょろきょろしてるんで、不思議に思ってたら、和真さんのお家はどこですか、って聞いてきたんだと。そりゃ、ここいらには和真姓なんて掃いて捨てるほどあるけど、そこでうちのかあちゃん、ピンと来たんだとよ、こりゃ顕宰さんの類縁に違いないって。今、うちで待たせてるけど、ちっこい方が紀美子ちゃんによく似てるんだ。上の子も面影あるでよ。どうする、追い返すか、すぐ連れて来ようか」
内間にも分かってはいた。娘とは縁が切れているとはいっても、巴ばあさんの孫だ。会いたくないはずがない。ただ、いきなり連れてきたらそれこそ卒倒しかねんし。
「そ、それで、紀美子は」
「んにゃ。娘っ子二人に、男一人。男は付き添いっていってたけど、ありゃどっちかのいい人だね」
「とにかく、今から呼んできて下さい。待って、十五分してから。用意するから」
「承知、承知。いや、あれは北モンの顔してるけど、いい子だで。会ってびっくりしなさんなよ」

それからの十五分、巴はここ二十年で最もどきどきしていた。あの紀美子の娘。この目で見るのは初めて。それも、こんなところまで会いに来てくれるなんて。服を人と会う時用のに替えて、念入りにチェックする。生きていればいいこともあるものね、あなた。

内間と名乗る夫婦に案内されて、緩やかな狭い坂を登っていく。前には、内間夫妻、牧、綾、後ろにはよく分からないが近所の人らしき五十がらみの女性が2人。黙って歩く姉妹は、始終周囲をきょろきょろと落ち着きなく見回していた。そう、ここが初めて見る実家の風景なんだものな。もうここまできた。牧と綾ちゃんの緊張は尋常ではなく高まっているんだろう。

それからの数時間は、巴にとって天国と地獄の両端だった。玄関まで迎えに出た巴がみたのは、もう立派な大人になった妙齢の孫娘二人だった。写真より、ずっと紀美子によく似ている。特に、上の子が口を開くと、巴は気を失いそうだった。北のイントネーションで全然言葉は違うはずなのに、若い頃の紀美子がそこでしゃべっているように思えてしまう。それでも、浮かれっぱなしでいるほど彼女は間抜けでもなかった。姉妹が、会えた嬉しさだけではない表情であることに、座布団を勧めるころには気付いていた。そして、その予想はすぐに的中した。このかわいらしい孫娘二人が持ってきたのは、あのきかんぼうで美しかった娘、紀美子の物言わぬ変わり果てた姿であった。自分でも不思議なほど、巴はその事実を受け入れられた。あの日から、なんとなく最悪の覚悟はしていた。それに、沈痛な表情を浮かべて骨壷を差し出す姉妹への、孫たちへの愛情が悲しみを和らげてくれる。どれだけ辛かったかしれないのに涙も見せずに過去の話をしてくれる紀美子に生き写しの声を聞きながら、巴は紀美子にじっくりとお別れを告げることができた。隣の綾ちゃんが、お姉さんの牧ちゃんにすがっている様子が微笑ましかった。

「あなた達のお祖父さんはね、三年前に亡くなられたの」
姉妹の前に座る老齢の夫人は、上品な口ぶりで静かにそう言った。もうかなりの歳なので、若かりしの様子は分からないが、それでもその目元の涼しさはまごうかたなき北代姉妹に通じる美しさを保っていた。
「でも、もうお祖父さんはお母さんのこと、怒ってらっしゃらなかったわ。そりゃね、誠司さんが紀美子、貴方達のお母さんね、を連れ去っていったときはそれはもうものすごい癇癪で、1年以上誰も近づけなかったのよ」
初めて見る祖母を、姉妹はいっぺんに好きになっていた。お母さんの面影がある。いつも浮かべている微笑み、ゆっくりした動作。
「それはね、お祖父さんが私と結婚して、それはもうすごい苦労したからなのよ。結局、お祖父さんは私のために、自分が北モンであることを捨てて、ここの人に成りきることで暮らせるようになったの。だから、紀美子がまた自分と同じように辛い思いするんじゃないか、ってあの人なりに心配してたんだと思うわ。それからもお祖父さんは紀美子のこと許さなかったけれど、私には分かっていたの」
年期のはいったアルバムが、良く手入れされた座卓の上に広げられた。
「ほら、これをご覧なさい」
「あ、」
「これってお姉ちゃん。私もいる」
「そう。誠司さんが、毎年紀美子の誕生日に合わせて送ってくれていたの。紀美子にも黙ってね」
「えっ」
写真を熱心にみつめていた姉妹が、揃って祖母のほうを向く。紀美子にそっくりとは言わないけれど、牧ちゃんの目、綾ちゃんの髪や顔の作りに娘の面影が残っている。それも、こんなに立派な人間になって。老婦人は思わず言葉を忘れてしまいそうになった。
「家をでるとき、紀美子もそれはもうすごい剣幕で、私達に怒って出ていったの。だから、全く連絡くれなくてね。誠司さんが、それじゃあんまりだから、ってこっそり送ってくれていたのよ。それも私にだけ」
あの温和なお母さんのそんな様子など、想像も出来なかった。しかし、確かにお母さんからお祖父さん、お祖母さんの話を聞いたことがない。
「これをこっそりと私の棚においていたんだけど、私、ある日見たの。忘れもしないわ、暑い夏の日でね。私は会合で街へ出ていたんだけど、早く帰ってきたのよ。それで、ふと下から私の部屋を見上げたら、しまりない顔したお祖父さんが、そのアルバムを私の本棚に直しているのが見えたの。どこでどうやって知ったのかしらね。いい趣味とはいえなかったけど、それ以来、私はアルバムについては覗き見を黙認することにしたわ。結局、お祖父さんにも孫はかわいかったのよね。特に、牧ちゃん、あなた達は私達の初孫だったから」
額にはいったお祖父さんの厳しい顔を見上げて、牧は、どんな人だったのだろう、と思いを巡らせていた。
「それが、去年は写真が来ないので、心配していたのよ。何かあったんじゃないか、てね。それが、そう、紀美子がねぇ。最後まで誠司さんと一緒だったのが救いね。あの子、誠司さんにべったりだったから。もともとお父さんっ子だったのよ、紀美子は。だから、余計にお祖父さんは誠司さんが疎ましかったのかもね。でも、そう、みんな先に逝ってしまったのね」
上品な声の調子は全く変わらない。相変わらず、声にさえ微笑みが乗っているような耳触りのよさだ。それでも、今、お祖母さんの心はつらくないはずがない。
「あの、お祖母さん、綾とお姉さんがいるから。これからも来るから。お手紙もたくさん書くから。ね」
「そうです。私達、お父さんやお母さんに立派に育ててもらいました。だから、恩返しを、せめてさせて下さい」
「ありがとう。いい子供たちをもって、あの子は幸せだわ。これだけでも、紀美子が誠司さんのところに行ったのは間違いじゃないって分かるものね」
「あの、お祖母さん」
「なに?」
控えめにしていた綾が、少しおどおどしながら、切り出した。
「あの、おばあちゃん、て呼んでいいですか」
「何をいいだすのかと思ったら。いいわよ、実際、あなた達のお祖母ちゃんなんだから」
目をくりくりさせて老婦人は笑った。
「その、小さい頃、憧れてたの、おじいちゃん、おばあちゃん、て呼ぶのに。お父さんとお母さんしかいなくて、ずっと。もう高校出てるっていうのに、馬鹿みたいですけど、馬鹿みたいだけど。でも、おばあちゃん」
「なに?どうしたの」
面白くてたまらなそうなその声、母さんと重なる。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
「なあに、全く、大きな子供ねえ。こっちに来る?」
妹は我慢できなくなったのか、もう飛びつくような勢いでお祖母さんのもとにしがみついて泣きだした。体でいえば、もう綾のほうがずいぶん大きいのに、滑稽。
「牧ちゃん、あなたも無理しなくてもいいのよ。お姉さんとしてあなたは立派だわ。でも、私の前ではただの孫なんですからね」
なんでわかるんだろう。手招きするその仕草に、長い間の心の重しが流れていくのが分かる。これが血なのかな、おばあちゃんだからなのかな。
「おばあちゃん」
吸い寄せられるように隣に腰を下ろすと、優しく頭を抱いてもらう。そうね、こうやってお母さんも育ったんだ。軽く頭をさすってもらっていると、思いのほか高い声で、子守り歌が流れてきた。それが微かな記憶に重なっていく。

街に宿を取ってある、という姉妹を、巴は離さなかった。下手に街に戻って嫌な目に遭うよりもこの家に泊まっていきなさい、と言われて牧と綾は有頂天になって喜んだ。なにせ、関西を出るときは生死も分からなかった祖母に会え、しかも泊めてもらえるのだ。物心ついてから親戚の家というのを持たずに淋しい思いをしていたのだから、その喜びようも無理からぬことだった。巴にしても、姉妹と一日で別れるのは辛かった。二人目の息子までが九州北部に行ってしまってからは、主人のいない今、家の中が少し静かすぎる気がしていたのである。
「本当に、いいんですか。ご迷惑じゃありませんか」
口ではそう言っていても、顔が綻んでいるのを牧は自分で感じとっていた。しいさんも喜んでくれるかな。
「あ、上尾くん」
そのときになって、初めて牧は玄関の上がり口で待っているはずの同行者のことを思い出した。彼を置いてはいけない。その表情を、巴はじっと見つめていた。

上尾は、和真の家の玄関で、同行してきた内間夫妻や他の人と一緒に気まずい思いをしていた。とにかく、話すことがないので沈黙が多い。それは向こうも同じようで、おばさんたちは当たり障りない話を玄関の上がり口に腰掛けて話している。それでも、視線が常にこちらに飛んできているのがひしひしと感じられた。息がつまりそうで、外の日光が眩しかった。
「ちょっと庭を見させてもらってかまいませんか」
その場にいた人たちが一斉に振り向く。探るような無言の会話が彼らの間で交わされているようだった。
「ええ、もちろんでさ。こっちいらっせ」
結局、内間と名乗った男性がついてきてくれることになり、上尾は日が傾いてきた広い庭に出られた。開放的な配置で、あちこちに夏の花が咲き乱れている。暑いこの地方ではとりわけ夏の花が元気で、上尾は顔を近づけては色合いや匂いを楽しんでいた。
一方の内間は、斜め後ろに立ってこの若い男がのんびり庭を周るのに任せていた。この北モノには緊張がないのだろうか。この辺りは反北感情が強い。それを感じられないほど鈍い男にも見えない。一見して北モンと分かる顔立ちの男ではあったが、二十歳前後にしては落ち着いた感じだった。一度だけお孫さんらがこの男をこっそり『しいさん』と呼んでいたところからすれば、少しだけ彼女らより年上なのだろう。それに、石段を上がるときの微かに足を引き摺る仕草からみて足が少し悪いに違いなかった。
「いい庭ですね」
「あたりまえよ。そおりゃ、顕宰が、あの子らの祖父さんがずっと手入れしていたんだからな」
「ええ、そうですね」
屈託なくそう笑顔で言葉を返すこういうふてぶてしいところは誠司によく似ているかもしれんな。あいつも周囲が敵ばっかりの状況に来ているということを気にしている様子がなかった。

玄関に出てきたお祖母さんは明るく溌剌としていた。それに、一緒に出てきた牧と綾をみて、改めて血筋を感じた。どこがどう似ているとは上尾には言えなかったが、家族と呼ぶにふさわしい雰囲気がそこにある。上尾は少し羨ましかった。しかし、お祖母さんが内間さんらと話をしている間に、牧と綾が目配せしてくる。それも、何か悩んでいる。巴お祖母さんの話が途切れたので、牧が口を開いた。
「でね、明日お墓参りに行くから、私達に、お祖母さんが今日はここに泊まっていきなさい、って言って下さるの」
そのもってまわった言い方で、上尾は察しがついた。
「わかった。じゃあ、今日は僕はこれで街の宿のほうに行くから」
「でも、」
「せっかく会えたんだから、今日は一晩ゆっくりしていくのがいいよ」
「そうだ、そんで明日、わしらがお嬢さん達を街まで送るから、それから帰ったらええ」
「はい」
内間の意見に素直に従う孫に、巴が割って入った。
「いえ、明日の予定もどうなるかわからないことですし、上尾さんも十時頃にはここに来てもらえるかしら」
「え、はい」
意外な言葉だったので、上尾は答えにまごついてしまった。いったい、牧や綾はお祖母さんに俺のことを何と言ったのだろうか。
「では、和真さん、今日は失礼します。明日またお伺いします」
「気をつけて」
「はい」
というと、上尾は立ち上がって玄関を出ていった。引き戸を閉める間際に目で挨拶をすると共に、姉妹にもちょっと目配せをしていったことを、巴は感じ取っていた。

一人だけになると、上尾は白い視線もあまり苦にならなかった。なんといっても、北モンの彼がこの界隈で冷たい扱いを受けるのは無理からぬことで、ここでそんな愚痴を言っても始まらない。彼らが北の方へいけば、同じことが間違いなく彼らの上に起こるのだ。今晩は大人しくしているのに限ると上尾には分かっていた。宿のキャンセルが一番もめるかと思ったが、宿についてみると、もうすでに承っております、とだけ言われて全く問題がなかった。状況からみて、おそらく和真のお祖母さんが手を回してくれたものと思われた。上尾は、人気のないのを見計らって浸かった湯船で両手を大きく伸ばすと、他の客が来る前にとそそくさと部屋に戻っていった。

お祖母さんと過ごす夜は時間を忘れるほどとても楽しいものだった。初めのうちは牧や綾が自分達のこれまでの思い出をお祖母さんにいろいろと話し、特に家族での日常の様子などを説明すると、お祖母さんは目を細めてそれに聞き入っていた。お祖母さんがいるとなると、不思議とお父さんやお母さんの話をするのが自然にできるのだった。悲しいとか辛いとかではなく、純粋に両親の話ができた。それは、妹も同じだったようで、いろいろな話を自分から進んで話をしている。しいさん以外の他人に話すときは、大抵牧のほうが窓口だったので、これは綾が祖母をもう親しい人だと感じている表れだ。
そのあと、今度はお祖母さんがお母さんの若い頃の話をいろいろしてくれた。夫婦で苦労しているころに生まれた初めての子供だったこと、多感な子供時代を通じて勝ち気だったこと、とても綺麗だったこと。
「紀美子の顔立ちは私ともお祖父さんとも違うし、明らかに北モノの血を引いているってわかるのだけど、それでも私を含めてここの人たちは紀美子が綺麗だった、ていうことは認めていたのよ。周りに負けないように勝ち気に育ったから、きかんぼうでね。弟たちのほうが大人しかったぐらい。もう、中学生のころは毎日火花を散らすような生活ぶりだった」
それは、もう姉妹にとっては全く未知の母親像だった。躾で厳しいところがあったものの、普段は微笑んでいるばかりの姿しか知らなかったので、そう言われてもお祖母さんがからかっているのではないか、と思ってしまうほどだった。
「なんか、信じられない、という顔しているわね。でもね、恋をすると、人間変わるのよ。あの子も変わったわ。大学まで行って、なんとかっていう製品を作っている会社に勤めているときに、誠司さんと出会ったの。それからね、紀美子がああも変わったのは」
その表情は、過去に対する惜別を浮かべていた。時計を回しても戻らない、手が届かない二十年以上前の記憶。
「ちょっと喉が渇いてきたわね、まだ暑いし、すいかでも少し切りましょう」
「わ、いいですね」
「食べます」
目を輝かせてそういう孫達が元気良く立ち上がるので、巴も慌てて手をついて立ち上がる。
「どこにあるか言ってくれれば、私達で切りますから」
「おばあちゃん、包丁どこ?」
元気な姉妹の様子は、なによりも巴に活力を与えてくれる。すいかなんて、この地方では掃いて捨てるほど獲れるから慌てなくていいのに。それでも、そう、みんなで食べればすいかも一段とおいしい。あの人はすいかが好きで、ずいぶん家計が助かったものだわ。北で育つと、みんなすいかが好きになるのかしら。

お風呂の説明をしたあとで、先に牧が入浴しに行った。祖母と残った孫は、まだ尽きないいろいろな話をしていた。今日初めてあったばかりとはお互い信じられないほど仲良しになった。
「ねえ、綾ちゃん」
「なに」
「今日一緒に来ていた上尾さんって、どういう人なの」
「護衛役。だって、お祖母ちゃんに会えるかどうかわからなかったし、女だけだと心細いし」
「それだけ?」
綾にも、祖母の言わんとする内容は察しがついていた。
「今は。でも、もしかすると、お兄さんになるかも」
こんなこと、他の人には決して喋ったことないのに。
「今言ったこと、誰にも喋ったらいやよ、おばあちゃん。まだ恋人ですらないんだから」
「あらあら、随分奥手なのね。誠司さんとは大違い」
「そんなこと言わないで。いろいろあったんだから、お姉ちゃんのことも、しいさんのことも悪く言わないで」
しいさんのことが格別好きだというわけではない。でも、他の人に悪く言われるのは我慢できない。たとえおばあちゃんであっても。
「ごめんなさい、悪くいうつもりはなかったの。ただ、そうじゃないかなってね。恋人同士にはとても見えなかったんだけど、断じて他人ではないように見えたから。綾ちゃんにはそういう人はいないの」
「いない。わかんない」
嘘だった。おばあちゃんにもばれているような気がしたが、おばあちゃんはそれ以上詮索せず、話を彼女らの縁戚関係に戻した。お姉ちゃん、お風呂場でくしゃみしてなければいいんだけど。

墓地の入り口までついてきた上尾は、そこで歩を停めた。みんなについていかない北モンを見て、内間が先に行くように促す。
「どした、何してる」
「いえ、お参りは水入らずの身内だけがいいかと思いまして」
顔に似合わず殊勝なことをいう、と内間は先を行く老婦人や姉妹を見やった。
「そうか。でも、和真さんが付いてきてほしい、て言ったんだ、一緒に行かにゃ」
「はい」
それでも、この男はまだ躊躇している。内間が横を抜けて先に行くと、ようやく彼も後に従ってついてきた。それにしても、足が悪そうなわりには、この男は非常に立ち居振舞いがきっちりしている。姉妹が墓参りしている間も、この上尾という男はほとんど身じろぎ一つしないで、端っこで頭を垂れていた。牧と綾は九州地方の墓参りの作法すら知らなかったので、祖母から手ほどきを受けながら幾つもある墓石の前を回っていった。和真の家系は古くからあるので、墓もたくさんある。その中でも、こじんまりしたお墓の前で、3人はずっと手を合わせていた。
顕宰の眠っているその墓の前では、内間も深々と頭を下げた。南紅民族の社会に馴染もうとして苦労し続けたじいさんも、もう今はゆっくりしてることだろうて。ここに眠っていることこそが、じいさんが南紅の1人であると認められた証なんじゃからな。
姉妹はお墓参りに来ても、涙を見せなかった。むしろ、どちらかというと晴れ晴れとした気持ちらしい。持ってきたお花を差しながらも、おじいさんはどんな花が好きだったのかとか、この花で気に入ってもらえるかな、とかおしゃべりしながらお墓を回っていた。

振り返ると、あの男が、全然関係のない安西家の戦没者の墓の前で手を合わせていた。変わった奴だ、と内間は思ってみていたが、まっすぐに腰を曲げて礼をする男の姿をみて、全てが当てはまった。
「おんし、さては兵隊に行っておったな」
内間の声に殺気を感じて、先を歩いていた一行は何事かと振り返る。内間に睨まれた上尾は、合わせていた手を下ろすと、その場で静かに肯いた。北の人間が兵隊に行っていたと言えば、それはTTIしかない。全ての人間が承知していることだった。そして、TTIが安西家の次男坊の泰樹を殺した。若い頃からあの子は血の気が多かったが、それが禍いして、戦闘で命を落としたのだ。その敵があろうことかここにいる。泰樹はもう何も喋らないのに、TTIは、ここで、こうして、のうのうと。
「出てけっ!安西さんとこの泰樹はな、お前の顔なんざ見たくもないんじゃ。この、このっ」
手近に何もなかったので、怒りに駆られた内間は足元の砂をつかんで、上尾に向かって投げつけた。それはほとんど憎むべき対象には届かず、風に俟って飛び散っていく。それでも、小石混じりの砂を二度、三度と掴んでは投げ、掴んでは投げていると、男の頭から砂がかかり、一面に砂が飛散した。
「お前さんっ」
内間の妻が止めようとしても、振りほどくようにして押し倒し、さらに上尾に詰め寄る。いかに内間が歳の割には頑丈な男だとはいっても、若い北モンの前では歯が立たない。すわ、喧嘩になるのかと周囲に緊張が走ったが、内間が手を出しても男は黙って立っているだけで、内間の勢いに押されて墓地の端まで押し出されていくだけだった。
「ば、ばかにしとんね、お前なんざ、黄禍なんざみんなまとめて地獄へ堕ちんかい」
「内間さん、落ち着いて」
「これが落ち着けるかい、TTIぞ、こいつ、泰樹を殺した奴と一緒ぞ。こんな悪魔、こいつの家族もろとも血の海に沈めてやらねば気がすまん」
その一瞬だけ、内間は強烈な気の高まりを感じて思わず殴りかけの手を止めた。その機を逃さず、巴が内間を制する。
「内間さん、あなたの気持ちも尤も。でも、もう戦争は終わったの。ここでまた戦争を始めても仕方がないのは、分かってくれる?」
「そんでも、俺は、これが落ち着いて、い、いられるかい」
「そうね。上尾さん、今はこの墓地から出て、家の離れのほうに先に戻ってなさい」
「はい」
頭を下げて砂も払わずに一行の横を抜けていく上尾に、周囲の反応は冷淡だった。

帰り道は重苦しい淀みが一行にまとわりついて、ほとんど会話らしい会話もなかった。内間は気を静めるために大きく息をしては舌打ちを繰り返し、内間の妻と隣組の二人も黙って息を潜めて歩いている。巴は、複雑な思いで前を行く友人達を観察していた。その後ろから、姉妹が小さくなって歩いてくる。無理もないわね、南紅のあの排北感情を直接体験したのだから。安心させようと、孫のほうに振り返って微笑むと、翳ってはいるものの微かな笑みが、大丈夫です、との表情を浮かべて返ってきた。それでも、行きと違って、帰りは二人はぴったりくっついて、手を握っている。また前を振り返ったとき、二人の囁きが風に乗って聞こえてきた。
「大丈夫、お姉ちゃん」
「うん。前の私じゃないから。ありがとう、綾」
手を握ってもらっているのは、妹ではなくて姉のようなので、さきほどまでの常に姉の牧のほうが主導権を握っている様子からすれば巴には不思議な気がした。

お祖父さんは北からの人だったけど、南紅になりきった。叔父さんたちもハーフだったけど南紅として生活することを選んだ。お母さんは北の人として生きた。でも、それではいつまで経っても、両方の民族の狭間に生きる人たちの地位が得られない。私の血。綾の血。お母さんが育ったこの明るい風土も、私の今住む寒暖の激しい大阪も、お父さんの生まれた岩手の清々しい山々も、みんな私を作ってくれたのに、私はこれまでそれらをほとんど知らないまま生きてきた。混じり者ははみ出し者なの?いいえ、単色の織物は綺麗だけれど、様々な模様が織り込まれた織物は、もっと美しい。ただ、織り方を知っている必要があるだけ。
「おばあちゃん」
「なあに」
ずっとお祖母さんは私達の心の動揺が納まるまで待ち続けていてくれるつもりだったのだろう。
「私、そろそろ大阪に帰ります」
「そう」
「帰るけど、こっちの人たちがいう北モンにはなりません」
編み物の手を止めて、巴は顔を上げた。
「お母さんの血も、お父さんの血も、大切にしたいから。南紅民族か、日本真民族か、じゃなくて、私は誠司と紀美子の子供だから」
黙って祖母は孫の顔を、その大人びた若い眼差しを見つめ直す。不器用なほどの真っ直ぐな気負いを羨ましく思った。紀美子は私よりも先に逝ってしまったが、その次の世代がここにいる。私達の育った時代よりも、この子のこれからの時代のほうが辛いことが多いだろう。それは、私達の世代が道を踏み外したから。誰もが正しいことをしようとして、この子達を泥沼に落としてしまった。それでも、この子は負けていない。新しい道を、新しい足で踏みしめて行くのだろう。
「おばあちゃん、どこに居ても私はおばあちゃんのこと大好き」
「私もよ。牧ちゃんも、綾ちゃんも気に入ったわ」
「また、ここに来てもいいですか」
「もちろんよ。いつでも歓迎するからね」
実際のところ、巴自身にはあまり北に対する心理的抵抗はなかった。歴史上の抗争の系譜はともかく、巴自身のまわりの北モンにはそれほど悪い人はいなかったのである。
「ありがとう、おばあちゃん」
その首にすがりつきたくなるのを、牧はかろうじて自制した。

夕方までに、どこをどう伝わったのか、子供たちが道筋に出てきていた。面白いことがないとでもいうかのような表情がどの顔にも浮かんでいたが、すぐに口火が切られた。およそ子供の口から出るのは憚られるような悪口の連射が雨のようにわんわんと、先頭をいく上尾に降り注いだ。
姉のほうは心配そうに上尾の様子を伺ったが、彼は投げつけられる罵詈雑言にも耳を貸さずに歩き続けている。しかし、その喧騒も長くは続かなかった。上尾の背中に泥団子が飛んできて、ぐしゃっと潰れた。囃していた子供たちも、いったい北モンがどうするかと、息を呑んで黙って見ている。上尾が振り返って見上げると、土手の上に陣取った一番小さな子供がもう一つをまた投げようとしていた。まだ十歳にもなっていないようなあどけない顔を、残酷な悦びに浸らせている。その子供は周りの雰囲気が微妙に変化していることに戸惑っていたが、意を決すると、もうひとつの泥団子を上尾めがけて投げつけた。上尾は楽々とその玉を捕球すると、手に取ったままその泥団子を見つめ、その子供に視線を移した。少年はあまりにも簡単に泥団子を受け止められてしまったので、今度は一転して怯えている。
上尾は泥団子を持ったまま、一転して笑顔になった。
「泥団子を人に向かって投げるのは感心しないな、ぼく」
そのままくるりと向きを変えると、畑の向こうの小屋に向かってその泥団子を放った。上尾は狙い過たずにその野良仕事用の小屋の壁に命中させた。普通の人なら、届かせることすら難しい距離である。牧ですら上尾にそんなことが出来るとは知らなかった。上尾は肩をぐるんと一回まわすと、バス停までの坂をまた下りていった。

バスはすぐにやってきた。バス停に見送りに来ていた巴と内間夫人は、姉妹が帰るのを惜しんでくれた。たぶん、心から惜しんでくれているのはこの二人だけかも、と牧は握手を交わしながら心の奥底で感じていた。それでも、構わない。
「ほんとうに、また来てくれるわね」
「ええ、もちろん、喜んで」
「また来ます」
それは牧にとっても、綾にとっても本心だった。その気持ちが思いのほか大きいことに、二人とも戸惑っていた。それは、巴にしても同じ思いだった。紀美子の面影をよく残す二人は、実際に会ってしまった今、彼女にとって手放してはいけない宝物のように思えた。もう、写真では満足できないだろう。特に、紀美子が逝ってしまったと聞かされては。
小さくなっていくバスの後ろの窓から懸命に手を振る孫を見守りながら、巴は夜の、紀美子の消えた暗い夜の影に震えていた。

帰途は、来るときほど周りの視線が気にならなかった。九州に向かうときに感じた不安は、今は納まっていた。クォーターとはいえども向こうでは北モンとしてしか見られていないことが淋しかったが、お祖母さんは優しかった。娘が死んだという知らせは辛かっただろう。せめて、手紙をたくさん書こう。冷房もない列車の扇風機の下で、牧は顔を上気させ、流れ去る南紅民族の地を見送っていた。その牧の肩に頭を乗せて、綾が寝入っている。向かいに座る上尾は、扇子を出すと、そっと彼女らに風を送りはじめた。牧がにっこり微笑むと、上尾は照れ隠しに窓の外に目を移し、ただゆっくりと風を送り続けた。窓の外には、夕立のあとの虹が空を渡って大地に架けられていた。


目次へ戻る 1998/09/24 1