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南輪
悔しかった。どうしてこんなことで差別されなければならないのかと考えると、あふれてくる涙が止まらなかった。張り詰めてきた緊張は切れ、牧は人気のない公園の隅のベンチで一人うずくまって泣き続けた。
待たされた後で応対に出てきてくれた人は、若いが感じのよい、有能そうな官吏であった。
「北代さん、残念ですがあなたのお母さんの分の戸籍証明書はここでは発行できません」
「えっ、なぜですか」
これだけ待たされたのに、これだからお役所って嫌だと内心思ったが、相手の表情が妙に硬いことに疑問が走った。牧の視線を受けて居心地悪そうにしていた彼は、一息吐いてしゃべりだした。
「誠に申し上げにくいのですが、あなたのお母さんは第二国籍者ですので、戸籍証明を発行するには在日外国籍者確認が必要になるのです。現在、法律運用の強化の通達が出ていまして、この確認書なしでは戸籍証明を発行するのは無理なのです」
牧は後半をほとんど聞いていなかった。第二国籍者?お母さんが?青天の霹靂で、頭がぼうっとなっていく。説明をしていた相手がふと牧の顔を見上げて心配そうな顔をするのを見て、牧は辛うじて自制を保って言葉を返した。
「あ‥‥ええ、すみません、そのことを知らなかったものですから。ではその在日外国籍者確認を持ってくればいいのですね」
「ええ、そうです。ただ、在日外国籍者確認を受付けているのはここらでは大阪府庁舎だけですし、故人の確認は約二週間かかります。それでもよろしいでしょうか」
二週間‥‥どうしよう。そんなに長い間しいさんに待っていてもらえるとは到底思えなかった。全てが頭の中でぐるぐると音を立ててまわっている。とにかく、ここを早く出たい。
「ああ、‥そうですか。分かりました。では、今日はこの父の分だけ頂いて帰ります。どうもお手数おかけしました」
「いえいえ、こちらこそ説明が不十分で失礼しました。よろしいですか?それでは、他の仕事がつかえていますで、失礼します」
相手が席を立つのを見て、牧も立ち上がろうとした。手足に力が入らない。それでも人前での自制を自らに課してきた彼女は、最後の意志の力を振り絞ってしっかりした足取りで市役所を出ると、電車に乗り、南千畳駅まで着いた。しかし、そこから足は家へは向かわず、ふらふらとさ迷ったのちに、気が付くと千畳公園に来ていた。夕方の公園は人気も少なく、牧は隅のベンチに腰を下ろした。まだ自分が南紅の血を四分の一引いていることが信じられなかった。思いは乱れ、考えがまとめられない。
そう言えば、ずっと幼いころからお父さんやお母さんとの会話の端々に違和感を感じていた。お父さんはお母さんと駆け落ちするようにして関西に来たといつも話していた。そのお母さんの故郷がどこかは最後まで教えてもらったことがない。その理由が、いまようやく理解できた。お母さんも私も綾もどう見ても真民族系にしか見えない顔立ちなので、今まではそんなことを考えもしなかったのだ。
これでは戸籍新登録なんていう話じゃなくなってしまった。協力隊に指示された書類の期限は一週間後である。どう考えても間に合わない。新戸籍が取得できないと、しいさんは非市民である私達を自分の家に同居させていたとみなされる。これは、もし私達が見つかったら協力隊弾劾委員会でしいさんに有罪判決が下されるということだ。協力隊は戦時立法だから、その処罰はおしなべて重い。私達も有罪になるだろうけど、しいさんに課せられる刑罰はその比ではなかろう。
私はお母さんがどんな人であれ、お母さんの子供だと胸を張れる。でも、綾はどう思うだろうか。いいや、綾なら大丈夫だろう。最近特に急に大人びて見えだした妹に、牧は安心しながらも一抹の寂しさを感じていた。もう綾は子供ではない。しっかり事実を受け止められる。たぶん、私よりも。
そうだ、しいさんはどう思うだろう。ふだんは南紅民族に対して穏健なことしか言っているのを聞いた事がないが、間近に南方系の人がいたら意見が違うかもしれない。なんといってもしいさんの家族を殺したのはGOTSなのだから。しいさんは優しいから、それでも変わらず私達に良くしてくれるかもしれない。それでも、少なくとも以前と全く同じままでいられるとは思えなかった。
しいさんに隠しつづけても、あとせいぜい一週間。一週間したら、しいさんの家を出ていこう。あと一週間だけの生活。それだけしか今の生活は続けられない。その後どうすればいいか全然わからないけれど、しいさんには相談できない。結局、私には束の間の平穏ぐらいがお似合い、と自嘲気味に思った瞬間、涙がこぼれだした。せめて綾だけでもあのひどい寄宿舎に入らなくて済む方法を思い付ければいいのに。公園の前を早足で歩いていく人影をぼんやりと眺めながら、牧は頬を濡らせていた。そう、一週間したらこの生活とも決別しなくてはいけない。彼女は夕闇の中、ゆっくりベンチから立ち上がった。涙の跡を拭いて、帰路についた。
上尾の料理は下手である。もう何年も自炊しているくせに、ちっとも上手にならない。包丁捌きは結構なものなのだが、いかんせん調味料の使い方がいい加減で北代姉妹も閉口していた。最初のうちは黙っていたが、姉妹にも限界がある。ところが、文句を言うと、彼はうなずくし反省もするのだが、次の料理はやっぱりまずいのだ。一番たちの悪いのが、本人はそれをそれほどまずいと感じていないことである。彼に言わせると、うまいものは確かにうまいが、うまくないものだってそれなりの味はする、というのだ。この「それなりの味」が姉妹には耐えられないので、上尾が当番のときはできるだけ味付けの監督を姉妹のどちらかがするようにしていた。
今日は綾が帰ってみると姉はまだ帰っていなかったので、上尾の料理の監督を綾がしていた。上尾がなんとか彼女から合格点をもらったとき、牧が帰ってくる音がした。
「ただいま」
玄関から声がしたので、エプロンをつけたまま上尾は台所から顔を出した。冬の夜から抜け出した牧は後ろ手にドアを閉めると、白い息をかじかんだ両手に吹きかけて手をこすりあわせている。その仕草をふと止めて目線を上にあげたとき、トレーナーにフリルつきのピンクのエプロンを被った上尾と目があった。その上尾の不細工な姿に、思わず牧は吹き出してしまった。
「やっぱり変ね、そのエプロンだけは」
「そ、そうかな。綾に着なさいって言われたから。外は寒かったんじゃないか、早く居間においで。暖かいよ」
「うん。すぐ行く」
彼女はそう言うと、靴を脱いで、二階への階段を軽やかに上がっていった。火の調節をしなきゃだめ、と綾が言うので彼は台所に戻ってまた料理と格闘することにした。
ところが、シチューもでき、皿も揃えて夕食の用意万端となったのに、彼女はまだ下りてこなかった。
「ちぇ、今日はうまくできてると思うのにな。はやく食べたいよな」
「うまくできているかどうかは判らないけど、確かにお姉ちゃん遅いね。何してるのかしら」
「ほんとに。おおい、牧ぃ、ごはんできたよ、食べようよ」
上尾が廊下に顔をだして大声で叫んでも、返事がない。
「いったいどうしたんだ。また漫画でも読んでるんじゃないだろな」
「それはしいさんでしょ、お姉ちゃんはそんなことしないわ」
「じゃあなんで下りてこないんだい」
「それもそうね。疲れて寝てるのかな。いいわ、見てくる」
そう言って綾が階段を昇りかけたとき、上でドアの開く音がした。
「ほら、お姉ちゃんが下りてくるわ、ご飯にしましょ」
「はいはい」
二人が台所に戻って席についたとき、ようやく牧が現れた。
「ごめんね、遅くなって」
「いいよ、いいよ。外、寒かったんだろ。顔色が悪いよ、はやくこのシチュー食べて暖まらなくちゃあ」
「そうね、いただきます」
三人とも席について、料理に手をつけはじめた。
「綾が味付け指導したから、出来は悪くないと思うよ」
「もう俺が一人で作っても問題ないと思うんだけどな。まだ信用しないんだから」
「まだだめ。今日だって黙って見てたら全然途中で味見しようとしなかったじゃない」
「それは俺が猫舌だから、いちいち掬って味見すると時間がかかって仕方がないからで、調味料には気を付けてるってば」
「味見をさぼっておいて、気を付けてるなんて、たいした言い訳ね」
「でも、今日は綾ちゃんはチェックしてただけで、あんまり手を加えてなかったじゃないか。これこそ俺の腕前が確かになった証さ」
「何いってるの。途中で塩を足したし、肉の下ごしらえせずに済まそうとしたじゃない」
「それだけじゃないか」
「それだけって、ねえ、それで味はがらっと変わるのよ。もう、しいさんに料理教えていると人間不信になりそう」
「宏野のお母さんと同じこというんだな、綾って」
「ええ、いうわよ。ねえ、お姉ちゃんからも何か言ってやってよ」
綾が口を尖らせて牧のほうを向いたが、姉はシチューをスプーンでゆっくりかき混ぜているだけである。
「お姉ちゃんってば」
牧はようやく手を止めると、くすっと笑って二人を眺めた。憤慨している上尾と自分を味方につけて彼をやっつけようとしている妹のぶすっとした顔が並んでいる。
「そうね、綾のいっていることに賛成」
勝ち誇った表情の妹を見ながら、ささやくように言葉を足す。
「でも、しいさんの腕もあがってる。とにかく、今日のシチューはおいしく感じるもの」
今度は上尾がそれこそ当然、という顔でシチューのお代わりを自分の皿によそいだした。綾も姉の言葉に納得したのか、それ以上は上尾をとっちめようとせずに、二杯目に手をつけだした。
「ほんと、おいしいよ、しいさん」
牧はそう言ってまた一口掬うのだった。
牧は部屋を見回した。段ボールで数箱の衣類、勉強道具、ブラシなど申し訳程度の小物。実質的に姉妹の持ち物といえるのはほとんど何もない。壁のずいぶん古いポスターが牧を見返していた。しいさんのお兄さんのだ。敏明さんは私の中にある四分の一の血をどう思うだろう、との想いが浮かぶ。憎むべき敵だと思うだろうか、それとも黙って微笑んで許してくれるだろうか。頭を左右に強く振って思いを断ち切ると、荷物を運びだすために段ボールに手をかけ、行動を開始した。
今晩はサッカーリーグのシリーズで、天王山というべきカードに上尾はテレビにかじりついていた。ひいきチームがゴールを割られそうなのではらはらしているとき、牧がすっと部屋に入ってきた。
「しいさん」
上尾の目はボールから離れない。
「ほら、いかんってそれじゃ。ん、なんだい」
「戸籍証明、まだなんだ。もうすぐ期限だよね」
「そう。なんで取って来なかったんだよ、明後日が期限なんだぞ。しっかりしてくれよ」
牧は震えを押えるために全力で柱を掴んでいた。しかし、出てきた自分の声は予想に反して驚くほど冷静だった。
「戸籍証明は取れない。お母さんはSNなの」
「エスヌ?なんか知らないけど、明日には」
「聞いて。私の母は第二国籍者。私と綾には四分の一、南の血が混じってるの」
「みなみのち?わけわからないこといってると南輪とかいわれるよ、牧」
その一言に牧の体は凍り付いた。テレビに熱中していた上尾はしばらく試合の様子を見ていたが、会話が途絶えたことに気がついて後ろを振り返った。振り返って、ようやく牧が何を言っていたかを理解した。一方の牧も黙り込んだ相手をみて、自分が甘かったことを身を切るように痛感した。
「そう、その南輪なのよ、わたしって」
言い捨てると、逃げるように二階へ駆けあがっていった。自分の口から出た南紅民の蔑称が、深々と自らの心に突き刺さり、彼女はその痛みを抑えられなかった。
説得のつもりが喧嘩になって、二人が出ていって四日目になる。北代姉妹との溝は深まるばかりで、無遠慮な言葉の過ちを消そうとすればするほど、また牧と綾を傷つけてしまった。そして、険悪な雰囲気の中、二人は出ていってしまった。勢いで言ってしまったこととはいえ、半ば追い出すようなことになってしまい、上尾は強烈な自己嫌悪に陥っていた。
前の生活に戻っただけのことなんだ、と何回自分に言い聞かせても、心の中の空虚さを消すことができない。姉妹が消えると、どんなに灯かりをつけても家の中は明るくならない。暗澹たる思いで二人が寝ていた部屋から出ると、自分の部屋に戻り、机の上に広げた書類の前に戻る。やっと手に入れたこの書類だけれど、これで確実に二人とは絶縁だろう。しかし、上尾に出来る他の方法はなかった。今週中にはこの地区の査察が始まることになっている。そうなれば、自分も聴聞会にかけられるだろうし、姉妹は間違いなく青少年寄宿舎に収監されてしまうだろう。ただでさえ悪評の高いところで、ましてや二人は三世だ。どんな仕打ちが待ち受けているか、想像もつかない。そんなところへ二人を送るわけにはいかない。沈む気持ちで意を決した上尾は、書類の最後の欄に署名をした。父さんや母さん、それに兄さんはあの世で僕のことを怒っているだろうか、それとも賛成してくれるだろうか。あの世で聞いてみればいいことだ。
上尾が暗い階段を抜けて通路にでると、目指す玄関が見えた。手前の非常照明灯がかえって暗さを強調し、人気のない雰囲気が身にまとわりつくようだ。玄関までゆっくり歩いていくと、郵便受けに張られたTTIの被災票が風を受けてかさかさとかすかに揺れていた。ここに来るのはこれで四回目だったが、これで最後にするつもりだった。
深呼吸をすると、金属のドアをノックする。その音は廊下中に反響していく。反応は何もない。しかし、上尾には確信があった。少し間をおいて二回。さらに三回。中では何の音もしない。さらに三回。そのとき、ようやく幽かな足音が玄関に向かってくる気配がした。一拍の間をおいて、ドアがすうっと開く。非常照明灯に照らされて浮かび上がった白い顔は、綾だった。その美しい面影には仮面が張り付いていた。この表情は見覚えがある。北代のお母さんの告別式のあとで見た、感情の海を覆い隠す分厚い氷だ。
「こんばんわ」
相手は口を開かない。目線を下に向けると、寒さのせいかそれとも別の理由からか、彼女の手が震えている。上尾は低い声で続けた。
「話をしにきたんだ。牧も一緒に聞いて欲しい」
「姉さんは会わない。言ったでしょう、しいさんには会わない」
予期していた言葉ではあったが、そのかたくなな調子はやはり上尾の胸には堪えた。
「でも、まだ僕の事をしいさんと呼んでくれるんだね」
「‥‥」
「顔もみたくない、ていうのなら声だけでも聞いて欲しい。牧、あのときは済まなかった。前にも言ったけれど、あれは、あまりに突然だったから、言葉の綾で口を衝いて出てきてしまっただけなんだ。反省している」
「そんなこといいに来たの?」
言外に含まれる非難にも上尾は黙って受け入れた。この建物は戦災の影響でいまだにガスが使えず、電力も制限されていた。本格的な冬はまだ先とはいえ、夜になると暗さと寒さが二重奏でここに押し寄せてくる。建物に、通路に、この玄関に、そして上尾と北代姉妹とのあいだにも。
「もう許してえもらえるとは僕も考えていない。でも、僕には君たちのお母さんとの約束がある。君達をこのままにはしておけない。だから、君達のための新しい戸籍を用意したんだ。もう君たちが寄宿舎に送られることはない」
「いらない」
姿は見えないが、奥からのかすかな声を上尾も綾も聞き逃しはしなかった。上尾は暗闇の声のするほうを覗きこんだが、真っ暗な部屋の奥の方がどうなっているのかは判らなかった。
「そうだね、僕と一緒ではいやだろうから。でも、これだけは信じてほしい、今でもまだ一緒に仲良くやっていきたい気持ちは変わってないんだ」
しかし、その返答は沈黙だった。覚悟はしていたが、やはりつらいものではあった。
「牧や綾の気持ちは僕にもわかっている。だから、新しい戸籍は僕には関係なく、君たちだけのものにしてある。明日には僕は街をでる。あの家も君達のものになるようにした。いまはそんなに値打ちないだろうけれど、売り払えばいくらかにはなるだろう。そうすればどこででも新しい生活をはじめるのに十分なぐらいのお金にはなると思う」
綾が片眉をあげてけげんそうに見つめてくるのを意識しながら、かばんを降ろす。
「もう手続きもしたんだ。今日来たのはその書類を渡すためなんだ。はい」
かばんから取り出された大きな封筒を突き出されて、綾は反射的にそれを受け取った。それを見て彼は満足すると、わずかに微笑んで玄関から一歩引いた。
「それじゃあ。本当に済まなかった。一緒に数週間暮らせて嬉しかったよ。牧も、綾も、風邪引かないようにね。ほんとうに、」
そこまで言いかけて言葉に詰まり、彼の動きが一瞬止まった。それから長い息が続いて、また硬い表情にもどる。
「さよなら」
くるりときびすを返すと、上尾は薄暗い通路を去っていった。躊躇するそぶりも見せなかった。
真っ暗な中へと綾が戻ってみると、姉が部屋のドアの横の壁に身を隠すようにして小さくなっていた。寒い夜に備えてかなりの服を着込んでいるその姿はまんまるとして滑稽ですらあったが、それを笑う余裕などない。綾が部屋に入ると、姉は少し奥に下がって場所を作ってくれた。バルコニーとリビングを粉砕したミサイル爆発跡から冷気が流れ込んでくる。昔は父さんと母さんの寝室だったこの和室が今一番寒さから逃れられる場所だった。昔は、といってもたった2ヶ月しか経っていないことに気付くと綾は思わず姉のすぐ横にしゃがんで身をすり寄せた。それに呼応して牧も腕を体にそっとまわしてくれる。もう今はこのぬくもりしかない。それは姉さんも同じ気持ちに違いないと思う。
「しいさん、それでも来てくれたね」
囁くように綾がつぶやくと、かすかに姉の髪が揺れた。姉はいまどんな気持ちでいるのか。それを知ることができればいいのに。
自分たちが南方三世だと姉の口から聞いたのは先週、しいさんの家の二階でいつものように布団に入った直後のことだった。その事実自体は自分でも意外なほど冷静に受け入れられた。なんであれ自分は自分だし、家族は家族で、そのことに違いが生まれたわけではない。しかし、現実問題としてはそれが大きな障害になることを二人とも理解していた。電気を消した真っ暗な部屋の中でも、姉の心労が伝わってくるようだった。
「それで、お姉ちゃんはどうするつもりなの?」
下でしいさんがお風呂に入る音がしている。
「綾はどうしたい?」
「綾は、お姉ちゃんについていくよ。姉妹だもんね」
たぶん、姉が一番望んでいる答がこれだという確信が私にはあった。そして、それは私自身が一番伝えたい言葉でもあった。
そして私たちは次の日にしいさんの家を出た。
「お休み、お姉ちゃん、お休みなさい」
「お休み。寒くならないといいね」
冷え込みがきついので、二人で一つの布団に入って寝る。その温かさだけが、心を和ませてくれた。非常灯の明かりが仄かに天井を照らしている。綾はいつしか、何もかも忘れて眠りについた。
しいさんの無二の親友の宏野さんが来てくれたのは次の日の晩だった。夜とはいってもまだ早い時間だったので、電気はついていてそう暗い雰囲気ではないのが嬉しかった。あまり彼にみっともないところを見られたくない。私と姉が一緒に帰ってきてみると、彼が建物の前で立っていた。聞けば、しいさんから私達の居場所を聞いてきたという。とりあえず、私達は彼を家の中に通した。なんといっても、しいさんとの間を、特に姉との間をとりなせるのは宏野さんだけ。
しかし、家に上がった宏野さんは妙に当たり障りのない話題を選んでしゃべっている感じだった。こちらからも何があったか切り出しにくい。しかたないので、私は姉の気持ちを損ねるのを承知で、しいさんの様子を聞いた。
「ねえ、しいさんと会ったんでしょう?どう、原島先生の追求がかわせそうかどうかとか、話してなかった?」
姉が身を固くするのを感じたが、不思議なことに、宏野さんまでそうなったのだ。気まずいことを聞いた気がして、とにかく話を先に進めることにした。
「そうそう、昨日、しいさんが来たときに、この書類を置いていったの。今朝ちょっとだけ見たんだけど、どういうものか見てくれる?」
もちろん、書類には私達がクォーターであることを示す記述がないことは確認している。でも、何のための、どういう効力をもつ書類かはよく分からなかった。宏野さんも、この話には興味を引かれたと見え、書類を手にとると、ざっと眺めはじめた。
眺めはじめて、顔色が変わっていくのが分かった。それを見て初めて私は怖くなった。いつも元気印で通っている彼の表情が青ざめていく。姉も様子に気付いて、じっとその独特の目で宏野さんの一挙一動を見守っている。
彼は書類を読み終えると、深くため息をついた。しばらくは何もしゃべらなかった。
「これは、君達を上尾の特定後見人に指定する書類だ」
「うん、それは判るんだけど、それはどういうことを意味するの」
先を聞くのが怖いけれど、そうもいかない。
「特定後見人は市民権を保全される。たとえ、後見人が現在市民権を持っていなくても」
「それで私達が寄宿舎に行かなくて済むようにしてくれたんだってとこまでは判るんだけど」
姉も我慢できずにしゃべりだした。私もこうなったら尋ねるしかない。
「それに署名すれば市民権を確保できるのね。でも、こういう方法もあると判っていたら何で今までこの方法をしいさんは使わなかったの?」
「特定後見人は志願兵を確保するために作られた法律で保護されているんだ」
私達はたぶん、よほど大きく目を見開いていたに違いない。彼は、しぶしぶうなずいた。
「そう、上尾はTTIに志願した。そうだったんだ。なあ、いったい何があったんだ?昨日の晩遅くに俺のところにやってきて、二人に謝っておいてくれっていうだけで、あいつ、去っていった。最後に、『悪いな、さよなら』って言って」
宏野の困惑した表情に、綾は視線を合わせられなかった。
「なんでこんなことを‥‥」
「昨日はすごくあっさり帰っていったのよ。ねえ、しいさん今日はなんて言っていたの、宏野さん」
宏野さんは黙りこくっていた。手を握ったり開いたりしているだけでじっとしている。
「今日は会ってない。もう会えないないだろう。手後れだ」
それは初めて聞く宏野さんの苦渋に満ちた声だった。凍り付いたように動けない私達に、彼は言葉を継いだ。
「あいつ、一昨日からあちこち回っていたみたいで、あまり学校に来てなかったんだ。今日は全く学校に来なかった。協力隊の仕事かと思ったけどあいつは謹慎中のはずだし、中山先生も知らないって言ってた。おれも昨日のことで言ってやりたいことがあったから、学校が終わってから家にいったんだ。真っ暗で誰もいなかった。。それでもしやと思ってこっちにきたんだ、君たちが元の家に戻っているとは聞いていたから。でも、もう分かった」
「何がわかったっていうのよ、それだけで」
宏野さんの暗い声が続く。
「書類にところどころもう書き込んである場所があるだろ。特定後見人届け出書に、効力発行日が書いてある。今日だ。つまり、あいつ、今日入隊しに行くつもりでこれを用意したんだ。俺まで出し抜いて。あのばかやろう。GOTSに復讐はしないって言っていたのに。戦争だってないほうがいいっていっていたのに」
昨日のしいさんの様子はどうも変だった。気が付いて当然だったんだ。
「でも、昨日のしいさんはそんな感じじゃなかったよ。戦争に行くとかっていうよりただ書類渡しにきただけで淡々としてた」
「俺にだって考えにくいさ、あいつのことよく知っているし。でも、GOTSをやっつけにいくとかいう理由でもなくちゃ、ただ死ににいくようなものだぜ。そんな馬鹿なことはない以上、何かで心変わりがあってGOTSと戦いたい理由が出来たんだろうな。別にもうちょっとすれば君らの市民権は取れていたのだろうから、こっちの書類はそのついでのおまけだろう。だから君らに渡していったんだ」
そう言いながらも宏野さんは首を横に振っている。
「あいつが、こんな心変わりする奴とはな。信じられない」
そう、しいさんは戦争しに行くような人でもなければ、心変わりするような人でもない。今となってはしいさんの考えがはっきりしていた。市民権がついでの用事ではなく、市民権こそが目的なんだ。南方三世でも確実に手に入れられる方法を実現するため、しいさんはTTI入隊を決意したに違いない。
そんなことして市民権取得できても、私たちうれしくなんかないし、余計にしいさんを許せないのに。そこまで考えて綾はハッとした。もうどの道許されないと覚悟したからこそ、母さんとの約束だけでも実行したのではなかろうか。あの暗い廊下で、しいさんはそう言っていた。許してもらおうとは考えていない、とも、私たちのお母さんとの約束は守る、とも。親友の宏野さんも出し抜いて、私たちとも別れて。そこまでして約束を守ることは普通はないけれど、心の声は頭の中で反響を繰り返していた。しいさんならする。そして入隊してもその信念が変わらないなら、しいさんはTTIで戦おうとしないかもしれないし、弾を撃とうとしないかもしれない。撃てない兵士など、戦争では木偶人形も同然だし、そんな兵士が生き延びられるとも思えなかった。
「お姉ちゃん」
自分の思い付きが怖くて、手が震えてくる。横に座っていた姉が私の手をとってその上に手を重ねてくれた。その手から微かな震えが伝わってきていた。
「ありがとう、宏野くん。私たちにも事情はよくわからないけれど、こうなったらしいさんに直接聞いてみるわ」
「聞いてみるって、どうやって」
「しいさんが入隊してしまったとはまだ決まっていないわ。家に行って聞いてみる」
「あ、ああ」
手の震えとは裏腹に、姉の態度も声の調子も全く見事なものだった。
「さあ、用意して、いくわよ、綾。ほんとうに宏野くん、いろいろ教えてくれてありがとうね」
「いや、でも」
「とにかく家へ行ってみるわ。それがまず何よりも確実だから。もしかしたらしいさん、ふらふら出かけているだけで、じきに帰ってくるかもしれないから」
そういうと、牧はすっくと立ち上がって、向こうの部屋に消えた。残った綾に、宏野が心配そうに尋ねる。
「でも、あいつの家、鍵かかっているんじゃないか」
その質問に、彼女は淋しそうに笑って答えた。
「そんな心配はいらないわ。鍵を隠すための場所を庭の一個所に作っていたの。昨日のしいさんの口ぶりからなら、あそこに隠したままにしているはず」
「その昨日の晩に、あいつと何があったんだい。ねえ、教えてもらえないかな」
まだ自分が南方クォーターであることを言う気にはなれなかった。なんといっても、自分ですらまだ実感がない。マフラーの端をいじりながら彼の視線を避けてはいたものの、彼の困惑の表情は感じられた。
「そのうち、話すから。今はごめんなさい」
小さく丸まってうつむく彼女の様子に、宏野もそれ以上は問い掛けられなかった。じっと綾を見つめていた彼は、ゆっくり彼女にうなづくと、上尾の書類に目を滑らせはじめた。彼女と視線を合わさないようにしながら。気まずい空気でいるときに、姉の声がした。
「綾も用意するの、はやくしなさい」
部屋向こうからの姉の声を幸いに、彼女は立ち上がってちょっと彼に挨拶して部屋を出ていった。残された宏野は長嘆息すると、他の情報を引き出そうと書類上の上尾の几帳面な字体を追いかける作業を続けた。
初冬の夜は冷え込みがはやく、二人の足元をかすめるように寒風が吹きぬけていく。二日ぶりの上尾家を門前から眺めると寒々と感じられた。曇っているためか、空は星一つ見えない闇夜である。この陰鬱な雰囲気を肌で感じて、そこの角まで送ってくれた宏野を帰してしまったことを綾は少し後悔していた。道すがらずっと黙っていた牧も暗鬱たる眺めには堪えたとみえ、綾のすぐ近くに立ち止まった。
「まあ、帰っているとは思わなかったけど」
淡々とした口調で誰に話すともなく牧はそうつぶやくと、門を開けて真っ暗な庭に臆せず進んでいく。
庭の奥の花壇は、ただでさえ冬場ですべて枯れて哀れな姿をさらしているうえに、姉妹にとって目にみえるぎりぎりの明るさで、まるで骨がこちらを捕まえようと手を伸ばしているように見える。しかし、牧はそれを気にしていないかのような足取りでその枯れ草のなかに分け入ると、一つの鉢植えをそっと持ち上げた。同時にがさがさという音がして、下からビニールの包みが現れた。
「やっぱりあった」
そっとビニールを持ち上げると、すぐ後ろについてきていた綾にそっと手渡す。彼女がビニール袋を振ると、鍵と一緒に見覚えのないキーホルダーが出てきた。いったん門のほうまで戻って遠くの街灯に照らしてみてはじめて、そこに何か文字が書いてあることに綾は気づいた。
「お姉ちゃん、何か書いてあるよ。しいさんが書いたのかな」
「さあね。読める?」
「全然。とにかく、電気をつけないと」
「そう」
姉が一瞬ためらうのを綾は見てとったが、何もいわずにキーホルダーを渡した。二人はそろって玄関に向かって歩き出した。何回も何回も歩いた道なのに、まるで初めて来たときのように心臓が高鳴っていく。もしかしたら電気を消して寝ているだけかもしれない。可能性は低いけど、ありえないわけではない。牧は半ば手探りで鍵穴を探すと、二重鍵をひとつずつ解錠していく。ゴトッという音がして両方鍵が外れたのを確認すると、一拍おいて玄関の扉をすうっと開いた。初めてきたときには、しいさんが開けてくれたドアと同じドアだ。あれからわずか二ヶ月、生活は変わった。人生も変わっていく。そう思っていると、姉さんが電気をつけてくれたので、キーホルダーが見えるようになった。
「どうしたの、綾」
「そのキーホルダーに書いてある文字」
「え?」
「さよなら、て」
下駄箱の上のキーホルダーには、新品の木製の札がついている。どんな気持ちでしいさんはこれをつけたのだろう。綾は姉をみた。姉さんはその深い眼差しでキーホルダーを見つめていた。
それから二人は玄関を上がった。いつものように、靴を揃え、鍵を閉め、帰ってきたことを示すチャイムを鳴らして。しかし、部屋のどこからも何の物音もしなかった。そのことを覚悟していたのか、上尾の不在を知らせる静寂に対しても牧は何も言わず、部屋を順に回りはじめた。
「綾は二階を見てくる」
「そう、じゃあお願い」
各部屋は整然と片づけられ、上尾が家を出るときに後始末をしていった様子が痛いほど感じられた。台所の流しもきれいにしてある。居間も本などがちゃんと棚に並べ直されていた。洗濯機にも何も入っていない。次に和室に向かいかけて、ふと綾は洗面台に違和感を感じた。歯ブラシ立てに、二本しか歯ブラシがない。白いのは姉さんが使っているもので、赤いのは私のだ。しかし、しいさんの使っていた青い歯ブラシが消えていた。嫌な予感がして、棚の引き戸を開いてみると、その予感が的中していた。ブラシも、髭剃りもない。しいさんが生活していた証が消えている。その空いた棚を見つめていると、上から姉さんが呼ぶ声がした。不自然に平板なその声が反って綾の心に漣をたたせる。
「綾、こっちに来て」
彼女はそっと洗面所をでると、二階に向かった。その手は固く握り締められていた。二階でドアのあいているのは敏明さんの部屋だった。
「どうしたの」
私が入ると、姉さんは持っていた便箋を手渡した。表情が固い。
「仏壇の前に置いてあったの。やっぱり宏野さんの言ったことは当たっているみたい」
便箋はしいさんらしいそっけないほど簡素なもので、その上に短い文章で、もし家を売るならこの仏壇のなかのものは親戚筋のどこそこに送ってほしい、とだけ事務的に書いてあった。しかし、その一行目からしいさんの冷えた心が伝わってきた。出だしが、北代牧様、綾様とあったのだ。二人がこの家に来たときから一度として「様」付けで呼ばれたことはなかったのに。
二人とも黙ったままじっとしていたが、ゆっくりした動作で牧が仏壇に近付き、その前で正座した。それを見て綾もその横に正座する。北代の両親の位牌はマンションに置いてきてあるので、いまここには上尾の両親と彼の兄の位牌だけが並んでいる。じっと頭を垂れて両手を合わせていた牧は、位牌の並ぶ段の隅に見慣れない白い紙片が落ちているのに気が付いた。そっと手を伸ばしてみると、懐紙が折られたものだ。後ろをみると、慎一、と筆で記名されている。綾も覗き込んできている。重さからいって何も入ってないような軽さだ。不思議に思って、彼女は折り目からその懐紙をゆっくり広げた。
姉さんが仏壇の隅から妙な白い紙を拾い上げたのをみて、私も興味をおぼえて姉さんのすぐ横まで近付いてみた。裏にはしいさんにしては達筆な字で慎一と書いてある。苦労して書いたんだろうな、と思ったら、しいさんが悪戦苦闘して書いている図を想像してしまった。姉さんは重さを測るようにちょっと手の上で軽く振ってから、膝の上でそっとそれを広げだした。その白い紙は内側は真っ白だった。何かの包み紙だったのかな、と思いかけたとき、折り目の底に黒いものが見えた。なに、やだ、髪の毛なんか落ちてる。しかし、それは私の勘違いだった。さらに広げると、髪の毛が揃えて白い紐で束ねてあったのだ。髪の毛は落ちてたんじゃない。これは、まさかの時のものなんだ。遺髪。姉さんの手が微かに震えだしている。
「お、お姉ちゃん‥‥」
「大丈夫、このままにしておいて、大丈夫だから」
姉さんに伸ばしかけた手を、その言葉で降ろす。姉さんは震える手を抑えるために、膝頭を掴んでじっとしている。胸も震えている。もう少ししいさんの気持ちを考えればよかった。骨で帰ってくることすらないものと覚悟してこの家を出ていったんだ。姉さんは歯を食いしばって自分を抑えている。いつのまにこんなに気持ちが行き違うようになってしまったんだろう。
それから何分経ったかわからなかったけれど、不意に姉さんはくすっと笑って私のほうを振り向いた。
「まったく、しいさんってときどき悪趣味よね。信じられないぐらい」
それはまったくいつも通りの姉さんの表情だった。涙の痕など一筋もない。しかし私には言葉が返せなかった。はっとするほど姉さんの顔色が蒼白だったのだ。姉さんはまた懐紙をもとのように畳むと、今度はそれを仏壇の引き出しにぽいっと放り込んだ。姉さんが首を振ると、髪の毛がさらりと流れる。
「髪の毛なら、私のほうがずっと綺麗よね」
その言葉の意味を私は測りかねた。
考えてみれば、今日は朝からついていない一日だ。朝っぱらから女房は子供のおねしょに癇癪を破裂させて、なだめに入った私まで布団たたきで追い回されて朝飯を食べ損なった。そのために電車に遅れそうになったので走ったら歩道の段差で足をひっかけてしこたまお尻を打ってしまい、結局そのおかげで電車に乗り遅れた。しょうがないので次の電車が来るまでの間に牛乳を買おうと小銭を出したら、それが手からするりと落ちてホーム上に散らばって転がりだし、がんばって集めようとしたけれども、大半が線路に落ちてパーになってしまった。今日唯一の救いといえば、お金がなくなったので禁煙せざるを得なくなったことぐらいだろう。そして、職場では始業すぐに上司に呼ばれて、相談課の窓口担当者が事故で来られなくなったので、今日一日窓口に出るように命じられた。人間の醜い部分が如実に表れる相談窓口の担当なんて、まったく、ついていない。そして、目下の難題はこの目の前で頑張っている少女だ。
「ですから、上尾一さんが昨日入隊されたのは事実です。入隊されてから一週間は居場所を教えるわけには参りません。一週間後になりましたら、配属先通知が自宅の方に郵送されますからそれで面会できるようになります」
「少しだけでもいいのです、連絡できませんか」
まったく、人のいうことをちっとも聞いていない。これだから最近の若者はなっていないんだ。こんな奴の知り合いが戦争にいっているのだから、TTIの不利というのも当然だろう。それとも、こんな強情な女こそを戦場に送るべきかもしれない。
「できません。もうお引き取りください。向こうからは手紙はいつでも書けるはずですから、一週間経つまではそれを頼りにしてください」
「一分でもいいのです、話をさせて下さい」
「一分でもだめです」
こういう手合いにはこちらが下手に出てはいけない。それだけは長い窓口業務経験で知っていた。この最後のきつい口調が効いたのか、相手はキッとこちらを睨むと唇を噛んで、
「わかりました」
とだけ言い捨てるとくるっときびすを返して立ち去っていった。まったく、小憎らしい。しかし、彼は次に並んでいた六十代の女の人の機関銃のような苦情に圧倒されて、そんな少女のことなどあっというまに頭から消してしまった。その小さな後ろ姿を見送る余裕すらなかった。
綾にとってこの一週間は長く思えた。上尾がTTIに入隊していたのが確実になって、こちらから打つ手がなくなったので、あるかも知れない彼からの手紙を待つしかなかったのだ。初日は落ち着かなかった。彼と同じ家に住んで数ヶ月しか経っていなかったのに、もうそこにしいさんがいるのが当然のように感じていたから、あちこちで思わず彼に声をかけそうになる。重たいものを運ぼうとしたときや、どこに物がおいてあるのか知りたいときに相手がいない。そうなって初めて、綾は自分たちが孤独になっていることを自覚しはじめた。お父さんとお母さんが亡くなって悲しかったけれど、環境の変化としいさんとのごたごたでその意味を考えている余裕がなかったんだ。でも、こうして姉さんと二人だけで家にじっとしていると、どうしてもだんだんその重みが心にのしかかってくる。学校に行っているあいだは気が紛れるけれど、夜が来ると心細くなる。やりきれなくなる。
そんな中で、姉さんは立派だった。普段と変わらない生活をし、学校でも周囲になにも気づかせずに暮らしている。家でも頼りになって、悔しいけれど私は自分が姉さんに甘えっぱなしでいることを認めなくちゃいけない。今まで考えたこともなかったけれど、お母さんの雰囲気が姉さんに混じってきている気がする。一度そのことを話すと、姉さんは笑ってそれは私が歳をとってきたということを言いたいの、と返してきた。別にそういうつもりでいったのではないけれど、後になって考えてみればその通りかもしれない。辛い経験は人を成長させるのかも。でも、そんな経験、私たちは欲しくない。
校門を出たところで二人は待ち合わせをしていた。秋風がもう冷たく、綾の足元を巻いていく。そろそろマフラーがいるかも、と考えているとき、校舎から姉が出てきた。
「待たせてごめんね。さ、帰ろうか」
「うん」
肩を並べて二人で帰るのはいつ以来のことか、牧にも綾にも思い出せなかった。今日は配属先通知が届く日。結局、彼からの手紙は一度も来なかった。
封筒は立派なものだったが飾り気の全くないもので、表書きには肩に「重要」と朱書され、宛名は上尾慎一御家族様となっていた。姉が丁寧な手つきで封を切る様子を眺めながら、自分たちはしいさんの家族なのだろうかと綾は自問する。中には簡単な配属通知とTTI隊員の家族関連規則についてのパンフレットが入っていた。肝心の配属先は、中国方面隊第二歩兵師団となっている。しかし、場所が分からない。パンフレットをひっくり返すと、ようやく住所一覧が出てきてそれがある場所が分かった。
「‥‥遠い‥‥」
絶句する牧の横で、綾が袖を引っ張った。
「でも、まだ一ヶ月は訓練期間のはず。そう聞いたの。だから、ほら、訓練基地は三田よ、まだ近いじゃない」
果たして牧が妹の指差す文面を読むと、その通りであった。しかし、面会は休みの日しか認められていず、その休みは一ヶ月に二日しかない。なんと、そのうちの一日は今日だった。それを見た瞬間、牧は立ち上がった。
「行くの、お姉ちゃん」
もう階段を駆け上がり出した姉の背中に尋ねる。返事はなかったが、答えは聞くまでもない。ちょっと三田まで行くのは怖かったが、姉を一人で行かせるわけにもいかない。そう決心して立ち上がったとき、電話が鳴った。オンフックで受けたが、もしかしたらとの思いは電話口の声で裏切られた。スピーカーからの声は年配の女の人だった。宏野さんのお母さんだ。
「もしもし、上尾さんのお宅でしょうか」
慌てて受話器をとる。
「はい、そうです」
「ああ良かった。早く来てちょうだい、明正にそう言われたの。今、公衆電話なんだけど、上尾君が家に来てるのよ」
「えっ」
「私が買い物から戻ろうとしたら、上尾君が家に入っていくのが見えたの。それで、そっと窓から覗いたら、明正がこっそり私に電話のジェスチャーをしたのよ。ピンときたわ。早く来て、上尾君のことだからすぐ帰っちゃうかもしれないし、私が引き止めても、勘のいい子だから却ってすぐ見抜かれちゃうわ。今なら大丈夫だろうから」
「はい、すぐ行きます」
「早くね、じゃあ切るわ」
「はい」
電話を置くと同時に、私は転がるようにして廊下に出ると大声で叫びながら二階の部屋に飛び込んだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
制服を脱いでいた牧はいきなり入ってきた綾に当惑して、ブラウスを脱ぐ手をとめ、妹の慌てた様子に目をやった。
「いったいどうしたの」
「しいさんが宏野さんの家に今、来てるんだって、おばさんから電話があったの。早く来てって」
目にみえた変化はなかったが、綾は姉の顔に朱が微かにさしたのに気が付いていた。
「早く着替えないと置いていくわよ」
「あん、待ってて、すぐ着替えるから」
牧はすでにジーンズにトレーナーという地味な格好を用意していたが、ちょっと思案して赤と灰色の幾何模様をしたセーターに替えた。
「それって女心?」
「うるさいわね」
そういう姉さんの言葉に険はなかった。私たちは自転車を出すと、薄暮の中、まっしぐらに宏野さんの家を目指した。
上尾は宏野明正の部屋にあがったものの、あまり口を開かなかった。もともと能弁なほうではないので、宏野も急いで話を切り出したりせず、紅茶を黙って勧めた。こうしてやってきたからには何か話をするつもりで来ていると感じて、彼は慎一の言葉を待つことにした。それに正直なところ、相談もなくTTIに入隊した親友に対して幾分気分を害していた。もともと厭戦派だったこいつがTTIに入ったからにはそれなりの理由があるに違いない。それだけは問いただしてやるつもりでいた。
それにしても、ごついTTIの制服を纏った親友の姿は異様としか見えなかった。玄関で見たときは別人にさえ見えたほどだった。上尾は黙って紅茶を受け取ると、相も変わらずの猫舌ぶりで散々さました後、ようやく口をつけて飲みだした。一息つくと、ティーカップを置く。
「黙って行って悪かった」
彼の目は紅茶の中に注がれたまま動かない。
「もう知ってると思うけれど、俺はTTIに志願した。もう一応志願できる年齢だしな」
明正は何も言わない。まるで心の中まで見通そうとするかのように、ただじっと親友の顔を見詰めている。
「お前の気持ちはわかる」
また一口、ぬるい紅茶を啜る。
「ただ、行く前に話をすると決心が鈍りそうだったんだ。俺のことを嫌いになったかな」
上尾が見上げると、宏野と視線が合った。端正な宏野の顔には憤怒の情は浮かんでいないが、さりとて許してくれている様子でもない。彼はまだ一口も紅茶に口をつけていなかった。上尾は視線を逸らすと、また一口おいしそうに飲んだ。
「今でも、これからも、俺にとってはお前は親友なんだ。もう、会うこともないかもしれないけれど。それで、最後にお願いがある、聞いてくれるかい」
宏野は自分の不安が的中していることを知った。上尾は相手からの返事が返ってこないのをみても表情を変えずに言葉を続ける。
「どうせ一人身だし、あの家は北代に渡すことにした。だから、これからはあの家と彼女らの面倒をみてやってほしい」
「なぜ志願した」
その語調は剣の厳しさである。宏野の声音の使い分けのうまさは玄人はだしで、高校の弁論大会で優勝したこともあるほどだ。しかし、親友には効かなかった。
「別に。ただ、俺はやっぱり家族の敵討ちに行こうと決めたんだ」
「うそだ」
「うそじゃないさ。バン、バーン、て敵をやっつけにいくんだぜ、バーンって」
「上尾!」
思わず立ち上がる宏野の前で、上尾は座ったまま親友から顔を背け中空を見つめている。
「邪魔したな。俺、もう行くから」
「おい、ちょっと待てよ」
「そろそろ帰らないと、入営門限ぎりぎりなんだ」
「本当のこと言えよ、親友だろ」
その言葉で部屋を出ようとしていた上尾は振り返った。いつもの表情だった。
「ありがとう、マサ。やっぱり俺、父さん、母さん、兄さんと暮らしていたかった。もうそれは叶わない夢だし、あいつらまで傷つけたし。ちょうど良かったんだろうな」
「おい、待てよ、何も良くないぞ」
上尾はもう厚い革靴を履きはじめている。
「待てよ。あいつらももう来るし、少しだけでも会っていけよ」
あいつらと言うだけで二人の間は通じた。
「そっか、マサは二人と仲良さそうだな。安心した」
「違う、別にお前抜きで会ってたわけじゃない、お前が家に来たから連絡を母さんに頼んだんだ」
「どうでもいいさ。彼女らとは顔あわせたくないし、もう行くよ」
「上尾!」
腕を掴む宏野の手を、上尾は丁寧に外す。
「ごめんな、こんな軍服姿はお前にだって見せたくなかったんだけど、あいつらにはもっと見せたくないんだ」
その口調に宏野はハッとした。
「面倒押し付けて悪い。ほんとに後のことは頼んだよ、マサ。それじゃあ」
「おい、待て、待てってば」
玄関をでていく上尾の後を追おうと慌てて靴を履いて外に出ると、もう上尾はバス停に立っていた。
「ほんとに行くのか」
「おいおい、マサ、もう今からでも門限いっぱいなんだ。ほら、ぴったりバスも来たし、行かなくちゃ」
「でも」
そう言っている間にもバスがやってきて、もう減速を始めていた。彼は帰りのバスの時刻も調べていたらしい。上尾が一歩車道に寄ったとき、宏野は彼方の自転車に気付いた。猛烈な勢いで近づいてくる。
「ほら、あれ、北代が来た」
宏野が肩を叩いて上尾に教えても、彼は振り返らなかった。
「彼女らによろしく。じゃあな」
「おい、待てよ、ほんとうに行くのか、上尾」
「うん、悪い。マサ、ありがとう。さようなら」
その言葉に振り返ると、バスに乗った親友と目が合った。その目に初めて苦悩の色が浮かんでいた。
「しいさん!」
遠くのほうから声がする。その声に振り向いた上尾は、彼方に赤色と灰色が入り混じった人影に目が吸い寄せられた。一瞬だけ体が硬直する。が、また目を落とし、バスのブザーが鳴ってドアが閉まる。
「しいさん!しいさん!」
声があいつに聞こえていないはずがないと宏野には分かっていたが、上尾はもう後ろを振り返ろうとしない。バスが出るのと入れ違いに、牧が息を切らせてやってきた。
「宏野くん、いまのしいさんなの?」
黙ってうなずく。綾さんも来ていた。その間にもバスはだんだんスピードを上げていく。彼女はそれだけ聞くと、なんとバスを追いかけて自転車を漕ぎ出した。
「無理よ、お姉ちゃん!」
「北代!」
百メートルほどまで加速した牧だったが、その先でバスは信号を越えてどんどん行ってしまっていた。だんだんと牧の自転車はスピードを落とし、道端にとうとう止まったが、そのまま長い間動かなかった。ハンドルを掴んだまま頭を垂れた姿勢で、ずっと動かなかった。それを追うでもなくその場で見守る妹の様子をみて、宏野も何も言わずにじっと待った。しばらくして、ようやく自転車はゆっくり向きを変え、一転して歩くようなゆっくりした速さで戻ってきた。その彼女をみて、彼はドキッとした。蝋のように白く、表情も仮面のよう。
「‥‥ありがとう、宏野くん、連絡してくれて」
「いや、引き止められなくて済まなかった。今からでもあいつの門限はぎりぎりだって言ってた」
「うううん、いいの。どうせ会ってくれなかっただろうから」
その血の気のない肌や表情のない仮面とアンバランスなほど、その声は落ち着いている。
「ただ、」
「ただ?」
「しいさんに、この服を見てほしかった」
「服?」
「大丈夫、それぐらい見てたわよ」
「ああ、バスに乗るときにそっち見たから、見えてたさ」
そう言ってあげなければならない気がしてならなかった。
「そう、そうかな。そうだったら‥いい‥‥」
それからは北代の声は言葉にならなかった。
「ごめん、宏野さん、今日はまず帰ります。しいさんの家のほうにいるし、明日でも来てくれます?」
とってつけたような妹の言葉に、宏野も気の抜けた返事で応える。
「ああ、明日ね。いいよ」
「じゃあ、明日。さあ、お姉ちゃん、帰ろう。もう今日は十分よ、まだチャンスはあるから」
「う‥ん」
「じゃあね、宏野さん」
「ああ、気をつけてね」
見送りながら、北代の放心の様子が気になって、宏野はいつまでも姉妹の自転車を見送り続けた。日はもう暮れかかっていて、ところどころにポツンポツンと街の灯かりが灯り始めていた。
そして、二人にチャンスは来なかった。
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1998/09/20