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遠い現実

赤と灰色の幾何模様のセーターが牧のお気に入りだった。

彼女の高校の合格発表があったときに、家族でお祝いに出かけた。そのときの通りすがりのお店にこのセーターが飾られてあった。予約してあったレストランに行く前だったので、時間があまりなかったのに彼女は一目で気に入ってしまって、だだをこねてお父さんにおねだりして買ってもらったのだ。進学祝いは四月になるまでプレゼントしないと両親は釘をさしていたのだが、セーターに袖を通して鏡を覗く娘の姿に父親があっさり負けてしまったのだ。そんなに高価な品ではなかったが、綾がえこひいきされたと感じたのかふくれっ面になったので、父親は今度はもう一人の娘をなだめるのに一苦労するはめにもなった。実際、二年後の綾の高校合格のお祝いのときは、わがままを言う妹のために、もっと高いブレザーが彼女のものになった。そういえば、あのときは私がふてくされるべきだったかな、と牧はセーターをダンボール箱から出しながら思い出に浸っていた。しかし、綾が同じ高校に進学してくれたのが嬉しくって、そんなことは気にならなかったな。今から思えば、あの頃が一番幸せだったのかもしれない。

とはいえ、今の生活が辛いというわけではない。むしろ逆で、今は今で、現在の生活が出来る事を感謝している。

上尾は五日の間、昼夜連続勤務に就いて、体の芯まで疲労していた。破壊された幹線道路の復旧工事に徴発されていたので、体中埃まみれになり喉の埃っぽさが取れない。家が見えるところまで帰ってきたとき、ようやくほっとした気がした。

戻ってきた上尾は泥まみれで、疲れているのが一目見てとれた。髪の毛はぼさぼさで、よれよれになっているのが手に取るようにわかる。
「おかえり。すごい格好ね」
玄関で誰とも顔を合わせることを予想していなかった上尾は、言葉を返したくても思い付けずに黙って靴紐を解いていく。牧は、上尾の姿をみてすぐ風呂に入るように勧めた。
「え、もう風呂沸かしてあるの。時間が早いのに」
「さあ、着替えもあるし、早く入りなさい」
「でも、砂まみれだから、今入ったら牧や綾が困るだろう、後でいいよ」
「しいさん。いいの、今日はしいさんが一番に入ればいいの」
そういうと、背後から追い立てるようにして彼を急き立てて風呂場へ連れて行く。
「いい?ちゃんと体中の汚れを落としてよ、臭うんだから」
「わかったよ」
そう言って風呂場のドアを閉めかけた上尾だが、少しだけドアを開けた。
「なに?」
「あ、いや、なんでもない」
その言葉を言う彼の表情を見るよりもはやく、ドアは閉められてしまった。それでよかったのかもしれない。牧は自分が紅潮しているのに気づいていなかった。暑く感じるのを着ているトレーナーのせいにしていた。

洗っても洗っても、体中から砂が湧いてくるほど埃にまみれていた上尾だったが、それでもようやくひと区切りがついて湯船に浸かり、大きく息をついた。久しぶりに戻って来た家に人がいる。それに、玄関を開けたときに見た北代の表情が彼に焼き付いていた。いつものトレーナー姿の彼女だったのに、別人のように妙に新鮮に思えたのだ。とにかく、体の奥から暖まってくると、ようやく彼は筋肉の一つ一つをほぐしはじめた。

ふだんの上尾の態度は、自分の家にいるとは思えないぐらい控えめなものだった。姉妹が転居してきた当初、彼も姉妹も距離の置き方が分からなかったために近寄りすぎて問題が起き、その後の関係は非常に気まずいものだった。
それから二週間。今でも関係は決して良好とはいえなかったが、もう問題が起きることはないだろうということは綾ですら認めざるを得ない。あの決定的な土曜日の騒動以来、彼は一度として姉妹の使っている部屋に入ろうとはしなくなった。口数も少なくなり、はじめの数日に比べてしいさんはずっと静かで、ようやく綾は姉がしいさんは学校ではとっつきにくい人なの、と話してくれてたことを信用する気になった。居間に入るときでも、彼は姉妹と座卓の同じ縁に座らず、必ず机向こうのはすかいに腰を降ろす。もっと顕著なのが入浴で、姉妹がお風呂を使いはじめる時間になると、彼はすっと自室に戻って、二人がお風呂から上がったことを彼に伝えに行くまで、彼が自室から出てきた試しがなかった。食事すらはじめのうちは一緒に食べようとせず、何かと言い訳をしては二人の食事の後でやってきて一人で食卓につくことが多かった。
話しかければすぐに答えているし、笑い話さえ口にしたりする。しかし、それだけで、立ち入ったことや二人や自分のことになるとするりとその話題を避けるのが常だった。だから、会話はいつも長続きしなかった。

上尾が風呂から上がる音がしたので、牧は居間の入り口を開け放して廊下が見えるようにした。台所にはもう夕食の用意が出来ている。鳥肉のソテーと野菜のあえものは母の自慢料理で、わざわざ時間をとって母さんからスパイスの使い方を教わったものだ。教わらなかった多くの物事が彼女の胸中を去来する。その思いは脱衣室のドアの開く音で断ち切られた。
「しいさん」
まっすぐに廊下を通りぬけて二階にあがろうとした上尾の足が止まる。少しくたびれたシャツがこちらに振り返った。
「夕ごはん、作ってあるの。食べよう」
彼の表情に動きはない。
「ああ、ありがとう。食べるよ。少し待ってて、装備を置いてくるから」
一拍の間をおいてから言葉が出て来る。温かさがないこともないが、その温もりは無理に作り出されたものかも、と牧は視線を落としてぼんやり考えていた。

部屋に戻った上尾は装備を棚に片付けたあとも、ドアに頭を押しつけたまま、しばらく部屋から出て行こうとはしなかった。

間の悪いことは続くもので、彼は部屋を出たところで階段を上がってきた牧と鉢合わせた。
「あ、先に降りていて。綾を呼びにきたの。綾、夕ごはんにするから、出てきなさい」
上尾は静かに階段を降りていく。くるりと振り返った牧は、その後ろ姿に尋ねていた。いったい、しいさんは私達のことをどう思っているの。私たちではしいさんの家族の代わりになれない。その逆もそう。最初の数日で私達はお互いにはっきりそのことを思い知った。でも、当てが外れたからといって他人行儀になるのはやめて欲しい。経過はどうあれ、一つ屋根の下で生活しているのだから。
「どうしたの、お姉ちゃん」
気が付くと妹が出てきていた。
「ううん、なんでもない。さあ、食べよう」
「ごめんね、食事の用意任せてしまって」
「いいの、それより試験頑張って」
妹の精神不安定な様子がなくなったのが、牧の救いの一つだった。神経過敏に陥っていた間は、つきっきりでいてあげなくてはならなくて、それがしいさんとの意志疎通がおろそかになった一つの理由でもあった。

牧がせっせと作った料理は幸いなことに好評を博した。食べ物には淡白な上尾もこの料理は気に入ったとみえ、ソテーを平らげたあとのスパイスの残滓をさらにキャベツで拭き取るようにして掬い上げて食べていた。お茶もゆっくり三人で飲んだが、概して食卓は静かだった。
しばらくして綾が勉強のために二階に戻っていったが、上尾はまだ牧と共に食卓に残っていた。牧が熱いお茶を最後に注いでくれたので、猫舌の彼は飲めずに内心困っていたのである。牧が黙って立ち上がって後片付けを始 めても、まだ彼はようやく口をつけだしたところだった。二人の間に会話はなかった。

次の日も、その次の日も上尾は直接食事に呼び出され、最後に熱いお茶を注がれた。三日目に、綾が部屋に戻ったあとでまた牧が急須で熱いお茶を注いでくれるのを見つめながら、上尾が呟いた。
「あの、俺、熱いの苦手なんだよね」
「知ってるわよ」
そう言って、今日は皿を流しに重ね終えて洗いはじめる代わりに、牧自身もお茶を自分に用意して、席についた。
「よく冷ましてから飲んで」
上尾は牧がもしかして何かに怒っているのだろうか、と思って恐る恐る相手の様子を観察していたが、どうもそういうことではないようだという気がした。向かいに座った彼女はまだ相当に熱そうなお茶をゆっくりとおいしそうに飲んでいる。湯気がその頬を撫でるように舞い上がっていく中、その香りを楽しんでいるようだった。そうだよな、そういう表情を、牧にしろ綾にしろ普段はほとんどしていない。
「後は俺が後片付けするから、お茶飲んでいていいよ」
まだ到底飲める温度ではないお茶を食卓に置くと、彼は流しに立った。慌てて彼女がその邪魔をしようとする。
「いいわよ、私がするから」
栓を捻ろうとする彼を止めようと手を伸ばした瞬間、彼の腕に牧の手が触れそうになるや否や上尾はそこから弾けるように一歩下がった。その反応の突然さに彼女は面食らった。彼のほうはそのまま一歩離れたところに距離を置くようにして立ったまま、両手を腰の後ろにまわしている。牧はその反応に戸惑いながらも、袖をまくると水を流しはじめた。
「しいさんはいいから座っていて」
「いいって、俺がするから」
上尾は流しの前から彼女をどかせようとするが、彼女に近づきもしないのでうまくいかない。
「ほらほら、後は俺がする、牧こそゆっくりしろって」
手振りで彼女を遠ざけようとしても、もう水洗いを始めている彼女から流しの前の位置を奪うのは無理な相談だった。牧はその手振りにちらりと目をやると、また背中を向けて口を開く。
「なんなの、その他人行儀な手振りは」
「‥‥そう、お互いに他人なんだよな、この家は」
皿を洗っていた牧の手が止まる。振り返ると上尾が牧の湯呑みにお茶を注いでいた。
「お茶、もう一杯どうだい」
この二週間で初めて彼が私と話をしている、そういう気がした。流水を止めると、素直に席に着く。上尾はさっきからずっとお茶が入った湯呑みを弄んでいた。それでもまだ息を吹きかけてお茶を冷ませて、恐る恐る口をつける上尾は、牧からすれば常軌を逸した猫舌ぶりである。ようやく二三口飲んでから、上尾は少し体を動かして、はすかいにしていた体の向きを牧のほうに合わせてきた。しかし、なかなか話を切り出せないようだ。
食卓の反対側に座っている牧も、なかなか適当な話題を見つけられなかった。こうして眺めていても、彼は黙ってしまうとなかなか何を考えているのか掴みにくく、こちらとしてもいたずらに湯呑みの縁をなぞって指を遊ばせるぐらいしかなかった。冷蔵庫がかすかに唸っているほかは、二階からも物音はしない。綾の勉強が捗っていればいいんだけど。こうしてのんびりしているのも悪くはないが、彼女は相手の出方を待つのにも飽きてきていた。
「ここに居させてもらって感謝してる。それは本当よ、しいさん。だから、私も綾も、できる限りのことはしたいの」
声は一本調子で、牧は自分の硬い喋り方をなんとかしたいと願っていたが、どうにもならない。上尾は湯呑みを円運動させていたのを一旦止めたが、またすぐに回しはじめた。目は湯呑みの中の水面の揺れ動く様を擬視している。
「その気持ちはうれしい」
いつもより低いがはっきりした声で、上尾は口を開いた。
「でも、俺は君らの大家ではないし、主人でもない。君も綾ちゃんも、家事を好きでやっているわけではないだろう。これからは、きちんと分担して協力していかないか」
淡々とした口調でそういうと、またその口は閉じて部屋は静かになる。
「そうね」
「じゃあ、今日は俺が皿洗うよ。ゆっくりテレビでも見ていて」
最後のお茶を飲み干すと、彼は立ち上がって流しに立つ。
「いい、私が料理作ったんだから私が洗う」
そう言って代わろうとする彼女を、上尾の手が制止した。蛇口の栓を捻って、食器の汚れを軽くすすぎ始める。スポンジをとると、思いのほか手慣れた手つきで食器洗いが始まった。
「ずっと、うちでは食器洗うのが俺の当番だったんだ」
「でも、」
まだ代わろうとする牧を、今度はスポンジが邪魔する。
「なんでかっていうと、俺が結構好きなんだよ、皿洗うの。いいだろ?」
変な人。でも、いいか。牧は上尾に代わろうとするのを諦めて、その横に立った。ほんの少しだけ距離を開けて、しいさんの許すぎりぎりの間合いに立つと、布巾を持つ。
「はやく洗って、しいさん。私は拭くから」
こんなことするのは、小さい頃お母さんのお手伝いを始めたころ以来だと牧は思い出した。結局、こういう小さなことから始めるのが一番かもね。上尾は黙って綺麗に洗いあがった皿を渡していく。牧も今は皿を綺麗に拭き上げることに専念していった。

はじめて姉妹がもとの家に衣服やその他の生活用品を取りに戻ったとき、上尾は一緒について行くと言って、実際マンションまで自転車に荷台をつけてやってきた。ところが、マンションの入り口まで来ると、今度はその先は行かないでそこで待っている、と言う。そのころ私達と彼との間は非常にぎくしゃくしていたので、内心ほっとしたのだが、階段を上がる際に不意にタオルを渡されたのだ。その日はかなり涼しい日だったので、タオルは場違いな感じだった。軍手も雑巾も持っていただけに、なぜ渡されるのか分からなかった。
「いいから、持っていけ。顔とか洗うための綺麗なタオルだから。あとは用意できたら、呼んでくれれば荷物を運びに行くから。下までは上の物音も届かない」
家に入ると片付けとかさせられて面倒なので避けようとしてるんだ、とその時は思った。
歪んだ玄関のドアを綾と二人で開けて、家に入るのは気が重かった。家の中の爆発の残骸と埃をぶつぶつ言いながら片付けはじめて、ほどなく傍らの綾の手が止まったのに気づいた。
「どうしたの、綾」
綾は落ちていたネクタイハンガーを拾い上げて握りしめていた。父さんが使っていたものだ。
「ほら、綾、掃除して」
言いかけて、自分の視界が急激に滲みだした。だめ、私がしっかりするんだ。
「お姉ちゃん、私、わたし、父さん‥‥母さん」
「綾、私がいるから」
母さんのようにはうまく出来ないけれど、妹を支えてあげられるのは今は私しかいない。父さん、母さん、私は頑張るから。歯をくいしばっていないと、負けてしまいそう。
「ほら、これで涙拭きなさい」
上尾君が家に入って来なかったのは、タオルを渡してくれたのは、たぶんこうなることを知っていたから。他のことはともかく、彼は生きる辛さについてよく知っている。

それからも姉妹と上尾との距離がそう変わることはなかったが、数週間ほどしたある日、牧は自分がもはや肩に力を入れていないことに気づいた。相変わらず上尾は居間に座るときは姉妹に対して斜交いに距離をおき、ふだんでも手が届くような位置には来ないように注意が払われてはいたが、少なくとも家に戻ってから自室に篭りっきりだったり、食後にすぐ自室に戻っていったりはしなくなったのだ。ただ、テレビを見ないというのは本当らしく、チャンネル争いは姉妹間だけのものだった。二人で言い争っているのを上尾は居間の隅で新聞を広げて無関心なふりをしてやり過ごしていたが、姉妹にしてみればこういうところを見られるのは嬉しくない。特に牧はこうした普段の様子を数週間前までろくに言葉も交わしたことのない他人に観察されてしまうのは不快だった。
「今日は綾が優先」
「いいじゃない、こっちは特番なんだから、こっち見るの」
「昨日は譲ったでしょ、姉さん。ねえ、しいさんからも言ってやって」
上尾は新聞を読んでいるふりをしながら、言葉を返したものかどうか悩んでいた。
「しいさん、何か言って」
綾に詰め寄られてお茶を濁しきれなくなる。上尾の心情としてはいつも兄にやられていたので、綾に味方してやりたいところだったが、今ここではどちらにも加担したくない。その逡巡がかえって二人の機嫌を損ねてしまう。
「しいさんは口挟まないで、私と綾との問題なんだから」
「だからこそ他人の判断が役に立つんじゃない。でも、えこひいきしたら怒るよ。さあ、どうなの」
「今日は特番見るの。いつかまた譲ってあげるから」
「お姉ちゃん、前もそう言って無視したんだからもうだめ」
黙っていても事態はよくならないようだった。上尾は観念すると、恐る恐る目線を上げて二人をかわるがわる伺う。その視線に気付いたのか二人が一斉に上尾のほうを振り返った。ぷうっと膨れた綾とちょっと怒ったかのような牧がそこにいる。牧は上気しているのか、ちょっと顔が赤い。
「その、昨日綾が譲ったんだから、今日は綾が見たい番組をみればいいんじゃないかな」
ぱっと綾の表情が輝く。反対に、牧の眉間にしわが寄った。
「そう、それがしいさんの意見なんだ」
「そら見な。ありがと、しいさん」
「全く、しいさんなんかずっと新聞読んでればいいのよ」
ふてくされた牧の様子をみて、上尾は何か意味をなさい言葉を呟きながらそそくさと部屋を出ていった。

ふてくされたまま綾の番組をそれでも見ていた牧の表情が不意に微笑を浮かべたことを、居間を出ていっていた上尾はもちろん、隣にいた綾も気付いていなかった。いつもはあまり表情を変えない上尾の困った顔が浮かんで、その表情が妙に面白く思えたのだ。チャンネル争いに負けたことなど、もう牧にはどうでもいいことだった。

上尾が風呂から上がってみると、居間にまだ電気がついていて、覗くと牧が座っていた。チャンネル争いで綾に加担したことでまだ気が引けていた上尾は、そこに牧がいるのを見て凍ってしまう。しかし、黙っているのはさらに間が悪い。
「牧、さっきは済まなかった」
「なんで謝るの。謝るぐらいなら私の見たかった特番見せて」
「そんなこといわれも。今度は二人でじゃんけんでもして決めるようにしよう、な」
「今度っていつよ」
「いつって‥‥」
「いいわ、今日は私、もう寝る。おやすみ、しいさん」
「おやすみ」
当初仲直りするつもりで上尾のお風呂上がりを狙っていた牧は、上尾の対応の様子をみて急遽謝ることをやめにした。なんといっても、上尾の申し訳なさそうな表情が結構牧の心をくすぐることに牧自身が気付いたのである。

上尾は高校では相変わらず不登校の多い変な生徒だった。ごく親しい口の固い友人にしか理由を話していなかったため、その他の生徒からはその欠席の多さから変な奴ではないかとの目で見られて、人付き合いはあまりない。その代わり、上尾にとってその友人らはかけがえのない存在だった。その一人の日和佐が、休み時間に上尾の机のところにきて相談をもちかけてきたのである。はじめから少々話をしにくそうにしていた日和佐は、上尾に促されてようやく話を切り出した。
「俺の家に、犬いただろ?」
「ああ、あの毛の長い雑種ね。いつものんびり寝てるの」
「そうそう。あの犬はサンバって言うんだけどさ、済まないけれど一週間ほど預かってくれないかな。ほら、お前の家って結構余裕あるだろう。恩にきるから」
「でも、おれ犬飼ったこと全然ない。一週間も自信ないな」
「大丈夫大丈夫、あの通りの大人しい犬だから。餌を用意して、後は一日一回三十分ぐらい散歩してくれればそれでいいから」
「うーん」
「お前の家なら、他に誰にも相談とかしなくてもいいだろう。他の奴は家族の人を説得しなくちゃいけなかったりして、面倒くさいんだよ」
「なるほどね。でも、なあ。そもそも、どうしてそうなるんだ。どこか出かけるのか」
「うん。その、もしかしたら名古屋のほうに引っ越すかもしれないんだ」
二人ともちょっと黙り込む。窓際の上尾の席からは、埃っぽいグランドの眺望が良い。
「そうか」
「いや、ほんとにまだわかんないだ。でも母さんが戦闘にノイローゼ気味で、ここには居にくいんだ。それで、向こうでちょっと様子見て症状が良くなりそうなら向こうに住むかもって」
疎開をする生徒は今日にはじまったことではない。日和佐も上尾もそのことはお互いよく承知していて、疎開の是非に関しては二人とも踏み込まなかった。
「大丈夫、向こうに住むことになっても、卒業までは俺と親父はこちらに残るし、戦争が済めばすぐ戻って来るよ」
「はやく戻って来れればいいな」
「全く」
「そういうことなら、一週間、なんとか飼ってみる」
「済まない。恩にきる」
「一度ぐらい、ペットを飼ってみたかったんだ。丁度いい」
かくして、上尾家に初めて、ペットがくることになった。

部屋で勉強をしていた牧は、階下の妙な気配を感じていた。さっき上尾がずいぶん遅くに学校から帰ってきていたようだが、なぜか二階にあがってこない。いつもは制服を着替えるためにすぐ階段を上がる音がするだけに、今日の様子は変である。しかも、なにやら庭のほうで音がする。気になりだした彼女は、溜め息をつくと鉛筆をおいて立ち上がった。横では明後日まで試験が続く綾が一心に勉強を続けている。そっと部屋をでると、肩の凝りをほぐしながら階段を降り、トレーナーの裾を直す。上尾との関係がどうあれ、男の人相手にあまりルーズな姿を見せたくはない。とはいっても、朝のぼーっとした表情はもう何回も見られてしまっていて、それについてはもう諦めていたが、それぐらいで抑えておきたいのが乙女心である。
しかし、居間に入ってガラス越しに見たものに、牧はあっけにとられてしまった。毛の長い中ぐらいの大きさの犬が、庭の芝生の真ん中に寝そべって大きな欠伸をしていたのだ。犬は長い毛の間から覗く目をちらりとこちらに向けたようだったが、無視するかのように前足に頭をのせて寝はじめた。色は全体に薄い茶色で、白から茶色までの様々な色合いの毛で覆われている。首輪から伸びたロープはテラスの支柱に繋がれている。庭の隅では、上尾が犬小屋らしきものを設置していた。
「どうしたの、この犬」
「サンバっていうんだ。ほら、日和佐っているだろう。あいつの犬を一週間預ってやることにしたんだけど、いいかな。世話は全部俺がするから君らには迷惑かけないし」
「ふうん」
サンバにそっと近づいていってみる。手が届きそうな距離になると、はじめてサンバはのっそり立ち上がって、パタ、パタ、としっぽを軽く振ってくれた。
「こいつ、全然吠えないから。犬、嫌いかな」
「ううん」
そっと頭を撫でてやると、手を嘗めてくれる。ずっとマンション暮らしだった北代にとって、動物は遠い存在だった。上尾が犬小屋を設置している間、牧はずっとサンバに遊んでもらっていた。

二階から降りてきた綾も、犬をみると吸い寄せられるように庭に出てきた。上尾は姉妹に対してどうやって犬を飼うことを説得しようかと悩んでいたのだが、それは結局いらぬ心配だった。夕食のときに飼うことになった経緯を説明したが、全く何の反対もなかった。むしろ、夕食のあと、牧は庭でずっと犬と戯れているほどだった。食器を片付けた上尾がテラスの縁に腰掛けてそれを見ていると、後ろを綾が通りかかった。
「ずるいわ、お姉ちゃん」
それだけぽつりとこぼすと、彼女は二階へ去っていった。上尾は新聞に目を通しながら、牧が飽きもせずサンバにちょっかいを出し続けるのを眺め続けた。

サンバは確かに楽な犬だった。餌も不平を言わずに食べてくれるし、吠えたてたりもしない。散歩のときだけは見違えるように元気になるが、庭では概してのんきに振る舞っていた。

二日後、上尾は自宅まであと少しまで戻ってきたところで、向こうから笑い声がすることに気が付いた。気のせいではない。それも、あれはたぶん綾の声ではないだろうか。そっと家に近づいてみると、綾がサンバと追いかけっこをしている。
「こら、サンバ、何するの、メッ。あはは、そっちじゃないよ、こっちおいで、そら、ね」
犬に抱きついたり物を投げて拾わせたりする綾は、先週までの落ち着きのない彼女とはまるで別人にみえた。髪を上げて身軽に跳ね回る姿は、まったく快活な少女そのものである。その様子を邪魔してもいいものかどうか躊躇した上尾だったが、いつまでも門の外でじっと立っているのも間抜けなので、できるだけ何気ない雰囲気を出すように気を遣いながら門を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい。ほら、サンバも言いなさい、ほら、だめってばそれじゃ、もう仕方ないわね」
ずっと彼女と身構えた会話しかしていない上尾は、綾がまったく気楽に返事してくれたので内心びっくりしていた。自分に気付いたら、また彼女はいつものように身構えるのではないかと思っていた。
「そうそう、私、試験済んだから、今日は私が御飯つくるから」
「うん、ありがとう」
「でも、もう少し待って。サンバ、服噛んじゃだめでしょう、引っ張んないで」
上尾はこの美少女がこれだけ朗らかにしているところを初めてみた。牧が妹のことを常に気にかけている理由が分かったような気がした。突っ張って棘の出た様子と、時にみせる気弱な表情以外は仮面を被ったような彼女しか知らなかったので、サンバにみせるその屈託のないよく動く目はともすると別人ではないかと思えるほど華やいだ空気を辺りに作り出している。それは灰色のトレーナーの地味な印象を軽々と打ち消せるほどであった。
上尾はしばらくその様子をずっと眺めていたが、どちらかというとサンバが綾を相手してやっている、という感じであることを感じて、さすが日和佐の犬だ、と感心しながら着替えるために二階へ上がっていった。

上尾が簡単な学校の課題を片付けて二階から降りてきたとき、ようやく綾がテラスから戻ってくるところだった。袖や裾を入念にチェックして、毛を払っている。また、それだけでなく、時々袖を鼻に近づけてクンクンいわせていた。
「いいよ、汚れたって。一週間しかいないんだし、気にせずに相手してあげればサンバも日和佐も喜ぶと思うよ」
「‥‥でもやっぱり犬臭いわ。御飯作るのにこれじゃまずいから、着替えてくる」
「俺が夕飯作ろうか」
「いい。今日は私がする」
そう言って上がっていく綾のその言葉は、以前のそっけない口調そのままだった。仕方ないか、と上尾は思う。牧を押し倒したあの事件以来、全く警戒されているのも当然といえば当然だった。どう言い繕ってみたところで、あれは彼女の懸命の好意を踏みにじった行為であって、弁解のしようもない。結局、本当に二人を大事にしたいということを伝えるには、地道に自分の態度で示すしかないのだろう。

シャツにキュロットで料理をする妹をみて帰ってきた牧は驚いていたが、サンバに構いすぎてトレーナーが着られなくなってしまったと聞いて、困ったような顔をした。
「ちょっとそれは遊びすぎじゃない?」
「でも、お姉ちゃんも人のこといえないよ。今朝トレーナーを洗いに出してたのは、同じ理由じゃないの」
綾にまぜっかえされて、彼女は上尾の視線を盗み見て困ったような表情をしている。
「いいよ、一週間しかサンバはいないし、せっかくのことだから、細かいこと気にせず遊んでやって。なんなら、散歩もしておいてくれてもいい。明日土曜だけど、昼間少し出動があって出かけているから。夕方には戻ってくるけど」
それを聞いていた二人の顔つきが、平静を装ってはいるけれども俄然興味を引いたことを表している。姉妹はどちらのことのほうに気がいっているんだろうか、とちょっと自嘲気味に上尾は考えてみた。
「それなら明日は私達で散歩にいってみようかな」
「どこを回ってもいいの?」
「いいよ。今までも特に道筋は決めていないから」
そういって、上尾はテレビのニュースを見始めた。牧も居間に腰を下ろして、一緒にニュースを見ている。しばらく沈黙が続いたあと、アナウンサーの声が途切れたときに牧が呟いた。
「今度も、また協力隊の仕事なんだ」
「うん」
「危険?」
「いいや、この前の残務処理で、実況検分をしてまわるだけ」
「そう」
話はそれきりだった。

狭い庭なので、三脚の位置がなかなか決まらない。
「なにしてるの」
「ちょっとフィルム余っていたから、サンバと一緒に写真撮ろうと思って」
「私も」
「いいよ。そこに入って。先に撮ってあげるから」
テラスに出てきかけた彼女は、サンダルを履こうとして足を止めた。
「ちょっと待っていて」
階段を上っていく足音がしたあと、ほどなく彼女はまた降りてきた。ただし、今度はテラスからではなくて玄関を回ってくる。サンバの横で振り返った上尾は、女心を少し理解した気がした。彼女はトレーナーを脱いで、ベージュのスカートに赤と灰色の幾何模様があしらわれたセーターを着てきていた。上尾が初めて見るセーターだった。サンバもその服装が気に入ったのか、ムクッと起き上がって鼻先を彼女に向けてクンクンいわせている。
「あ、サンバ、だめ。ね、しいさん、悪いけどサンバが擦り寄って来ないように抑えていてくれる?」
「でも、それじゃシャッターが押せないんだけど」
彼女は少し困った顔をした。
「でも、これは汚したくないの。そうね。綾を呼んでくる」
しかし、降りてきた綾も、写真に写ると言い出した。しかも、彼女も服を外出着に着替えてくる。結局、上尾がサンバを抱えている間に、綾がタイマーシャッターを押しにいって戻ってくることになった。サンバはいつもと違う服の二人が珍しいのか、しきりに首を伸ばして姉妹の服の匂いをかごうとしてなかなか落ち着いてくれない。
「いい、押すよ」
「うん」
タイマーが動き出して、綾が走り寄って来ると、サンバはいつもになくもぞもぞと体を動かして暴れだし、上尾は抱いているのが一苦労だった。
「ほら、もうすぐシャッター」
「そんなこと言っても、ほら、サンバ、カメラ向けってば」
「なにやってるの、もう」
「あっ」
シャッターと共にサンバはとうとう脱出に成功し、牧や綾を追いかけまわしはじめたので、あとは撮影にならなかった。
「サンバも綺麗な人が気になるんだ」
「冗談いっていないで、捕まえて」
「わかってるよ」
ようやく首輪を捕まえ直して、サンバが大人しくなったころには、上尾は息が切れそうな思いである。
「この写真、いつできるの」
テラスに並んだ姉妹は、雑誌のグラビアのようだった。それほど着飾ってはいないが、姉のストレートな優しい感じと、妹のはっとするほどの顔立ちと洋服の賑やかな色合いによる美しさは上尾にとって目に毒なほどである。
「え、ああ、明日出すから、明後日にはできているはず。報告書に貼る分だから、すぐ出来る」
「そう。焼き増ししておいてね」
「しておくよ」
そう言って奥に戻っていこうとする二人を見て、上尾は慌てて言葉を継いだ。
「今から、サンバの散歩にいってくるけど、」
「戻ってきたら、夕御飯にする」
「あ、ああ」
彼はそれ以上何も言えなくて、サンバの傍にしゃがみこんで、その首輪に紐を付け出した。サンバはそれが散歩への儀式だと理解しているので、急にまた元気をだしてくる。それは上尾とは対照的だった。
「私、買い物に行くから、ちょっと待ってて」
突然の声に振り返っても、階段を上がっていく足音だけしか残っていなかった。

「どういうつもり、お姉ちゃん」
「どういうつもり、て、どうせおかずの買い物しなくちゃいけなかったんだし」
「でも、一緒に行かなくてもいいじゃない」
「スーパーの近くまでだし、ちょっとの距離だから」
「そうじゃなくて、私、あの人、よく分かんない」
「一緒に生活してるんだから、少しは気を使ってあげなくちゃ」
「でも、お姉ちゃん‥‥」
脱ぎ掛けていたスカートを途中にして、牧が口に指を立てる。
「言いたいことは分かる。私だって忘れていない。でも、わかりにくい人かも知れないけど、彼はそんなに悪い人じゃない」
「そりゃ、分かっているけど‥‥」
「じゃあ、いってくる。時間はかかんないから。しっかり鍵かけておくのよ」
「わかってるって」
ジーンズにかえて部屋を出て行く姉の様子が、綾にとっては複雑な思いだった。

階段を降りて、上尾に声をかけた牧も、自分で自分のことがよく分かっていなかった。なんで私はこんなことするのだろう。サンバはかわいいけれど、彼と散歩に行く義理はない。ないけれど、本当はあると思っている。ふだん何を考えているのか分からない彼が、ときに刹那だけ浮かべる寂寥とした表情が彼女の心を突き刺すのだ。そう、さっき、散歩に行くと言ってサンバに振り向いた一瞬見せたあの表情。

「スーパーの近くの公園までしかつきあわないけど」
「サンバはそれで十分さ。さあ、サンバ、いくぞ」
短い髪をキャップにたくしこんでジーンズに着替えてくると、もともとスリムな牧は中性的な雰囲気を纏って、これでサングラスをかけるとさらに不思議な感じになる。彼女自身がそれをコンプレックスにしていることなど、上尾は知る由もなかった。幾何学模様のセーターの色合いと、その胸のうっすらした隆起だけが彼女が女性であることを示している。
「そのセーター、初めて見るね」
「これは特別お気に入りのセーターだから」
「ふうん」
サンバは牧のジーンズにも興味を示したが、今度は牧もサンバの相手をして足でサンバを挟んでみたりして戯れて、やんちゃな犬を満足させてやっていた。

結局、牧は公園までサンバとずっとじゃれあっていた。セーターを汚したくはなかったので手を出して抱きついたりはしなかったが、気が付くと息が上がるほどサンバと追いかけっこをしている。上尾が紐を握って距離を調整していたので、サンバが彼女のセーターを引っ掻いてしまうことはなかった。
「ああ、疲れた」
「サンバって、普段ずっと寝ているから、こういうときは元気いっぱいだな」
「ちょっと、休む」
ベンチに座りこんだ牧は、それでも目でサンバの様子を追いかけ続けていた。上尾は紐を伸ばして、広い範囲でサンバを遊ばせている。彼自身は彼女の近くに立って、人気のない公園の木々を眺めているようだった。
「牧、もう一度だけ、前の話をしていいかな」
彼女は、上尾の表情をみて、話の内容を察知した。今はその話をしたくない。
「そのことならだめ」
「その、前のときは感情的だったし、本当に済まないと思っている」
「ごめん、それだけで十分だから。綾も私もまだ半人前だし、私、いろんなことを考えている余裕もない。しいさんとの関係もこれ以上壊したくない」
その思い詰めた目つきは、普段、彼女が見せないものだった。そして、それこそが、上尾の心の何かを動かすものだったのだ。しかし、その彼女が拒絶している。上尾にもこれ以上彼女の気持ちを踏みにじることはできなかった。こののどかな公園でなら、そのことがよく分かる。上尾自身、話が出来るとは期待していなかった。
「ごめん。もうこういう話はしないから。また、きちんと家事も分担して生活していこう」
「うん。ありがとう」
「じゃ、俺、もうしばらく散歩してサンバを疲れさせてから戻るから。じゃあね、御飯楽しみにしてるよ」
「あんまり期待しないでね」
やっと笑えた。しいさんは、私の顔をみて安心してくれたのか、笑ってサンバに引かれていった。予想以上に淡白に彼が引き下がってくれたので、彼女は拍子抜けして安心したが、その心の片隅に生まれた一抹の寂しさには彼女自身気付いていなかった。
「さ、夕飯は何にしようかな」
せめて料理はうまくなろう。できることからするしかない。それに、とお尻の砂を払いながら牧は一人ごちた。しいさんの料理を食べないで済むなら、私は料理当番に進んで志願する。しいさんの料理は当たり外れが大きくて、食べるのが怖くなっちゃう。

写真が出来上がった日、サンバは日和佐のもとに帰っていった。向こうでのお母さんの具合が思いの他良かったので、一日はやく戻って来れた、と犬を引き取った友人はほっとした表情だった。サンバのいなくなった庭は、以前よりずっとひっそりとしている。その庭を眺めている上尾を見て、牧も隣りにやってきた。
「サンバ、いないと淋しいね」
「うん。でも、今は君たちがいてくれるから」
そうだった。しいさんは、ここにずっと一人で住んでいたんだ。話し相手もない日々は、どんなのだったんだろう。
「そうそう、写真が出来てるよ。見る?」
「もちろん。どこにあるの」
「その封筒の中。ほら、結構きれいに撮れてる」
「やだ、なんか、私、照れてるみたいじゃない」
「みんなさ。僕も、たぶん綾ちゃんも、ほら、なんか妙な表情してないかい」
「あ、本当だ」
そこには、二人の姉妹に挟まれてサンバを抱えた上尾が居心地悪そうに写っている。しかし、三人とも妙な顔をしてはいるが、その顔つきは明るかった。はにかんだ姉妹の様子は、上尾に新鮮な印象をもたらした。

サンバ以来、上尾が北代姉妹に対して妙な物理距離を置くことがなくなった。そのことに気付いたのは、サンバが帰っていってから数日してからだった。その代わり、心の距離が埋まることはもうないかも、と彼女は感じている。

それから何週間かが過ぎたある日、月が変わるので綾が居間のカレンダーをめくろうとすると、新しい月の三日に丸がしてあることが目に止まった。
「なに、この丸。何かする日なの」
部屋の隅でもたれ掛かって本を読んでいた上尾が、目線を上げてカレンダーを丁寧にめくっている少女のほうに向く。その様子を牧は皿洗いの済んだ台所から見ていた。
「いや、別に」
綾は返事を聞き流すと、めくりとったカレンダーを片付けに部屋を出た。彼のほうは、目線をまた本に落として、続きを読み耽っているようにみえる。しかし、牧は彼の手がそれっきり動かなくなったことに気付いていた。やはり、あのカレンダーを見たときの彼に表情がないように見えたのは、気のせいではなかったんだ。気のない、というのではなく、全く無表情だった。牧はエプロンを外すと、テレビを見るような顔をしてそちらの部屋に移り、テーブルの真ん中に座ってちょっと古い型のテレビをつけて、ゆっくりと首を回す。盗み見ても、彼は本の先数十センチのところを擬視したまま、じっとしていた。
「ねえ、しいさん、あの日に何かあるの」
返事がない。もしかして寝ていたりするのかな、と思って首を折り返して、彼女は凍り付いてしまった。頭を上げた上尾の、その目が彼女を刺し貫いたのだ。
「いいや」
聞いたこともないような低い声だった。牧はそれ以上彼のほうに向き続けることが出来なかった。何か触れてはいけないものに触れてしまったんだ、ということだけが理解できた。それが何かはわからないけれど、これ以上踏み込まないほうがいいような気がした。上尾のほうはといえば、目線があった途端に普段の温和だが無表情な笑みを浮かべて、さっきの一瞬が幻に思えるほどのすばやい変わりよう。
「もう用のない印だから、気にしないで」
「うん」
上尾はまた本に目を戻すと、続きを読み始めた。灰色のトレーナーにシャツの牧は、それ以降黙ってテレビを見続けた。東京のほうで作成された安っぽいテレビドラマがブラウン管から流れてくる。結局、その晩はそれっきりだった。

上尾は、この日だけは姉妹より早く帰るべく、学校が下校時間になると一目散に帰途についた。北代姉妹は例によって他の人の目をくらませるために迂回をして帰るので、まず自分の方が早く帰り着く自信があったが、万一のことがあるのを嫌って、半ば駆けるようにして自宅に戻って後ろ手に玄関のドアの鍵をかける。今は姉妹の部屋になっている二階の奥の部屋の前で深く息をつくと、そっとノブを回した。姉妹のプライバシーを護るために、決して入らないと誓っていたので、気後れがして姉妹の足音が今にも聞こえるのではないかとびくびくする。あまり周囲を見ないでおこうとはするのだが、どうしても目がいってしまう。とはいえ、その部屋は姉妹が来る前とさして変わらない簡素さだった。服などはタンスを空けて渡していたので、そちらに片付けられているのだろう。僅かに机の上に置かれたままの筆記用具と本棚の一部を占領している教科書だけが、この部屋の持ち主が代わったことを示していた。あとは、兄の遺品が無造作に残されている。上尾一人では、残すことも片付けることも決められなかったものだ。本棚のまだ半分を占める雑多な本、壁のポスター、ハンガーの上の人形、カセットテープ。ただ、匂いだけは兄のではなく、姉妹の微かな匂いに変わりつつあった。
上尾は、奥の押し入れを開けると、姉妹のダンボール箱をどけて、その奥のケースに手をかける。蓋を開けると、見慣れた野球道具がでてきた。ユニフォーム、スパイク、グローブ、傷んだたくさんのボール、帽子、バット。兄が野球がうまいので、かえって兄と野球するのが嫌いになったのはいつからだろう。グローブとボールを一個選び、帽子も取り出す。痕跡を残さないように丁寧にダンボール箱を戻したあと、そっと部屋をでても、まだ二人は帰ってきていなかった。
上尾はさらに自分の部屋に戻ると、今度はラフな格好に着替えて、兄の野球用品をかばんに詰めると、駆け足で階段を降りて、なんとか二人と顔を合わさないまま外へ出て行くことに成功した。

人気のない墓地の横の空き地で、壁に向かってボールを投げては跳ね返ってくるボールをキャッチする。帽子は壁近くの杭に架けておいた。徐々に薄暗くなりゆく夕日の下で、上尾は構わずに黙々と壁当てを繰り返し続ける。どうにもならないことは分かっている。分かってはいても、こうでもしないと気持ちの整理が上尾にはつけられない。もう泣くことはないだろう。でも、この辛さを消せる日が来るとは考えられない。この痛みをいつか和らげられるようになるとは思えない。仲が良くなかったのは認めるけれど、だからいなくなっても平気、というものではない。生きていたら、口に出していうことはなかっただろう。
「兄ちゃん、今日は誕生日おめでとう」
土で汚れてきたボールを見つめてしばらくじっとしていた上尾は、またそのボールを壁に投げた。

上尾が家にいないので心配になった牧は、少しでも玄関に近くにいようと、ずっと居間で勉強していた。もう外は真っ暗で、さすがに気になって仕方がない。また緊急出動がかかったのだろうか、などと思いながら鉛筆を弄ぶ。妹も御飯をとっくに作り終えていた。ようやく玄関で物音がしたときには、もうとっくに八時を回っていた。彼女は急いで立ち上がると、玄関に駆けつけた。
「どうしたの、いったい」
上尾は靴についた砂を払っていて、上がり口には野球のボールが転がっていた。人を心配させておいて、野球なんかに熱中していたとは。さすがにこれでは、綾ならずともちょっと牧の口が尖る。
「遊んでくるならそれでいいけれど、御飯もう冷めてる」
「すまない」
「こんなんじゃ、先に食べてれば良かった」
「次からそうして」
その口調に冷たさを感じた牧は彼のほうを振り向こうとしたが、もはや上尾は廊下に出てきていた綾の横をすり抜けて階段をあがっていっていた。
「なにあれ」
牧が憤慨していると、綾が思案しながら姉に声をかける。
「でも、ちょっと様子変。今まで、夕飯いらないときや遅くなるときにはきっちり連絡くれていたのに」
「だんだんいい加減になってきているだけじゃない」
納まらない牧は、上尾が忘れていった硬式野球ボールを思わず蹴飛ばしてみたくなる。
「お姉ちゃん」
「なによ、いったい」
「そのボール、T.Aって書いてある」
「それがどうしたの」
「しいさんのお兄さんの名前、敏昭だった」
階段で足音がして、硬い表情の上尾が降りてきた。綾がボールを持っているのを見ると、手を差し出す。
「ごめん、忘れたんだ、渡してくれるかな」
「ええ、はい」
ボールを受け取ると、途端にくるりと向きを変えてまた部屋に戻っていく。
「それ、お兄さんのボールなの」
しかし、牧の質問に答えは返ってこなかった。足音は、上尾の部屋のドアの閉まる音で消えた。二人は顔を見合わせると、夕食を取るべく台所に向かう。牧は、また彼との隙間を感じていた。

やり場のない感情をどうしていいのか分からない。今まではずっと一人だったので人に当たりようもなかったが、今はなまじ目の前に北代姉妹がいるだけに、こらえなくてはいけない。上尾は部屋に戻ってから、気持ちの高ぶりが納まるまで三十分も頭を抱えていなくてはいけなかった。

ようやく台所に降りて来ると、それでもまだ三人分の御飯が食卓に並んでいた。上尾はさっきの姉妹に対した態度に自己嫌悪して、二人のほうに顔が向けられない。それが余計に牧や綾には不機嫌と映った。
「待っていてくれてありがとう」
姉妹も居間から立ち上がって、のっそりと台所にやってくる。上尾の気まずい思いが二人にも伝染して、全体に重苦しい雰囲気が漂っていた。綾が味噌汁の鍋に火を入れ直す。時計をみると、もう九時に近い。牧も綾も何も喋らなかった。怒っている様子でもないが、黙って手を動かして用意を整えると、無言のまま席に着くように促す。
「いただきます」
「いただきます」
上尾が唱えると、姉妹も声を揃えてから御飯に手を付けはじめ、食事が始まった。上尾が上目使いにチラチラと牧や綾の様子をみても、彼女らは黙々と箸を動かしている。
「もし、御飯どきに僕が戻ってきてなかったら、先に食べていてくれていいから」
初めて姉が顔を上げる。
「待てっていうのなら待っているけど」
「いや、いいんだ。特に来週から、僕は夕方は協力隊の雑用に出てから帰ってくるから遅くなるだろうし」
「そう」
また沈黙が続く。しかし、ほぼ食事が済みそうなころになって、味噌汁を飲んでいた綾がついっと姉のほうを見る。姉のほうは妹の視線をほとんど無視していた。綾は諦めると、自分で口を開いた。
「しいさん」
「なに」
「野球、するって知らなかった」
横目で上尾の様子を伺っていた牧は、彼の表情が微かに揺れたのを見逃さなかった。
「野球は、兄ちゃんがうまかったんだ」
綾は明らかに怪訝な顔をしてさらに先を促そうとしたが、上尾はそれ以上なにも喋らなかった。
「さて、後片付けは僕がするから。ご馳走様」
彼はさっさと立ち上がると、皿を重ねて運び出した。綾が少し不満そうな顔で鼻を鳴らしたが、そのまま大人しく立ち上がってテレビのほうに移っていった。牧は自分の皿を重ねていきながら、彼の機嫌が悪いのは私がやっぱり関係しているんだろうか、と悩んでいた。上尾は何も言わず、皿をゆすぎだしていた。

実際、上尾は次の週になると毎日かなり遅い時間まで帰ってこないようになった。何をしているのかは教えてくれないが、朝が辛そうで、気の毒になる。夕食は冷めてもあまり味の変わらないものを考えて作っているつもりではあったが、三人分並べて二人だけで食べるのは寂しかった。そう、夕食を一緒に食べるのだって、どちらかというともともとはしいさんの希望で始めたのに。牧は十時をまわった時計をみて、食卓の料理に目を移した。

今日はとりわけ仕事が溜まっていたので、すっかり十時を回っていた。全く、これでは体が持たない。上尾は溜め息をつくと、重くなった体を台所の椅子になんとか据えると、お腹のすいた人間特有のせわしなさで夕食にとりかかる。しかし、ふと顔を上げて周りを見ると、居間に誰もいないので、昔のような孤独感に取り囲まれそうになる。そのとき、ドアが不意に開いて、牧が入ってきた。
「帰っていたんだ」
「うん」
それだけで、牧はコップを取り出すと、お茶を汲んで自分の席に置き、席について横を向いたままお茶をすすりだす。何を喋るわけでもなく、ただお茶を飲んでいるだけ。もうお風呂にも行ったあとらしく、髪の毛がまだかすかに濡れて光沢になって輝いている。上尾は、急に活力が戻った気がした。食べ物のせいだけではない。食べ物以外にも元気のでるものがある。
牧は何も喋らなかったが、上尾が食事を終えるまでゆっくり飲み続けていた。馬鹿らしいけれど、今、私がしてあげられるのはこれぐらい。

それから、上尾が晩遅くに戻って食卓につくと、どこからともなく牧がお茶を飲みに来たり、台所のすぐ横の居間の入り口で新聞を読んだりするようになった。その状況を心配する綾も、それとなく上尾の様子を監視するために居間にいるようになった。

状況はどうあれ、上尾も北代姉妹も毎朝のお参りだけは不文律のようにきっちり続けていた。前の日も遅かったので少し眠い。ふと横をみると、制服姿のまま正座して目を閉じ手を合わせている牧と綾の姿がなぜか強烈に上尾の心に、今、焼き付いた。そう、とにかく今は一人じゃない。
「いつも、晩、御飯に付き合ってくれてありがとう」
牧の手が一瞬だけ揺れた。
「いきなりそんなこと言わないで」
綾は片目を開けて二人の様子を伺ったが、姉が少し上気しているようなのに対して、上尾は位牌を見つめたまま泰然としているのであまり嬉しくなかった。なんで嬉しくないのかは、自分の心に聞いてもよく分からなかった。


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