一度目の演奏が終わった時に、男は姿を現した。外は雨でも降っているのか黒い冬物のコートの肩口は店内の薄暗い照明に反射してきらりと光っていた。入り口の脇にある傘立てに持っていた黒い傘を入れて、カウンターの足の長いスツールに腰掛けて背を向けていた。

 疎らな拍手が起こった。客たちは丸いテーブルについて、ぼんやりと暇そうに酒を飲んでいる。音楽が止むと、店内の静寂は不自然にその存在を現していた。それらをざっと眺めてから、二度目の演奏を始めた。情緒的で繊細なクラシック。感情の起伏を表現する美旋律。いかな名曲も、ここでは意味をなさない。

 有り触れた安価な音符。

 今夜の演奏は四曲で終えた。客の入りが悪いことから、それ以上の演奏の必要性が無くなったのだ。定刻よりも、幾らか早い時間に仕事を終えて藤真はカウンターにただ一人腰掛けている、未だコートも着たままの男と椅子を一つ空けた隣りに座った。制服の襟についている黒いネクタイを外して、黒光りしているカウンターに置いた時に所望した酒が出されたので一口飲んでから煙草に火をつけた。透明な硝子の灰皿に幾らか灰が溜まったところで、藤真は云った。

「ひどいか?」

 空白の席を置いた向こうに腰掛けていた男は藤真の方に僅かに顔を向けて首を振った。予報では夜遅くから雨天になるらしいとのことだが、その勢力は激しくはないとも伝えていたので、男の返答に納得した。
 無言でグラスを空けてから、藤真は立ち上がり店の奥にある従業員の控え室に姿を消した。着替えを終えて店内に戻ると、男はもう既に席を離れて傘を手にして戸口で待っていたので、そちらへ向かい、二人は店を出た。


 雨は小降りだった。深夜を回った辺りは、人影がない。遠くには繁華街のネオンが見えた。傘を手にしたままそれをさそうとはしない男と並んで歩いていると、男が云った。

「演奏、今日の、どうした?いつもより、何か、ち、違う気がした、調子が、悪い、の」

 口調は言葉を覚えたての幼子のように辿々しく、発音も悪い。言葉と言葉の間に馬鹿に長い間が空くその喋り方は、聞き手には酷く鬱陶しいものがある。これだけの言葉を云う間に、二人は道ばたに林立する電柱を二度も通り過ぎなければならなかった。

 男は花形といった。長身で裕福そうな出で立ち。繊細そうにも酷薄そうにも見える細い顎をした顔全体は、陰気で青白い。特徴のない目鼻立ちは、ともすれば怜悧にも見えようが、今はこの男の秘密を知ってしまったせいか、何かが欠落した人間の代表者のような表情にも見える。

 藤真は肩を竦めた。

「そんなことない。あれが普通さ」

 音大を卒業して後、すぐにあの店でピアニストとして雇われたものの、情熱は既に在りし日の青春のようにその輝きを失い、色褪せていた。

 花形はそれを聞くと更に眉間に濃い影を刻んで云った。

「で、も前、は、違った」

 それから他にもまだ何か云おうとしたが、それを遮って藤真が云った。

「おまえに音楽のことなんて分かるの?」

 花形は苦しげな表情をしただけで、何も云わなかった。


 あの店で、花形は常連ではなかった。台風に見舞われたあの晩、傘を所持していなかった花形がたまたま雨宿りを兼ねて入った店のピアノを演奏していたのが藤真だった。花形はそれから何度か店を訪れ、演奏と演奏との合間に藤真がカウンターへ座り一服をしているところへ、話し掛けてきた。その時は、口調はそれ程に異質ではなかった。辿々しいのは緊張のせいだろうとしか感じられなかった。花形は藤真の演奏を賞賛し、藤真は従業員としてその賛辞を頂戴した。花形はその後も度々店に顔を出すようになり、藤真も休憩時間にカウンターで一服するついでに花形と会話をすることも珍しくはなかった。

 藤真にとってここへ勤めて以来、自分の演奏を誉められたことは初めてだった。音楽を理解するような質の客は更にないこの店では、藤真自身も賞賛を期待しはしていなかったともいえよう。年頃も同じである花形とは自然と親しくはなったが、まだ付き合いは浅く相性の良い人物とはどちらもおそらくは思っていないだろう。ただ、相性が悪いからと云って付き合いを中断する程の子供でもなければ、多忙でもなかった為に、今もこうして時々共に過ごしているのではあった。

 花形は上手く喋ることの出来ない人物だったが、その訳を尋ねたことはなかった。最初の会話では、すぐにそうとは感づかなかったのは、彼がその言葉を再三幾度も練習していたからに過ぎないということはなんとなく想像で補えたが。


「タクシーを拾うなら、町の方へ出なきゃ無理だな。どうする?歩くか?」

 森閑とした通りに立って、暫くはタクシーを待っていた二人だったが、藤真の言葉に花形は同意を表す為に一度だけ頷いた。

 繁華街へ向けて歩を進めながら、藤真は花形が何か会話をしたがっているというのを感じた。だが、花形が何も云ってよこさないのは劣等感からか、それとも他の理由からなのかは考えなかった。


 花形はその障害の為か、またはそうではないのか無口だった。そしてまた藤真も、余り会話を貪るような主義は持ち合わせてはいなかった。
 花形は内向的な人間で、藤真は冷淡であった。どちらも、詮索し合ったことはなかったが、おそらく人間付き合いもごく限られている範囲内でしか持続していないのだろう。
 少なくとも藤真は、大抵は一人で過ごした。その方が楽で、安心出来たからである。


「え、映画を、見た、よ」

 やっと花形は喋り出した。それまでにはかなりの時間があった。勢力を強めた雨足を意識の内に留めていた藤真は頷いた。花形はそれを確認して、相手の反応がそれ以上は望めないことを察知したように、慌てて会話を続けようと口を開くのだが、その場合には平静よりも発音が曖昧で、言葉が乱れるのは常のことだった。

「前、に、話し、藤真が、ビ、ビルの、広告で、あれ」

 何を云いたいのか予め理解出来もしたので藤真は覆い被せるように促した。

「面白かったか?」

 花形は口を噤んで、頷いた。
 
 会話は取り合えずそこで終わった。

 別の話題は藤真の方から提案した。

「なぁ、いつも何処で暇潰してる?仕事はどうせ五時に終わるんだろ?九時までの間、何してんの」

 それは常々不思議には思っていた。週末ならいざ知らず、平日にも花形はよく店に訪れていた。そして最後まで演奏を聴いていることも多い。最後とは、つまり閉店の午前三時までだ。その間、何処で何をしているのだろう。

 質問を受けて花形は、口を開く前に言葉を脳裏で反芻するかのように暫く沈黙していた。漠然とした質問は、花形には酷なのかも知れない。藤真は云った。

「今日みたいに映画でも見てんのか?」

 頷きかねるというように眉を動かした花形に藤真は尚云った。

「じゃ、どっかで飲んでるのか」

 花形は首を傾げたが、とうとう口を開いた。

「忙しい、から、ざ、残業、がある、そ、れ、終わったら、大体は、もう店の、開く時間、今日はたま、たま早く、だから、映画見た、んだ」

 語調もばらばらで聞き取りにくいが、花形はこう云った。もっと聞きたいことがあったような気もするが、花形のしどろもどろな話し方を聞いていると、それが何だったかのか忘れてしまいどうでもよくなったので藤真は分かったという意味で頷いただけだった。

 雨が激しくなった。花形は所持していた傘を開こうとしている。その前に云った。アスファルトに打ち付ける雨は大粒で、身体に当たると痛い程だった。

「あそこに入ろう。雨が弱くなるまで」

 顎をしゃくって示すのは繁華街に近くなった賑やかな通りにある一軒の居酒屋だ。一度だけ入ったこともある。花形を見ると、どうしたことか相手は煮え切らない様子を見せたので、尋ねた。

「帰るか?」

 どの道、タクシーを拾ってそれぞれの自宅に帰るだけなのだ。偶然に途中までは方向が同じなのである。しかし、花形はどういう訳かその言葉にも煮え切らない風を露にした。藤真が眉を潜めていると、花形は云った。

「い、いい、よ、店に、入ろ、う」

 話は決まった。二人は割合に新しく若向けの居酒屋に足を踏み入れた。



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