席に案内されるまでの間、入り口の脇に立って二人は雨に濡れた上着を脱いだ。そんなに混雑してはいないが、大体店内は客で埋まっていた。二人連れであることから、必然的にカウンターに案内される。真ん中の方の位置に、ちょうど二つだけ席が空いていたのでそこへ腰を下ろす。

 時刻は深夜一時になろうかという頃だった。

 藤真の隣りには中年のサラリーマン風の男が一人で腰掛けていた。花形の隣にはこれも二人連れの若い女が座っており、現れた二人に会話を止めて視線を送っていたが、すぐにまた話し始めていた。

 注文した飲物が届いた。

「何か食う?」

 藤真は花形に問う。花形は頭を振った。上着のポケットから煙草を取り出してカウンターに乗せ、だがまだ手はつけずに藤真は云った。

「で、さっきの映画どうだった?何か云いたかったんじゃないのか」

 花形は考え深げに俯いて云った。

「別に、き、聞き、たい訳じゃ、な、ないん、だろ」

 卑屈に、と云うよりは、突き放したものの言い方で花形は云う。藤真は煙草をくわえて火をつけた。花形は続けた。

「長くな、るし」

「いいから話せよ。どうせそれくらいしか話すことなんてない」

 煙りを吐き出してそう告げると、花形は陰鬱な表情をしていたが、それ以上拒むことはしなかった。


 その映画は最近公開されたばかりの洋画で、戦争を背景とした問題作だった。残虐な映像もさることながら、色々と戦争をモチーフにした映画には目に見えない規約といったものがあるらしく、それを悉く覆すような内容であるらしいと、テレビや新聞、果ては雑誌などにも書き立てられ、封切り前からかなりの話題を呼んでいた。
 興味はあったが、わざわざ見ようとまではしなかった。映画館自体にも、かれこれ数年は足を運んでいない。
 おぼつかない不明瞭な言葉で花形は話し出した。内容の説明をして、所々に自分が受けた印象なども交えようとするのだが、そうすることにより話が余計に複雑になり、支離滅裂どころか脈絡のない話の経過になってしまうことに気付いて、花形は諦めたように内容の説明だけをした。
 しかしそれも、一度聞いただけでは意味が理解出来ないアクセントであったりもしたので、何度か質問をしながら藤真は耳を貸していた。一度、注文を取りに来た従業員に飲物の追加をして、それから再び花形の話を聞いた。

 ところが、花形はぷつりと話すのを止めた。

「どうした」

 藤顔を動かさずに視線だけで花形を見た。花形はグラスに手を沿えていたが、その手を引っ込めて首を振った。その動作が、何を意味しているのか理解に苦しんだ。

 だが藤真はこう云うだけにした。

「それから?」

 花形は再び口を開いた。暫くそうしている内に、花形の口を噤んだ訳が藤真にも分かった。

 花形の隣りに陣取っていた二人組の女たちが、花形の口調にひどく興味をそそられた様子で、しきりとこちらを窺っているのだ。初めは一人だけがそれに気付き、もう一方の連れが話すのを聞きながらも、絶えず花形に注意を払っているのだったが、その上の空に目を止めた女の方も、花形の奇態に気付いて、今では殆ど会話らしい会話はせず、それぞれに視線をよこしたり、更には俯いてじいっと耳を傾けているのだった。藤真がその事実を知ったことに感づいた花形は、了解を得たようにして口を閉ざした。
 女たちが、好奇心旺盛な眼差しを二人に送った。

「で、そのあとはどうなった?」

 藤真の言葉に花形は暫く硬直したまま動かなかった。だが、続きを喋り出した。気持ちが低下しているのか、いつもよりも聞き取りにくくぼそぼそとした口調だった。それでも、出来るだけ基本に忠実に言葉を云おうと努力しているのだけは伝わった。そしてそれが一層、女たちには物珍しく興味深かったのであろう。花形が、ある言葉を間違えて口にした時に、女たちの関心は絶頂の域に到達して、とうとうその中の一人が吹き出して笑った。それに影響されて、笑いの発作ともいうべきものに取り憑かれた二人連れの女はそれでも自制心に従って、肩を揺らして笑うような、ある程度控えめな嘲笑を続けた。

 花形は話し止めたが、藤真が促すのでまたしても続けなければならなかった。今ではもう、語調は惨憺たるものだった。花形の表情も、拷問を受けている囚人のそれと別段異なるところはないかのように思われた。藤真は最後まで話しをさせようと途中、何度も聞き返しながら説明を促していたが、それも結局は花形が永続的に口を閉ざしたので、最後まで聞くことは出来なかった。

 不意に口を噤み、花形はカウンターに置かれたグラスを見つめ始めた。藤真は特にもう話の続きを催促することはしなかった。女たちは、ひっそりと花形が再び奇妙奇天烈な言葉遣いで話し出すのを待っていた。花形は藤真にも何も云わず、視線も合わせずに、やにわに立ち上がると店を出てしまった。その行動は藤真には多少訳が分からなかったが、あからさまに嘲笑を始めた女たちを尻目にして勘定を払って、花形の後を追う為に店を出た。


 雨はまだ弱まってはいなかった。外に出ると雨音の激しさで耳が遠くなったような感覚がした。月のない黒い空から降り続く雨を見上げてから、鬱蒼とした灰色の景色に視線を流すと去ったかに思われた花形は、居酒屋の出口から僅かに離れた、今はもう閉まっているビルの軒下に立っていた。こちらは見ていなかった。

 藤真は雨を凌ぐようにして小走りに、花形の待つその軒下へ駆け込んで横に並ぶと云った。

「寒いな」

 外気の冷たさと相まって吹き荒れた一陣の風の刺すような冷気に藤真は云った。だが、花形は突然弾かれたようにその藤真の肩に掴みかかった。言葉はなかった。今迄、横に並んでも花形の顔は見ていなかったのだが、その行為によって目を向けると、相手の表情は多大な憤り故か、歪んでいた。しかしよく見ると、憤怒よりは苦痛の表情に近いものがあった。

 肩を掴まれた力が思いの外強力で、痛みすら伴ったので藤真は云った。何故花形がそんなことをしたのかは考えなかった。

「手をどけよ」

 花形は云われても手を離さなかった。代わりに、こう云った。

「ど、うい、うつ、もりだ」

 口調は荒く、苦々しく思っている様子だった。

「おい、痛えんだよ」

 肩を掴む手をどけようと自分の手で相手の腕を押しやったが、容易には離れなかった。益々、渾身の力を込めて掴みかかってくるようだ。藤真は諦めて花形の顔を見上げた。その時も藤真の脳裏には、力尽くで掴まれている肩の痛みを取り払うこと以外の事柄はなかった。

「たの、楽し、いか?おれ、を、笑いも、のにして」

 そう云う花形の顔は怒りの為に蒼白で、冷酷な印象がした。どうやら、花形は先程居酒屋で、女の客に嘲笑されたことを怒っているらしかった。それが分かると藤真は云った。

「そんなこと女に云えよ」

 二人は暫し見つめ合った。花形は自尊心を傷付けられ憤慨に、より鋭くなった眼差しで、対する藤真は理不尽な詰問と理不尽な暴力に対する反抗の瞳で。

 どれくらいその状態が続いたろう。一台の車が、雨水の飛沫を上げながら二人の目の前を過ぎて行った。それを合図かのようにして花形は藤真の肩から手を離し、しかしそれはただ離したというよりは押さえつけていた力を相手の身体に叩き込むような荒々しい動きだったが、花形は何も言葉を云わず、つと視線を反らした。

 藤真も同じように視線を流した。花形が何故自分に対して怒りを感じるのかは分からなかったが、肩を掴まれた痛みはなかなか消えなかった。

 花形は居酒屋に傘を忘れてきた様子だった。しかし、それに気付いても取りに戻る気配は見せなかったので、二人は雨に打たれながら往来を歩き、大きな通りに立ってタクシーを拾った。共に車中の人となり、それぞれの自宅に引き取るまでに二十分程の時が流れたが、その間どちらとも口を聞かなかった。




<<< Back / Next >>>



1