情熱を失っても技術だけは辛うじて残っていた。
それから一ヶ月の間、藤真はピアノを弾き続けた。音楽を理解しない客を相手に、哀しいメロディーは滑稽に、怒りの旋律は調子外れのテンポで、投げやりな演奏者の心を反映して店内を埋め尽くしていた。
しかしそれも長くは続かなかった。客たちの無意味な賞賛や、藤真自身が決して取り戻すことの出来ない音楽への執着を忘れさせないピアノという存在と、とうとう藤真は永続的に縁を切ってしまった。
花形が店を訪れなくなってから一ヶ月が経った時、開店前の店に藤真が姿を見せるとカウンター内にいた従業員が一枚の手紙を渡してきた。
なんでもそれは、彼によると最近めっきり姿を見せなくなった以前の常連のおかしな喋り方をする男が、今日の夜の八時過ぎになって店の前で自分を待ち伏せていて、これを専属のピアニストに渡して欲しいと、奇妙奇天烈な滑稽の極みに達した口調で云ってきたとのことであった。
最近、崇拝者が増えたじゃないか、と藤真より長い年月をここで働いているその男はにやにや笑いと共に云った。
続々と従業員が姿を現す中、カウンターの一番端のスツールに腰掛けて藤真は封書を眺めた。
変哲のない白い封筒。厚みはないことから、ごく僅かな便箋に認められた手紙らしい。いや、そもそもこれは手紙なのだろうか?従業員が同時に沿えてくれたペーパーナイフを手に取って、藤真はぼんやりと封を開けた。
それは手紙だった。二枚の便箋に生真面目な整った文字が縦書きに書き連ねてあった。そこには謝罪や悔恨の言葉は一切なかった。
いや、それよりも藤真にはこれが花形の書いたものとはどうしてか信じることが難しかった。第一、藤真の知っている花形は異国人か頭の悪い小学生のような喋り方をする人物だったのだが、紙面に綴られている文字は大変流麗で、その内容も年齢に相応したものだった。少しの躊躇いもなく、流れに沿った内容だ。何度も言い直したり、躓いたり、再三幾度も単語の言い始めを支えたり、そんな花形の様子はその手紙にはまるで表れていなかった。黒いペンのインクは、滲みもしなければ書き損じたところもないようだった。これでは花形があたかも常人のように思えてきた。
もどかしさや苛立ちをなくして、花形の思考を受け取るのはこれが初めてのような気がした。そこに認められている内容は、冷静で且つ隙のない執筆者の人格を表していた。
そして最後にこんな一文で手紙は終わっていた。
「僕があらゆる感情や思考を、上手く言葉で表現出来ないからといって、それは僕が何も感じていないということにはならないのです」
藤真はそれを目にした時、名状し難い感覚に襲われた。そこに書かれているのはごく当たり前のことだった。そんなことはわざわざ花形に教えて貰わなくとも、とうに知っている列記とした事実であった。にも関わらず藤真は何度かその一文を読み返した。そして読み返すごとに、段々とその言葉の意味が、とうに分かり切っていた筈の意味が、理解出来なくなっているのを意識した。
手紙はそこで終わり、再会を仄めかす文句はなかった。花形が何を云いたいのかも、理解出来なかった。いくら手紙を読み返しても、そこに書かれている内容は頭に入ることはなかった。
ピアノの音に顔を上げる。従業員の一人がおぼつかない手つきで鍵盤を叩く。
「藤真が入ってから、女の客も増えたな」
本人にと云うよりは、横にいるもう一人の従業員に向かってピアノを弾く男が云った。
「ピアノに向かってる彼がかっこいいって思ってんだぜ、女はよ」
冗談めかしてもう一人が答え、笑っているのを聞きながら藤真は目を反らして手紙に視線を落とした。話を聞いていたのか奥から姿を見せた支配人が云う。
「もっと大々的に宣伝したらどうだろうな。N音大っていったら有名な音楽家をいくらも世に送り出してるとこだしな。そこの卒業生となりゃ客引きには恰好だろう。藤真は確か、二年の時の音楽祭典で準優勝を取ったんじゃなかったかな」
「へえ?そうなんですか?じゃそれ使いましょうよ」
その後の会話は耳に入らなかった。便箋に落としている視線も、その実文字を見てはいなかった。誰も藤真に注意を払ってはいなかった。藤真もそこにいる誰をも意識の内に留めてはいなかった。一瞬、藤真は藤真であることを止めていた。人生という舞台に立っていた粘土製の藤真という人間は、その瞬間演じることを止めていた。彼の役柄を放棄していた。
藤真は無意識の内に握りしめていたペーパーナイフで、自らの右手首を貫いた。
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