殴られた頬の痛みが消えても、花形は戻って来なかった。
勝手の知らない他人の部屋のソファで藤真はぼんやりと時を数えていた。一時間が経ち二時間が経ち、主人の姿のない室内は他人行儀に藤真を見つめていた。向かい側のソファには花形が着ていたコートが放置されたままだ。
藤真は立ち上がりテラスへ近付いた。ぴんと張り詰めた空気が支配する夜の町は、寒々しい印象で眠っていた。この町の何処かに上着さえ着ないで花形は出て行った。いつ戻ってくるつもりなのか分からない。花形が戻って来た時に、自分がいていいものか、果たしていない方がいいのか藤真には分からなかった。
ソファに戻り、幾本か煙草を吸って、そうしてただぼんやりと花形の帰宅を待っている内、藤真は眠り込んでしまった。夢すらも見ない深い眠り。もう二度と目覚めることはないかとさえ思われる底のない睡眠を貪って、翌日目を覚ました藤真はやはり花形の姿を室内に見つけることが出来なかった。
ソファで眠った為に痛む腰を気にしつつも、起きあがって室内を一望したが誰かが進入した形跡はなかった。人の入った気配があるのだったら、昨晩呆けたように数時間もの間眺めていた室内のことだ。すぐに気付いた筈である。だが、そんな形跡は何処にもなかった。
立ち上がり、何気なく窓辺へ行く。午前中の透明な光がホールに差し込み、ピアノが照り返っていた。いつの間に降ったのか、眼下の通りにはうっすらと白い粉雪が積もっていた。滲んだような淡い水色の空。薄ら寒い光しかよこさない太陽。
何気なく視線をやると、そこには一枚のレコードがひっそりと置かれていた。プレーヤーに据え付けて、藤真はピアノの椅子に腰掛けてその音楽を聴いた。
音大に通っていた頃から気に入っていた曲。
ついこの間まで、忘れかけた音楽への情熱を沸き立たせる力を持っていた曲。
しかし、この日を境に藤真にとってその曲は枯れた泉を復活させることの不可能なただの複雑でもの哀しい調べに変わった。もうこの曲と藤真の心には何の繋がりも見いだせなかった。と同時に、この曲と花形の繋がりも消滅してしまったようだ。そして花形と自分との繋がりも跡形もなく消えてしまったのだと思えた。
ビロードの布を押し開き、黒光りする覆いを開けると、白と黒のコントラストが目に眩しかった。まるで初めて鍵盤に触れた者のように人差し指で恐る恐る音階を奏でた。重々しい旋律。情緒豊かな人間の心のように、それは複雑な感情や様々な気分を表現出来る。だが、最早藤真にはそれに身を委ねることは不可能だった。そこへ投影して表現するだけのものが、藤真の心の何処を探しても見つからない。微かに触れていた指を鍵盤から離して、藤真はやにわに椅子から立ち上がった。自分とは関わりのないピアノと面と向かっていることが不意に耐えられなくなった。逃げるようにして部屋を飛び出した。
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