好きだったバンド
1.フリクション
1980年前後のフリクションは、とにかくすごかった。
そのすごさについてはとても文章では語れない。
レックとヒゲとツネマツマサトシの3人が作り出していたサウンドのスピード感は、体験した者でなければわからないだろう。(こういう言い方って好きじゃないけど、そうとしか言えないのだ)
レコードでもムリだ。
自主製作で出した「カガヤキ」や、トリオから出した、名盤といわれるアルバム「軋轢」、その後の「スキン・ディープ」も、あの頃のフリクションのライヴには遠く及ばない。
「3/3」で活動していたレックとヒゲが渡米、NYから帰国後結成したバンド、フリクション。
レックやヒゲが、NYで見てきたもの。それは何だったんだろう?
ただ、彼らは日本に帰ってから、日本の社会や音楽シーンのここが悪い、ここがつまらないと文句を言うのではなく、つまらなかったら自分が変えて行けばいい、一人一人が変えて行けるのだ、という事をみんなに教えてくれた。
あの頃ほど「演奏する側」と「見る側」「聞く側」の垣根が取り払われた時代はなかったような気がする。
GIGを見に行ったものは、みんな自分で何かを始めようと思い、その中から今活躍している人達も多く輩出されていると思う。
そんな状況にフリクションが果たした役割は非常に大きかったのではないだろうか。
恒松さんがいた頃のフリクションは、私の知る中で最高のバンドだった。
2.ノン・バンド
ノンの個性や魅力も文章では語れないものだ。
ただ、フリクションと違うのは、幸いな事に、テレグラフ・レコードから自主製作された25cmアルバム「NonBand」は、ノンの持つ魅力を、かなり再現していると思う。
それ以前にシンクロナイズなどと出した自主製作アルバム「都市通信」も、意外なほどノンの魅力がちゃんと表現されている。
ノンの持つ、「都会というジャングルの中で勝手に生息する野生の子供」といったイメージは、必ずしもノンの本質ではないのかも知れないが、ノン以上にそんな魅力を持ったアーティストは他にいないと思う。
じゃがたら初期の頃のアケミは、「お騒がせ」という印象しかなかった。
頭は坊主刈りだったし、GIGでは、よく、割ったビンのかけらなんかで自分で額に傷を付けて流血してたので、その頃人気があったプロレスラーのブッチャーとイメージが重なる。
思ったよりも血が出過ぎて救急車で運ばれた事もあったり、お騒がせ話には事欠かない。が、本人は意外に素朴でいい人だという話も耳にしていた。
後に影響を与えるような、いいバンドになるとは、その頃は思ってなかったけど、あの破天荒な生き方を思うと、アケミの最期についてはそれほど意外でもなかったような気もする。
吉祥寺の裏通り、雑居ビルの3階(キャバレーの上)にあった小さなライブハウス「マイナー」。
「マイナー」ほど、あの頃のシーンを反映していたところはなかったかもしれない。
新宿「LOFT」よりも、渋谷「屋根裏」よりも、高円寺「BOY」よりも面白かった。
元々はジャズ喫茶だったらしいが、何が良かったのか(悪かったのか)、何かに引き寄せられるように怪しい人間が集まり、パンク・ニューウェイブ・インプロヴィゼーション・その他もろもろ怪しいイベントが集まっていた。
夜十時からやっていた「愛欲人民十時劇場」の宣伝文句ではないけど、「毎夜うごめくマイナーの気配」という言葉がぴったりなほど、何が飛び出すかわからない雰囲気でありながら、全く恐さがなく、居心地の良い空間なのが不思議だった。
今思うに、あれは、店長のSさんと奥さんの人柄が大きかったのかもしれない。
ミュージシャンでもある店長のSさんは、「大竹まこと」似の穏やかな方だった。
奥さんは「原田美枝子」似の素敵な方だった。
残念ながら、「マイナー」は、たしか、1980年末頃、閉店してしまった。
Sさんはその後、自主レーベル「ピナコテカレコード」を主催されたと思う。
そこからリリースされたアルバム「愛欲人民十時劇場」には、「乾燥したウンコ」が付録に付いてきた、という話も聞いた。
やはり、Sさんは怪しい人だったのかもしれない。
興味のある方は
特別寄稿「マイナーの誕生から崩壊まで」(店長Sさんへのインタビューより)
「吉祥寺マイナーのはみ出し者(パンクス)たち」アンダーグランドロック現場報告●山崎春美
もどうぞ。
1.イミテーション
今井裕プロデュースのイミテーション。
当時としては珍しい、おしゃれな無国籍風のバンドで、香港デビューっていう華やかなプロモーション。
ボーカルのチー坊っていう女の人も、私の好きな声質で(ノンバンドのボーカル、ノンちゃんをPOPにした感じだった。今で言うとソニーの好きなNOKKOやCHARAやジュディマリYUKIの先駆けみたいな)、とても魅力があったし、
バックのミュージシャン達も、キーボードの今井さん、ベースの高橋ゲタ夫さん(サポートメンバーだったかもしれない)など、そうそうたるメンバーが集まってたと思う。
でも、売れなかった。
(スタッフのトラブルもあったような気がする)
2.EX(エックス)
加藤和彦プロデュースで、(モッズというより)リバプール風のおしゃれな2人組。
(原宿のセントラルアパート入り口の「レオン」とかいう喫茶店でテレビゲーム(当時はインベーダーブームの末期くらいだったかもしれない)をやっているメンバーの方を見かけた事があるような気がする。
デビュー盤も話題になった。
「二本溝」の12インチシングルレコード(レコードに溝が二本、平行に切ってあって、同じ曲が二種類のアレンジで収録してある。
一方はイギリスのラジオ放送風、一方はアメリカのライブ風だったと思う。
針を置いてみるまで、どちらが演奏されるかわからないという、画期的なものだった。
当時かなり雑誌などにも取り上げられていたと思う。
でも、売れなかった。
そして
その頃、イミテーションとEXが小さなライブハウスで共演するというので見に行った人の話。
開演のちょっと前チケットを買いに行ったら、鳴り物入りでデビューした両バンドのライブにしては人影が全くない。
「あれ、開演が遅れてるのかな?」と思いながらチケットを受け取ってその場を離れようとすると、関係者の会話が聞こえた。
「入りはどう?いまいち?」
「いま43!」
手元のチケットを見ると、整理番号は『7』だった。
(最終的には10数人位だったらしい)
「sex」「size」「午前4時」などのギタリストを経て、川田良が1980年末頃からやっていたバンド「ジャングルズ」がとても好きだった。
当時のインディーズではあまりなかったタイプの、ちょっとクリームみたいなシンプルでかっこいいバンドだった。
ただ、恐くて本人には近づけなかった。
たしか、ちょっと「小松方正」似だったと思う。
いつも酔っぱらってたような気もする。
どっかのライブハウスでいくつかのバンドが集まってのライブの時、川田良は、やっぱり酔っぱらっていたと思う。
舞台の上で、ボトルを持ってラッパ飲みしてたような記憶さえある。
演奏で盛り上がった客に、川田良は叫んだ。
「ロックは死んだ!」
ピストルズのジョン・ロットンの有名な言葉だ。
固唾をのむ客に、続けて叫ぶ。
「でも、また生き返った!」
大喜びでわき上がる客席。大きな拍手。
ところが川田良はまだ続けた。
「そんでもって、また死んで、また生き返った!」
客は苦笑しながらもまたウケて、まばらな拍手を送った。
もはや川田良は止まらなかった。
「そんで、またまた死んで、またまた生き返った!」
客は、顔を見合わせサワザワしているだけだった。
川田良はいつもそんな感じだったと思う。
かっこよかった。
でも、その後のことは良く知らない