「こいつが入ってきたせいで」そう、言う人がいた。
科学の発達は現在に至るまで、常に我々に新しい副産物を与えてきた。新しい芸術しかり、新しいインフラしかり、新しい道具しかり。副産物、それは時として、それまでの社会が保っていた時代の均衡を崩す起爆剤の一つとなることがある。
イギリスの産業革命に火をつけたのはワットの蒸気機関である。これが動力革命を成功させた。革命により社会のシステムは変容し、資本主義社会が到来した。それまでの絶対王制の社会において権力を掌握していた貴族は没落し、代わって資本を持った市民階級が台頭してくることになる。
現在、この1990年代においても上のような現象が起こっているといえるのかもしれない。20世紀は電気の世紀であった。電話・ラジオそしてテレビが産み出され、それらはメディアとして人間の新しい道具となった。新しいメディアにおいて情報は距離と時間を縮め、中央の中心を各地に拡散させた。やがてメディアは多様化し1990年代、パーソナルコンピュータが爆発的に普及する。高度情報化社会の到来である。現在のところはまだ社会システムは変化の過程にあるものの、少し先の未来で振り返って気づくだろう・・・パーソナルコンピュータは社会を進化させてしまった、と。
しかし、それは幻想だろうか。マルチメディア、ハイパーメディア、サイバースペース、バーチャルカンパニー、等、情報産業、とりわけパーソナルコンピュータはいろいろな言葉で煽られた。自動車産業が既に極相に入ってしまったため、情報産業の内でもパーソナルコンピュータに対する産業界の期待が大きくて当然といえる。産業のため、エラー、フリーズ(ハング)、バグ、コンフリクトといった問題の解決を待たず、未完成なままパーソナルコンピュータは走り出した。もし、この先にも情報産業がこのような爆弾を抱えたまま、明るい幻想のみを声高に宣伝するならば、この未来に私は吐き気しかもよおさないだろう。
「こいつが入ってきたせいで、混乱が始まった」
パーソナルコンピュータの導入で「方法」が変化し、そして答えも見えないままだ、そう言う人がいた。
パーソナルコンピュータは確かに変化を導く道具であるが、これを語る言葉は根の無い夢に満ちている。こんな幻想に吐き気をもよおす一方、私は心配をせずにいられない。この爆弾を抱えたままの変化に決着がつく時、一体、社会はどんなシステムになっているのだろう。私はこうした変化の中で人間とメディアの関わりや社会システムについて今一度、熟考してみたい。光の世紀の向こう側、不安に世界を迎えぬよう、そしてここが墓場とならぬよう。