旅行記についての幾つかの註*(1)

──ルネ・デカルトの旅──



阿部耕也



 *この小論では何冊かの文献がとりあげられる。デカルトの『方法序説』、カスタネダの一連の民族誌的著作、若干の自伝、加えて魔術・練金術・占星術等に関する種々の文献──こうした書物をある種の旅行記として読むこと。そこに提示された幾つかの言説を一定の座標へ位置づけ、配列し、若干の注釈を施すこと。そしてそこから一つの「地図」を描き出していくこと。──上に挙げた文献はおよそ以上のような関心の下でとりあげられる。こうしてこの小論は幾冊かの旅行記についての私的な註であり、やはりまたきわめて私的な「地図」を作成するための覚え書である。

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はじめに


 今回我々は最初の旅行記としてデカルトの『方法叙説』をとりあげる。この「方法についての話(Discours de la Méthode)」から読み取りたいのは、思想や理論体系ではなく、文字通り具体的な方法・手続きであり、我々にとっての道標である。先取りすれば、デカルトのこの著作は、近代哲学の一つの雛形として──いわゆる「デカルト主義」の起点としてとりあげられるのではなく、現象学「現象学的社会学「エスノメソドロジー「カスタネダといった流れのなかに置かれ、そうした系譜の起点としてとらえられることになるだろう。
 前記の課題にとりかかる前に、我々は若干の予備的作業を行なわねばならない。まず我々の「地図」のための座標軸を設定する。必要なモメントとしてとりあげられるのは、まず「自明性」であり、それに対する幾つかの態度である。これはこの小論の最も基本的な契機であるため、次節ではその簡単な位置づけを試み、遠回りながらより詳細な検討をブランケンブルグの著作などにふれつつ行うことにしたい。

自明性について

 「良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている。なぜというに、だれにしてもこれを十分にそなえているつもりであるし、ひどく気むずかしく、他のいかなる事にも満足せぬ人人さえ、すでに持っている以上にはこれを持とうと思わぬのが一般である。このことで人人がみなまちがっているというのはほんとうらしくない。このことはかえって適切にも、良識あるいは理性(raison)とよばれ、真実と虚偽とを見わけて正しく判断する力が、人人すべて生まれながら平等であることを証明する(1)。」〔『方法序説』第一部〕

 『方法叙説』をとりあげるとき、我々が<自明性>を基本的な視軸とするのは、もちろん、自らの哲学を構築しようとするさい、デカルトの採った方法がそれに対する徹底的な懐疑であったからである。
 ところで我々は、有名なデカルトの「懐疑実験」に対して(いわゆる「デカルト主義者」とは別に)深い関心を寄せる二つの学を見いだすことができる。一つはいうまでもなくフッサールの現象学であり、いま一つはブランケンブルグらの精神医学である。その学的探求のなかで「日常世界」のあり方(とりわけ自明性)に目を向けることになったこれらの学は、しかし、デカルトに対する関心の力点が微妙に異なっている。前者のそれは、哲学的探求の手段としての「方法的懐疑」にあり、後者のそれは、それに先立って行われた種々の精神病理学上の「予防法」にあった。こうした二つの力点はそのまま、自明性が人間の営みに対して持つ二つの意味、自明性に対して人間がとりうる二つの態度・志向に対応しているように思える。前述したように、この二つの相対するベクトルが我々の地図のための座標軸の一つであり、旅行記をとりあげるさいの基本的な視軸なのである。
 本稿における自明性の大雑把な位置づけを確認した上で、次に我々は、精神分裂病に関するブランケンブルグの著作を通して、その内実・意味を検討する。

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 『自明性の喪失』において、ブランケンブルグは自身の患者であるアンネ・ラウの症例を中心に寡症状性分裂病をとりあげながら、「間主観的に構成された生活世界」における人間の根のおろし方の問題を取り扱っている。分裂病を「自然な自明性」に基づく「世界」への根のおろし方の問題とみるわけである。アンネの症例をみる前に、分裂病一般において占める破瓜病(あるいは単純型分裂病)の位置づけを確認しておきたい。破瓜病は「日常生活を支える基盤としての自明性からの遊離が病像を支配している」もので、妄想・幻覚などをほとんど伴わないこの分裂病は、一般には特異な、例外的な症例と考えられてきた。しかしブランケンブルグや木村敏らは、あらゆる分裂病に本質的・基底的なものは妄想・幻覚といった症状ではなく、「自明性の喪失」という本態変化であるとしている。すなわち、分裂病者の妄想・幻覚およびそれらに基づく独特の世界認識は、「自明性の喪失」によって失われた「世界」への根を補償するものとしてとらえ直されるのである。
 さて、第一に留意すべき点は「自明性」の質についてである。様々な次元での「自明性」があろうからだ。(ちなみに『自明性の喪失』と邦訳されたこの本は、原語の題名ではNATURLICHEN が加わり「自然な自明性の喪失」となっている。またこの「自然な自明性」は精神科医ブランケンブルグの造語ではなく、患者アンネ自身の言葉である。)
 アンネは「あたりまえ」ということがわからないのであるが、「あたりまえ」とされている事柄が知識として理解できないという意味ではなく、それを他の人のように自然に受け入れることができないのである。「自然な自明性の喪失」である所以である。
 自然な自明性を喪失したアンネが、その生を維持するためにとった方法は、他の分裂病者のように妄想や幻覚で独自の「世界」を創出することではなく、絶えず「いろいろ考えることで」──自分に不足しているものを、意識的に考えることで──「うめあわせ」ようとすることである。つまり彼女が選んだのは、自然な自明性ではなく「人工的な」(論理によって媒介された)自明性である。(「... だから理屈にたよる他ありません」)
いうまでもなく, 日常生活を支えているのはこうした“媒介された自明性”ではなく、あくまでもそれと意識されないような自明性である。
 「自明性」が患者自身にどうとらえられているかをみていこう。
 「... 自分に欠けているものは、知り方が《自明性であるといった》ほどの確かな知識のことではない」(アンネ)、「... この正体のわからない『何か』は意識化に対して頑固なまでに身を守り、執拗に抵抗する」(カールハインツ・Z)──「自明性」について二人の分裂病患者は、およそそれらしくない言葉遣いでこう述べている。それはとりあえず「とるにたらないもの」「くだらないもの」とみられている。それはまた(他の人々は)「生まれつき身につけているもの」でもある。〔デカルトの“bon sens”あるいは「常識」)──こうしてその「何か」は, とりあえず「とるにたらない」「くだらない」ものと考えられるにもかかわらず, 普通の人はあまねく「生まれつき身につけているもの」であるようにみられ、彼女にとっては《人間的にやっていく》《生きていくために必要な》な性格はまず次のようにまとめられる。

 (1)習慣的な日常的意識の基盤から浮かびあがることがなく、大抵は見逃されてしまう。(「意識化に対して頑固なまでに身を守り... 」)
 (2)あくまでも基底として, 人間という世界「内「存在の日常性を支えている。
以上の理由で、健康人にとっては、自明性の基本的・構成的な意味を分離した形で取り出すことは容易ではない。それゆえ分裂病が、こうした問題に対する重要な切り口になるのである。(すなわち、見田宗介風に言えば──我々の営む一般的な生は、「自然な自明性」に向けて疎外されている。《自然な自明性》という基底的構造に依りかかって生を送っている。ところが分裂病者は、それに依りかかろうとしながら、《自然な自明性》からも疎外されている。またそれゆえにこそ、分裂病においては、健康人には意識化されにくいその意味が、生の形でみてとることができるのである。)
 (3)いまひとつ自明性について注意すべきは、それが「静的な、それ自体で価値を有するものではなく、精神的な健康状態と同一視できるような基本的な機能でもない」ということである。「ありふれた」「誰もが生まれつき身につけている」ように思われているにもかかわらず、分裂病という極限状況にみるように《自然な自明性》の獲得・保持は動的な過程であり、一つの積極的な営みなのである。〔→“自然な態度のエポケー”〕

 こうして、精神医学者ブランケンブルグにとっては《自然な自明性》とは健康人がそれを媒介に「世界」に根づいているものであり、分裂病者が再び獲得・保持すべき生の基盤なのである。

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 ところで現象学者にとって《自然な自明性》とはいかなる対象であったのか。フッサールにとってそれは、何よりもまず止揚すべきものであり、自明性への埋没は認識の可能性を局限するものとしてとらえられる。現象学的エポケーとはブランケンブルグによれば、「“自然な態度”からの、自明性への埋没という状態からの徹底的な(方法的に導かれ、方法論的に反省し尽くされた)離脱」を意味している。分裂病性疎外と現象学的エポケーとは、その“離脱”が恒常的なものであるか否か、それが学的な企図から設計されたものか、病としておいつめられたものか等きわめて重要な相違点をふくみながらも、自明性へのスタンスという点では類比的・相似的なものと考えられる。また、それゆえブランケンブルグは、分裂病という現象を自らの認識の枠内に取り込むための「方法的通路」として現象学的エポケーに注目するのである。
 こうした両者の類比(あるいは等置)は逆に、現象学的エポケーのもつ二つの局面──すなわち〔認識上の〕創造性と〔生への〕危険性──を明らかにすることになる。もちろんこれは、先にあげた自明性の二面性──基底として日常的な生を支持すると同時に、認識の(また生の)可能性を局限するという二面性──に照応するものであるし、フッサールとブランケンブルグの、デカルトへの関心のずれにも対応する。現象学的エポケーに対するこうした関心は、『自明性の喪失』の続編をなす論文(「現象学的エポケーと精神病理学」(2))において主題化されているが、そこではエポケーの二つの形態の対比が行われている。
 フッサールの現象学的エポケーに加えて、A・シュッツは「自然な態度のエポケー」という概念を提出しているが、ブランケンブルグは、一般の現象学者には「エポケー概念の無意味な拡張」とされがちなこのエポケー概念の提示に対して、積極的な評価を与えている。分裂病という現象を通して「自然な自明性」の獲得・保持が動的過程であり、一つの積極的な営みであることを熟知している医師ブランケンブルグにとっては、シュッツの言う「自然な態度のエポケー」が概念の拡張という以上の、リアルなものであった。結局彼は、ブッサールの意味でのエポケーとシュッツのそれとを、それぞれエポケーT、エポケーUとして──「自然な自明性」にたいするちょうど逆のベクトルをもつ営みとして、自らの精神病理学の中に位置づける。
 こうした二つの営みの間で人間の生を見ていこうとするのは、しかし、精神医学者や現象学者だけではもちろんない。呪術師になろうとするカスタネダにとっての課題は「根をもつことと翼をもつこと(3)」(真木)であったし、ユングもその優れたテクスト(4)の中でそのことを語る。またブランケンブルグによれば、『方法序説』におけるデカルトがそうである。精神病理学者である彼の目からは、デカルトが有名な「懐疑実験」に先立って行った生活史上の諸準備は、自明性にたいする徹底的な懐疑による狂気=自己解体の危機に対する精神衛生上の“予防措置”“養生法”であった。
 我々はデカルトの『方法序説』を、以上述べてきた自明性への二つの志向を基軸に読んでいくことにしよう。

デカルトの方法


 『方法序説』におけるデカルトのテーマは、既知の事柄を既成の学問体系に沿って体系化することではなく、自らの学を構築するために「自分で自分自身を導く」ことである。またデカルトはその中で、真理を求めるために万人が採るべき方法を論じているわけではなく、彼が選んだ私的な方法について──とりわけ「全く未知に属する事柄をどう処置すべきか」について──語っている。『方法序説』がデカルトの思想上の自叙伝といわれる所以であり、またここで旅行記としてとりあげた所以である。
 周知のように、デカルトの企図は既成の学問体系の部分的補修ではなく全面的革新にあり、そのための基盤となる哲学の基本原理を見いだすことにあった。彼は繰り返し自らの試みを建築にたとえているが、デカルトのそれはできあがった都市にあらたな建物を造り足すものではなく全く新しい都市を設計しなおすことであり、一軒の家で言えば、こわれかけた部分を修復するのではなく、土台から建てなおすことである。こうした企図をデカルトはその学的探究のごく初期に抱いたが、実際にかの「懐疑実験」にとりかかることにより決定的な一歩を踏み出すのは、それから随分とたってからであった(5)

 「... しかもその哲学については確実な原理を私はまだ見いだしていなかったの で、何をおいても第一に、それをそこに据えるように努力しなければならぬ。これはまことに重大な事柄であって、速断と偏見とを最も恐れなければならなかったから、そのとき私は二十三歳であったが、もう少し成熟してからでなければ企ててはならぬ、すぐ実行にかかってはならぬ。その前にまず、これまでに受けいれてきたあらゆる悪しき意見を私の精神から抜きすててしまわねばならぬし、以後の推論の材料にするために多くの経験を積まねばならぬし、私が自分に守れと命じた方法によって絶えず自分を訓練しながら、しだいにそれによって自分を堅固にしてゆくためにもまた、これらの準備としてあらかじめ多くの時を用いねばならぬ。私はかように考えた。」〔第二部、岩波文庫版 p.33 〕

 『方法序説』に見る限り、懐疑実験を開始する前の準備・訓練は、予備的作業というにはあまりにも周到で、しかも多大な労力と時間を費やすものであった。デカルトが自らに課した様々な準備・訓練は、おおよそ二つの方向で設計されているように思える。一つは、「懐疑実験」による基本原理の発見に寄与する直接的な訓練であり、いま一つは、そうした自明性に対する徹底的な懐疑が孕む危険に対処するための諸々の予防措置・養生法としてのそれである。ここではまず前者の準備、すなわち決定的な一歩の踏み出しを補助することになると思われる訓練についてみることにしよう。

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 後者についてのきめ細かな、また多くの紙幅をさいた記述に比べて、方法的懐疑及びそれに寄与する予備訓練(教則)についての記述は素っ気ないほど簡潔である。既存の学問において真理として認められているものが、不確実で往々にして互いに矛盾したものであることを感じていたデカルトは、既存の学における多くの教則の代わりに以下の四つを必要にして充分な教則として自らに課した。〔第二部、pp29-30.〕

 〔1〕明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも真であるとして受けとらぬこと、... そうして, それを疑ういかなる隙もないほど, それほどまで明晰にそれほどまで判明に, 私の心に現れるもののほかは, 何ものをも私の判断に取り入れぬということ。
 〔2〕私の研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうしてそれらのものをよりよく解決するためにもとめられるかぎり細かな、小部分に分割すること。
 〔3〕私の思索を順序に従ってみちびくこと、知るに最も単純で、最も容易であるものからはじめて、最も複雑なものの認識へまで少しずつ、だんだんと登りゆき、なおそれ自体としては互いになんの順序も無い対象のあいだに順序を仮定しながら。
 〔4〕何一つ私はとり落とさなかったと保証されるほど、どの部分についても完全な枚挙を全般にわたって余すところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと。

 デカルトの「方法」の最も有名な要素の一つであり、「デカルト主義」を信奉する近代哲学においてはごく初歩的な、ルーティン化した作業にも見えるこれらの教則はしかし、デカルト自身にとっては何らルーティンではなく絶対的な公準でもない。その当時は一般的であったはずの、師から受け継いだ体系・理論・問題を整理し批判し統合する(建物の部分的な補修、建て増し)という行き方ではなく、自らの前に現れるあらゆるものを疑い、すべてのものが未知の事柄に思われるほど、闇の中を手探りで行かねばならぬぼど深い地点に降り立ち、全くの土台から自らの学を構築しようとする行き方を採ったデカルトにとって、先の四つの「教則」そして「懐疑実験」という方法は、予め他から根拠づけられた手段ではなく、自らを導くために自らに課した私的な方法であり、その妥当性は自身が実験台になることで確認されねばならない、彼にとっては未知の探究手段であった。
 「明晰・判明」といったデカルトの準則は(少なくとも「懐疑実験」に先立つそれは)、それ自体としては堅固な学的体系を構築するための手続きではなく、その前段階として(学的なそれをも含め)既成の世界を括弧入れするための手続き──すなわち、「自然な自明性」への埋没から脱し、常識的かつ日常的な世界を異化するための手続きを示しているように思われる。ごくあたりまえのこととして受け入れられている事柄の自明性を無化すること、学的なそれをもふくめた思考法・推論の連鎖に楔を打ち込み、細断すること。これらは、自らを自然な態度から反省的態度へと移行させ、「自然な自明性」を<人工的な、論理によって媒介された自明性>に置き換え、自らの前に安定した相で現れる世界を、きたるべき懐疑実験では一旦否定されることになる「世界」へと括弧入れするための予備的作業──いわば懐疑実験という“跳躍”のための“助走”であるように思われるのである。
 ところで、方法的懐疑とそれに先立つ四つの準則による方法は、あくまでもデカルトの選んだ道である。自然な自明性への埋没からの離脱・自らの住まう世界の異化のための手立ては、直截にそれを「疑う」というデカルトの方法(あるいはそれに導かれたフッサールの「現象学的エポケー」)だけではない。自らがな染んだ世界とはまた別の構成原理をもった(しかし同じように稠密でリアルな)「異世界」──それはカスタネダの場合のように「呪術師の世界」でもよいし、ユングのように「無意識界」であってもよい──を代替物としまた媒介として、自然な自明性への埋没という状態から脱する行き方がありうるし、また禅などにみられるように一見不合理な設問や逆説的な行動様式によって自然な態度の外へ連れ出すといった方法もありうる。(「ダブル・バインド理論」を想起せよ。)またデカルトがおこなった数々の旅行は、上の意味において彼の実験に資するところがあったかもしれない。
 こうした幾つかの行き方の中で、デカルトの採った“直截に、徹底的に自明性を疑う”という方法は、他の場合とは違って代替物となる「世界」も、導師もなく、きわめて孤独な試みであるため、先にみたような狂気=自己解体のとりわけ大きな危険性を孕んだ営みであると考えられる。デカルトが自らの実験の設計及び準備に敏感にならざるを得なかったのは、それゆえであろう。(また逆にいえば、デカルトの方法が様々な「装飾」をもたない、直接的なものであるゆえに、我々にとってのより明白な道標になるのである。)先に見たように、自明性からの離脱の手続きそのものについては素っ気ないほど簡潔にしか述べていないのに対し、懐疑実験そのものに直接資することのない生活史上の諸準備については異常に思えるほど長くまた詳細な記述を彼は行っている。ブランケンブルグが「予防法」として注目したデカルトのこうした手続きについて、これから詳しく検討していくことにしよう。

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 『方法序説』第一部では、有名な「良識(bon sens)」の宣言に続いて、彼の学問に対する関わり方について述べられている。先に見たように、年少の頃既に自分が学んでいる学問が危うい基盤に立ち、不完全な、互いに矛盾した言明に満ちていると感じていたデカルトは、「自分を自分自身で導くこと」を企てたと述べているが、にもかかわらず彼は既存の学問に対してそれほど冷淡な態度を示してはいない。彼は例の試みの前に、まず当時の知識をくまなく身につけようと努めたことを記しているし、また括弧つきではあるにせよそれらを尊重し、またそれらを学ぶことを楽しんだとも述べている。〔pp.15-19〕
 さて、しかし彼のそうした努力は長いものではない。書物による学問、学校で師について学ぶ学問によって当時の西欧の最高の教養を身につけたデカルトは、今度は「世間という大きな書物」へと向かい、できるだけ広範囲にわたる生の経験を得るため旅に出、またあるときは志願将校になる。要するに彼は「世間の人」となるのである(6)。  「懐疑実験」という危険な孤立化に踏み切る前に、彼はこうした学問上の、また生活史上の準備期間をおいたのである。──「... もう少し成熟してからでなければ企ててはならぬ... しだいにそれによって自分を堅固にしてゆくためにもまた, これらの準備として多くの時を用いねばならぬ」というわけである。
 我々は先に, 懐疑実験による「世界」からの跳躍のための助走ともいうべき手続きを見てきた。それは言わば、来るべき離脱・飛翔のために、日常世界の構成基盤である「自然な自明性」を、「明晰・判明」による明証性に導かれた<媒介された自明性>にとって代え、「世界」への固定化し硬直した根を、いつでもほどけるほどにほぐすための準備であった。しかし、これまで見てきたデカルトの生活史上の諸準備はこれとは逆に、自らの生の基盤にたいする徹底的な懐疑によって狂気という病的な、取り返しのつかない離脱にまで至らないよう、自らを「世界」に繋ぎとめておくための、「世界」へ停泊するための“錨”を手に入れようとする試みであるといえる。
 『方法序説』第一部で、一見付随的に、またあるときは自慢話のように語られるデカルトの学問遍歴並びに生活史は、こうしてブランケンブルグの言うように、彼が自らの実験の成就のために周到に設計し、実行に移した準備訓練であったことがわかる。ところで我々は、デカルトのそれに比すべき「生の設計法」、厳しい学的探究と日常生活とのバランス感覚に導かれた知恵を見ることができる。
 仏教・ヒンドゥー教などは、例えば禅にみられるごとくその修行が自明性への埋没からの離脱を積極的に目指し、そのための豊富な、また具体的な手段を開発してきた体系であるが、そうした“超越”のテクニックだけでなく、そうした試みがもたらす危険に対する予防措置・防禦法についてもデカルトのそれに比すべき知恵を有し、その体系の中に組み込んでいるように思える。これまで見てきた生活史上の知恵に限って言えば、「四住期(四学習期)」という考え方があげられる。これはインドなどでは今日でも生きている伝統で、人生を四つの段階にわけるものである。師の導きのもとで学び考える「学習期(ブラフマチャリア)」、職に就き結婚して、経済生活及び家庭生活を営む「家住期(グリハスタ)」、それまでの“世間の人”としての生活を捨て、林の中などで瞑想・苛酷な行に入る「林住期(バーナプラスタ)」、求める者に法を説きながら聖地を遍歴する「遍歴期(サンニャーサ)」といったように、自らの人生を四つの段階に分けて設計し、その生を営んでいくのである(7)。ここには、インドのように多数の人間が基本的には単独で厳しい探究生活に入る社会が、長い伝統の中で生み伝えてきた知恵を見いだすことができる。
 僧院などで経験豊富な導師ならびに同じ志をもつ仲間に囲まれてその探究生活を送る場合ならともかく、個人が瞑想・様々な苦行など苛酷な、しかも孤独な修行によってその宗教生活を営もうとするときには、それが厳しくまた真摯なものであればあるほど「世界」への根おろしが損なわれ自己解体に至る可能性が高まる。それゆえ、たとえある個人が若い時分に厳しい探究生活に入ろうと決意したとしても、年少の、まだ世界への根おろしが不安定なときにはそれを許さず、「学習期」「家住期」といった──ちょうどデカルトが自らに課したような──準備期間を過ごさせた後に本格的な修行に入らせていく。──「四住期」という生の設計法は、デカルトがもっていたに違いない認識、徹底的な懐疑などの学的探究が孕む危険性と、日常生活を営むことがそれに対してもつ予防的効果への感受性に基づき、世界からの“超越”と“内在”をあやまりなく行うための制度化された知恵であるように思われるのである。
 さて、これまで見てきたような生活史上の準備はしかし、『方法序説』においては、付随的に語られた間接的な準備である。彼は懐疑実験に先立つ、より直接的な準備作業を、明確な格率として述べている。

 「ところで、自分の住居を改築しはじめるより前に、これを取り払い、多くの材料と建築家を用意し、あるいはみずから建築術を習得し、なおまた綿密にその設計図を作成したりするだけでは十分でなく、その上さらに別の家を準備し、そこで仕事をするあいだも、気持よく暮らせることも必要であると同じように、私のさまざまの判断において理性が決意を鈍らせているあいだも、生活はできるだけ幸福につづけてゆき、自分の日日の行動にかぎっては不決断におちいらぬようにと、三、四の格率から成るにすぎないが、私は自分のための当座の準則を作ったのである。私はそれを諸君に伝えたい。」[第三部.p.34.]

 冒頭にもふれたように, デカルトは自らの試みを繰り返し建築にたとえているが, ここでは、自分の住居を改築するときにはただ古い住まいを取り壊すだけでなく, 新しい住居ができるまでのあいだ「気持よく、幸福に暮らせる仮の住まい」の確保が不可欠であると述べている。懐疑実験によって「古い住居」がとりこわされてしまったとき──「古い住居」は認識の(また生の)可能性を局限するものであるが、それと同時に、世界への根おろしを確保する“楯”でもある──、この「仮の住まい」は、代わりに、無防備になったデカルトの自我を致命的な解体から守るわけである。ともあれ、デカルトの仮の住まいの確保の仕方、「自分のための当座の準則」の内実をみていくことにしよう。

 〔1〕第一の格率は、神の恵をもって私を幼時から育ててきた宗教をつねに守りながら、またその他のすべての事においては、私がともどもに生きてゆかねばならぬ人人のうちの、最も聰明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な、極端からは最も遠い意見に従って自分の舵を取りながら、国の法律および慣習に服従してゆこうということであった。
 〔2〕第二の格率は、私の平生の行動の上では私に可能であるかぎり、どこまでも志を堅くして、断じて迷わぬこと、そうしていかに疑わしい意見であるにせよ一たびそれとみずから決定した以上は、それがきわめて確実なものであったかのように、どこまでも忠実にそれに従うということであった。
 〔3〕第三の格率は、運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めることであった。
 〔4〕最後に、私はこのような行動原理の結論として、この世の人人の営む雑多な仕事に眼を通し、そのうちから最善のものを択ぼうとした。いま自分以外の人の仕事についてかれこれ言うことはやめるが、当時の自分として与えられた仕事をつづけてゆくこと、すなわち私の理性を開発するために、私が私に命じた方法に従って力のかぎり真理の認識へと前進するために、全生涯を使い尽くすことより以上に善いことを為しえないと私は考えたのであった。私はこの方法を活用しはじめて以来、この世において人はこれ以上に楽しい、これ以上に清浄な満足を味わうことはできまいと信じたほどのいうべからざる満足を私は感じた。〔pp.34-39 〕

 第一の格率は、言うまでもなくデカルトの「暫定的道徳」として知られているものであるが、それは必ずしも言われるような、「諸学の完全な知識を前提とする知恵の最後の段階」としての「決定的道徳」に対する(それが得られるまでの場つなぎ的な)行為規範ではない。(実際デカルトは、「決定的道徳」などというものは残してはいない。)
 ブランケンブルグは、こうした準則が「懐疑実験」によって一時的に機能を停止している自我の代わりに、当時のフランスの教養人の「常識」を日常生活を営む上での「代替的自我」として置く措置であると述べる。徹底的な懐疑・判断中止によって, 日常生活全体が行き詰まったりその基盤が堀り崩されたりして「世界」へ下ろされた根が根こそぎにされ、狂気という致命的な離脱に至る危険に対処するため, 「常識」を(あくまで自覚的, 戦略的に)自我の管理人に置いたのである。(我々はここで「デカルトのフランシーヌ」というエピソードを想起したい。デカルトが“フランシーヌ”と名付けた少女人形を肌身離さず持ち歩き、何やら話しかけていたというこのエピソードは、厳しい哲学的探究によって引き起こされた精神病理的兆候と考えることができるのかもしれない。しかしまたこうした格率をみるとき、その“フランシーヌ”という名の人形が、デカルトが自らの管理者においた「常識」の依代であり、代替的自我としての当時のフランスの「良識」が受肉化した姿であると言うこともできる。)またデカルトはこの格率に限らず再三にわたって「適切な中庸」を強調するが、ブランケンブルグの言う通り、彼が『方法序説』を「良識」に関する宣言で始めたのも、この意味で偶然ではないのである。
 第二の格率について──。デカルトはその説明に、自らを森の中で迷った旅人になぞらえる。道も方角もわからなくなったとき、必要なことは一つの方向を決めて迷わずどこまでもまっすぐに進むことである。その方向が本当に正しいものかどうかにかかわらず、またその決定に大した根拠がなく、あるいはまるで偶然であったにしても。このことはデカルトにとって大きな意味をもっていたらしく、第四部の始めでもこう繰り返している。

 「日常の道徳についていえば、きわめて不確実なものとわかっている意見にも、人はあたかもそれがまったく疑うべからざるものであるかのように、それに従うことが時としては必要であることを私は久しい以前から認め、そのことはすでに述べてもおいた。」(第四部.p.44. )

 我々はこの格率が、デカルトがその「旅」で道に迷ったとき森の中に閉じ込められ生きて出ることができなくなるということを避ける手立て──これまでみてきたような“致命的な離脱”にたいする防禦法──であったと同時に、彼が「世界」に再び住まうときの有効な手立てでもあったと想像することができる。徹底的な懐疑によって自らの住まう「世界」の自明性を止揚し、ある種の明晰さを獲得した者にとって、「世界」を構成する様々な道徳・制度・生活習慣などはもはや何ら確かな根拠をもたないものに映るかもしれない。しかし、彼は、それらが疑わしく薄弱な根拠しかもたないことがわかっていても、一旦それを行うと決意したときには、あくまでもきわめて確実なものであるかのように、どこまでも忠実にそれらに従うのである。我々は、次回取り上げることになるカスタネダの旅行記の中に、デカルトのこうした「方法」および「世界」への関わり方の一つのバージョン(「統御された愚かさ」)を見ることになるだろう。
 さて、それまでの三つの格率が日常的な営みに関する実践上の、きわめて戦略的な準則を示しているのに対し、最後の格率は、自らが設計し実行していく道が最善のものであることを固く信じていたこと、またその道行きがこの上ない満足感を自らにもたらしたことを述べている。後にふれるように、自らの歩む道が最善のものであると信じること及びそれにともなう充足感は、その道行き自体が狂気という自己解体への危険性を孕みその自我がぐらつかされている人間にとっては、きわめて大きな薬効をもつと考えられる。それまでの“古い住居”をとりこわしているあいだも、「生活はできるだけ幸福につづけてゆき、自分の日日の行動にかぎっては不決断におちいらぬように」するための準則として述べられるとき、デカルトが自らの道行きについて読者に向けて語る感想も、やはりその予防措置・養生法としての戦略的なものと考えることができる。
 以上、懐疑実験に踏み切り自分の古い住居をとりこわしている間、そして土台を据え新たな住まいを建てている間、住むべき「仮の住まい」の確保の仕方およびそこでの安寧な暮らし方のための格率をみてきたが、それらはデカルトが幾度も自分自身のための私的な準則であるとことわっているにもかかわらず、他にもその類比物を見いだすことのできる普遍的なものであるようにも思える。仏教・ヒンドゥー教といった宗教的体系の中に、次回詳しく取り上げるカスタネダの旅行記の中に、そうしたデカルトの「方法」の相似物をみることができようし、冒頭に挙げたデカルトからカスタネダにいたる系譜とはまた違った流れに属すると思われるユングの中にもそれを見いだすことができる。

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 ユングの自伝は、デカルトからのそれとはまた別の系譜に位置づけられようが、その内容はデカルトのそれに比すべき旅の、ユング自身の言葉によれば「世界の他の極を発見する旅」のこの上なくスリリングな記録である。ただユングの場合は、自らの住まう「世界」を異化し、その自明性を止揚して端緒的な原経験にまで遡行し、自らの学を構築するのに、デカルトのような「懐疑」ではなく、無意識への探究という方途を採ったというだけである。(ちなみにデカルトと同じく彼は自らの試みを、被験者と実験者とが同一人物であるような実験とみなしている。──「無意識との意図的な対決を私は最初から自分自身が行っているひとつの実験と見なしており、その結果について私は非常な興味をもっていた。今日、私はそれを私に対して行われた実験であるともいうことができる。」)
 先に指摘したように、「自明性への埋没」からの離脱、自らが住まう世界を異化するための手立ては、デカルトの懐疑実験に見られるごとく「(世界の)一切を疑う」という直接的な方法だけでなく、自らが慣れ親しんだ「世界」とはまた別の構成原理をもった「異世界」へ接近し、それを媒介にすることによっても可能であると考えられる。ユングの場合は、それが無意識界であった。無意識の内容・様々なメッセージを、早急な合理主義的な説明によって定型化し意識に取り込むのではなく、むしろ一定の型にできあがった自らの意識をまた別の形に再編成するための手掛りとすること。そうした自己変容の場としての無意識に自らを立ち会わせること。──もちろんそれはデカルトの旅と同じく、自己解体にまで至る可能性を多分に孕んだ危険な旅であった。

 「精神科医である私が、私の実験のほとんどすべての段階において精神病の素材であったり、狂人の中に見出されるような心的な材料に出会わねばならなかったのは、もちろん皮肉なことであった。これは無意識のイメージの基金であり、精神病者を致命的に混乱せしめるものである。... 無意識の深みへと導く不確かな道に自分をゆだねてしまうことは, 危険な実験であるとか, 問題の多い冒険であるとさえみなされる。... 不人気で, あいまいで, 危険ではあるが, それは世界の他の極を発見する旅であった。」〔「無意識との対決」(『ユング自伝』)〕

それゆえユングも, 狂気に対する防禦法, 精神衛生のための養生法に敏感にならざるを得なかった。彼は上の引用の直後に次のように続ける──

    「私が空想についての仕事をしていたこのころ、私はとくに『この世』において支えとなる点を必要とした。そして、私の家族と職業上の仕事がそれであったということができる。私にとって、奇妙な内的世界の対極として、現実世界における普通の生活をすることは最も重要なことであった。私の家族と私の職業は、私が常に帰ってゆくことのできる根拠地であった。それらは私が実際に存在している普通の人間であることを、確信させてくれるのであった。無意識の内容は私の正気を失わすかもしれなかった。しかし、私の家族と私の知っていること、つまり、私はスイスの大学からもらった医師の資格をもっていること、私は患者を助けねばならないこと、妻と五人の子供をもっていること、キュスナハトのゼーシュトラッセ二二八番地に住んでいることなどは、私にいろいろな要求をしてくる現実であり、私が実際に存在していること、ニーチェのように、精神の風のまにまに舞っている白紙ではないことを私に立証するのであった。ニーチェは彼の思想という内的世界──彼がそれを所有しているよりも、時にそれが彼を所有している──以上の何ものも持たなかったので、彼は足場を失ってしまったのだ。.. かくて私の家族と職業は、常に楽しい現実であり、私もまた普通の生き方をしているという保証でもあった。」

 ここにあるのはやはり、厳しい学的探究が(そして「異世界」への接近が)狂気への──すなわち自らの「世界」への根おろしをそこなわせる危険をもたらすという認識であり、また(それに対する予防法として)現実世界における普通の生活をすることの、職業人・家庭人として──「世間の人」として暮らすことの重要性に関する認識である。狂気から身を守る術としてユングが語るものは、はるかに直接的で簡潔な形ではあるが、やはりデカルトが『方法序説』に記したものに驚くほど似ているのである。

デカルトの旅


 「ユードクス :浅瀬のありかを知らない人々が案内なしにこういう淵にとびこむのが危険であること、多くの人々がそこで身を滅ぼしたことは、私も認めます。けれども君は、私が先導をつとめる以上、それを渡るのを恐れてはなりません。そういう勇気をもたなかったために、大多数の学者先生たちは、学問の名に値するに足りる、堅固で確実な知識というものを、獲得するのを妨げられてきたのだからです。すなわち彼らは、感覚的事物の彼方には、自分たちの信念を支えることのできる、もっとしっかりした基礎など何も存在しないと思いこみ、さらに深く堀りさげて岩か粘土を見いだすかわりに、この砂の上に建物を建ててしまったのです。それゆえ、ここにとどまっていてはなりません。」〔『真理の探究』(8)
 「みんながこそこそその前を素通りする あの門の戸を大胆に押しあけてゆけ。」〔『ファウスト』第一部、相良守訳、岩波文庫版〕

 さて、これまでみてきたような様々な生活史上の準備および「仮りの住まい」の確保を行った上で、デカルトは彼の「実験」にふみきったのだが、「懐疑実験」のもたらす帰結についての、それに対する処方としてのそうした熟慮・予防措置は本当に必要なものだったのだろうか。そうした準備によって「一切を疑う」という営みは、すみやかに、何の支障もなく成就しえたのだろうか。(『方法序説』では、「実験」に至るまでの経過に半分以上を割き、懐疑の末に得た直証的命題「コギト・エルゴ・スム」から自らの哲学を構築していった手順を述べていながら、実験の様子についてはまるでふれられていない。)我々はしかし、『省察』第二部の冒頭の言葉にその一端をみることができる。

   「昨日の省察によって私は懐疑のうちに投げこまれた。それは私のもはや忘れえないほど大きなものであり、しかもそれをいかなる仕方で解決すべきものであるかを私は知らない。それどころか、あたかも渦まく深淵の中へ不意に落ちこんだように、私は狼狽して、底に足をつけることも、泳いで水面に抜け出ることもできないほどであった。」〔『省察』岩波文庫版、p.37. 〕

 こうして、デカルトの懐疑は、単に外へ向かうだけのものではなく、また疑う者自身をものみこみ、その生をおびやかすような営みであることがわかる。周到に設計され、多大な労力と時間を費やした準備の後でさえ、その試みは危険きわまりないものであったことがわかる。彼は自らの懐疑が「ただ疑うためにのみ疑い、つねに不決断をよそおう」懐疑論者のそれではなく、もはや疑う余地のない原初的な真理を見いだすための(方法的)懐疑であったことを強調するが、確かに、それ自体が目的となった懐疑を行う者にとっては周りの一切の事柄が不確かなものとなっても、懐疑を行うことそのものが彼に根拠を与え、その存在を守るのに対し、デカルトのそれは、依拠するに足る確かな足場が見つかるまでは渦まく深みの中で息もできずにもがくことしか許されないような、そうした営みであったのかもしれない。
 デカルトの探究は、その始まりからこうした「深淵」への感受性に導かれ、そうした言わば「世界の極点」に──「世界」がそこで終わり、また始まる場に──自らを立ち合わせるような、そうした探究であった。諸学の全面的再構築という若い決意、その土台となる哲学の第一真理の発見への決意=「世界の極点」への旅の決意、そしてその旅支度をも含めた道行きの詳細な記述。──『方法序説』で語られるのは彼の道行きの、どこかしら『ファウスト』を思わせるデカルトの旅の記録である。(「コギト・エルゴ・スム」という第一原理から導かれた「神の存在証明」を含めた様々な帰結は、デカルト自身もほのめかしているように、彼の方法の有効性を証明するための付随的なデモンストレーションであるようにも思える。)
 こうしたモティーフは、しかし、他の哲学的探究にはほとんど見られない。それはむしろ、ヒンドゥー僧あるいは密教僧の修行といった宗教的探究の中に、また後に詳しく見るように練金術・魔術・占星術といったオカルティックな探究の中に、中心的な契機として見いだされるものである。〔「知恵」「力」を得るための旅──自らが住まい慣れ親しんだ「世界」に“裂け目”を入れ、まるで未知のものに映るほど異化すること、そうした場へ追い詰められた時に顕れる原初的な経験に自らを立ち合わせて、いったん「世界」と「自己」を解体したのち、知恵と力を孕み込んだその新たな再生をはかること。──先取りして言えば、様々な装飾に覆われた練金術・魔術・占星術等の独特な探究の中に共通して見いだせるのは、こうした局面であり、「極点」への旅の往路・復路をめぐる(「世界」からの超越と内在のための)詳細な手続き・方法なのである。〕
 『方法序説』において見いだせるこうした要素を、ここでは「デカルトのオカルティズム」と呼ぶことにしよう。デカルトの中には、「明晰・判明」による明証性あるいは物体即延長といった要素に彩られ、「近代合理主義」の先駆けといわれる彼の思想──これまで繰り返し批判されもはやほとんど顧みられない「デカルト主義」と同時に、というよりむしろそれを一つの帰結として生み出し、背後から支えるものとして、こうした「オカルティズム」が存在するのである。

   「... 我々の精神の真の富を明るみに出して, 各人に, 次のような手段, すなわち, 自分の生活の指導にとって必要な学問全体を、他人の助けを借りることなしに、自分自身のうちに見いだせるようにし、さらに自分で努力をつめば、人間の理性が所有しうる最も秘術的な知識のすべてを、獲得できるようにする手段を、公開することを、私は期しているのである。」〔『真理の探究』〕
*          *          *

 彼の後継者、いわゆる「デカルト主義者」には、しかし、デカルトがくぐりぬけた「深淵」に対する感受性は見いだせない。デカルトが細心の注意を払い、多大な労力と時間を費やした「旅」は、彼らには過去のものか、あるいは単なる挿話である。彼らは、デカルトの旅のいくつかの付随的な帰結を出発点として(彼の据えた土台から)いそいそと「建て増し」と「補修」を始め、巨大な、しかし(再び周縁への旅によって活性化されることのない)干からびた体系を作りあげた。
 『方法序説』でデカルトが伝えようとしたことは、彼の記述の中身・力点を見る限り、彼の「方法」の全体であって、その結果ではない。『方法序説』が彼の旅の記録であり、学的探究の一つのスタイルのデモンストレーションであるなら、彼が読者に望み、また挑発しているのは、デカルト個人が最終的にたどり着いた地点から追随していくことではないだろう。ところでデカルトは、自らの著作の行き末を見越してこう記している。

 「... だれしも他人から学ぶ場合には, 自分みずから発明する場合ほどに、何事にせよそれほど十分によく考えることも、それを自分のものとすることもできないからである。... 私の話しているあいだは、かれらもきわめてよくわかっているように思われるのに、さてかれらがそれを繰り返して話すとなると、いつもほとんどきまって、私の意見であるとはもはや言いかねるまでに、かれらはそれを変えてしまうのを私は承知しているのである。そうであるから、たとえ私から出たといわれる事でも私自身で発表したものではないかぎりは決して信じないようにと、これをいい機会に、私どもの子孫に向かって私は頼んでおこう。」〔第六部、pp. 83-84 〕

 さて、我々はここで、いわゆる「デカルト主義」の流れではなく、そのオカルティズムの系譜を追うことにしよう。近代においてはるかに“成功”し敷衍した前者に比べ、後者の系譜は細々とした途切れがちな流れではあるが。
 デカルトの狭義の「方法」、つまるところ「明晰・判明」による明証性といった簡潔な四則に要約された方法──そしてそれだけが肥大化され「もはやデカルトのものであるとは言いかねる」ほどに変形させられた方法──ではなく、哲学的探究の一手段としての「自明性への徹底した懐疑」「遂行遮断」に注目し、「現象学的エポケー」として再定式化したのはフッサールであった。彼は「デカルトの懐疑考察にならって絶体に確実な地盤を獲得すること」〔『現象学の理念』〕をはかるが、しかし、エポケーがもたらす危険についてはほとんど考慮していないように見える。少なくとも前期のフッサールにみるかぎり、デカルトの全体的な方法──とくにその予防措置・養生法という局面に対する着目はなされていないように見える。しかし、フッサールがそうした危機に無縁であったわけではない。ブランケンブルグが指摘するように、彼はその書簡の中で〔『フッサール書簡集1915-1938 』〕学問上の理解者インガルデンに対し、自らの哲学的探究の閉塞状況について訴え、それが学的探究の行き詰まり以上の、生をおびやかすようなものであること、また逆に、その生に対する危機の局面を打開するには、自らの哲学を完成させる他はないことを繰り返し述べている。
 こうした意識はフッサールだけのものではない。例えばユングはその探究を振り返り次のように述べる。

   「私の科学は, 自分自身をあの混沌の中から脱出させる唯一の方法であった。さもなければ, あの空想や夢などが私をその茂みの中にとらえてしまって, ジャングルの中の爬虫類のように, しめ殺されてしまったであろう。」〔「無意識の探究」〕

 さて、フッサールが自らの最も忠実な理解者というシュッツは、師よりこうした局面に対する心配りがあったように思える。それは、現象学的エポケーに加えて、日常生活の中で人々が行う「自然な態度のエポケー」に注目したということだけでなく、彼の生活史自体が示唆することである。周知のごとくシュッツは亡命者であり、自伝的要素をもつ論文「他所者」などにみられるように、自分の前に展開される営みがまるで見知らぬもののように映るそうした状況に否応なく追い込まれ、自らの慣れ親しんだ「世界」を何らかの形で異化せざるを得なかった経験を持つ。(もちろんそれは、デカルトの試みほど根底的ではなく自発的なものでもないが、一時的・暫定的な経験である旅行などとは違い、はるかに追い詰められ、シュッツ的な意味での「衝撃」を与えるそうした経験であろう。また我々は、こうした面から思想史上に大きな役割を果たしたといわれる「亡命者たち」の意味を考えることができるかもしれない。)
 しかし、シュッツの学的探究において大きな役割を果たした彼の生活史上の出来事で我々が注目すべきは、亡命以上に、その実務と研究との二重生活という異色の生活スタイルである。シュッツは大学卒業後すぐに銀行での実務につき、亡命による中断と晩年を除きほとんど生涯にわたって現象学・社会学の研究者として、また銀行家としての二重生活を送ったという。(フッサールの「昼は銀行家、夜は現象学者」というシュッツ評。)また彼は週末にはすぐれた演奏家となり、音楽を深く楽しんだという。こうした生活史上のエピソードは、デカルトあるいはユングと同じく、(エポケーという手続きを含んだ)厳しい学的探究がもたらす危機と、「世間の人」として送る日常生活(およびそれを積極的に楽しむこと)の予防効果に、シュッツもまた気づいていたことを示唆するのである。

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 「... 私は、こういう仕事を私よりもはるかによくやりとげて当然だと思われる、非凡な才能の持主が、あれほどたくさんいた中に、それらの知識を見分けるだけの忍耐をもとうとした人が、ただの一人も見あたらぬこと、そして彼らのほとんどすべてが、本道を棄てて近道をとったため茨や崖の間をさまよい続ける旅人たちに、倣おうとしたことに、驚きを覚えるのである。」〔『真理の探究』〕

 さて、このようにみてくるとき、我々は哲学史上のいわば「漂流者・遭難者」を数えることができるかもしれない。ブランケンブルグは、その精神科医としての経験から「少なからざる精神病が、哲学の熱心な勉強と時間的に関連して始まる」ことを指摘する。またその哲学的探究が真摯で根底的なものであればあるほど(とりわけ「方法的懐疑」あるいは「現象学的エポケー」のように自然な態度の中断を要求する手続きを含む場合には)その危険はより一層増大するものと考えられる。(学的なそれをもふくめた)既成の制度の破壊をうたい、「超人」となることを目指したニーチェは、また「コギト・エルゴ・スム」という第一原理からデカルトの思想を批判しているが、もし彼が自らの試みを正気のうちに成就することを望んだとすれば、最も注目すべきだったのはデカルトの「方法」であったろう。(ユングのニーチェ評を想起せよ。)
 また我々は、ごく最近でもそうした例を挙げることができる。学的関心から狂気に接近しすぎたフーコーは、その中にとらえられてしまった。最もラディカルで実践的なドラマトゥルギー・エスノメソドロジストの一人といわれるゴッフマンも、彼自身作り上げた(そしてもはや他人には了解不能な)ドラマのなかに閉じ込められた。さらに、エスノメソドロジーの創始者であるガーフィンケルも、自分の考えが他人に盗まれているという強迫観念にとりつかれ、また日常生活を自力では満足にこなせなくなっているともいう(8)
 ところでエスノメソドロジーは、シュッツの現象学的社会学をその直接の源流とし、その思想をより実践的に、よりラディカルに展開したものだといわれる。日常世界を異化するための様々なテクニック(例えばガーフィンケリング)を開発し、日常的な営みに「裂け目」を入れることによって、その基底的な構造を見ようとするエスノメソドロジストは、しかし、シュッツがおそらくもっていた(そしてデカルトが明確に記述している)エポケーの二面性──その創造性と危険性──への感受性を欠いているように思える。例えばH・メハン、H・ウッドは、シュッツが日常世界の現実を「至上のもの」として特別視するのを批判して、こう述べる。

 「現実についての私の考え方は(シュッツとは)まるで違う。私にはどれか特定の現実こそが至上のものであるなどと考えるつもりはこれっぽっちもない。私ならば、あらゆる現実はどれも同等の資格で現実的であると答えてほほえんでいるだろう。どれかひとつの現実が他の現実よりも多くの真理をふくんでいるなどと、一体どうして言えようか(10)」〔『エスノメソドロジーの現実』〕

 しかし、彼らは、シュッツの思想を乗り越えようとしながら、「日常世界の現実が至上のものである」ことのもう一つの意味を──そしてそれを止揚することで導かれる二つの帰結を──見落としているように思えるのである。

*          *          *

 デカルトは、先の引用にみられるごとくその言葉の端々に、自らの思想が曲解され、まるで違った方向に定型されるであろうこと、自分の方法の全体が理解されるのは遠い先の事であろうことを予期していたふしがあるが、そうした心配は正しいものであったようだ。彼の思想・方法が「デカルト主義」(あるいはデカルト的クラルテ)といった形に定型され、近代合理主義の祖型とされていった中で、その「方法的懐疑」による哲学的探究が注目されるのは、やっとフッサールに至ってであったし、それに先立って行った予防措置・養生法が着目されるのは、精神病理学者H・ヴァイン、ブランケンブルグらに至って(精神分裂病が「発見」され、「自明性の喪失」による常識の病いとして規定されてから)である。さらに、その旅行記において展開されたデカルトのオカルティズムの全体像が受け継がれ、その骨格がより具体的な形で受肉化し、豊かな統一された像をむすぶのは、哲学からもエスノメソドロジーからも抜け出てもはや学的な装いさえ拒否したカスタネダまでまたなければならなかったのである。
 近代はデカルト的なものの展開であるといわれる。また社会学はその展開の中で「デカルトを拾って、ヴィーコを切り捨ててきた」とも言われる(11)。しかし我々は、『方法序説』を読み、その系譜を追った後で、次のように言いなおさねばならない。「近代は(また近代以降の諸学は)デカルトの<デカルト主義>を拾い、その<オカルティズム>を切り捨ててきた」と。──デカルトはまだ見いだされてはいない。発見され、定型され、展開され、いま克服されようとしているのは、ようやくその「デカルト主義」である。デカルトは、むしろそれを超克しようとするいくつかの試みの中で、その全体像が見いだされつつあるだけだ。


      註

(1)岩波文庫版、(落合太郎訳)p.12.
(2)青土社『現代思想』1980.9月号,pp.98-117.
(3)真木悠介『気流の鳴る音』1977, 筑摩書房。
(4)河合隼雄他訳『ユング自伝1』1972, みすず書房。
(5)デカルトのこの決意は、23才. 1619年のことであるが, 実行に移したのは1628年。
(6)木村敏他訳『自明性の喪失』1978, みすず書房,pp.112-113.
  あるいは前掲論文pp.111-112. 参照。
(7)廣松、吉田『仏教と事的世界観』1979, 朝日出版社,p.155。
  及び学習研究社『ムー』No.51,p.19。
(8)『デカルト著作集4』1973、白水社、pp.297-334. (井上庄一訳)。
(9)A・シコレル、J・キッセ両教授からの伝聞による。
(10)中沢新一「孤独な鳥の条件」(『チベットのモーツァルト』1983, p.19より)ちなみに中沢も、こうしたエスノメソドロジストの言説を, 現象学の深化(直線的な進化 )として見なしている。
(11)栗原 彬「社会学の現在」(『現代思想』1980.4月号,pp.82-95.)



清矢良崇との共同編集による未公刊の雑誌『NOTES』第2号(1985.4)所収。



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