子どもによるお話の分析可能性について



ハーヴェイ・サックス


 本章で、私はまず第一に、これから使おうとする基本的な概念とテクニックとを提示し導入しようと思う。ここで使おうとする概念とテクニックのほとんどは、「社会学するための会話データの使用可能性に関する序説」(Sacks,1972)にあるので、ここでの議論は、そこで発展させた成果を再導入し拡張したものとみることができる。
 第二に私は、メンバーが行っているという「記述する」という活動および「ある記述を認識する」という相互に関係する活動に焦点を当てようと思う。それらの活動は、社会学者や人類学者が記述可能なものにしようとしなければならない現象である。社会学者が、いかにして記述の構成という固有の問題を解決するのかを示そうという試みは、まさにメンバーによる記述の実例を詳細に検討することから始められる。
 私が提示したやり方で進めていけば、社会科学が直面するいくつかの中心的な、かつ、これまで無視されてきた問題、とりわけメンバーの知識の問題、妥当性の問題に焦点をあてることができるだろう。それでは始めることにしよう。

ありそうな記述を認識するさいの問題

 最初のデータは、2歳9ヶ月の女の子が『子どもたちが語るお話 (01)』の著書に語った「お話」の冒頭の二文──「赤ちゃんが泣いた。お母さんが抱き上げた」である。まず、この二文について観察しようと思うのだが、その前に注意をしておきたい。もしこれから行う観察がまったく主観的なものに思えるようなら、読者には、その観察が妥当で擁護できるかどうかわかるようになるまで充分に何度も文を読んでほしいのである。「赤ちゃんが泣いた。お母さんが抱き上げた」という文を聞いた場合、私が聞き取ることの一つは、「赤ちゃん」を抱き上げる「お母さん」は、その赤ちゃんの母親だということである。これが第一の観察事項である。(もちろん読者は、第二の文が所有格を含んでいないことに気づくだろう。字面を追う限り「赤ちゃんのお母さんが赤ちゃんを抱き上げた」とかではないのである。)さて問題は、その文章を耳にして、母親というのがその赤ちゃんの母親だと思っただけでなく、およそ英語を母国語とする人ならその多くもまたそう思うはずと私が確信するということなのである。これが第二の観察事項である。私の課題の一つは、こうした諸事実を生むようなある装置を構成することである。装置とはつまり、聞いたものを、我々がしてきたように理解するようになることを示す装置のことである。
 若干の補足:我々は二つの文章を聞くものとする。最初の文をS1、第二の文をS2と呼ぶ。最初の文は出来事O1を報告し、第二の文は出来事O2を報告するものとする。さて、私はここで、S2がS1に続くので、O2はO1に続いて起こるものと聞こえる、と想定する。これが第3の観察事項である。また、O2はO1が起こったがゆえに生起するということ、つまりO2が起こったことに対する説明をO1がしていると、我々には聞こえる。これが第4の観察事項である。私はまた、いかにして我々がそうした事実を聞き取るようになるのかを示す装置も欲しいところだ。
 もし私が読者諸兄に、これまでしてきた一連の観察(読者も同じようにするはずの観察)を説明するよう求めたら──これらの説明は社会学的な発見物として提示されたというより、それらが社会科学が解決しなければならない問題を課しているということに留意せよ──読者は次のように言うことができるだろう。赤ちゃんを抱き上げるのは、その赤ちゃんの母親だ、というのは彼女こそが赤ちゃんを抱き上げるべき人物であるからである、と。そして(読者は実際にこう付け加えるだろうが)もし彼女が赤ちゃんを抱き上げるべき人物なら、そして赤ちゃんが、母親ではないかと思われる誰かに抱き上げられたのなら、それは母親であるか、多分母親であろう、と。
 読者諸兄はさらにこう考えるかもしれない。──連続していない二文、出来事を報告する文でありながら連続してはいない二文を聞くかぎり、出来事が文の順序で生起したということまど何ら報告していないことがまったく明白なのに、もし出来事がその順序で起こるはずであり、かつ逆の情報がない(例えば、第二の文の冒頭に「しかしその前に」といったフレーズがついていない)場合には、文章の順序は出来事が生起する順序を示すのである、と。そしてその二文は、そうした出来事の本来の順序で報告するところの出来事の順序を提示する。もし赤ちゃんが泣いたとすれば、泣き始めたのは母親が抱き上げる前であって、後ではない。そう聞くことにすれば、第二の文は最初の文によって説明される。二文が連続し、第二の文が第一の文に先行するものと受け取れば、さらに説明が必要となるはずであり、何も提示されていなければそれは必要ないのだと推測するのである。  さてここで第五の観察事項を提示したい。──これまで述べてきたことはすべて、話題となっているのがどんな赤ちゃんで、どんな母親なのかを知らなくても、我々の多くが(少なくとも何人かは)推論することが可能な事柄であるということだ。
 この第五の観察をもってすれば、次のことが明らかになるだろう。──基本的に我々がこれまで言ってきた事柄は、あるメンバーが、一組の文を「ありそうな記述」と認識できるようになる要件を、例の文は満たしているように思えるということである。例の二文は「何かを記述しているように聞こえる」、またある形式の言葉は、明らかに何かについての記述のように聞こえるのである。ある形式の言葉が、ありそうな記述になるということを認識するためには、必ずしもそれらの言葉が特徴づけている環境をまず検査しなければならないということはない。
 「ありそうな記述」がそうしたものとして認識可能であるということは、メンバーにとって、また社会科学者にとって、きわめて重要な事実である。読者はメンバーに対してもつその意味を、例えばそのことがもたらす労力の節約をじっくり考えることができるはずだ。私がここで強調したいのは、後者の「社会科学者にとっても」という部分である。  もしメンバーが「記述する」という活動形式を持たず、また、少なくともあるケースではそうした活動が──記述対象となっている当の環境をよく調べもしないで──ありそうな記述と認識されるような言葉の形式を生み出すことがないとしたら、社会科学は必然的に最も成立しそうもない科学ということになる。というのは、社会科学者がこうした「認識可能な記述」を研究することができないとすれば、我々はただ、メンバーがおそらく扱い、知っているであろう現象について、社会科学者が確立され正しいと仮定された科学的な記述をするときにのみ、メンバーのそうした活動を「彼らの世界に関する知識」によって決められた若干の方法で考察できるだけだからである。
 しかしながら、もしメンバーが一つの現象──本質的に認識可能な「可能態としての記述」を手にしているなら、メンバーが創り出し認識する可能態としての記述の成り立ちを詳しく調べるために、赤ちゃんと母親がいかに行為するかなどは直に知る必要はないことになる。社会学者も人類学者も、調査対象のメンバーのもつ知識を審査したり、彼らの活動が妥当であるかどうかを見極めたりするしっかりした足場を確保するのに、植物学や分光スペクトルの分析の発展といったものを待つ必要はない。
 構成しなければならないのは、メンバーが、相互に認識可能であるような仕方で行う活動がいかにしてなされ、かつ認識可能な形でそれが行われるのかを規定するような装置なのである。そうした装置はもちろん、ただありそうな記述であるという以上の認識可能性を生成し、規定するものでなければならない。また、そうした装置は、後半での論議で、我々が考察するデータが可能にし、また要求するような活動──「招待」や「報告」といった活動を提供するだろう。
 これまで詳細に観察事項を検討してきた理由は、読者諸兄に一つの文化の微細な工程について直裁に理解してもらうためだった。それは例えて言えば、単に脳の働きを大体こんなものだとなぞるのではなく、ごく微細なディテールにいたるまで正確にたどるということである。考察している二文は、結局のところかなりマイナーなものだが、それでも読者の全員あるいはその多くが、我々が読者はこう聞くと言った通りの聞きとり方をするし、また我々の多くは、お互いまったく面識がないのである。それゆえ私は今、現実的で、かつすばらしく効果的な素材を扱っていることになる。

成員カテゴリー化装置

 装置の構成にとりかかろう。ここで必要になるいくつかの用語を導入しようと思う。最初の用語は、成員カテゴリー化装置(あるいは単にカテゴリー化装置)である。その意味するところはこうである。どのような成員カテゴリーのコレクションも、少なくとも一つのカテゴリーをもち、少なくとも一人のメンバーを含む母集団に適用される。何らかの適用ルールを用いて、少なくとも一人の母集団のメンバーとカテゴリー装置のメンバーとの組み合わせを規定する。一つの装置はそれゆえ、一つのコレクションと適用ルールとで成っている。
 カテゴリー装置の一例は「性別」と呼ばれるものであり、そのコレクションは(男性、女性)という二つのカテゴリーから成る。一つのコレクションが「共存する」カテゴリーから成るということを観察しておくことは重要である。というのは、それが単に次のような制約──つまり、組になったカテゴリーは一つのコレクションである、というような制約──と見なされることがあるからであり、また、それは誤りだからである。ごく簡潔にいくつかの適用のルールを提示することにしよう。
 しかしその前に、「赤ちゃん」と「お母さん」とが一つのコレクションに属するカテゴリーとみなせるということを観察しておこう。こうしたコレクションに関連する装置は「家族」と呼ばれるもので、(「赤ちゃん」、「お母さん」、「お父さん」...)といったカテゴリーから成る。「...」というは、カテゴリーが他にもあるということを意味するのであって、何でも(例えば「遊撃手」とかが)当てはまるわけではない。
 若干の適用のルールを導入する。もしあるメンバーが、あるカテゴリー化装置から一つのカテゴリーを用いるとすれば、その場合、その人に対して適切な言及がされていると認識できる、ということが観察される。観察される事柄を、否定形で提示してみよう。──ある人物に言及し、認識しようとするさいに、必ずしも複数のカテゴリー装置から複数のカテゴリーを用いる必要はない。カテゴリーが一つあればこと足りる。(とはいっても、それ以上用いることができないということではなく、ある人間を認識するのに複数のカテゴリーを用いる必要はない、ということである。)以上の観察によって、「言及の充分性」のルールを定式化できる。これを「エコノミー・ルール」と呼ぼう。その意味するところはこうである。──ある言及をしようとするときに、成員カテゴリー化装置に属するカテゴリーは一つだけで適切なものとなりうる。
 第二のルールは、「一貫性ルール」である。その意味するところはこうである。──ある母集団がカテゴリー化されるとして、もし最初の一人をカテゴリー化するのに装置のコレクションからあるカテゴリーが使用されたとすれば、そのカテゴリーあるいは同じコレクション内の他のカテゴリーは、その母集団の他のメンバーをカテゴリー化するのにも使用できるということである。先にあげたルールは「言及の充分性」ルールだったが、後者は「妥当性」ルールである。(Sacks,1972)
 エコノミー・ルールは「赤ちゃん」という適切な言及を規定し、一貫性ルールは、次のことを明らかにする。──もし最初の一人が「赤ちゃん」とカテゴリー化されたなら、さらに別の人物をも、そのコレクション内の別のカテゴリー(やはりそのコレクションのメンバーであるような別のカテゴリー)によって言及することができるということであり、かくして「お母さん」や「お父さん」といった他のカテゴリーは、「赤ちゃん」というカテゴリーを使用したことによって妥当なものになるのである。
 目下の脆弱な形で、また単独の使用であるにもかかわらず、一貫性ルールはいかなるカテゴリー装置のいかなるカテゴリーをも例外とはしないし、この脆弱な形(`may'の形式──最終的には、`must'の形式を導入するつもりだが)でさえ、このルールの系は有用であることが明らかだろう。その系とは、「聞き手の格率」である。その意味するところはこうである。──もし、ある母集団の二人以上のメンバーをカテゴリー化するのに二つ以上のカテゴリーが使用され、かつ、それらのカテゴリーが同一のコレクションに属するカテゴリーとして理解することができるなら、そのときは言及をそうしたものとして聞くのである。以上を「一貫性ルール系」と呼ぶことにしよう。これには次のような有用性がある。様々な成員カテゴリー装置のカテゴリーは、いわば曖昧なものである。つまり、カテゴリーとして使われる同一の言葉がいくつかの異なった装置に籍を置いていて、それぞれまったく違った言及になり得る。またそれらは、同一の人物に対して組みあわされて使われたりすることもある。それゆえ、例えば「赤ちゃん」は、「家族」というカテゴリー装置に現れるだけでなく、「生涯の段階」というカテゴリー装置──「赤ちゃん」「子ども]...「成人」といったカテゴリーを含む──でも現れる。一貫性ルール系を使用できる聞き手は、一貫性ルールによって生成されたものと受け取ってきたカテゴリー群から、あるカテゴリーを使用するさいには曖昧さがつきまとうということに日頃は気づくことさえないだろう。
 もちろん、二つのカテゴリーを兼ねる「赤ちゃん」という言葉が、組み合わされて言及するときもあるし、そでない場合もあることは明らかだ。女の人が、自分の使うカテゴリーについて何の手がかりも与えずに、誰かを「私のベイビー」──これは「生涯の段階」に現れるカテゴリーだが──と言ったとする。が、彼女のベイビーというのは一人前の大人であってもよい。いま問題にしている事例では、この問題は起こらないし、問題が起こらないという根拠を提示することができるだろう。つまり、これ以降の分析で、ある人間が「ベイビー」と呼ばれたのを聞いたとき、その言葉が、「家族」と「生涯の段階」という両方のカテゴリー装置に属していると考えることの正当性の根拠を提示できるようになるだろう。
 こうした点を考慮に入れ、一貫性ルールについて観察された事柄を次のように修正することにしよう。一貫性ルールは、我々にこう教える──最初に誰かが「赤ちゃん」とカテゴリー化されたなら、引き続き誰か別の人のことを言及するのに用いられるカテゴリー装置は、「家族」か「生涯の段階」かのいずれかである、と。しかしもし聞き手が、第二のカテゴリーが使われるのを聞き、それが最初に使われたカテゴリーが属する装置と一貫したものと解せるときには、最初のカテゴリーを第二のカテゴリーと最低限の一貫性をもつものとして聞くことになる。
 以上の考察をもとに、あの二つの文について、「赤ちゃん」という複合した言及がどう聞こえたか、また、いかにして「お母さん」が「その赤ちゃんのお母さん」と理解されたかを示すことにしよう。まずは後者の課題から取りかかることにして、これ以降は次のように仮定しておく。一貫性ルール系は、最低限、「赤ちゃん」と「お母さん」とが「家族」というカテゴリー装置に属するものとして理解されるという事実を生じさせる。我々はその事実を、「赤ちゃん」という言及はまた、「生涯の段階」という装置に属している「赤ちゃん」としてもとれるというさらなる事実を、先入見とせずに、仮定する。
 「家族」という装置は、原型的な名前である「チーム」という言葉から連想されるであろう一連のものの一つである。そうした装置の中心的な特性の一つは、「二重の組織化」ということである。この言葉を使うのは、次のような事柄を指摘したいためである。──そうしたカテゴリー装置がある母集団に対して使用されるとき、行われることというのは、装置内のカテゴリーを引き出し、の一組カテゴリーを、一つのユニットを定義するものとして扱い、母集団のメンバーをそのユニットの各事例へと位置づけることである。もしある母集団がそう扱われカウントされるなら、その対象は、父親・母親・赤ちゃんなどの数ではなく、家族の数──つまり、「完全家族」の数や「母子家庭」の数といったものなのである。そのように扱われた母集団は、そうしたユニットの各事例へと区分される。厳密に言えば、各々の事例が意味することというのは、多様なメンバーも、どれかの事例に区分されれば、その事例に「共に該当する者」であるということである。
 二重に組織化された装置によってカテゴリー化された母集団を扱う、こうした方法に対応した聞き手の格率が存在する。我々の今の課題に関連した格率は次のようなものである。もし、ある母集団が、そのコレクションが「二重の組織化」という特性を有するような装置からのカテゴリーを使ってカテゴリー化され、また、あるメンバーが、カテゴリー化された母集団のある成員──その装置のユニットの事例に「共に該当する者」と理解することができる成員──に対して付与された場合、聞き手はそうしたものとして聞けば良い。(強調したフレーズについて簡潔に考察しよう。)まず、次のことに注意しておこう。このルールは、当面必要と思われるよりずっと普遍的な射程を持つ。二重の組織化といった特性に注目するとき、このルールによって、どう聞かれるかを決定することとは独立に、カテゴリー化されたある母集団のメンバーがどのような存在として理解されるのか──これは(社会科学者によって)期待されていることなのだが──決定することができる。ルールはそれゆえ、もちろんまったく一般的であるとともに、形式的かつ予想を可能にするようなものでもあるのだ。
 さて、「理解することができる」というフレーズは、次のようなたぐいの予測を除外するということを意味する。二重に組織化されたある装置は、あるユニット内のカテゴリーに妥当な数の該当者を有している。(いつの時代でも、一つの国には一人以上の住人がいるだろうし、一つの家族には一人以上の父親、野球チームには一人以上の遊撃手がいるだろうといったことである。)もしあるカテゴリーの該当者が、あるユニットに事例が妥当な形であてはまる以上に、母集団にいるとされる場合には、「理解することができる」という制約は充たされず、また予測をすることもできなくなる。

カテゴリーに結びついた活動

 以上の分析によって我々は、いかにして「お母さん」という表現が──「家族」というカテゴリー装置が二重に組織化されており、かつ「理解できる」という制約が充たされているという事実が与えられた場合──「その赤ちゃんのお母さん」であると聞き取られるにいたるのかを追うことができる。もちろん、ここにはそれ以上のものが含まれているが。そのことはまた我々に、次の事柄を予測し、また、それがいかにして予測できるようになるのかを理解可能にする。──「一塁手が周りを見回した。三塁手が体を掻いた」という文が、「三塁手もまたそこの選手であるところのチームの一塁手」のことを(その逆もあるが)言っているのだ、と聞き手が受け取るという事実である。
 より正確な言い方をすれば、そのことは我々に次のことを提示する。部分的に──「部分的」という言い方をするのは、手許の素材に対して、同様の受け取り方をされるような別のやり方があるかもしれないからであるが──これまで述べてきた、他の場合なら充分な事柄との組みあわせで操作できる意味が、これまで観察してきた聞かれ方をいかにして保証するかを、である。これについては次節で論じることにする。ここでは第二の課題にとりかかろう。「赤ちゃん」がいかにして、複合した形式で──つまり「生涯の段階」と「家族」の双方の装置に籍を置く名称をもつカテゴリーとして聞かれることになるのか、ということである。
 ここで、カテゴリーに結びついた活動という用語を導入しよう。私はここで、この用語についてはあえて慎重な定義をしないことにするが、注意を喚起するために、その意味するところを指し示し、その間、提出された事例のいくつかが実際それに該当するかどうかを決定するための手続きを提起することにする。この用語を用いるのは、次の事柄に注目してほしいからである。多くの活動が、メンバーによって引き受けられ、メンバーのある特定のカテゴリーのもとに行われること、またそのさい、そうしたカテゴリーは、成員カテゴリー化装置から引き出されたカテゴリーであるということである。
 読者諸兄にはもはや明白なことであろうが、次の事柄を確認しておきたい。「泣く」ということが「赤ちゃん」につきものであること、つまり「生涯の段階」という装置に属するコレクションのメンバーである「赤ちゃん」というカテゴリーにつきものであるということである。重ねて言うが、メンバーがこのことを知っているという事実は、単に社会科学者に対してある課題を課するだけだ。我々が望むことは、何らかの方法──それを参照することによって、最低限「泣く」という活動カテゴリーを含む一つのクラスが、評定されている当の候補メンバーを含んでいるかどうかがわかる方法──を構成することなのだ。我々は、そうした手続きが候補メンバーではないことを決定すると主張しているのではなく、候補メンバーであることを決定すると主張しようとしているのだ。
 「生涯の段階」のメンバーは、(「赤ちゃん」...「青年」...「大人」...)といった形で「定位されて」いるということが観察からわかるが、これについては今のところ検討するつもりはない。私は、メンバーを賞賛したりおとしめたりする手続きを記述したいと思う。そうした手続きにまつわる操作は、活動がカテゴリーの結びついているという事実を運用ことによって成りたっている。もしそうした手続きが存在するなら、それは狭義の「カテゴリーに結びついた活動」という概念を示すものとなるだろうし、また候補としてあげられた活動が、カテゴリーに結びついた活動のメンバーかどうかをきちんと決定づける手だてを提供するだろう。
 定位型−カテゴリー化装置とは、任意の二つのカテゴリー間に、次のような関係が成りたつものである。つまり、A、Bのどちらかが上位で、かつ、もしAがBより上位で、BがCより上位ならば、AはCより上位であるという関係である。
 「カテゴリーに結びついた活動」というクラスの候補−メンバーである活動があり、それはあるカテゴリーCに結びついているものとする。そのとき、そうした活動をするAかBかのメンバーは、自分自身をおとしめているとみなされ、また「Cのようにふるまっている」といわれるかもしれない。一方、もし候補となる何らかの活動がAに結びついているとされれば、それをするCのメンバーは、Aのようにふるまうと言われることになり、その場合、そうした言明は「賞賛」となるのだ。
 もし、「生涯の段階」というカテゴリーを用いながら「泣くこと」をそうしたテストにかけたとすれば、「カテゴリーに結びついた活動」というクラスのメンバーの候補として十分な資格がある。「泣く」という場合、それがもたらす帰結は、他の場合よりはるかに強力なものがある。というのは、もし「赤ちゃん」が泣くに足る環境にさらされているのに泣かないとしたら、彼が「泣かない」という事実は観察可能であり、また「彼は立派な少年のようにふるまった」とされるだろう。その場合、その言明は「賞賛」と受け取られることになる (02)
 以上の手続きが、他の装置や候補となりそうな他の活動にも運用できることは明白である。他の手続きも運用できる。例えば、ある活動がカテゴリーに結びついていることを決定する方法の一つは、メンバーの資格が知られていないとき、その活動を活動内容にもとづいて名称づけることによって「暗示」されているかどうかをみるということである(03)
 ある活動を、「カテゴリーに結びついた活動」というクラスのメンバーの候補として資格づけ、「泣く」ということが、そのメンバーであることを保証し、かつ、それが「赤ちゃん」、すなわち「生涯の段階」のコレクションのメンバーであるカテゴリーに結びついていることを規定するような手続きを構成すれば、我々はさらに先へと進める。つまり、どのようにしてあの文の中の「その赤ちゃん」が、これまで提示してきた複合した言及において聞かれるようになるのかを理解するに至るのである。
 我々には第一に、もう一つの「聞き手の格率」が必要だ。もし、カテゴリーに結びついた活動があるカテゴリーに属するメンバーによって行われたと想定されるなら、またそのさい、そのカテゴリーがあいまい(つまり、二つ以上の異なった装置に籍を置くメンバーである)にもかかわらず、想定された活動が所与のカテゴリーに結びついたものとなるなら、そのときは、少なくともそれが結びついている装置に属するカテゴリーが念頭に置かれているものとして聞くべきだ、というものである。
 以上の格率によって、「赤ちゃんが泣いた」という言明を耳にしたときに、少なくとも、「生涯の段階」からのカテゴリーである「赤ちゃん」について話しているものとして受け取れるようになる。またそれとは独立の、一貫性ルール系の運用から得られた帰結は、それと組み合わせ可能である。一貫性ルール系は、最低限、「赤ちゃん」が「家族」という装置からのカテゴリーであるということを規定する。それを組み合わせると、その双方(「生涯の段階」と「家族」と)に属するものだと了解される。
 もし我々の分析が、検討中のどちらかというと単純な事実に比して複雑すぎるように思えるなら、読者諸兄には、我々の仕掛けが意図的に「過剰構築」されてきていると考えてほしい。すなわち、誰かが、まったく同じ仕掛けが果たし得る働きの総量を考慮してみれば、我々の分析の精巧さや、その仕掛けの明白な精巧さなど、消えうせてしまうことがはっきりするだろう。
 次節では、「赤ちゃんが泣いた。お母さんが抱き上げた」という二つの文がありうる記述になっていることを示そうと思う。

ありそうな記述を同定すること

 次に私は、二つの事柄に焦点を当てようと思う。まず、ある活動がカテゴリーに結びついているという事実。それから、最初の活動が起こると、それに続く第二の活動を決定する規範が存在することの意味についてである。その中で、「ありそうな記述」のもつ、メンバーにとっての「正しさ」という観点から、この両者の双方について考察したい。
 ここでしばらく、例の二文から脇道にそれ、記述可能な出来事の生起を私がどのように理解し、また読者がどう理解すると私が想定しているかについて、観察するところを考察させてほしい。いま自分がどこかに立っており、見知らぬ人をながめていると想定してみよう。その人は泣いている。さて、可能ならば、私は、起こったことは赤ちゃんが泣いたということだ、と理解するだろう。また私は、可能ならば、読者もまたそう理解する、と想定する。これが、第一の観察事項である。また次のように想定してほしい。読者はどこかに立っていて、見知らぬ二人の人間をながめている。一人は泣いており、もう一人が泣いている人を抱き上げる。さて、可能ならば、私は、起こったことというのは、赤ちゃんが泣いて、その母親が抱き上げたことだと理解するだろう。また私は、可能ならば、読者もまたそう理解するだろうと想定する。これが第二の観察事項である。
 第一の観察事項について考察しよう。最初に二つの文を扱うため、修正したフレーズは、「赤ちゃん」というカテゴリーが明らかに泣く者に適用できるあるという可能性について簡潔に言及する。「生涯の段階」のコレクションを参照すれば、泣く者は大人であると考えても良い。そうすれば、「もし...可能なら」という制約が、充たされないことになるだろう。がしかし、確かに、泣いている人を特徴づけるにはもっと別の形がありそうである。例えば、「赤ちゃんが泣いている」と見ることが可能な場合、泣いているのが赤ちゃんであるという事実に注意を払わず、「男性」あるいは「女性」が泣いているとすることも可能だが、にもかかわらず、その場面を見て私は、「男性が泣いている」と受け取らないし、読者もそう受け取らないと考える。
 一組目の観察事項は、以下のような「観察者の格率」を示唆する。もし、あるメンバーがカテゴリーに結びついた活動が行われているのをみたなら、それから、もしそれを行っているのが、その活動が結びついているカテゴリーに属するメンバーならば、そのときは、そう受け取ればよい。観察者の格率は、それが、カテゴリーに結びついた活動の観察者に対して、活動に結びついているところのカテゴリーが、その行ない手の同定を定式化するような特別な妥当性を有しているという点で、もう一つの妥当性ルールである。
 二組目の観察事項について考察しよう。もちろん読者は、メンバーとして、こう記せるような規範が存在するのを知っている。──母親は、自分の泣いている赤ちゃんをあやそうとすべきだ。私も、そして読者諸兄も、そうした規範あるのを知っているだけでなく、思い起こせば、「赤ちゃんが泣いた。お母さんが抱き上げた」というのを耳にしたとき、その規範を使った。二重の組織化という事実に加えて、その規範は、赤ちゃんを抱き上げたのは間違いなくその赤ちゃんのお母さんである、と我々が受け取るよう導くものであった。(ペアなら誰でもいいというわけではなく)その二人が関与する活動のうち、もう片方の活動を引き受けるのは赤ちゃんの母親だと受け取るにもかかわらず、そのペアが、赤ちゃんの母親に(抱き上げるという)義務を割り当てる規範を介して関係づけ可能だという事実が、二重の組織化とあいまって、抱き上げたのは母親だと我々が受け取ることを保証するよう働いたのである。
 文を聞くことを離れ、もう一つの観察者の格率を構成することにしよう。──誰かが、一連のふるまいを見るとする。そしてそれは、最初のふるまいがあると、その次のふるまいが決められるような規範を操作することを介して関連づけられるものである。そこではまた、その行為者(格率の使用者)は、そのカテゴリー、つまり規範がペアになる行為を適切なものとするカテゴリーのメンバーとして理解され得る。そうした場合、格率は次のように命じる。(a)その行為者を、そうしたメンバーであると理解すること、そして(b)第二の文を、規範に従って行われたものと理解すること、である。
 この観察者の第二の格率は、規範に関する一つの観察事項を示唆する。社会学および人類学の文献では、規範への感心の焦点は、規範が、その統制すべき行為を行うメンバーの適切な行為を支配する(あるいは社会科学者によってそう考えられる)範囲やその条件に当てられている。もちろんそうした事柄も重要だが、我々のいう観察者の格率は、規範がメンバーに対して有する他の重要性を示唆する。
 観察者は、観察する活動に、何らかの、適切な秩序を付与するため規範を使用する。何らかの規範を用いることによって、二つの活動は時系列に沿った秩序だったペアとして観察可能なものとなりのである。つまり観察者は、ある出来事が起こると別の出来事が起こるということを説明するためだけでなく、ある出来事との関連でその出来事の時系列的な位置、すなわち両者の前後関係を説明するためにも、規範を使用する。以上が第一の意義である。第二は、観察者は、規範が効力を有するような活動をする行為者の同定を公式化するのに適切なメンバーシップのカテゴリーを付与するために規範を用いるということである。
 さて次の観察事項を提示しよう。観察者は、以上の方法のいずれかのしかたで規範を使用し、その使い方の正しさを保証するような考察をしないまま、自分の用法に自信を持っている。この最後の観察事項に関しては、さらに考察する価値がある。
 我々は、少なくとも初歩段階としては次のような問題を提示している。観察者に対して、観察者の格率が使用可能だということは、その観察の正しさを保証するようはたらく。別の言い方をすれば、観察者の格率が使用可能だということこそが、その格率を用いてなされる観察の正しさに関する認識可能性を提供するのである。さらに言い換えれば、「正しい観察」少なくとも「可能な正しい観察」とは、「認識可能」なのである。
 (観察者はその婦人に、赤ちゃんの母親かどうか (04)尋ねたり、抱き上げたのは泣いたからかなどと尋ねたりして自分の観察を保証したり、その正しさを認識しようなどする必要性は感じない。彼らは、観察者の格率が使用できるかぎりそうした必要を感じることはないのだ。)
 要約する。「正しさ」とは認識可能なものであり、認識可能な形で正しい記述と認識可能な形で正しい観察との間には、きわめて良好な結びつきがある。我々が企てた課題にあてはまるようなその結びつきの一つは、次のようなものである。聞き手の格率に介して、観察者の格率を用いて創られたもののように聞き取れる一続きの文は、「認識可能な形で正しい、ありそうな記述」と理解されるだろうということである。

時系列上の秩序づけ

 本章の残りの部分では、専ら二つの課題を扱うことにする。私は、これまで組み立ててきた分析から導かれるさらなる報酬、分析から得られた帰結を発展させようと思う。また、いかにして二つの文(「赤ちゃんが泣いた。お母さんが抱き上げた」)が、確証をもって「ある物語」からのものだと言えるのかをも示そうと思う。後者の課題から始めよう。
 『子どもたちが語るお話』にそのお話が収録された子どもたちがお話をしてと頼まれたという事実は、彼らがそうしたことに関して決定的な条件ではないのははっきりしている。彼らのうち年少の子どもたちは、物語を組み立てたり、「物語」あるいは少なくとも「ありそうな物語」と認識できるお話をつくる能力はない、ということは少なくともありそうなことではある。
 西洋文学においては、話しのある断片がありそうな記述であれば、そのことによってありそうな物語あるいはその断片にもなることがままある。それゆえ、二つの文がありそうな記述であるとされたなら、そのことによって、それらはまた一つの物語(少なくともその一部)でありうるとされるように思われる。しかし、いまここで分析をやめれば、あの文に関する興味深く、また重要な物語−に関連した局面が無視されることになってしまう。それゆえ、私は分析を続ける。
 ある特徴が物語をまったく違ったものにしてしまう。例えば「そして彼らはいつまでも幸せに暮らしました」といった特徴的な終わり方、あるいは「むかしむかしあるところに」といった特徴的な始まり。私は、物語となりうるもの、つまりこれまで検討してきた断片が、「エンディング」と認められるもので終わり、「始まり」と認められるもので開始されると言えるかどうか(ここでは一貫して「確証をもって言える」という意味だが)を検討する。
 「開始」と適切な「始まり」、「終了」と適切な「エンディング」との違いを検討しながら、私はいま重要な区別を導入しようとしている。この区別はオリジナルなものなどではないが、ごく簡単な観察をもとに発展させることができる。
 1.「こんにちは」が「挨拶」として用いられるように、何らかの活動をなすのに規則的に用いられる発話は、いつも変わらずそう用いられるわけではなく、他の活動をするために用いられることもある。例えば「こんにちは」という発話は、電話で話しているとき相手がまだその場にいるか、それとも既に電話を切ってしまったのかをチェックするのにも用いられる。その場合、発話がなされたときの用法を区別する役目をするのは、ある程度、会話におけるその発話の位置、つまり会話の「途中」か「開始部分」かといったことなのである。
 2.特定の活動は、それが行われる系列のなかに決まった位置を有するだけでなく、行われる手段がもしそこで見つからなければ、行われなかった、あるいはあるはずのものがないと、メンバーによって言及される場合もある。
 例えばフィールドでの観察から得られた以下の会話が示すように、挨拶の欠落が注目されることもある。この場面には、二人の女の人がおり、その一人は6才と10才の子どもを連れている。子どもたちが入ってきて、以下の会話が起こる。

女の人:こんにちは。
男の子:こんにちは。
女の人:こんにちは、アニー。
母親 :アニー、こんにちは、とおっしゃってるのに聞こえないの?
女の人:いいのよ、笑顔でこんにちはって言ってるものね。
母親 :もうあいさつできるんだったわよね。
アニー:[頭を下げながら]こんにちは。

 3.特定の活動は、系列内の特定の位置でのみ行われる。例えば、三つ目のストライクは、投手が打者を2ストライクに追い込んでからしか放れない。
 こうした観察は、我々を、「スロット」とそれを埋める「アイテム」との区別へと導き、特定の活動はいくつかのスロットとアイテムとの組み合わせによって達成されるということを提示することになる。
 スロットという考え方は、社会科学者がある種の関連性ルールを特徴づけるのに役立つ。かくして、もしある想定した系列に対して、一つ以上の活動が適切な形で起こるか、行われるべくして行われるかする位置が存在するなら、次のように言えるはずだ。つまり、そうした活動が起こるかどうかが観察可能だということは、その位置に注目し、その場で起こるものが当の活動をするかどうかを決定することによって主張されるものなのだ。
 その種の関連性ルールの一例として次のようなものがある。会話のなかに「挨拶」があるかどうか見るためには、各参与者の最初の発話に注目し、その部分に挨拶として通用するアイテム──例えば(「こんにちは」「やあ」「やあ、どうだい」...)といったアイテムがあるかどうかみよ。挨拶のリスト中に省略記号の...があるという事実は、ある場合にはかなりやっかいな問題になるかもしれない。つまり、「挨拶のアイテム」というクラスの全メンバーをリストアップできないにもかかわらず、そのクラスが境界づけられており、またそのメンバーではないような発話(になりうるもの)がたぶん存在する──例えば、いま書き終えようとしているこの文もその一例だが──という言い方が当てはまらない場合には。挨拶が最初の発話で現れないとき、そしてそのときにだけ、挨拶は行われなかったということを確信を持って言えるのである。
 この種の関連性ルールが重要だという道筋について考察しよう。大雑把にいえばこうである。それは、社会科学者に対して、何かが欠落していると特化してで言うことを可能にする。欠落を特化して言うためには、欠落しているとされる活動が起こることの妥当性と、それが確かに起こらなかったと理解するため、欠落を探すべき位置の両方を示すのに利用できるような方法が必要となる。これらがなければ、何んらかの生起が与えられた場合、数え切れない他のセットに属する活動までが同様に、そこにないと言われるかもしれないし、問題の言明がそうした無限にあるセットの(他の)メンバーから区別できなくなり、平準化されてしまうのである。
 お話にははじまりがありうるという言い方は正しいように思えるし、それから我々はお話にはじまりがあるかどうかをみるため、開始部分で現れるアイテムを検査することもできる。さらにお話には終わりがありうるとすれば、お話がきちんと終わっているかをみるため終了部分で現れるアイテムを検査することもできる。
 私の主な関心は、お話の適切なはじまりの可能態にあるのだが、終わりについても簡潔に考察しておくことにする。「彼女は眠りについた」──こう言うことで話し手は、単にお話を終わらせるだけでなく、適切な形で結末づけているように思われる。そう思えるのは、こうした文がある出来事を報告している──あるいは報告しているように聞くことができるという事実による。眠りにつくという出来事は、終わりに関連したもので適切なエンディングであり、その日にまとまりをつけるもの、つまり非常に規則正しく使われる生活のオリエンテーションの単位なのである。その人にとって一日とは眠りにつくとき終わるものなのだと認識されているので、お話も、終結部分で主人公が眠りについたという報告があると結末づけて終わっていると認められるわけである。もちろんこの種のエンディングは、幼いこどもがつくるお話に限るわけではない。こうしたエンディングは、「最後の眠り」たる死から世界の終わりになるものも含めて、はるかに洗練された欧米文学における冒険小説によく出てくる道具だてなのである。
 開始に話を戻し、それがそのままはじまりと言えるかどうか考察してみよう。私はここで、大人に対して話を始めるのは、小さな子どもにとってかなり特別なことなのだということを示そうと思う。それには、小さな子ども、件のお話の話し手ぐらいの年齢の子どもが、大人に対して話しを始めるさいの最も特徴的な方法に注目することである。その方法とはつまり、「ねえ、知ってる?」といったアイテムを使うことである。私はそうした開始の方法についての一つの分析を提示しようと思う。分析によって、その問題は次のように特徴づけるられる。つまり、そうした開始法が方法的な解決法として機能しているということである。
 この分析によって、小さな子どもにとって、お話を始めるのは、特別なことなのだという私の仮定も証明されると思う。分析が首尾よくいけば、ここで扱っているお話の開始が、これまで示した同じ問題に対するもう一つの解決法と理解できるのかどうかがわかるだろう。
 もし、問題の発話(「赤ちゃんが泣いた」という文)には別の解決策が用いられていることを示せれば、お話が適切なはじまりとなるもので開始され、またそれゆえ、「適切な」はじまりで始まりと「適切な」おわりで終了されているということを示すことになるわけだ。とにかく、そうすることが私の意図なのである。
 まずは、大雑把に、こう仮定しておくだけで(率直に言えば、その事実は明白なのだが)議論を始めよう。つまり、子どもには、子どもだけが持ち得る発話権がある、とするのである。事実が仮定のとおりだとすると、私は、子どもが大人たちと話を始めようとする方法がその問題の解決策としてもっとも適切であるかどうかをみたい。その問題とは、誰かがそれ以上に先へ進もうとすれば、よいスタートを切る必要があるということに注目した問題である。その場合、そうした性格をもつ開始がはじまりと呼びうるのである。
 さて、3才ぐらいになると、子どもの何人かは、大人と話をするきっかけをつかむのにほとんど普遍的な方法をもつようになる。例えば、「ねえお父さん、知ってる?」とか「あのね、お母さん」といった言葉をつかうようになるのである。
 会話の系列化のルールをいくつか導入しよう。ここではデータ提示をしないでおくが、事実はきわめて明白なものなので、読者は容易に自分で確認することができよう。とにかく、読者諸兄はそのルールを知っている。この系列化ルールは、参与者が二人の会話にだけあてはまる。というのは二人の会話というのは特別な現象なのである。そうした言い方をするのは、三人以上の会話にもあてはまるようなにするつもりはないからである。
 二人の会話に関する基本的ルールの一つは、質問と答えという対になった対象に関するものである。それはこういったものである。もし一人が質問をしたなら、そしてその質問がきちんとしたものなら、もう一人は適切に質問に対する答えを提供し、それ以上のことは言わない。このルールは、かなりの説明が必要なのだが、ここではとりあえず、このままにしておく。
 第二のルールは、まったく基本的なものである。というのは、そのルールによって、原理的にはどんな性格の会話でも、みな次のようにみなせるからである。──質問をした人は、問われた人が話したあとに再び話すことができ、「再び話をする予約済の権利」を手に入れる。かつ、その予約済の権利を行使すれば、その人は質問をすることができる。このルールを「連鎖ルール」と呼ぶことにしよう。これを最初のルールと組み合わせれば、Q−A−Q−A−Q−A...という形式をとる無限の長さの会話をすることができるのである。
 さて、我々が考察中の特徴的なはじまりの発話は、(例えば「ねえ、知ってる」といった)質問である。このようにはじめてしまえば、限定つきの発話権がない話し手でも、質問ごとに返答がされたときも、あるいはまた、ある質問が完結して相手が別の方法ではなしてきたときにも、さらに次から次と新たな質問を投げかける立場にいられる。
 しかし我々がはじめにとりあげた質問は、それに答えることがまた別な質問になるような、相当まれな、しかし例外的とまでは言えない質問の一つであるという点で、かなり珍しいものであり、この場合、適切な、くりかえし出てくる返答は、「何それ?」である。この種のきっかけとなる質問を使うと、出来事に多様性が生まれる。第一に、適切に答えるとそれがまた別の質問になるような質問が用いられ、適切な質問とともに答えられれば、連鎖ルールが作動する。つまり、一方が話したあと、再び話す予約済の権利を有するのは、いまや、最初の質問者ではなく、最初に答えた者なのである。最初に質問した者は、自分の質問によって、連鎖ルールを使えると仮定できないか、あるいは使わない方を選択してしまったのである。(ここで注意してほしいのだが、我々は、彼が連鎖ルールに訴えることを選択しなかったのではなく、そうするかわりに質問者が連鎖ルールの選択権を最初の返答者に与えたと言っているのである。)
 第二に、最初の質問者は、連鎖ルールによって次の発話をしないだけでなく、それを最初にあげた系列化ルールによって──つまり、質問をされた人がそれに対して妥当な形で話し、答えるという事実によって行う。その場合、彼の次の発話は、連鎖ルール、あるいは発話をする他の手段による発話という事実としてはされないだけでなく、質問を受け、答えなければならないという事実があって、強制的にするものなのである。
 第三に、彼が答えなければならない質問というのはしかし、答えとなるものが質問者でさえ知らず、しかも、その前の系列の返答者が知っているべきものだという点で、「開かれた質問」なのである。その場合、第二の質問に対する答えになるものは、子どもが答えだと受けとれば、どんなものでもよい。それにより、最初に言いたかったものをなんでも、強制ではなく、自分でそう言うことによって、言うチャンスが与えられるのである。
 そうした場合──そして、以上の事柄が、なぜ「ねえ知ってる」という質問がでてくるにかを説明する方法である場合、我々は次のように想定できる。つまり、子どもたちは、なにか話をするにあたって、自分たちには、話し始める権利となるものは限定つきの権利しかないと思っている、ということである。そのあと、彼らは求められたときだけ話をすることができるのである。また、それが自分の立場からみた自らの置かれた状況ならば、確かに彼らはその問題に対する素晴らしい解決法を発展させてきたと言える。
 以上のことから我々は、子どもが話し始める方法に注目したことは適切であると言える。また、もしそのお話のはじまりが文化として標準化された(「むかし、むかしあるところに」といった)ものではないなら、それが、子どもが話を始めるにさいして相対している特殊な状況によるはじまりとみなせるかどうかが、我々にはわかる。
 我々は、次のような方法で進むことによって、「赤ちゃんが泣いた」という文の身分が適切なはじまりである、と考えられる地点に至ったようだ。特にスタートとしてそれは、限定つき発言権しかない者にとっての適切な会話の開始文であるということによって、はじまりなのである。限定つきの発言権しかない立場で話しを始めるという問題に対して、別な解決法を考えてみよう。きっかけとして「チケット」という用語を導入してみる。この用語で私が指摘したいことを、仮定の事例によって示そう。その場に大人が二人いるとする。彼らはお互い相手に話しかける権利はない。つまり、見ず知らずで紹介されてもいない。こうした二人の人間の間でも、一方が他方に話しかけることが可能な条件は存在する。しかも、そうした条件が、話を始めるときの実際使われている条件だということは、最初の話の断片によって示すことができる。どこでそれが行われるかと言えば、チケットによって話が始められるということである。つまり、話をはじめるのに用いられるアイテムとは、発話権がない場合、発話者に話し始める保証を与えるようなアイテムである。例えば、一方が相手に向き直り、「あなたのズボンが燃えてますよ」と言う。それは何ら正しいオープニングではないが、発話者がなぜ正しい沈黙を破ったかを説明するものであり、彼が話しかけたことを正当化するようなオープニングなのである。この場合チケットは、誰かに話しかけるには限定つきの発話権しかない発話者が、会話の冒頭のアイテムとして特に使用可能なアイテムである。そして、最も模範的なチケットとは、「相手に関係するトラブルの報知」なのである。
 さて、赤ちゃんが泣いたということは、誰かに──例えば、その赤ちゃんの母親に関係するトラブルが起こったということだということは、充分明白であろう(前にした規則に関する議論を参照)。赤ちゃんが泣くのを聞いた者は、発話権、つまり、そうした出来事が起こったという事実を知らせる権利を得て、「赤ちゃんが泣いた」というチケットを使って、最も効率的に話すことができる。そうであるからこそ、「赤ちゃんが泣いた」という開始文が、適切なはじまり、つまり、はじめの例では限定つきの発言権しかない者にとっても、はじまりとなる何かであるということがわかるのである。
 これまで吟味してきたお話には、適切なはじまりと適切なおわりの両方があるということ。また、こうして、それがお話であるのは、それが記述の可能態だということだけでなく、その部分として、あるアイテムを使用していることにもよるのだということ。ここであるアイテムというのは、観察者に、そのアイテムを使用する者は、お話にはある位置が存在することを知っているのだ、と理解させるような位置で現れるアイテムのことである。さらに、そうした位置で使われるときには、それにぴったり当てはまるような特定のアイテムが存在するということ。これまで行ってきた分析によって、我々は以上のような事柄を確立してきた。



(1)Pitcher and Prelinger, Children Tell Stories : An Analysis of Fantasy. (New York: International Universities Press, 1963.)
(2)例えば次の事柄について考察してみよう。「こうした子どもは、自分たちがもはや『赤ちゃん』を卒業していることを充分意識しており、それが近所の子どもであろうと弟妹であろうと、赤ちゃんというものにあからさまな軽蔑を示しがちである。こうした優越感は、両親が大人びた行動に対して賞賛したり、『そんなことするの赤ちゃんだけよ、あなたは違うでしょ!』といった言葉で励ましたりしたことのなごりである。しかし、この年齢の子どもに、こうした言葉を頻繁に用いるのは、大人の心の中に、子どもがまた赤ん坊じみたふるまいに戻らないようにという利害関心があるからだ、と推測される。」(Fischer and Fischer in Whiting 1963:949).
(3)以下のデータは、緊急精神病クリニックに電話した相談者(C)とスタッフ(S)との会話である。4行目の「ヘア・スタイリスト」と最後の行に見られるホモ・セクシャルを思わせる言及との併置に注意してほしい。

S:じゃあ、テレビがみれないわけですね。興味がもてるようなことはないのですか。
C:全然ないです。
S:以前はどんなことに興味をもっていたんですか。
C:ヘア・スタイリストをやったことがあります。ときどき、はやりのファッションをしてみたり。まあ、そんな感じです。
S:なぜ働かないんですか。
C:働きたくないんですよ。そういうことです。
S:でも、このままじゃいけないって思うでしょ。
C:別に。ああ、仕事のことですか。
S:そうです。
C:あのね、私は恐いんです。外出して、仕事を探しにいくのが恐いんですよ。そういうわけなんです。いや、それより、自分が恐いのかな、なぜだかわからないんですが。なにもかもが恐ろしいくらいごちゃ混ぜになった感じなんです。
S:親しい人ともめたりしたことがあったんですか。
C:親しい人と? ええ、私は三度結婚しているんです、そして私は、──ああ、親しいというのは、議論したりといった意味ですか。
S:ええ。
C:本当に親しい人などいません。とても孤独なんです、私は。思うに、私は──
S:あなたを愛してくれる人はいないんですか。
C:誰かどこかにいるに違いないとは思うんですが、どこの誰かがわからないんです。
S:性的な問題があるんですか。
C:今までに?
S:ええ、そうです。
C:そう思うのも無理ないですね。あなたは、多分こう思っているんじゃないですか──私がヘア・スタイリストだったっていうし──正常なのか、そうじゃないのか、あやしいって。ノーマルか、ホモセクシャルかどうかわからないなって。私の人生は、完全にごちゃ混ぜで、ひっくり返っていて、めちゃめちゃになっているって、そう言ってるんです。冗談じゃなくて。
(4)「年を取ってからの子どもは、しばしば婦人を当惑させていた。というのは、人がたくさんいるところで、彼が遊んでいるとき、『あの子はきっと、あの人たちの孫よ』と言うのがふと聞こえてくるからである。」(Fischer and Fischer in Whiting 1964:934)



子どもによるお話の分析可能性について」への序文(John J, Gumperz & Dell Hymes)

 ハーヴェイ・サックスは、カリフォルニア大学アーヴァイン校の社会学担当助教授である。カリフルニア大学バークレイ校で博士号を取得し、UCLAで教鞭をとった。彼の研究の関心は自然言語に向けられ、自然言語の構造と資源が話者の社会的知識をどのように反映しているかを研究した。本章では、ガーフィンケルが実践的推論と呼んだものが日常会話において用いられる特殊な方法に関する実証的研究のための概念装置が展開されている。ここで用いられている素材は、彼の最近の著作(Sacks 1971)で、より詳細に考察されている。
 最初に行われた観察は、まったく文法についてのもののように見える。我々は、文を迅速に、そこに顕在化していないような関係を参照することなしに、理解する。それゆえ、そこには、この能力を説明できるような暗黙の知識が存在しているはずである。サックスは、言語学者もまた扱っている素材を扱っている。つまり、テクストの一貫性[いかにして文が、勝手気ままな言葉の羅列ではなく、互いに連結したテクストとして聞かれるのか(Hassan 1968)]を扱ったり、意味論の領域に踏み込んでいるのである。しかし、文の スタイルへの関心がテクスト自体に向けられがちな言語学者とは違って、サックスは、話者間の言語を介したやりとりに特別な関心を抱いている。彼は、話し手が自分自身を同定したり、他者に対応したりするさいの意味論的・理論的戦略を研究し、その分析においては特定の名詞や動詞が注目されている。例えば、「お母さん」「赤ちゃん」「遊撃手」「野球のチーム」「ヘア・スタイリスト」といった名詞や、「泣く」「あるファッションをする」「性的問題に悩む」といった活動であり、それらは社会関係の標識の役目をはたす。彼の目的は、会話でこうした言葉が併置されたとき、聞き手がそれを解釈するため、社会システムに関する自らの知識をどのように利用するのかを示すことである。メンバーは、社会的知識を三通りのしかたで使うと想定されている。すなわち、(a)できるかぎり文を一続きのものとして認識し、あるいは、記述や物語、会話となるはずのものとして認識するように、(b)何らかの社会的効果をもたらすように、例えば、答えを誘発したり、発言権を得たり、誰かの歓心を誘ったりするように、また(c)賞賛、批判、ユーモアといった感情をコミュニケートするように、社会的知識を運用するのである。
 言語学とエスノサイエンスが共有する視座を、二点あげておこう。第一点は次のような見方である。人間科学の分析をするのに、他の科学の成果を待つ必要などなく、またコミュニケーションの系列について、実際に起こった出来事を参照することなく、全体として分析することは可能だという見方である。サックスは、彼が記述したような形式的特徴を基礎として、メンバーは「ありうる記述」を同定しうる、と主張する。ここで拒絶されているものは、Bloomfield (1933)のような見方である。つまり、意味論的分析をするとき 、言及されている現象について分析するためには、他の科学の成果をまたねばならないというものである。それはあたかも、意味の記述を指示対象の記述と同じものとみなすような見方である。言語共同体のメンバーにとって関連する(基準となる)現象に関する他の関連諸科学の寄与によるやり方が、最近の意味論による分析の発展を導くことができたのは、意味は独立に取扱い可能であり、またそう扱わねばならないという認識があってこそであった。問題は、現代音韻学の創始と同じである。純粋に物理的(音声的)特徴の記述を越えて、言語共同体のメンバーにとって基準となる特徴というレベルで発声を分析することが可能であるし、またそうしなければならないと理解されて初めて、音韻学が可能となったのである(Sapir 1949g参照)。
 第二の共通点は、次のようなものである。「アイテム」と「スロット」を区別していることに見られるように、行為の流れには質的構造があるということを認識しており、また、何かが起こらなかったということを妥当な形で特定するような可能性とを、鍵となる特徴として抽出している。このことの重要性については、12章で、Schegloff がより詳細に分析している。
 サックスは、社会規範に対する自らのアプローチと多くの社会学者のそれとの間に一線を画し、次のように特徴づけている。

社会学および人類学の文献では、規範への関心の焦点は、規範が、その統制すべき行為を行うメンバーの適切な行為を支配する──あるいは社会科学者によってそう考えられる──範囲やその条件に当てられている。もちろんそうした事柄も重要だが、我々の言う観察者の格率は、規範がメンバーに対して有する他の重要性をも示唆する。観察者は、観察する活動に、何らかの、適切な秩序を付与するため規範を使用する。

社会科学は一つの常識として、法律のような社会規範は、コミュニケーション行為の外側に外在すると仮定してきた。多くの研究者が、規範を所与のものとし、行為を単に、その内容がそれとは独立に与えられた規範に合致しているか、あるいは逸脱しているかという観点からのみ考察する。こうした観点からすれば、サックスのデータの選択のしかたは、ささいなことにこだわっているように思える。もし母親は赤ちゃんを抱きあげるべきだということが社会規範だとすれば、そうする母親には何ら注意を払う必要はない。たとえ母親がそうしなかったとしても、そこには探れば何か原因があるのだろう。しかしサックスは、問題の行為が「なぜ」起こったかということにはまったく興味を示さず、なによりもまず、いかにしてその行為が理解可能かつ解釈可能になるのかということにその関心を寄せるのである。彼にとって社会規範とは、コミュニケーションを可能にするコードの一部であり、ちょうど文法が発話を規定するように、出来事の認知を規定するものなのである。他の社会科学者は、サックスの引用した二文が、誰にでも同じように理解される事実を問おうとせずそのまま受け入れるが、サックスはそうした了解のプロセスを、問題をはらんだものとして扱うのである。彼は、そうした文を理解可能なものにするのは、社会構造に関する我々の知識なのだと主張する。サックスが論じた範囲に限っても、その研究は、7章で Ervin-Tripp が提起した文化間のコミュニケーションの研究にとって非常に重要なものといえる。
サックスの議論に沿った社会的カテゴリーの研究の前提条件は、語彙システムに関する知識である。話者が自分の選択の意味を評価するためには、ある種のメッセージを表現する複数の言葉全体になれ親しんでいる必要がある。それゆえサックスの分析は、エスノサイエンスとの類似点を示す(3章の Frake を参照)。しかし、語義的領域を会話におけ る特殊な言葉の使用に関係づけようと試みるなかで、サックスは通常のエスノサイエンスの枠を越え出ていく。例えば彼は次のような指摘をする。──「赤ちゃん」といった言葉は、同時に「生涯の段階」と「家族」という二つの「カテゴリー・コレクション」あるいは意味領域に属しうる。このケースに対して適用可能なカテゴリーのうち、実際にどれが適用されるかを特定するためには、また別の関連性ルールが必要となる。これらの関連性ルールは、言語学者のいう意味論的ルールと同様の働きをもつ。それらは、ある事例において可能なたくさんの解釈のうちどれが妥当するかを決定する。しかし、言語学者たちのルールが文内部の語の関係についてしか適用されないのに対して、サックスのそれは別々の文にある言葉の結びつきについて、あるいはまた、脚注2で引用されたやりとりに見られるように、長い間隔があいてまったく離れ離れになった会話の二つのセクション間に対してさえ適用されるのである。
より興味深い点は、解釈のルールが発話という枠を越えて適用されるということである。聞き手の格率と正確に対応するものとして、観察者の格率が存在する。解釈はまた、適切な開始と終結という点から、お話しの形式の構造についても言及される。この観点から自然会話について詳細に検討したのが、次章の Schegloff である。
サックスの分析は、手許の素材に対しては手間のかかりすぎるものになっているように思われるかもしれない。詳細な分析はたった二つの文に向けられているのだが、にもかかわらずそこで展開された分析装置(とりわけ、カテゴリー化装置、二重の組織化、カテゴリーに結びついた活動、一貫性ルールといった概念)は、高度に一般化され、あらゆる言語的相互作用の分析に適用できるものである。もし我々が、話者がある発話をすることで何をなそうとしているのかを(字面の、言った内容とは別に)理解したいなら、話者が使う社会的カテゴリーとそれが話者にもたらす文化的連想に精通する必要がある。他者に対してこうしたカテゴリーを割り当て、カテゴリーに関連した特定の活動を彼らに属するものとみなすことは、その意図を表現する重要な手だてなのである。
Alan Dundes によって描かれたトルコ式の言葉による決闘(4章)は、そうした事例となる。こうした決闘でとられる戦略とは、敵となる相手を、受け身のホモセクシャルあるいは自分の母親や姉妹にまで性的いやがらせをされるような人間というカテゴリーに入れることである。こうしたカテゴリーはどちらも、相手が臆病で、男らしさが欠如しており、話者──攻撃する方に比べて劣っているという文化的意味づけを帯びる。目的とする効果は相手を意気消沈させることであるが、それは妥当なトルコ語の社会的カテゴリーとその文化的内包を知っている者にしか理解され得ない。ここでは、ある言葉の言及上の意味は、文化的に規定されたカテゴリー・コレクションにおけるメンバーシップに媒介される関係ほど重要なものではない。「カウボーイ」という言葉や「父の雄々しい長髪」といった表現が男らしさに結びついたカテゴリー・コレクションに属するのに対して、この言葉による決闘においては、明らかに「雌牛」や「ロバ」という言葉はどちらも受け身のホモセクシュアルというカテゴリー・コレクションの一部なのである。
 社会言語学的な分析という見地から特に重要な点は、社会現象は言語的現象と同一形式で秩序化されているという見方である。同一の言語資料が、言語の形式に関する分析と社会的カテゴリーに関する分析の両方に利用することができること。また、言語形式をどこかに蓄積された社会的情報に関係づけようとするのではなく、ある言語形式を選択するということは、端的に、社会的意味とカテゴリーを現実化することであるとみなせるということ。そしてそれは、ある単語を発音するということが、その意味論的構造を現実化することになるのと同様のあり方なのだということを示した。これらの点については、関連する以下の著作を参照──Frake (1964c), Gunter (1966), Halliday (1967-1968), Labov and Waletsky (1967), Wheeler (1967). サックスのアプローチを都市の教育の問題に応用したものとしては、Gumperz and Hernandes (1971) を参照。




Back
1