ホットロッダー : 変革的カテゴリー


ハーヴェイ・サックス


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	 Ken:俺のあのボンビルに乗らないか。あれで(ドラッグレースに)でかける
        ことができるんだぜ... だから俺がもしネクタイをしめて、それで、セーター
	を着込めばさ... そうすりゃ俺も小ぎれいに見えるだろ? (1.0 )そうすれ
	ば99%、やつ(=警官)は、俺が同じ車型、同じ色、同じ年式の車に乗ってい
	ても俺をつかまえたりしないさ。(1.0)エンジンをふかしたってさ...(1.0)
	それで今度やつの方がうすぎたないTシャツを着てみな、その時はやつの仲間
	の警官は、小ぎれいな身なりの俺をつかまえる前に、うすぎたないTシャツを
	着たやつの方を逮捕するだろうよ。(2.0 )
	(  ):へへ...
	 Ken:そ、それと...
	 Al :(でも)ポンティアックのステーションワゴンに乗っていてつかまるの
	は、そうはいないぜ。

 私はこれまで、ティーンエイジの若者たちと自動車との関係のいくつかの局面に焦点を当ててきましたが、これまでおこなってきた分析はそうした現象に関する本当に重要な問題にまで至ってはいないのです。そしてそのことこそが、私が分析したいと思っていることなのです。もっとも、こうした問題こそが重要なのだと私が口で言うより、これから行う分析の方がよりいっそう強い印象を与えると思うのですが..。にもかかわらず、そうした問題こそが重要なのだ、と予め弁護しておくのは、私が言わんとしていることが複雑に入りくんでいて、また理解するに根本的なものだと思うからなのです。

 我々はまず次のような事柄を問うことによって、課題にとりかかることができました。すなわち、「なぜ若者たちは自動車の諸類型をせっせとつくろうとするのか」ということです──彼らがもっている類型学は実に驚くべきほど精巧で、そうした諸類型を他のドライバーを値踏みするために使います。またそうした評価は、これまでみてきたように、いつもうまくいくわけではありません。さて、私達が確かめたい問題とは、なぜ彼らがそうしたことをするのかということです。彼らが以前つかっていた言葉では充分ではないのでしょうか。もしそうなら何が原因なのでしょうか。こうしたことが問題なのです。

 そうした問題を理解するための一つの方法は、“ティーンエイジャー”というカテゴリーと“ホットロッダー [1]”というカテゴリーとの間にどんな違いがあるのかを見ようとすることです。私はそれらが根本的に異なったタイプのカテゴリーであるということ、すなわち“ホットロッダー”が、非常に重大な意味で全く変革的なカテゴリーであるということを論じていきたいと思います。そして私は、そうしたカテゴリー、あるいはそれに類した別のカテゴリーについて、それらが変革的であるという、そのあり方を素描しようと思います。

 その問題は実際、非常に根の深いものだと思うので、相当古い、しかしそれなりに有名な事例をとりあげて、あるタイプのカテゴリーについての示唆を提供することにしましょう。もっとも、多分その事例がカテゴリーの問題の具体例として、なんらかの意味での教育的価値をもつものとしては知られてはいないでしょうが... 。以下は、創世記第14章からの引用で、そこでは次のように述べられています。

 「時に、ひとりの人がのがれてきて、ヘブルびとアブラムに告げた。この時アブラムは エシコルの兄弟、またアネルの兄弟であるアモリびとマムレのテレビンの木のかたわら に住んでいた。彼らはアブラムと同盟していた。 [2]

さて、この箇所は聖書研究の歴史において非常に重要なくだりとれていますが、少なくともその本質的な重要性は、次のような考察によって素描されています。「ヘブルびとアブラム」という言い方は、聖書の中で明らかに独特なものです。というのは、それが誰か外部の者に対して語られているのではないのに、ヘブライ人が「ヘブルびと」として語られている唯一の箇所である、という点においてです。その重要性は、「ヘブルびとアブラム」という言い方が聖書研究者に対して、この文書(創世記)のこのくだりはヘブライ人によって書かれたのではなく、またそれゆえアブラムに関する史実性についての何らかの独立した情報であると思わせるという点にあるのです。

 さて「ヘブルびと」というようなカテゴリーは、かなり基本的なカテゴリーであり、またそうしたカテゴリーのもつ特性は、そのカテゴリーのメンバーではない者によって使用されるということ、すなわち(メンバーがメンバーではない者に対して自分達自身をアイデンティファイする場合を除いては)そのカテゴリーのメンバーによっては使用されないということです。

 ちなみに、人類学者が話題にする非常に多くの部族の名前がこうした特性を持っていますが、それは人類学にまつわる驚くべき癖のようなものです。つまり、人類学者が報告している部族の名前が、当の部族のメンバーには理解できないということが非常にしばしば起こるのです。そしてまたそれらが、名づけられた当の部族の言葉以外のなんらかの言語で“outsider”“stranger”といったことを意味するということも、しばしばあります。それは概してこういうわけなのです。つまり、もしある部族のメンバーが、他の部族のメンバーによって話題にされたとしたら、人類学者は他の部族の言葉でその部族の名前を知ることになるのです。Elizabeth Colsonは、非常にすばらしい民族誌である“The Makka Indians ”という本の中で、部族に対するそうした名付け方を跡づけています。彼女は次のように述べます。

 「彼らが Makkaという名前を得たのは、1855年、合衆国政府と条約を結んだときである。政府の通訳を務めたのは Klallum族であったが、彼は条約を結んだ相手の人々に Cape Flarherty 地方の人々に対する彼ら Klallum族の呼び名を与えたのである。それ以来ずっと、この呼び名が彼らの公式の名前になったのである。今日ではほとんどの人々が自分達のことを Makkaと自称しているが、それでも年配の人々の何人かは、その名前は自分達のものではないし、その意味もわからないので嫌いだ、と語っている。」

以上は、76ページからの引用です。Radcliff Browne の“The Andaman Islanders ”の12ページを開けば、同様の言及が見いだせるでしょうし、そうしたことは非常にしばしばあることなのです。
 さて、我々は導入として次のように言うことができます。すなわち、それが適用される当の集団以外の人々によって所有されるカテゴリーが存在する、ということです。古代近東における「ヘブルびと」というような言い方は、そうした種類の言葉です。また「ニグロ」という言葉も、その種のものとして扱われています。つまり、イスラム教徒たちは、「ニグロ」という言葉を、──もしそれが使用されたとしたら──メンバーではない者によって使われた、と理解されるような言葉であるとして取り扱おうとしているのです。 大雑把に言えば、支配的なカテゴリーが基本的に有するものとは、人々が現実を認知する仕方である、ということができるでしょう。同時に、人々が現実を見る仕方を変える試みとしてのある種の変革も存在します。私はそういったことを軽い気持で言っているわけではありません。私はこの問題を“ティーンエイジャー”というカテゴリーと“ホットロッダー”というカテゴリーとの違いという点から取り扱おうと思うのです。

 一週間ほど前、私は精神分析学がブルジョアの学であるという主張についてふれ、またそうした主張の意味を理解しうるようないくつかの方法について話しました。そうした主張の意味を明確な形にしうるもう一つの方法は、精神分析学が「現実は大人達の手の内にある」という事実を正当化することに従事している、というそのあり方に我々の目を向けるということです。精神分析学によるそうした正当化は、まず第一に、彼らが「神経症患者」と呼ぶものに対してなされます。Mennigerは、このことについていかした言い回しをしています──彼は、神経症患者のことを、「現実に対して不忠誠な者」と語っているのです。精神分析学者の見地からの神経症患者なる者とは、大人のように見える子供なのです。(私はまた、精神分析学者の見地から言うなら、精神病者は隠遁した子供であると思います。)さて、こうしたことが意味していることは、現実を、「神経症患者」、「精神病者」あるいは「子供」といったカテゴリーの側にあるものとしても取扱いうる、という主張を認めることを拒もうとする一つの試みなのです。

 精神分析学においては歴史の驚くべき改訂が行われてきた、ということに注意しましょう。そしてその中でも最も印象的なものの一つは、エディプス・コンプレックスに関する事柄です。人々はエディプス・コンプレックスについて、まるでエディプスの劇についてフロイトが述べていることが完全に正しいものであるかのように話しますが、もしあなた方がフロイトの見方を先入見とせずにそれを読んでみたなら、それがフロイトの解釈とは全く逆のことについて述べているということが明白になるでしょう。少なくとも私にはそう思えます。エディプスの戯曲は、明らかに親殺しではなく、子殺しについて語っているのです。また親殺しというテーマがもしあるとしても、それは大人によって大人のために書かれた戯曲の中で、子殺しの制度を合理化するものなのです。つまり、エディプスは彼が生まれる前にされた神託によって殺されることになっているのです。(また、もし罪があるとすれば、そのことに何らかの罪があると考えられるでしょう。)さらには、幼いエディプスを殺そうとした人々が、自分達のしていることが──つまり、自分達が子供を殺す大人であるということが──わかっているのに比べて、エディプスの方は、父親を殺す時には自分のしていることがわかっていません。すなわち彼は、自分が大人を殺す大人であるということはわかっていますが、父親を殺す息子であるとは思っていないのです。  もちろん、大人には子供とうまくやっていかなければならないという現実的な問題があります。こうした問題のほとんどは全く知られていないものだし、その性質上、空想的なものです。例えば、本当の意味での子供文化──固有の加工品や歌やゲーム等を有した文化──があり、それは信じられないほど安定したものです。そう、例えばPeter and IonaOpieの書いた“The Lore and Language of School Children”という本を読めば、そうしたことに関するすばらしい証左が見い出せるでしょう。そこには 400年前のロンドンの小学生に唱われた歌がいまだに唱われ、その伝承に関して公的には全く配慮がなされずに、子供たちだけによって純粋に口伝えで伝承されてきている、という事例が紹介されています。そして、そこでは言葉ももはや英語という言語から離れて別のものになってしまっているのです。同じことが子供文化に関係した他の一連の現象についても言えます。

 また、例えば子供と大人との関係を再定式化するためには、今述べたようなことがどのように行われるのか、またそれが(あるいはそれに類したことが)どんな意味をもつのかといったことが非常に重要となるのです。またそのさいには、大人を、子供が大きくなった者とか、より良くなった者とか言うのではなく、子供文化から卒業してしまった者として扱うことになるのかもしれません。

 もちろん、子供が、安定し独立したものとしての彼ら自身の文化を持っているという考え方と対照的に、彼らについては依存という概念があるということも非常に重要なことです。というのは、子供たちがもし自分達はいくつかの重要な点において大人に依存してはいないし、また例えば子供の処遇を決める規則は、大人によって大人に対して課されているもので、もしそうしなければ自分達が困り、罰せられ、投獄されてしまうといった理由で、子供が何をしても面倒を見なければならないのだということを理解すれば(確かに、大人全員が一斉に子供を捨てるのは可能かもしれませんが、ある大人だけが子供を捨てるということは許されないのです... ), 彼らは、大人達の方が子供にはなはだしいほど依存しているということがわかるようになるでしょう。また例えば、大人は子供たちが時々彼らに見せるちょっとした愛情表現といったもののように、子供が彼らに対して示す反応に依存しているのです。

 ところで、そうした要素は一般に認識されているわけではありません。それはちょうどマルクス主義者が、「われわれの文化は労働者に依存しているが、そのことは認識されていない。それは上部にいる者(資本家)だけではなく、基底部に位置する者(労働者)自身によっても認識されていないのである」と言うときと同様の事情です。そしてそのとき実現されようとする革命とは、物事の見えかたを再構成しようとする試みなのです。またその一部を成す試みとして、あるカテゴリーに属する人々が、彼ら自身の見方を主張するようになるということがあり、それはまた他の人々にも理解されるようになるであろう見方です。つまりそれは、他の人々によってではなく、そのカテゴリーに属する人々によって管理されるような見方なのです。“ティーンエイジャー”というカテゴリーと“ホットロッダー”というカテゴリーとの大きな違いは、前者が大人の管理するカテゴリーであるということです。“ティーンエイジャー”をめぐる知識は、大人によって強いられたものなのです。もちろんまた、黒人と白人との対立においても同様な状況があります。

 私は今、独立についての一つの考え方が、現在強いられている独立の概念に対抗して主張されようとしている、ということを示唆しています。いわゆる黒人あるいは子供について考えられている独立の概念は、根本的には社会学的なものとは言えません。彼らは、同時に独立した存在となるべきで、しかもそれは、次に述べるような、支配的な文化によって定義された仕方にのっとって、なのです。良い子になりなさい、大人になりなさい、きれいにしなさい、良い職を得なさい。あなた方にはそれができるんだし、あなたの問題なのです、といった具合に... 。独立のそうした定式化は、大人たちによって強制されたものなのです。独立が、外部からではなく、内的に管理されるような方法は見い出されるでしょうか。時折、単純な取るに足らないような解決策が提案されますが、それでもそれはそうした種類の解決策ではあるのです。黒人が一つの州を買い取るといった試みは、そうした種類の企てです。つまり彼らは、成功とは何かを定義しようとしているのです。  決定的に必要なことは、こうした事柄(ティーンエイジャーとか黒人とか... )を眺めるとき、誰もがそこに見い出すことに変革をもたらすということであり、またそれについての知識をコントロールできるようになるということです。どうすればこうしたことをコントロールできるのかという問題は、もちろん非常に複雑な問題です。若者たちは、もし自分達が車に乗っていれば、ティーンエイジのドライバーとして見られるだろうということを知っています。私は以前、次のような現象について話しました──すなわち、“ティーンエイジャー”以外にも、誰かがそうみられうるカテゴリーは、様々あるということです[3]。その中から先のカテゴリーがただ一つ選択されるのは、どのような場合なのでしょうか。もし誰かが車に乗っていて、その誰かがティーンエイジャーとして見られうるならば、彼はティーンエイジャーとして見られます。さて、そうしたことをめぐる状況を変えたり、それに修正を加えたりするために、若者たちは何ができるでしょうか。また、私達が得ようとしているものは、メンバーによって管理される一連の変更なのだということを想い起こして下さい。それは、例えば次のようなことを意味します──彼らは、誰かが自分達のカテゴリーのメンバーか、それとも他のカテゴリーのメンバーなのかを識別し、またメンバーになるためには何が必要かを知り、誰かをメンバーとして認めることができるのです。  さて、そうしたメンバーの認め方として、皆が集まったり、誰かを不意に殴ったりといったことをする必要はありません。そうではなくて、メンバーが行うよう求められている方法は、非常に風変わりなものです。今までよく行われてきた方法は(多分今でもそうだと思いますが... )、スポーツカーに乗るドライバー同士がすれちがった時に、ライトで合図をしあう、という仕方です。それから、フォルクスワーゲンに乗った人がスポーツカーのドライバーにパッシングをするかもしれませんが、そのときは完全に無視されてしまうのです。スポーツカーのドライバーがフォルクスワーゲンに向かってパッシングを浴びせたからといって、すぐさま誰かが彼の車に爆弾をしかけたりするわけではないのですが、適切なメンバーではないような誰かがパッシングをした場合には、他のすべてのスポーツカーのドライバーを守るということが、彼に課された仕事なのです。そして、「スポーツカーのドライバー」というカテゴリーに属するメンバーは、それを自らのつとめとしたわけです。  そういったことは、一般道路でドラックレースをするということにも多いに関係しています。というのは、私達が検討してきたこの短い会話の中でも、この男はボンビル(これは、「ポンティアックのステーションワゴン」というように一般的な名前に言い換えられるのですが... )に乗り込もうと言い、もう一人の男もボンビルに乗り込み、それから彼らはドラッグレースをすることになるわけです。これはありうることなのですが、もしホットロッダーの文化が適度に自己規制的なものであるなら、彼が、ホットロッダーである他の誰かに仕掛けたとしても、彼らは(小ぎれいな身なりをした)彼とはドラッグレースをしようとはしないでしょう。彼の車がどんなに速かったとしても、彼らは、彼をドラッグレースをするに適当な人間として受け入れないはずです。ドラッグレースをする決め手は自動車ではないのです。いわゆる“ティーンエイジャー”も含めて、誰もが簡単にデトロイト産の自動車を手に入れ、乗り回しているため、(ホットロッダーとして認められるためには)あなたは、ある流儀で(あるいはまた別のそれで)車をまったく改造してしまって、それに「ホットロッド」の資格を与えるわけです。(もちろん、それが一度壊れた車──つまり自動車修理専門の工場で組まれたホットロッドを手に入れるということもありうるわけですが... 。)そして, その時には、そうした車を見れば誰でも, それを誰が運転しているか見るまでもなく、それがホットロッドであり、その中にはホットロッダーが乗っているということがわかるのです。そしてホットロッダーに関して知られていること──彼らは車に乗ってどんな事をするのか、どう見えるのか、どんな風に行動するのか──こうした事柄は、ホットロッダーがメンバー同士に課し、メンバーでない者に対して自らを守るものなのです。  これは自己規制の問題にとってきわめて重要なことなのですが、ホットロッドは若者たちや「現実に不忠誠な」大人にしか使われないため、あなた方が一旦それを手に入れたなら、それを用いてする重要な事は、遊ぶということです。そしてそのことによって、あなた方は、あなた方がホットロッドをもっているということ、また例えばその具合がどうか──上等か、最高か、それともガラクタか──を他のメンバーが進んで認めてくれるということに対して驚くほど依存することになるのです。こうした論点は次のことを意味します。すなわち、一旦あなたがホットロッダー志願になれば、ホットロッダーのメンバー達が有し、またお互いに課している統制に従うことになるということです。また、ホットロッダーが求めているのは単に速く走る喜びだけだ、という考え方、及びそうした考え方がもたらす様々な帰結があります。(例えば、そうした考え方は、若者たちが安全にドラッグレースができる場所を確保しようという根拠になるかもしれません..)がしかし、それはただ単に, そうした動きが事の管理をホットロッダーの手から離れたものにするという事実から, 彼らホットロッダーには簡単に拒絶されてしまうものなのです。

 さらに進んで、一般の車に乗るホットロッダーを是認するさいに彼らホットロッダーが被る利益を理解することができるようになります。というのは、一般車に乗る若者たちは、「ティーンエイジのドライバー」というカテゴリーを──それについて知られていることすべてと共に──保持することができ、またそのカテゴリーの決定的な特徴は、大人に忠実で、また大人によって管理されるカテゴリーであるということだからです。またさらには、普通の車に乗る若者たちは、何か──それに対して精神分析学的カテゴリーがあってしかるべき事柄──をすることができます。とは言っても、実際には私達はそういったカテゴリーを持ってはいませんが... 。つまり、“密告(fink)”のような事柄──密告者とは、下位のカテゴリーに関して不忠誠なメンバーのことですが──に対しては、精神分析学のカテゴリーがないのです。(私には、なぜ「裏切り(scab)」や「密告」といったようなことに対して精神分析学のカテゴリーがないのかがわかりません。そうしたことは、おもしろい問題だと思うのですが... 。)私が取り扱ってきたあの長い発話──その中で若者は、自分が小ぎれいで好感の持てる格好をして出掛ければ、車も飛ばせるし、警官にも捕まえられないと言っている発話──を見ればわかるように、そこで提案されていることはもちろん、彼はドラッグレースなどしないような上品なティーンエイジのドライバーのふりをすることができ、そうすれば、たとえドラッグレースを実際にしても警官は彼をつかまえはしないだろう、ということです。つまり彼は、実際にはホットロッダーに忠誠を誓っているにもかかわらず、大人たちに対して忠実であるようにみせかけることができるのです。もちろんそこでは、彼の仲間は、それが話の上のことで、彼がしようとしていることはホットロッダーに対して不忠誠なことだと思っています(1)。

 さて、ここで取り扱っているような課題を現実に可能な枠組みへと移すために見ておかなければならないことの一つは、次のようなことです。我々はまず第一に、カテゴリーの問題を扱っています。それらは集団ではありません。ほとんどのカテゴリーは(例えば、婦人、ニグロ、ユダヤ人、ティーンエイジャー等々は)、普通我々が集団について話す意味での集団ではありません。我々が有しているのは、各々のカテゴリーについて知られている一まとまりの知識なのです。つまり、どのメンバーも、それぞれが属するカテゴリーの代表として見られるわけです。また、あるカテゴリーに該当する人はそのカテゴリーのメンバーとして見られ、そのカテゴリーについて知られていることが彼らについて知られていることであり、個々のメンバーの運命はそのカテゴリーに属する他のメンバーと密接に結びつけられているのです。それゆえ、こうしたカテゴリーの周りには、メンバーによって課される社会統制のシステムが張り巡らされています。なぜなら、もしあるメンバーが白人女性を強姦したり、詐欺を働いたり、通りでレースをしたりすれば、それは名前を挙げられた一個人がしたこととしてではなく、彼が属するカテゴリーのあるメンバーがしたこととして見られるであろうからです。そして、そのカテゴリーに属する他のメンバーは、彼がしたことに対して償いをしなければならないことになるでしょう。どういうわけかそうしたカテゴリーは、概してその種の問題とともにあり、メンバーたちは、メンバーに様々な事柄を強制する文化によって与えられた、そのカテゴリーの理想像に従って行動しようと努めるのです。

 そうした統制のシステムは政府によって強制されているわけではないし、そこには公的な要素は介在していません。また、ほとんどのメンバーは知らない同士なのですが、にもかかわらず、彼らは、彼らの中の一人のしたことが翌日の新聞をにぎわしはしないかとおそれながら生活し、また死んでいくのです。これは賭けてもいいことですが、大統領が暗殺されてから犯人が誰かわかるまでは──何という“名前”かではなく、どのカテゴリーに属するメンバーであるかがわかるまでは──、その国のあらゆる被抑圧者グループは、自分達の集団のメンバーがやったのではないかという致命的な恐怖におののいているはずです。そして本当に彼らの中の誰かがやったのなら、そのときは彼らの生命にかかわってくることになるのです。せいぜい彼らは、自分達の中にも良い者もいれば悪い者もいる、ということを主張できるだけです。

 こうした状況を打ち壊そうとする一連の試みを行ってきたのがティーンエイジャーだったと私は思います。ホットロッダーからサーフアー、ビート族にいたるまで、彼らのうちの誰もが、独立した集団を打ち立てることに従事し、その中で彼らは、自分達自身の言葉で物事を認識することを、事実上余儀なくされたのです。そして、この点において麻薬常用者とのつながりを見ることができます。彼らは、実際、「我々に現実に対する我々自身の感性の構造を保持させよ」と言っています。自分達は自分達なりの現実を作る、というわけです。もちろん、若者たちの場合、彼らが企てた革命という問題は、実際は空想的なものです。というのは、彼らは信じられないほどの割合でメンバーを失っていくからです。他の種類の革命は、メンバーを保持しうるという限りにおいては、より多くの成功のチャンスがあると言えるでしょう。

 どのような事柄においても、我々が見たいのは、次のような単なる事実だけではありません。例えば、我々には雪について一つのカテゴリーしかないのに、エスキモーには17もの違ったカテゴリーがあるという事実は、エスキモーの方が我々より雪に対してはるかに多くの関心を寄せているということを意味します。また、若者たちが自動車について57ものカテゴリーを持っているという事実は、彼らが自動車に対して我々よりはるかに多くの関心を寄せているということを意味するわけです。しかし、我々が見たいのはそうした事実そのものだけではなく、若者たちがそうしたカテゴリーを持ち、そうしたことに焦点を当てるという事実が、安定した文化──誰もが世界を、そうしたものだとして見ているという意味で安定した文化──に対して、多かれ少なかれ根本的な攻撃が向けられている、その現れであり得るということなのです。──それが楽しいものかどうか、大きな成果を上げるか否かに関係なく、また、彼らがそれに関して何をしうるかもわからないとしてもです。

 社会変動──それがどういったことを意味するとしても──に関する重要な問題は、それに関する幾組かのカテゴリーを、またそれらがどのように使用されるか、各々のメンバーについて知られていることは何か、といったことを提示し、さらにあるカテゴリーの適用のルールの変化及び各カテゴリーの特性の変化を考察しようとすることを含むというのは、これまで述べてきたような論点においてなのです。



この小論は、1966年に行われたサックスの講義をもとに、Gail Jeffersonが筆記、編集した講義録である。

NOTES

(1)ここに、最初の事例と同様の特徴を持つ、もう一つの会話がある。これは、先ほどの若者が、他の二人の若者がいない時に語ったものである。ここでの行動は──多分、他の部分でも同様であろうが──、“passing ”として記述されよう。“passing ”とは、告げ口(finking )や裏切り(scabbing)と同種の行動と言えるだろう。この事例で述べられていることは、次のようなことである。彼は実際には、ホットロッダーと同様の別のカテゴリー(つまりサーファー)に忠誠を誓っているにもかかわらず、普通の車に乗る普通のドライバーのふりをしているということである。( Gail Jefferson )

    Ken:おっと、ちょっと待てよ。俺のジープ、マンモスのリヤウィンドーいっぱ
	いに、サーフィンのステッカーが貼ってあったのは知っているよな。
  Louise:ああ,
    Ken:あそこら辺ではやつら、サーファーを目の敵にしてるんだ。サーフィンは
	最低のことってわけさ...
  Louise:そいつは知ってるさ。
    Ken:世界中で最低のことってわけだ。大人はみんなサーフィンボードを見ると
	顔をしかめるし、サーファーは彼らを憎んでるのさ。やつら、俺を見るといつ
	も石を投げてくるんだぜ。
  Louise:なんだって!
    Ken:わかるか?
    Ken:俺はいつも飛んでくる石をよけてたわけさ。だから、結局俺は、こいつは
	俺のためにならないと決心したわけだ... なっ? 俺はそれでカミソリの刃を
	もってきて、サーフィンのステッカーを全部はがしたんだ... なっ? そうす
	れば俺らのジープも、普通のジープに見えるだろ? それで俺は、こいつで町
	を流してたんだ。そうやっても誰も石なんか投げてこないのさ... これは全然
	気持いいもんだぜ...  わかるか?

 訳出論文は、Sacks,H., “Hotrodder :A Revolutionary Category”,in Pathas,G. (ed. )Everyday Language :Studies in Ethnomethodology (Irvington Publishers, 1979).pp.7-14.

     訳注

 [1] hotrodder .改造自動車に乗り、路上で無謀な運転をするティーエイジャー。
 [2] 日本聖書協会「聖書」創世記第14章第13節。
 [3] この点に関する理論的検討は、Sacks,H., “An Initial Investigation of the Usability of Conversational Data for Doing Sociology”(次掲の訳出論文)1.1,1.2 等に詳しい。



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