第三章 コンドルセの科学思想の限界と19世紀への影響
第一節 『試論』にみられる社会数学の限界
第二章で述べたように、コンドルセ自身が「社会数学」の最も重要な業績の一つと位置づけた『試論』は、他に無い先進的な要素を備えた研究書であることが近年認められてきた。だが、その限界についても様々な指摘がなされている。
ラシェド氏は、『試論』の思想的基盤を用意した政治理論、「社会契約説(doctrine contractualiste)」自体にその限界の一因を見ている(1)。
『試論』が用いている選挙モデルは、「法的に平等で能力的にも平等な構成員から成る投票集団」であり、しかも投票者どうしは互いに影響を及ぼし合うことはないとの理想的な仮定がなされていた。これは、社会契約説の理想的な市民そのものである。彼は『試論』第四部以降において、この理想的な状態が成り立っていない投票集団についても一応の考察は行っているが、社会契約説的な立場からだと、それは理想的な投票集団が劣化しただけの状態と解釈され、独立した考察の対象にはなりえなかった。すなわち彼は、理想論から離れて、現実の社会に即した分析を行おうという発想には至らなかったのである。また、当時の確率論・統計理論の不備も、複雑な状況モデルを扱おうとする際には大きな障害となっていた。コンドルセ自身、理想状態ではないモデルを扱おうとした第四部では目的を達し得なかったと告白している(2)。従って、階級対立が存在し、個人の能力もまちまちな現実の社会に対して、コンドルセの理論は不毛だった。結果的に、社会契約説の刺激により生まれた理論が、逆にそれゆえに限界づけられるという皮肉な状況が生じたのであ
る(3)。
また、この他に啓蒙期以降の人々が感じたであろう『試論』の欠点としては、それが法廷や議会の望ましいあり方(陪審員の人数から議会の規模、投票の回数まで)を具体的に論じた書でありながらも、実際的なデータや経験を全く欠いたまま、全くアプリオリにそれらの考察を行っていることがあげられる。これには、当時のフランスが議会設立の黎明期であったこと、陪審員制自体がフランスに存在しなかったなど、データや経験の蓄積が非常に困難な状況であったことを考えれば仕方の無い部分もある。だが、コンドルセ自身、そういった問題の解決法を理論のみから演繹することが可能だと考えていたのである。18世紀啓蒙思想の落とし子である彼にとっては、理性が導く原理こそが社会の法則であり、どうすればその理性の原理に従った意思決定が出来るのかを探求することが重要な関心事であった。過去のデータが無くとも理性の働きがあれば、人間が「正しく」振る舞うための解決法を見出すことは決して不可能ではないと思っていたのである(4)。
一方19世紀以降のヨーロッパでは、統計データを集めることにより自然の法則が明らかになる、という統計万能主義とでもいうべき思想が一般的になっていった(5)。ジョン・ステュアート・ミル(John Stuart Mill,1806-73)の次の言葉がそれを物語っている。「確率が観察や実験によって導出されるときでさえ、さらによい観察を行ったり、特殊な状況の場合をすべて考慮して、ほんの少しでもデータを改善する方が、以前のより劣ったままのデータに基づいて確率計算を入念に適用するよりもはるかに有用である。」(6)彼の時代には、コンドルセの試みは充分な意味を成すものと映らなくなっており、まさに「数学の真の不名誉をもたらした確率計算の誤れる応用」(7)でしかないと思われたのである。
註
(1)Rashed ,op.cit.,pp.84-86.
(2)Essai sur lユapplication de lユanalyse, pp.cliv-clv. コンドルセは次のように述べている。「こ
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のように、とりわけこの第四部は簡単な試論とみなさねばならない。と、いうのも我々は、主題の重要性
から必要とされるような発展や詳細は何も見いだせなかったからである」。
(3)Rashed,op.cit.,p.84. ラシェド氏はこの他にも、コンドルセにおける啓蒙期の政治思想と確率論の 影響関係という大きな広がりを持つ論点を提示していて、非常に興味深い。それによると、彼において社 会契約説と確率論とは互いを根拠づけるものとして位置づけられていたが、それゆえに一方の問題が他方 の問題ともなり、ある問題の解決には二重の解決が必要になるという弊害が生じた。その結果、双方のハ イブリッド的分野ともいえる選挙の理論は限界づけられることになったというのだ。だが、残念ながらこ こではそれについて詳しく論じる余裕は無いので、次の機会に譲りたい。(Rashed,op.cit .,pp.85-86.)
(4)Hacking,op.cit.,p. 42.
(5)ibid.,pp.41-42.
(6)ミル『論理学』第巻1862、65、66ページ。ミルの原典は手に入らなかったので、トドハンター『確 率論史』安藤洋美訳(現代数学社、1978)、304ページから引用させてもらった。
(7)ミル、上掲書、65ページ。トドハンターによると、ミルは同書で辛辣なコンドルセ批判を行っている ようである。
第二節 社会数学・社会科学のその後
コンドルセは革命を生き延びることが出来なかった。志半ばであったことは、彼の残した膨大な草稿群と、本論文の第二章で言及したタブローの内容が物語っている。
第一章で述べたように、コンドルセの「社会科学」もしくは「道徳・政治科学」は大まかに言って二種類の内容を含むものであった。一方は『人間精神進歩史』にみられる歴史理論の分野であり、他方はいわゆる「社会数学」である。彼の中でこれら二つの要素は補完し合うものであった。「彼は文人(homme de lettres) の目には偉大な数学者と映り、数学者の目には偉大な文人として映る」、晩年のコンドルセを皮肉ったというロビスピエールのこの言葉は有名であるが、ある意味でコンドルセは本望であったに違いない。彼の夢は恐らく、そのどちらでもないものになることだった。
だがこれら二つの要素は19世紀前半に分裂し、別々の道を辿ることになる。『人間精神進歩史』にみられる進歩史観的な歴史理論は、まずサン・シモン、そして実証主義と「社会学」(8)の生みの親、オーギュスト・コントらに受け継がれた。中でもコントは、コンドルセの歴史モデルを独自の解釈で読み換え、より進歩史観中心で体制・秩序擁護的な歴史観を育んでいった。しかも、コントは社会科学の数学的な扱いを嫌ったため、コンドルセの社会数学は全く評価せず、理解しようともしなかった。20世紀に伝わったコンドルセ像は、このコントの評価に依るところが大きかったことは第一章の冒頭に述べたとおりである(9)。だが、コントの影響力が大きかった故に、彼の引き継いだコンドルセ的な歴史モデルは後にヘーゲルにより歴史的弁証法(historical dialectic)に発展させられ、更にはマルクスに影響を与えることになった、と解釈することが出来るのである(10)。
一方、「社会数学」の方はどうなったかというと、少し複雑な説明を要する。まず、「社会数学」自体が非常に広い領域を扱うものであることは第二章で見てきた。ゆえに、社会数学も更に分裂していくことになったのである。すなわち、社会数学の中でも純粋に経験的データの収集と数学的分析のみを目的とする数学的・統計学的な側面と、社会や人間に関する哲学的な領域を含む側面との二領域に別れたのである。前者は比較的長い命脈を保ったが、後者は短命に終わった。
前者の系統に連なる主な数学者としては、ラプラス、ポアソン(Sim姉n-Denis Poisson, 1781-1840)、アドルフ・ケトレ(Lambert Jacque Adolf Quetelet, 1796-1874)らがあげられるだろう。ラプラスとその弟子のポアソンは、コンドルセも扱った陪審員制についての論文を残した(11)。しかし、陪審員制による判決の信頼性の度合い(conviction rate)について確率論から論じたこれらの研究は、ポアソン以降の発展をみなかった。コンドルセの頃と違ってデータも充実し、数学も格段の発展を遂げていたのにも関わらずである。テーマの意義自体が理解されなくなり、信頼性の度合いを測るための確
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率という概念は時代遅れになりつつあった(12)。その次の世代にあたるケトレはといえばやはりラプラスの強い影響を受けており、道徳政治諸科学の遺産の下、統計的方法を人間や社会の諸現象にあてはめることで、自然科学と同等に厳密な科学、「社会物理学」(physique sociale)を打ち立てた。そして、社会的・政治的現象や人間の能力の分布の中に統計学的法則性がみられるとしたのである。その研究成果は当時の人々に大きなインパクトを及ぼし、彼は近代統計学の父といわれる人物になったのであった(13)。
他方、短命に終わった後者の領域を担ったのは、カバニス、デステュット・ド・トラシーら「イデオローグ」(Id姉logue)(14)と呼ばれた人々である(15)。彼等は、革命後の混乱から新たな国家を作り上げるべく新しい社会制度・装置を構想し、議論し、実行に移そうとする運動の中核にあった。デステュットが提唱した「観念学」(Id姉logie)は人間の観念のあり方や社会を事実のままに観察、分析しようとする知識体系の学を指し、合理的な統治の技術を確立するにふさわしい知識を得るための科学であるばかりか、すべての科学の基礎であるとされた。
イデオローグたちは基本的にコンドルセの社会数学の理念を継いでいたのだが、確率論の広範な応用については批判的であった。統計的な社会調査や人類学的調査を行うことには非常に積極的だったが、数学的手法は事実の観察・分析の「手段」を超えない範囲でしか用いないものとしていたのである(16)。彼等は革命後に設立された国立学士院(Institut National)の第二類--道徳・政治科学の部門である--を占める一大勢力であった。 しかし、1799年のクーデタで独裁制をひくことになったナポレオン・ボナパルトは、彼の政治体制を思想的・政治的に批判する勢力であったイデオローグへの攻撃に出た。その結果イデオローグ達は1803年に学士院を追われ、すっかり影響力を失った。それと共に彼等の系列に伝わった社会数学は途絶えたのである。
以上が、19世紀に伝わった社会数学、社会科学のその後について概略である。結論として、コンドルセの科学思想は、後世の人々に新たな知の領域(社会学、統計学など)を用意する「肥料」のような役割を果たしたが、それ自体の形で伝わることはなく忘れられていったということが出来るだろう。
さて、第一章から第三章を通じて、著者はコンドルセの社会科学、とりわけ社会数学の構想がどのような広がりと内実を持っていたのかを、なるべく18世紀の文脈に沿った明らかな形で呈示しようと心がけてきたつもりである。また、社会科学がどのような形で後世に影響を与えることになったのかということについても、本章において簡単にではあるが論じてきた。それにより、現代の社会学、統計学、経済学がコンドルセの思想を源流に持つにもかかわらず、いずれの分野でも直接の形では彼の名は残っていないという事実を確認することになった。
本章の次の結語では、今まで確認してきた事項をふまえて、コンドルセのどのような問題意識が「社会数学」やそれを包含する社会科学の構想を導いたのか、また、科学史的に見て社会数学はどのように位置づけられるか、という二点について考察をまとめて締めくくりたいと思う。
註
(8)確率論・統計学的な扱いを好まないコントと、後述する「統計学の父」ケトレは、各々打ち立てよう としていた新しい科学の名称を巡って先取権争いを繰り広げた。コントが自身の歴史的認識論 (historical epistemology)に与えようとした社会力学(m残anique sociale)や社会物理学(physique sociale)などの名称は全てケトレの科学に奪われてしまった。社会学(sociology)だけが残ったのである。(Hacking,op.cit.,pp. 39-40より)
詳しくはJ.Lottin, Quetelet:statisticien et sociologue (Louvain,1912),pp.331-66. 参照。
(9)Baker,op.cit.,pp.372-348.
(10)Hacking,op.cit.,p. 39.
(11)例えばラプラスのものでは、1816年11月15日にパンフレットの形で出版されたユSur une disposition du code dユinstruction criminelleユ(Paris,1816)などが、ポアソンのものでは
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Poisson,Recherches sur la probabilit@ des jugements en mati俊e criminelle et en mati俊e civile,pr残仕仔s des r夙les g始屍ales du calcul des probabilit市 (Paris,1837)などが ある。
(Hacking,op.cit.,pp.230-231より。)
(12)ハッキングの次の言葉がわかりやすいであろう。「何故か?何故ならそれ[ポアソンの論文--引用者] が啓蒙主義的な道徳科学の最期のあがきだったからだ。たしかにそれは最新の統計学的データを華々しく 用いていたが、その結論はコンドルセ的な精神性の持ち主にしか信じられないものだったのである」。 Hacking,op.cit., p.88.
(13)Daston,op.cit.,pp.106-108. A.ケトレ『人間に就いて』上・下巻、平貞蔵・山村喬訳(岩波書店、 1941年)。ケトレは天文学などの観測値の誤差法則として導出された正規分布に、人間の肉体的、及び精 神的能力の分布が従うとの結論を導きだし、「平均人」(homme moyen)という概念を導入した。後に F.ゴルトンがケトレの成果を採り入れ、「優生学」(eugenics)を創始したこともよく知られている。ま た、今世紀初頭にコンドルセの社会数学を評価したK.ピアソンも優生学との関わりで知られている。
(14)イデオローグという呼び名は、彼等を疎んじたナポレオンにより与えられた蔑称である。
(15)Baker,op.cit.,pp. 371-372.
(16)Daston,op.cit.,p. 354.
結語
コンドルセを社会科学思想に至らしめた問題意識は何だったのか。これについては少し分析を要する。何故なら、コンドルセの思想はフランス革命へと向かう激動の時代の最中で様々な変化を遂げ、その問題意識のあり方も決して一定不変ではなかったと思われるからである。
例えば、本稿第三章でもとりあげた1785年の『試論』と第二章で扱った1793年の「一般的タブロー」では、その背後にある意識にかなりの変化がみられる。1785年時点でのコンドルセは、合理的に政治を行うためには判断力のある少数の啓蒙されたエリートによる意思決定が不可欠であると考えていた。しかしその一方で、社会契約説の影響から、法的に平等な権利を持つ啓蒙された市民から成る合理的な意思決定を理想として抱いていた。『試論』はこの両方を調停する最善の方法を科学的に導くべく著されたのであった(17)。従って、そこにあるのはエリート主義的な、どちらかといえば為政者の側からの視点であり、この時点での「社会数学」(当時はまだその名称で呼ばれていなかったが)はまさに社会改革に携わる啓蒙知識人にむけて構想されたものであったといえよう。
一方、革命を挟んで漸進的に共和主義者に転向していった(18)コンドルセは、公教育の理念を歴史上初めて示し、1793年のジロンド憲法では普通選挙を提案(彼は当時は認めがたかった女性への参政権付与にも肯定的であった)をするまでに至っている。そして、彼の思想的な変化に応じて、同じ1793年の「一般的タブロー」に呈示されている「社会数学」もかつてのエリート主義的視点を脱却し、全ての人々による知識の普遍的共有を目指すための開かれた科学として位置づけられているのである。よって、最晩年の彼の「社会数学」ならびに社会科学思想は、その公教育の理念と対を成すものであるといえるだろう。現代の生涯教育に通じる部分もある。彼は、人々が等しく知識を共有出来る環境と、共有するに足る知の体系--社会数学--を作りあげることで、「将来の人間精神の発達」と理想的な民主主義社会の到来を願ったのである。
しかし、このように思想的な変遷はあれど、彼の社会科学の構想には常に一定した姿勢を見て取ることができるといえよう。それは、「社会の改革」という目標である。その「改革」がどのような内容であるかは年代と共に変化していったのだが、社会をより良い方向に導きたいという思いは生涯を通じて彼を導き続けたのである。従って、彼の問題意識は非常に倫理的なところに源を発しており、彼の構想した社会科学--すなわち道徳・政治科学--は単なる理論や知識の体系ではなく、まさにその名の通り、社会の道徳観から文化・政治のあり方にまで強く働きかける性質を持つものであった。これは、いわゆる既存
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の確率論史や統計学史の枠組みでは捉えるのが困難な側面であろう。
そして、その様な倫理的側面も、コンドルセの社会数学、社会科学がそのままの形で生き延びることを不可能にした一因であろう。啓蒙主義理性の示す「正しい」ことというのは啓蒙期の人々以外には理解できない概念であり、また、19世紀以降は政治的、倫理的な判断に関わるものは科学的でないとの価値観が主流になっていったからである(19)。
現在の我々がそれとわかる形でコンドルセの科学思想から受け継いだものは殆どない。ただ、ラプラスやケトレ、コントを介しての影響を知るのみである(20)。現代人にとっては斬新で有用に思われる選挙のパラドクスなどは、今世紀初頭まで長く忘れられていた。それには、彼の晩年の政治的不遇による構想の中断や、前述した価値観の変化を社会科学が乗り越えられなかったこと、などがあげられるかもしれない。彼が数学の理論面であまり成果を残さず、ベイズの定理など、既成の理論の哲学的解釈やその応用に専ら関心を向けていたことも、科学史の表舞台に名を残すには不利な要素となったのだろう。
では、彼の社会科学は科学史的にはどのように位置づけられるべきなのであろうか。ラシェド氏は「待機中の科学」(science en attente) (21)という言葉を用いている。すなわち、社会科学は後の世代に訂正されるべき科学であったが、それを踏み台として次の世代が育ってくるという意味でとても重要なものであったと結論づけたのである。著者は基本的にこの観点に賛同するが、「待機中の科学」が後の世代によって乗り越えられる際に失われる要素がどれだけ大きいかということについても強調しておきたい。後世の人々は、過去の遺産を乗り越える条件として、過去の歪曲と忘却を行っているのである。従って、社会数学についても、後世の科学の踏み台となったものとしての側面と、後世に伝えられ得なかった斬新な思想的側面との双方が充分に認識された上で「待機中の科学」という位置づけがなされるべきであると結論するものである。
その認識の上で、「待機中の科学」の概念がこれからの科学史研究をより豊かにする可能性に満ちたものであることを最後に指摘しておきたい。丁度、確率論史の試みからだけでは把握しきれない側面を持つコンドルセの社会数学がそうであるように、現代の既存の知の体系--物理学や化学、生物学、心理学など--の枠組みから解釈しきれない科学思想(当時のみ「科学的」と考えられていた思想を含む)を、無理矢理それらの枠組みに押し込めるのではなく、「待機中の科学」としてそれ自体を取り出そうとする試みは、制度化されることなく忘れられた数多くの知の遺産に対し、その全体像を損なうことなく光をあてることを可能にすると思われるからである。科学史上多く存在しているであろう他の「待機中の科学」についても同様に光があてられることを切に望むものである。
註
(17)Baker,op.cit.,p. 384.
(18)Bakerは彼が1789年の革命勃発で共和主義者に「突然目覚めた」ということはなかったと言っている。 彼が完全に共和派に転向するのは、1791年に国王のヴァレンヌ逃亡事件や、かつての盟友ラファイエット 将軍によるシャン・ド・マルスの虐殺を経た後のことである。(ibid.,ch.5.)
(19)Daston,op.cit.,p. 299.
(20)ポリティカル・サイエンスにおける「コンドルセ効果」(第二章参照)などは、同じ事が20世紀に 「再発見」された後、コンドルセが先駆者として認められたというのが事実であるので、コンドルセの影響 関係は存在しない。
(21)Rashed, op.cit.,p.86. この表現については、1972年に出版された、情報の数学化についてのシンポ ジウムの議事録が基になっているようである。《La math士atisation de lユinforme dans la science sociale: la conduite de lユhomme bernoullien》,in Colloque sur La math士atisation des doctrines informes,Hermann,1972, pp.93sqq.