カメラマンもする。ヒンズー教の指導者も、企業も、もちろん神様も。何を? 狙いを定めること。やるべきことに的を絞る! …さあ、私達はどうだろう?

「もちろん、やってます」。「だれだってやるよ」。しかし…。何に狙いを定めているだろう? 私達の時間を取り、注意を引き、資源を消費しているものは、いったい何だ? もしそれが、ただの日常の「ダラダラ」だったら、フト気がつけば人生はそれで一杯だった、なんてことになるかも!! 私だったらそんなことは絶対イヤ!!!

クリスチャンとして、「罪」という言葉をよく耳にしながら、その本質を掴み損ねていることは、よくある。神の恵みにより、イエスの血による契約を通して、自分が神と正しい関係(義)を持っていることを分かっている人もいれば、自分は罪人で希望もないと思い込んで一生を送る人もいるが、本来の罪の定義は、殺人、強姦、物欲などではなく、「的外れ」なのである。「的外れ」いわく、神に造られた、その目的を達成せず、地上に神の栄光を現わさないことである。殺人云々、といったことは、罪の結果、すなわち、イエスを通して私達に与えられている神の栄光と力の中に生きず、悪魔の力と性格の中に生きることなのである。

この世での真の戦いは、誰があなたの肉体を使うか、に関して行われている。イエスには、罪がなかった。…というのは、彼は、父なる神の言ったことしか行わず、また語りもせず、父の望んだことだけを行ったから。その結果、神の栄光(力、性格、能力)がイエスを通して現わされたのである。

実は、私達も、同じように生きることができる。イエスがそうであったように、神の望むことだけを語り、行動するか、神と関係なく考え、行動するか。…選ぶのは私達。

人間自身、霊的な存在だから、他の霊的存在からの情報を感じ取ることができる。どこからの情報?…神か悪魔のどちらか。神は、私達が彼の言うことを聞いて、行動することを望んでいる。なぜなら、神にとって、それが地上で彼の力、性格、能力を現わす唯一の方法だから。悪魔だって同じことを狙っている。奴は、私達をそそのかして、何とか自分の性質、能力、力(怒り、憂鬱、宗教など)を地上で表現させたいのだ。私達が神の言うことを聞いて、それを語り、行動に移す時、人が癒される、資金が与えられる、必要な人に出会う、新しいエンジンを発明する、国際企業を経営する…といった、神でしかできないような事が実現していく。神は、ただ「何をしましょうか」と彼に尋ね、自分の身の回りで何が起こっていようがそれに左右されず、その神の目標の実現を信じ、突き進んで行く人々を求めている。そういう人々を通して、神の栄光…性格、力、能力、限りない資源が、この地上のあらゆる人々に命を、豊かな命を、与えるために現わされるのである。そして、完全な神の栄光が地上に現わされるためには、神によって造られた一人一人、すべての人が、必要となる!! 選ばれた何人かではない。どの人にも個性がある。誰にだって、何かやるべきことがある。

だから、もし、悪魔が私達を神から離し、奴のやりたいように考え、語り、行動させることができれば、アダムにしたと全く同じように、私達に与えられた「すべきこと」を台無しにし、神の栄光の現われも未然に防げるわけだ。「教会に行く」という一見良い事に見えるような行動を通して、私達を神から反れさせたりもする。「何? 教会に行くなっていうのか?」 ここで言わんとしていることは、私達が、神に聞かずに、習慣だから、或いは、良い事だから、という理由で行動するなら、それが「的外れ」、すなわち「罪」である可能性はある(ドキッ)、ということ。自分がなぜこの地上にいるか知っていますか? 神に尋ねたことはある(牧師ではなくて)? それをやっていますか? 神を知る人でも、知らない人でも、ただ存在しているだけの人は大勢いるし、良いアイデアを実行している人もいます。しかし、「良いアイデアは必ずしも神のアイデアではないが、神のアイデアはいつも良いアイデア」*だ! 

「ゴミを出さなきゃ」「犬にエサをあげないと」「チョコレートケーキ」「お姑さんが来る」「今日はこのクッキーが30円も安い」「チョコレートケーキ!」「中東でまた戦争だ」「新しい車がほしい」「今晩、祈祷会があるから、行かなきゃ」「日曜学校の先生をやってほしいと言われた…」「やはり大学卒の資格は必要」「ピアノ習ったら?」「チョコレートケーキ」「もう結婚適齢期…」「毎日一万人の子供が栄養失調で死ぬ。彼らを救うためにお金をあげるべき」「ステーキ」「あの人、美人」「コーヒー」「チョコレートケーキ」「あの人いつも文句言ってる」などなど。

それがどのような考え、行動であれ、私達がそれに気を取られ、神の考えに的を合わせていないなら、私達は神の栄光の中にとどまっておらず、時間を無駄に過ごしていることになる。

では、どうすればいい?

1. 神のみ心を知れ!

誰? 私? そう、あなた。誰でも神に尋ねるなら、彼は応えてくれます。神があなたにやってほしいと願っていることを見つけ出そう。今日のこと、明日のこと、今月、今年、そして人生の目的も。私達は彼の羊、彼の声を聞き分けます(ヨハネ10:27)。私達は彼の友達。尋ねるなら、彼は隠し事はしない。知りたい分だけ、詳しく教えてくれる。

2. 血肉に相談するな!

自分自身も含めて、神があなたに言ったことについて、どう思うかなど聞かないこと。神があなたに言ったことについて、これは良い考えだと思うか、などと人に尋ねたら、その人が神に聞かない限り、「だめだ」と言うはず。なぜ? 悪魔がその人をそそのかして、その人の言葉を通してあなたに影響を与えようとするから。あなたのしようとすることを知った人があなたを気違いじみていると思うなら、きっとあなたは正しい道を歩いているはず。

「奥さんと赤ちゃんを連れて、危険だらけで電気もないパキスタンの砂漠へ行ってそんな所の汚い部族民のために聖書を翻訳するって?」「そんなことができると思ってるの?今まで何もやったことがないのに」。「今まで聞いた一番馬鹿げた話だ」。「もっと他に賢い金の使い道があるだろう」。「そんなこと今までやった人なんかいないよ」。「辛い場所じゃないか」。「教会にもっと留まって成長する必要があると思います。あなたはまだ、クリスチャンとして幼いから」。

あまりに多くの人が、親戚、両親、或いは牧師など良く分かっているべき人達から、あなたは神から聞いていない、間違っている、と言われています。そんなことを言う人達は、悪気はないのだけれど、神に聞かずに自分の頭だけで判断して喋っています。私達は、口をあける前に神に尋ね、その上で、神の願う言葉だけを語るべきです。本当にイエスのようになりたいなら、いつもこう問うべき。「あなたがそれをやり遂げるために、私にどんなお手伝いができますか?」「私の持っている物で、あなたの成功のために役立つ物がありますか?」

みんながよい考えだと言ったからという理由で、宣教師として、「イエスのためにアフリカへ」行く人もいますが、神のその人に対する計画は、航空会社の会長として、飛行機などの設備を何千人もの神に従う人々のために役立て、食料や医療品を世界中に届けることかもしれない。奇跡的な神の備えを見ることがない理由は、私達が、何をいつ、どうやってするか備え主にちゃんと聞かないから、という場合がほとんど。

自分の頭とだって相談しないこと。それも「血肉」。思いの一新によって脳を霊に服従させない限り、「お金が足りない」「経験不足」「今までそんな風にうまくいったことがない」「ハイチの子供達のほうが私を必要としている」などと言ってくる。そんな時は自分の告白によってそういう思いを従わせることが必要。神が自分の霊に語ったことを口を使って脳にインプットするのである。

「死と生は舌に支配される。」(しん言18:21)。

肉によって歩むのではなく、霊によって歩みなさい。(この霊は、英語で書くと小文字のspirit、すなわち私達の霊)。(ローマ8:4、ガラテヤ5:16)

3. どんな代価を払っても事を成し遂げよ。

福音とは、神が私達一人一人のために計画を持っていてくれるという事実に限らず、永遠の命が与えられるということでもない(神を憎む人だって永遠に生きるのだから)。イエスが私達を悪魔の束縛と支配から解放し、新しい者に造り替え、神の定めを全うするために必要なすべてを与えてくれるということこそが、福音、良い知らせだ。

神が私達にやってくれということは、どうせ私達の能力だけではできないに決まっている。神の資源と能力なしには無理なこと。しかし!イエスの血によって神と契約を結んだことにより、神はその能力と資源で私達を成功させる義務を負うこととなった。私達が自分のすべてを彼のために捧げると同じように、神自身も神のすべてを私達に与えてくれるのである。

神の計画を成し遂げるため、すべての資源は用意されており、私達の行動を待っている。私達が霊により、舌と意思を使って、自分の思い、考えをコントロールし、生活のすべてを神の準備してくれた目標達成に向けて集中させていけば、神の資源は私達の手にやって来る。

神の示してくれたこと、言ってくれたことを自分の口で告白していくことにより、創造していく(天の力と資源を地上に引き出す)ことが必要だ。神がその言葉ですべてを創造したと同じように。イエスがこの地上で行ったことは、私達にもできるはず。なぜなら、私達の中にも(上にも回りにも)、イエスの中と上、更に回りを取り囲んでいた、同じ聖霊がいるのだから。

何を犠牲にしても、成し遂げよう。もし、家や車を売るか誰かに与える必要があるなら、そうすればいい。神のために何かをあきらめることは決して損とはならない。百倍にして返してくれるから。イエスが金持ちの青年に持ち物を全部売れと言ったことだって、それによって彼が祝福され、より与えられることが分かっていたから。悪魔のそそのかしにのって、時間を無駄にしないように。いろいろ聞いたり、考えたりすればするほど、悪魔の主な仕事は、私達の時間を無駄にすることだ、ということははっきりしてくる。奴はそのための手段は選ばない。テレビでも集会でも同じこと。もし神が、日曜の朝にコーヒーショップに行って誰かと話しをしてほしいと言っている時に、教会に行かなければならないから(どうやって私達自身に「行く」のかな!)とそれを断わったなら、それは神の的(目的)からはずれていることとなり、神の栄光も見逃してしまう。神に聞くことをせず、習慣に基づいて生きるなら、私達は時間を無駄にし、的も外してしまう。

「そんな無茶な! 仕事もしないといけない。食べて行かなきゃ」。(生きるために与えるという方法はありますけど…)

「分かってほしいな…小学校前の煩い子供が2人もいるのに…」。もちろん、よーくわかります。うちだって同じ。実に手がかかります。しかし、いつもピントを合わせていない限り、この地上を去る時に、後悔することになってしまう。振り返って、後悔するのは遅すぎる。正しい決断を下さないというのは、結局は、狙いを定めないでおこうという決断を下すことになってしまう。そんなことがあっていいのだろうか。

私達の思い、感情、意思、そして資源を神の計画に集中(フォーカス)させ、何をすべきか、何を言うべきか、誰に何を与えるべきかを神に教えてもらおう。そして、この地上に神の栄光を実現させ、人々を救いへ導き、神と共に生きることができるようにしよう。そうすれば、イエスは早く帰って来られる。

ハワード・ヘンドリックはこう言った。「良い事はより良い事の敵であり、より良い事は、最善の敵である」。狙いを定めないか!   

リチャード著

Boot Camp / Mission Support / R&R / Old Missionaries Never Die...

Heroes / C&R Media / Missions Links

God? What God? 1