魔法少女と戯れる日々 01-06
2000-01-19


 典子ちゃん、このことは誰にもいっちゃダメよ……

 小学校4年生の松井典子の心の中でその言葉は何度も響き渡った。

 その言葉をいわれた時から彼女の中で異変が起きていた。最初に口が動かなくなり、次に身体の動きがにぶくなり、今では全身の感覚が完全に麻痺していた。

 もしも典子がいつもの元気な状態であったら、彼女はお父さんやお兄ちゃんに向かって大声で助けを求めているに違いないだろう。彼女は最初必死の抵抗を試みた。しかし、口も手も動かすことはできず、結局ただひたすら瞳から涙が溢れてくるのだった。彼女にはどうしようもなかった。

 今はもう典子は抵抗していなかった。そのような状態を彼女は苦痛に思わないでいた。なぜなら、彼女の精神はとうの昔に活動を停止していたからである。

 精神が停止する瞬間、典子はあたたかでやわらかな水に満ちたプールの中に飛びこんだような感覚を味わった。そこは静かで心地よく、お母さんに包まれているような感じがした。彼女はずっとそこにいたいような気分がした。しかし、そこにいてはいけないことが彼女にはわかっていた。

 彼女は知っていた。このままではもうすぐ彼女はお人形にされてしまうことを……

「ワタシガキコエマスカ……」

 その時、典子の耳に声が聞こえ、プールの中から無理に引き上げられたような感じがした。目を開けると彼女はもやの中にいて、目の前に彼女と同じくらいの大きさの女の子の影が立っていた。典子は女の子に近づこうと必死でもがいたが身体はピクリとも動かなかった。

「ソンナニムリシチャダメダヨ……」

 その声の主は間違いなくその女の子だった。やがて女の子の影は薄くなり、彼女を取り囲んでいたもやはゆっくりと消え始めた。すると、彼女の目に横方向に流れる光の筋が映った。それは電車の窓から見える街の明かりだった。

「次は青竹が原、青竹が原……」

 列車の中に車掌のアナウンスが鳴り響いた。日曜日の夕方だからか中は閑散としていた。太陽はついさっき沈んでしまってしまって外の景色には夕闇が迫っていた。彼女は長イスに座って反対側の窓を無表情に眺めていた。

「アブナイトコロダッタネ……」

 典子は大きな瞳でゆっくりと車内を見まわした。彼女に話しかけている人は誰もいなかった。隣には小柄な青年が座っていて、彼の持っている紙袋にはかわいらしい魔法使いの女の子がペイントされており、魔法少女ミモと太字で描かれてあった。声はその紙袋から聞こえてくるようだった。彼女がそれに目を凝らすと、紙袋の魔法少女がかすかに動いた。

「ワタシノコエガキコエルヨネ……」

 その声は耳からではなく頭の中で鳴り響いているような感じだった。典子は声をあげようとした。しかし、そうすることはできなかった。

「ムリシチャダメダヨ…… マホウハカンゼンニトケテイナインダカラ…… デモヨカッタ…… ヤットミツケタ…… ワタシノコエガキコエルヒトニ……」

 魔法少女は今にも泣きそうな顔をして喜んだ。

 い、嫌……!

 典子は心の中でそう叫び、全身を力いっぱい震わせた。

「オネガイ、コワガラナイデ……」

「どうしたんだい典子さん、怖い夢でもみたのかい?」

 気がつくとお父さんが典子の肩をゆすっていた。彼女の全身は汗にびっしょりぬれていた。電車は青竹が原駅に停車していて人がせわしなく乗り降りしていた。

 典子の父親である松井秀介は娘に向かって優しく微笑みかけていたが、実際は娘のことが不安でたまらなかった。昨日の晩、家を飛び出してから、彼女は一言も口をきこうとはしなかった。彼は二人きりでゆっくり話し合おうと思い彼女を外に連れ出したのだが、彼女は決して口を開こうとはせず、なにをやっても無駄だった。彼が無理に話させようとすると、彼女は涙を流してうつむいてしまうのだった。

 彼の努力はことごとく失敗に終った。原因は彼にはよくわかっているつもりだった。もっと別なやり方があったに違いない、結果的に私は娘の心をひどく傷つけてしまった、と彼は自分自身を心の中で責め続けていた。彼は一日中決して娘の手を離そうとはしなかった。

「次は白葉台、白葉台……」

 車掌のアナウンスが車内に流された。白葉台は松井一家の最寄り駅だった。

 電車が再び動きだしてしばらくすると、お父さんは微笑んだまま動かなくなった。周りを見るとお父さんだけでなく電車自体も止まってしまってしまっているようだった。典子は怖くなって、手に力はほとんど入らなかったが、隣に座っているお父さんの手を力いっぱい握りしめた。しかし、お父さんは少しも動かなかった。

「ゴメンナサイ…… コワガラナイデ……」

 紙袋のほうに目を向けると魔法少女はまたも典子に話しかけていた。その瞳は涙にぬれていた。その姿を見て彼女の恐怖心は少し薄れた。彼女は口を動かすことができなかったが、じっと心を集中させた。

「あなたはいったい……?」

「私の名前はミモファルス。みんなにはミモって呼ばれてる。私に力をかして。とにかく、もう時間がない……」

「でもいったい、どうすれば……?」

「わかんない……」

 魔法少女は悲しそうな顔をした。

「わかんないじゃ、わかんないよ……」

「でも二人で力を合わせれば…… もう時間がない…… 私の力はだんだん弱まってきているの…… だからお願い…… あなたにかけられた魔法もなんとかできるかもしれない……」

「魔法って……? 私、今どうなっちゃっているの……?」

「あなたの心は誰かに凍らされている…… 身体が動かせないのはそのせい…… ほんのちょっと私の力で魔法の氷を溶かしたけど…… 早く完全に溶かないと手遅れになっちゃう……」

「でもどうやって……?」

「私に近づいて…… とにかく心を集中させて……」

 典子は全神経を集中させた。そして、何度も失敗しながらも彼女は指先で魔法少女に触れることができた。触れた瞬間、彼女の手にほんの少し力が戻った。

 その時、電車どうしがすれ違う大きな音がして車内が左右に揺れた。すべては元通り動き始めていた。

「んっ……」

 手元が揺れたので田中は目を覚ました。歩き疲れていた田中はそのまま電車の中で眠っていたのだった。見ると隣の女の子が彼の紙袋を握りしめていた。女の子は青い服を着ていて丸い大きな瞳をしていた。

「コレコレ典子さんよしなさい……」

 田中が顔を上げると、優しげな顔をした年配の男が女の子の手を紙袋から引き離そうとしていた。女の子はなかなか手を離そうとはしなかった。

「どうもすいません。普段はこんなことをする子じゃないんですが…… 欲しいものがあればまた買ってあげるからね」

 典子の父親は少し動揺していた。実際のところ、娘がこんなとっぴな行動をとるのは始めてだった。しかし、娘が久しぶりに積極的な行動を起こしたのが嬉しくもあった。

 父親に紙袋から手を離されると、女の子は無表情でありながらどことなく悲しげな顔をした。

「あのう…… これくらいだったら娘さんにプレゼントできますよ」

 田中は紙袋の中をごそごそと手を入れて、魔法少女ミモの絵のシールが貼ってあるフロッピー・ディスクを取り出した。

「そんなけっこうですよ…… あまり子供を甘やかすわけにはいけません」

「いえいえ、そんな高いもんじゃないですし、まだ何枚か持っていますし、もらってください」

 そういって田中はそのフロッピー・ディスクを女の子に手渡そうとすると、手に力がないのか、女の子はそれをつかみそこなって、フロッピー・ディスクは女の子の膝から床へ転がり落ちた。田中は急いでそれを拾い上げると、今度はしっかりと女の子の手に握らせてあげた。女の子はゆっくりとした動作でそれを耳にあてた。

「それはスクリーンセイバーです。あの〜、パソコンはおもちでしょうか?」

「はい、パソコンはウチにあります。どうも、すいませんねえ…… 本当にありがとうございます……」

 父親は恐縮して田中に頭を下げた。
 
 次の白葉台でその親子は電車を降りた。不思議なこともあるものだと、田中は女の子の後姿をじっと見つめた。驚いたことに、その女の子は紙袋に描かれている魔法少女にうりふたつだった。

「コレコレ典子、それを耳にあてても音は聞こえないよ それはフロッピー・ディスクといってね……」

 父親がそういっても、家に帰る途中、典子はフロッピー・ディスクをずっと耳に当てていた。

「アリガトウ……」

 声がまだかすかに聞こえたので、典子は嬉しくなった。しかし、彼女の表情は固く閉ざされたままだった。


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