傷痕の塩味
僕は、妹の下僕だ。
あの日から僕は――僕の身体は、すべてが紅葉のためだけのものになった。
今夜もまた僕の部屋で、紅葉に求められるがままに、紅葉の身体に奉仕をしている。
紅葉は今日も身じろぎ一つせずに、ただ黙って僕のベッドに横たわっている。僕は紅葉の上に跨ると、ひとつひとつ丁寧に、紅葉の寝間着のボタンを外していく。両手で紅葉の前をはだけさせていく。双の胸が、明らかになる。
暴力的なほどの圧迫感とともに、それが目に飛び込んでくる。
目が離せない。自分自身、目を背ける事を決して許してはいない。その。
傷痕。
薄明かりの下でもそれは、はっきりと自己を主張してやまなかった。
それは、紅葉の身体の前面を、くっきりと縦一文字に切り裂いていた。ちょうど左の肩口のところから右の腰骨の辺りにかけて、斜めに四十センチほどの長さで、まるで袈裟切りにでもされたかのように、引き攣れが走っている。
当然ではあるが、紅葉の左の乳房にも、くっきりとその傷痕は刻み込まれていた。
柔らかな脂肪で膨らんだそれは、傷を負った時点よりも遥かに成長していて、張り詰めたその表面が、傷痕をよけいに醜く引き攣らせていた。
その傷痕はもちろん胸だけに留まらず、乳房から腹部のなだらかな丘陵を抜けて、紅葉の翳りの辺りまで、長いながい山脈のようにうねうねとくねりながら、一本の肉のラインを形成していた。
薄桃色――そして暗紅色に色づいているそれには、ところどころ肉襞にも似た肉の芽の盛り上がりがあって、それがくちゃくちゃとたくまっては、紅葉の胸の上下に合わせ、時折ふるふると震えていた。
僕はそれを、ゆっくりと、丹念に舐め上げていく。
紅葉はそれが好きだ。
それをされる時の紅葉の顔だけは、数年前のあの日からちっとも変わってはいない。部屋のすみで膝を抱えてうずくまっていた時の、砂色をまぶしたような、あの無表情のままだ。
もっとも紅葉も、日常生活で笑顔を『作れる』ようになっただけ、いくらかましになったのかもしれないけれど。
もちろん紅葉のココロがいずこにあろうとも、僕の紅葉への気持ちは変わる事はない。
僕は心の底から、紅葉の事を大切に思っている――たとえ一生、紅葉が僕の事を赦すはずがないとは分かっていても。
――分かっては、いても。
そして僕は、その思いを刷毛で塗りつぶしていくかのように、何度も何度も繰り返し、紅葉の傷痕に舌を這わせていく。
細かい縫い目がつぷつぷと、規則的に舌先に当たっていく。唾液がねっとりまとわりついていく。透明に光る紅葉の傷痕の襞々が、奇妙なほどに淫猥だ。まるで自ら分泌物を出しているかのように――そう錯覚してしまうほどに、ぬめぬめといやらしく光っている。
常夜灯のオレンジ色の光に照らされて、僕のダルな陰影が、紅葉の身体に覆い被さりながら、幾度となくそこを往復していく。
部屋の中には、紅葉の押し殺したようなため息と、ぴちゃぴちゃと飛沫く水音だけが、月夜に映える湖面のように、静かに相響きあっている。
紅葉の身体が幾度となく震える。
顔は相変わらずの無表情のままだが、身体はほのかに色づき、発汗している。
すでに塞がっているはずのその傷痕は、かすかに血のような金気臭い塩味が、した。
――夢を、見ない。
がたんごとん。
今度こそ電車は、何事もなく大久保駅に着いた。
電子回路の実験そのものは、五時過ぎに無事終了した。
やっとの思いで辿り着いた追坂の駅ビル地下一階のバーガーズ・サンは、これでもか――っていうほど、若い人ひとヒトの群れで、ごった返していた。特に、学校帰りとおぼしき中高生の姿が、嫌でも目に付く。
”僕は君のそばにいる いつだって君のそばにいる
部屋の中には、柔らかいピアノの音と、僕の歌う声だけが、ゆっくりとしたペースで響き渡っていた。甘すぎるほどに優しい歌詞が、フィルのメロディアスなピアノの音に包まれて、しっとりとした雰囲気を形作っている。
街はまだ、熱気で蒸し蒸していた。
知らせは突然だった。
ホテルは、平日のまだ早い時間帯であるからなのか割に空いていて、さほど苦労する事もなく、その中に入る事ができた。
脱力して余韻に浸っている僕を尻目に、紅葉は一人、もごもごと口の中を整えていた。それも、僕を咥えたままで、だ。出したばかりで敏感な僕だから、くすぐられてかなりこそばゆい。
紅葉を脱がせるのは――そんな事をした事はないが――等身大の着せ替え人形を脱がせるのと、さほど変わりはしなかった。微妙に腰を浮かせたり、言えば手足を曲げたり伸ばしたりする分、いくらか紅葉の方がましといったところか。
「かはあぁ……」 おしまい
眠りの中、ここ数年来、僕は夢を見た記憶がまったくない。
本当に夢を見ていないのか、それとも見ているのだけれど、起きた瞬間にその事を忘れてしまうのか――忘れてしまいたいほどの夢なのか――そこまでは分からないけれど、今の僕にとって寝ている時間というのは、一瞬の――あるいは永遠の――虚無の時間にすぎない。
いつ寝付いたのか分からないような、心の中の真空の時間。
いつも吸い込まれるように意識がなくなり――なくなった事すら気付かずに――ほんのつかの間の安息の隙間を、一人ゆらゆらと漂っていく。誰の心と身体をも、意識しなくてすむ平穏な時間。
――だからそれは、いつものように、突然僕に襲いかかってきた。
「おっはよぅん、兄貴っ!!」
そんな嬌声と共に、重い――何て言うときっと怒るな――塊が、いきなり僕の腹の上に乗っかってきた。
げふ。
一瞬にして息が詰まる。それと引き換えに、急激に意識が現象界に引き戻されていく。リアルな重みがダイレクトな質感を持って、空っぽの胃袋に響き渡ってくる。
まったく、相変わらずムチャをしやがる。
こんな事をするような人間を、僕は一人しか知らない――間違いない。
紅葉だ。
僕は今、目覚まし時計を持ってないもんであるから、その代わりに毎朝、紅葉が僕を起こしにくるのであった。
それも、わざわざ、こうやって。
「起きろっ、兄貴っ!! もう朝だぞおっ!!」
そう言いながら紅葉は、人の腹の上で、『いつものように』盛大に腰を揺り動かし始めた。紅葉曰く、寝起きの悪い兄を起こしてやってると、いつも称している行動である。
僕はいつも――夏だろうと冬だろうと、あの日よりも以前から――裸に薄い夏蒲団一枚で寝ているもんだから、紅葉の股間が押しつけられる感触は、かなりストレートに僕の腹部へと伝わってくる。
ぐりぐりっ、ぐりぐりっ。
そういう感じだ。
だからと言って僕と同様に、こうしている紅葉までが裸だという訳では、もちろんなかった。
紅葉はいつの間にか、自分の高校の制服である紺色のブレザーと、赤系のタータンチェックのミニスカートとを身にまとっていた。その上にさらに、お気に入りの白いエプロンまで着けている。僕が半年ほど前に、買ってやった奴だ。
ところで……いつも言ってる事だけど、腰骨の辺りでスカートを折り曲げて、標準よりミニ度数を高めるってのは、止めてほしい。そりゃ、確かにそっちの方が可愛く見えるってのは事実だけど、他人事ながら、いつパンツが見えてしまうのか、気が気でならない。今だって、ほら。
すっと、目を外す。多分、わざとやってるんだろうし。
ま、それはともかく。
「あ、ああ……紅葉か……」
そんな状態の僕から出るのは、いつもの惚けたような声だけだった。
自慢じゃないが、僕ははっきりいって朝は、弱い。男のくせに、れっきとしたヘム鉄分不足なのだ。ほうれん草の油でいためた奴も、何か口の中がえぐくて、あんまし好きじゃないし。
大体、うちのフライパンだってテフロンの奴なんだもの。中華鍋の、よく使い込んでて油でぴかぴかてかってるような奴じゃなくっちゃあ、鉄分なんて摂れやしないよ。
……なんて、どーでもいい事を薄ぼんやりとした頭で考えてたら、お腹の上から、いきなり紅葉の声が振り落ちてきた。なぜかこんな頭でも、はっきりと呆れ声だと分かる。
「紅葉か、じゃないわよ、もお。兄貴の低血圧も筋金入りだねっ」
うるさい。
大体なんでお前、朝からそんなに元気なんだよ? お前だって昨日、あの後ろくに寝てないんだろうに。
そう、文句の一つも言おうとした、途端。
「こっちの方はいつも元気なのにさっ。こっちに血が集まりすぎてんじゃないの?」
あひっ!?
何を思ったか、紅葉がいきなり布団の上から、僕のムスコをぎゅって握り締めてきた。
そこ――僕の下半身――は、朝だからしょうがないとはいえ、薄い布団を持ち上げるようにぷっくりと山高く、三角形のテントを張っていた。それは昨晩、確かに疲弊しきってたはずなのに、なぜだか今朝も無節操に元気だ。それは事実だ。認める。
――だからってこれはないだろう?
言葉通り、真綿で締められるような感覚に、一気に脳幹に血液が逆流した。
「こっ、こらっ、紅葉っ」
慌てて布団ごと、紅葉を身体から引っぺがす。剥がされた布団が、僕の腰の辺りでくしゃくしゃとたくまる。
もちろん僕の上半身は丸見えだが、今さらそれくらいで顔を赤らめるような紅葉ではなかった。むしろ、僕の方が恥ずかしいくらいだ。
その当の紅葉は、強引に振りほどかれた割には器用に、ぽん、と、両足でベッドの脇に下り立っていた。にやにやといやし笑いを浮かべながら、腰に手をあて、僕にこう言う。
「いーじゃん、健康な証拠なんだから。今日も朝から元気だね、って。くふふっ」
何が可笑しいのか、口に手を当てるような真似までして、笑う。
僕は相変わらず、憮然とした表情だ。
紅葉はそうやってひとしきり笑った後、後ろ手に手をひらひらさせながら、ドアの方へと歩いていった。お尻が、ぷりぷり揺れている。もっともこれも、見とれてた訳じゃなくって、単に目に写っただけだ。
紅葉が入り口のところで振り返って、こう言った。
「それじゃ兄貴、さっさと着替えて下りてきてよねっ。せっかく焼いたの、冷めちゃうよっ?」
にこっと笑う。屈託のない笑顔、に見える。
「ああ」
こう言う他に、僕にセリフが残されていただろうか?
紅葉がとんとんとんと、リズムよく階段を降りていく音を聞きながら、僕は、これで二度寝なんかした日には、今度こそ確実にぶっ殺されるんだろうな、と、ふと、思った。紅葉の細い腕で頚を絞められるイメージが、なぜだか鮮明に浮かび上がる。
――ベッドの中に寝ている僕。
紅葉がいつしか背後から覆い被さってきて、腕をそっと頚に回してくる。甘えるように、しなやかな脚を胴に絡める。僕はされるがまま、身動き一つ取る事ができない。
耳元に、紅葉が唇を寄せてくる。吹きかけられる息がくすぐったい。ちろちろと、紅葉の舌が耳朶をねぶっていく。こり、と耳たぶを甘くかじる。背筋を走る期待と震え。紅葉が耳元で聞き取れない、何事かをささやく。そして。
きゅっと、絞める。
紅葉の冷たい二の腕が、僕の頚動脈を圧迫する。脳内の酸素が、泡噴くように欠乏していく。目の焦点がだんだんと合わなくなり、瞳孔が白い光に包まれていく。感じるのはただ、僕を……僕が苦しめている紅葉の体温だけ。
それもやがて途切れ、僕は、暗黒の闇の中へと墜ちていく。そこは何もない、本当に何もない、不安も怖れもない永遠の虚無――。
って、おいおい、何を考えてんだか。妄想に入りかける。
やばい。このままじゃ、ほんとに寝ちまいそうだ。頭を軽く左右にシェイクして、浮かび上がってきた妄想と、ついでに眠気を吹き飛ばす。
だけど。
それでもいいかな、と、まだ心のどこかで思わないでもなかった僕だけれど、とにかく今日は、起き上がる決心がついたようだった。
『どうにか』という副詞付きではあったけれど。
僕はベッドから下りて、ううんと一つ伸びをすると、またしゃがみ込んで、ベッドの下の衣類ボックスから下着とジーンズとを取り出していった。それを手で掴んで、階下の風呂場へと降りていく。もちろん寝ていた時と同様、裸のままだ。
いいじゃないか。どうせ、脱ぐんだし。そんなひろりん的な事をするつもりもない。ふあぁ。
ひろりんって何だっけ……? ああ、非論理、か。
と、そんなこんなで僕はあくびをしながら、バスルームのドアを開けた。
僕の朝のシャワーはいつも決まっている。まず、頭の先から冷水を滝のように浴びて、それから灼けるほど熱くしたのを一くさり。これを二、三度繰り返す。これをしないと僕は朝、起きた気になれない。それまでの自分は、半分ゾンビだ。
幸い今日も、ようやく人間に戻れたようだった。肌が水分を吸収していってるのを実感する。しゃっきりと、思考回路が人並に回復する。ピントがだんだん合ってくる。
そして僕はバスルームを出ると、タオルでわしゃわしゃと頭をかき回して、ついでに洗面台で歯を磨いた。コップから、紅葉の分の歯ブラシを脇にのけて、塩入りの歯磨き粉をうにゅうにゅと毛先に絞り出す。
これは、やった事のある人間にしか分からないだろうが、マジで歯茎が締まる。
僕は、しゃこしゃこと時間をかけて、歯の表裏、両面を磨き上げてから、ぐじゅぐじゅぺっぺっと口内をゆすいでいった。今日も、歯茎は健康のようだ。りんごをいくつ齧っても大丈夫。
そして、身に着けるものを身に着けると、僕は、紅葉の待っている――だろう――キッチンの方へと歩いていった。
紅葉はとっととテーブルに付いていて、とっくに朝ご飯を食べ始めているようだった。
キッチンに入ってきた僕に気付いた紅葉が、声をかけてくる。
「おはよっ、兄貴。もうできてるよ」
「ああ」
僕はいつものように、生返事を返した。
何が、とまでは聞くまでもない。その程度は言わなくても分かる。二人暮しをするようになって以来、ごく初期を除いて、朝ご飯の当番は紅葉がやっているのだ。
ところでここだけの話、紅葉の朝食のバリエーションは、実はそんなに多くはなかった。いつも焼き立てのトーストに、付け合せの料理が一、二品といったところである。もっともそれと紅葉の料理の腕、また、その朝食がうまいかどうかって話は、確かに別問題ではあるのだけれど。
今日の食卓を飾っているのは、果汁百パーセントのオレンジジュース、レタスがぱりっとしたグリーンサラダ、ツナ入りのスクランブルエッグ、そして、バターたっぷりのトーストだった。これって、定番中の定番である。
これで、朝日がさんさんと降り注いでいるもんだから、まるで、幸せいっぱいの家族の朝食風景みたいだった。紅葉もにこにこしているし。
その紅葉はもう、あらかた自分の分は食べ終わったようだった。すっと席を立って、ポットの方へと足を運んでいく。
「はい、兄貴」
紅葉がかいがいしくコーヒーを淹れてくれる。自分用には、もう一杯、紅茶を。
そして僕の正面に座りなおすと、頬杖をついて、こっちをじっと見つめていた。僕が何か言うのを、待ってるような感じ。
「ああ……ありがとう」
その視線に、とりあえず、礼を言っとく。
「どーいたしまして」
それに軽く肩をすくめて、紅葉が答えた。そしてようやく小指を立てて、ティーカップを口に運んでいく。無造作なその動きに、僕は思わず、紅葉のカップを持った左手から目を外す――紅葉の顔に目を移す。
紅葉は、普段は大きな瞳をこの時ばかりは細めて、ころころと口腔で、紅茶の香りを転がしていた。柔らかな朝日に照らされて、紅葉のショートボブが紅茶色に透き通っている。
まるで、一枚の絵画のように。
こうして見てると、本当に紅葉は猫みたいだった。暖かな日溜りの中でくつろいでる、茶虎の仔猫。いや、仔ライオンか。
猫って言うには、紅葉はちょっとばかし、攻撃的に過ぎるかもしれないから。
と、その時。
「ん? 何?」
まるで、僕の心のつぶやきを読んだかのように、紅葉がいきなり目を開けた。そらすタイミングを失って、思わず目が合ってしまう。
紅葉の瞳はいつも黒々と濡れて、艶やかな光を放っていた。少しつり上がりぎみのその瞳は、やはり、猫系の肉食獣を想像させる。それも、強烈な意志を持った、野生の獣だ。
だからこういう時も、紅葉の方からは決して目をそらさない。まるで虹彩を射抜くかのように、じっと僕の瞳を見つめ続けている。
結果、圧力に耐え切れなくなった僕の方から、ふっと目を外す事になる。
野生のシマウマだったら、間違いなくこの隙にかぷりと首筋に噛みつかれているところだろう。紅葉の八重歯、いや、野生の牙で。
冷やりとした感覚だけが、僕の首筋を撫でて走る。
だから僕は。
「何も」
そう言うのが、精一杯だった。
視線を紅葉からそらしたまま、少し温まったスクランブルエッグを突っつく。
とろりとゼリー状に固まったたまご液を口に運びながら、僕はずっと、側頭部の辺りに薄々とした視線を感じていた。多分、気のせいではないと思う。
そして、しばらくの間があって。
「ふうん」
ようやく紅葉が、気にも留めないというか――矛盾するけど――少し残念そうというか、何とも微妙な温度を持った声を上げた。なぜだかその声を聞くと僕は、とても居たたまれないような気持ちになる。
そのまま、所在なげにお皿のスクランブルエッグを突っついてると。
かちゃり。
前方で、音がした。
見上げると、紅葉が皿とコップを重ねて、流しの方に持っていくところだった。
紅葉は、お皿をシンクの中に漬け置くと、いすに引っかけてあったナップザックを手に取って、振り向きもせずに、僕に言った。
「じゃ兄貴、あたし、そろそろ出なきゃいけないから、後片付けの方よろしくね」
極端に感情が込もっていないような声で紅葉はそう言うと、僕の返事も待たずに、ザックを右肩に背負っていった。ごついダイバーズウォッチを左手首に嵌めながら、玄関の方へと歩いていく。今度はさっきとは逆に、紅葉の方から視線を合わせようとはしない。
僕はただ、紅葉の後ろ姿を見つめながら、黙ってトーストを齧るだけだ。
と、そこで。
「あ、そーだ、兄貴?」
いきなり紅葉が、キッチンの戸口を出かけた所で立ち止まった。くるりと首だけ、こっちの方に振り返らせる。そして。
「兄貴、今日、何か予定ある? あたし、今日試験終わったら明日休みなんだ。お昼までで終わるから、それからデートしようよ、ねっ?」
いきなり思いついたかのように、明るい声でそう言った。
振り返った紅葉の表情に、特に普段と変わった様子はなかった――少なくとも、表面上に見える範囲では。完璧なくらいに。
時間がしばらく固まった。
紅葉は振り返ったその格好のまま、じっと僕の返事を待っていた。まるでおとぎばなしに出てくる氷の女王のように、身じろぎ一つせずに。じっと、そのまま。
――僕には、紅葉に答える義務があった。
だから、僕は言った。
「今日は電子回路の実験だから、早くても三時、遅かったら夕方過ぎるんだが、それでもいいか?」
嘘じゃない。
普通の、出席も取らないような講義だったら別にサボってもいいんだけど、実験はさすがにそうはいかない。いちおう僕も、四年で卒業するつもりではあるし。
「んー」
紅葉は僕の返事を聞いて、少しばかり考えるようなそぶりをした。軽く小首を傾げて、目線を上目遣いにする。
視線が離れたのをいい事に、僕はそっと紅葉の顔を盗み見た。人差し指を唇の端に付けて、わずかに眉をしかめている。その表情は、確かにかけがえがないほど愛おしい。
そして紅葉が僕に向かって言った。
「……ま、いいよっ。じゃあたし、追坂の駅ビルのバーガーズ・サンにいるから、終わったらさっさと来てよねっ。じゃ、行ってきまぁす」
言うだけ言って、手を振って、出ていく。
「ああ」
僕ももちろん、紅葉に向かって手を振り返してやった。持っていたトーストを、口の中にほお張ったままで。
そして、戸口から紅葉の姿が見えなくなるのを確認してからようやく、僕は手をひらひらさせるのを止めた。中途半端に右手を上げた格好のまま、口に含んだトーストを一口、噛みちぎる。
じゅわっと滲み出てくるバターの芳香を噛み締めながら、僕は思った。
そう。
僕には、紅葉に答える義務がある。と。
擬音どおりに電車が揺れる。人も、揺れる。
もっとも、朝のこの時間帯、そんなに揺れる事ができるほど、人と人との間に隙間ができている訳ではないんだけれども。
いつもだったらもう少し余裕を持った時間に出るんだけど、実験がある日ばかりはしょうがない。数分くらいの遅刻ならともかく、電車が空くまで待ってたら、その日の出席は確実に不許可だ。
いちおう休んだ時のリカバーの方法もない訳ではないんだけど、それは、本当の病欠の時とか、『本当に』ヤバい時用に取っておいた方が、多分、無難だ。人生、何が起こるか分かったもんじゃないし。
そう。
実際、人生で何が起こるかなんて、本当に分かったもんじゃない。それに、リカバーできるような事も、それこそ、ほんの数えるほどしかないのだ。
それこそ人生って奴は、すべてのいい事も悪い事もひっくるめて、どうしようもないほど一方的に、粛々と『今まで』の上にただ積み重なっていく。今、この瞬間を形作っていって……そして次も。
僕にできる事はただ、そのわずかな時の隙間の中で、僕と僕の回りの人々が、少しでも幸せなところに向かえるように、それを祈って足掻き続ける事くらいだ。
幸せになれますように。
幸せになれますように。
僕はそうつぶやきながら、額からしたたり落ちる汗をぬぐい取った。
それにしても、暑いな。
今年はカラ梅雨のせいか、電車のガラス越しにではあっても、六月のキツい直射日光が容赦なしに降り注いできた。車内には早くもクーラーが点いているけど、この人いきれと陽射しとで、全然効いていやしない。僕のいる側なんかはっきり言って、半分蒸し風呂状態だ。
――蒸し風呂。
突然、いやなイメージが浮かんできた。
さっきからそうだ。今日はちょっといつもより、ダークに入る度合いが強い。今朝、紅葉があんな顔をしたからでもないんだろうけど……って、人のせいにするのはよくないな。うん。
それに、せっかく作れるようになった紅葉の笑顔を、そんな目で見ちゃいけない。
それでも、いったん思い出してしまったイメージは、なかなか僕の脳裏から消え去ろうとはしてくれなかった。どうしようもなく、記憶が過去に遡っていく。
そう。
あの日も、こんな風に蒸し暑かった。
いや、本当に暑かったのかどうかは、実のところ、そんなによくは覚えていない。季節でいえば初春だったんで、日によってはまだまだ肌寒い日もあったはずだ。とはいえ、あの日――四年前の春休み、日曜日――が、よく晴れていた事だけは間違いないんで、だから実際には、そう寒くもなかったんじゃないかと思う。
とにかく実際に覚えているのは、シートに挟まれて身動きできないでいる自分の、蒸せるほどに熱い息だ。
そして、耳が痛くなるほどの静寂。
ほんのついさっきまで話していたはずの声が、何一つ聞こえてはこない。うめき声、すらも。すぐ隣りに座っていた紅葉の気配すら、まったく感じる事ができない。
あるのはただ、自分の身体全体を覆っている、絶対的な痛みと熱さだけだ。
そう、『痛み』。
痛みを痛いと、熱さを暑いと感じられるだけマシだと気付いたのは、しばらく後になってからの事だった。後で聞いたところによると、父も母も――そして紅葉も――この時すでに、痛みを感じてはいなかったはずなのであるから。
場所は、よく晴れた三月の中央道だった。運よく僕が第一志望の私立に合格したもんだから、そのお祝いと家族サービスとを兼ねて、父が計画した一泊二日の温泉旅行。
そりゃあ、少しは制限速度をオーバーしていたかもしれない。僕も紅葉も、時折聞こえるキンコン鳴るチャイムの音を、面白がって聞いていたのだから。
だがそれも、あくまで通常の車の流れの中での事だ。
父は――僕の覚えている範囲では――どちらかというと、無謀な事はあまりしない人だったように思う。子供のウケを取るために、多少車のスピードを上げるような事があったとしても、せいぜいが百キロを少し超える程度、それもきちんと前方に障害となる車がいない事を確認してからでしか、そういう事をやらないような人だった。
だからあの時も――あの瞬間も、そんなにもスピードは出てなかったはずだ。
ちょうど僕が、転がった菓子か何かを拾おうとして後部座席のシートにしゃがみ込んだ――その瞬間。
一瞬にして目の前が真っ暗になった。
これは決して比喩ではない。忘れもしない。間違いなく僕は、その通りに体感していた。
走馬灯が走ったとか時間がゆっくり流れたとかという感じは、特にしなかった。僕は最初から最後まで、意識は失っていなかったように思う。
ただ、何が起こったかを把握するために必要な情報と、脳の処理能力とが、大幅に欠如しているようであった。脳内の回路が灼き切れたかのように、思考がからから空回りしている。
だけど僕は何一つ分からないなりに、自分の身体が自由に動かせない事だけは、なぜかはっきりと理解できていた。それと、身体中に吹き付けられる熱気とを。
それから、どれくらいの時間が経ったのか。
首一つ動かせない僕の目の前には、さっきまで座っていたシートの、毛足の短いじゅうたん様のものが、こぶし一つほどの隙間を空けて、鎮座ましていた。あまりにそれが近すぎるため、うまく目の焦点を合わせる事ができない。
何かが見えてはいるんだけど、何が見えているかはよく分からない状態が、かなり長い間続いていた。まるで画像だけが脳を素通りしているような感じだ。ただ写ってるだけって感じ。
音も何も聞こえない。といっても耳が聞こえない訳ではない。なぜって、自分の息の音だけはやけにうるさく響いているから。喉が鳴る声が、ひゅうぅ、ごおぉ。って。
とにかく身体が動かせない。身じろぎできない。肩が引っかかって、腕が動かせなくって、鼻の頭一つ掻く事ができない。鼻が掻きたいのに掻けない。息が暑くて汗かいてるってのに。鼻が、痒い。
ここは、どこだ?
ココハ、ドコダ。
クルマのナカ。シートのナカ。ウゴケナイ。ナニもキコエナイ。ボクはボクはアツイイキがアツイ。セマイ。ダレだボクはマモルだ。ボクはシートがミエル。ボクはカタがイタイ。イキがウルサイ。ドクドクドクドク。ウルサイ。シート。ボクはマモル。シート。アツイ。アツイ。ウルサイ。ガヤガヤガヤ。シート。マブシイ。シートがナイ。ヒトヒトヒト。メがイタイ。ヒトヒト。アオイソラ。シロイクモ。イイテンキだ。アツイ。
アツイ――。
「っ!!」
ヤバい。まずった。
今は、いつだ。僕は――俺は、今、電車に乗って、いる。俺は、名は、坂口、衛。今は、大学二年生で、実験を、実験に、大学へ行く、ところだ。大学は、大久保工科大学、電気電子学科の二年。最寄りの駅は、大久保、駅。今、俺――僕は、大久保駅に、向かって、電車に、乗っているところだ。僕は、電車に乗っている。
電車だ。
いつの間にか、手のひらにも腋にも、じっとりと粘っこい汗をかいていた。息を必死に静めようとしながら、手すりで体重を支えている。目に写っている画像が、ようやく脳内の思考とシンクロしだしてきている。何度もえずいてくる吐き気をこらえる。
喉を黄色い液体がせり上がってくる感じがする。
それが間違いなく、自分自身の肉体の反応だと認識できる程度には、思考が落ち着いてきているようであった。ひょっとすると、普段より冷静なくらいかもしれない。思考がシャープに研ぎ澄まされている。
とか何とか言ってる割には、実は精神的にはかなりのショックを受けていたけど。けど、ま、それを客観視できる程度には、落ち着いていたという事だ。
深呼吸を大きく、一つ、する。まだ脈拍は速いが、脈拍が速い理由も、今がいつで、ここがどこかって事も、ちゃんと今は分かっている。
大丈夫だ。俺――僕は。ちゃんと、現実を、認識している。
ふと、窓の外に目をやった。
眼下では、高架の上から見下ろされる家々が、電車の走る速度に合わせて左へと流れ去っていた。朝日に照らされて白く輝く、まぎれもない、どこにでもある平凡な日常風景だ。
そう、ここは。今は。
それにしても酷かった。ここ一年くらい、ここまで揺り戻るような事はなかったのに。やっぱり今日はどうかしてる。巡り合わせ最悪。欧米人なら、墓の上を誰かが通ったのかとでも思うくらい。
久しぶりに、あの時の鮮明な記憶が、僕の脳裏に浮きあがってきた。普段は無意識の領域に押し込めているはずの、あの記憶が。
僕は思い出した――普段も意識してないだけで、決して忘れている訳ではないんだけれど――ついでに、すべての事をできるだけ客観的に、思い起こしてみようとした。毒を喰らわば、という訳でもないが、自虐的な対ショック療法みたいなもんだ。かさぶたをわざと剥がしてみるのにも、似ているかもしれない。
ちりちりと胸が灼ける。記憶に深く潜行していく――。
そう、あれは四年前の三月、春休みの事。
結局あれは、相手のトラックの運転手の操作ミスが原因だった――らしい。最終的にはそういう結論に達していた。それが、具体的にいうと居眠り運転だったのか、それとも違う何かだったのかまでは、よく分かってはいない。聞く相手も、すでにいない。
事実としては、高速のセンターラインを越えて対向車線にはみ出してきたトラックに、うちの車が正面から突っ込んだ――それだけ。うちの車が先頭で、その後ろに何台か玉突きがあったとの事だ。
うちの車は、高速道路を走っていたほぼそのままのスピードで、トラックの下へと潜り込んでいった。直接現場を見た訳ではないが、車体の上半分が、ぐちゃぐちゃに潰れていたらしい。
父は、即死。助手席に座っていた母も、即死――。後部座席に座っていた僕と紅葉だけが奇跡的に助かり、さらに奇跡的な事に僕だけが、なぜかほとんど無傷で救出されたという事だ。
結局僕は、死体すら見せてはもらえなかった。
恐らくそれは、未成年に対する人道的配慮によるものなのだと思うのだけれど――ひょっとしたらそれは、そもそも見せられるような死体のかたちそのものが、なかったからなのかもしれなかった。僕が見たのは、火葬場でのボイラーから出てきた、灰色に焼けてもろく崩れた、いくつかの骨片だけだったのだから。
だから僕には、父と母が死んだという感覚は、実は今でもあまりない。むしろ急に、ふっとその存在が消えてしまったかのような感じだ。
実際、僕は両親と交わした最後の言葉が、何であるかも覚えてはいないのだ。これってかなり、不誠実な事だとは思うんだけれど。
僕から消え去ってしまわなかったのは、たった一人の紅葉だった。この時はまだもう一人、叔母がいたのだけれども、その叔母も、今はいない。
紅葉だけが、今の僕に残された家族だ。
しかしその紅葉も、命が助かったとはいえ、この事故によって、その身体には生涯消える事のない傷痕が残った。そしてもちろん――恐らく――心にも。
入院中も、生死の境をさ迷ったのは二度や三度ではないと聞いている。それも、傷口そのものの悪化によるものだけではない、生きる気力の欠如というか――つまり、まぁ、そういう事だ。
僕はその頃、お見舞いに行く事すらできなかった。
決してこれは、僕の具合が悪かったからではなかった。そうではなくて、僕が行くと、紅葉の身体に障るのだ。僕が病室に入るなり、いきなり物を投げ付けられた事も、幾度となくある。もっともそれも、そういう事ができるまで、紅葉の身体が回復してきた事自体は、喜ばしい事ではあったけれども。
それでも僕は、あの時の紅葉の瞳を、未だに忘れる事ができない。
僕の存在すべてを強烈に否定しつくしてしまうような、憎々しげに睨み付けられる『あの』視線。心の奥底まで貫かれる。まるで、親の仇でも見るような――。
って、紅葉にしてみれば、そのものだったのだろう。否定は、しない。
退院して家に戻ってからも、それは変わらなかった。
確かに表面的には、入院当時とは違って、紅葉が急に激するような事はそれほどなかったように思う。むしろ紅葉は、自分の部屋に一人こもって、ベッドの脇で膝を抱えてうずくまっていた――そういうシーンをよく覚えている。
しかし、それはあくまで燠火だ。
炉の中で粛々と燻る燠火のように、紅葉はずっと僕――あるいは現実――あるいはその両方――を恨み続けていた。砂色の視線でじっと虚空を見つめながら、それらを一切拒否する事によって、自分の心の平衡を保っていた。
話しかけても何も答えない。ご飯も食べやしない。時々、うっそりと立ち上がっては、用を足したり、冷蔵庫を開けて牛乳や野菜ジュースを飲んだりする程度である。
正直、叔母がいなかったら、僕も紅葉も、とっくに生きちゃいなかったと思う。
叔母――孝子さんは、両親を亡くした僕ら二人を引き取って育ててくれた。というか、実際には一人暮らしをしていた孝子さんが、僕らの住んでいる家に越してきた形になったのだけれど。
実際、僕らにはその時、孝子さんしか肉親は残っていなかったのだ。
孝子さんは、身内の僕が言うのも何なんだけれど、実によくできた人だった。
紅葉がその後、ご飯を食べられるようになり、学校へも行けるようになって――少なくとも表面上は――社会復帰できたのも、すべては孝子さんのおかげだった。
母の、けっこう歳の離れた――何歳下かって事は、実は今でも知らない――妹の、孝子叔母さん。それでも当時で、三十歳は確実に過ぎていたはずなんだけど、未だ――というか生涯――独身。
孝子さんは決して不器量だという訳ではないと思うのだけれど、その、率直に言うとかなり個性的な感じの人で、えと、女の人を形容するのにこんな言葉を使っていいのかはともかくとして、見た目豪快、な人だった。その実、内面は、とても細やかな気配りの利く人だったのだけれど。
でも、そういうのって付き合ってみないとよく分からないし、孝子さんもそういうのをどうも表にしたがらない気性みたいで、回りの人達にはやっぱり豪快な孝子叔母さんで、だからかどうか分からないけれど、ずっと独身、なのだった。
もっとも、独身ででもないと、僕ら二人の面倒を――『面倒』だ――見るなんて事はできなかっただろうけれど。
その、面倒な僕たちに対する孝子さんの態度は、と言うと――これが全然変わらなかった。
孝子さんとは、事故前もさほど深い付き合いがあったという訳でもなかったので、ベタベタしたりするというような感覚は、最初からあまりなかった。むしろ僕なんかは、かなり他人行儀っぽい面もあったように思う。
だが、孝子さんはそれ以上にドライというか、実にさっぱりとした風だったのだ。
実際、引っ越してきたその日も、荷物を部屋に運び込んで、二、三の事項――炊事や洗濯、ゴミ出しのやり方、一日の大体のスケジュール、連絡先等々――を僕と話し合うと、慰めの言葉一つかけるでもなく、早々に自分の部屋に引っ込んで、自分の仕事を始めたりしてたくらいだ。
孝子さんのその態度は、退院してきた紅葉に対しても同様だった。
紅葉の退院の日、僕は孝子さんにお願いして、紅葉を家まで送り迎えしてもらった。僕は学校があるというのを理由に、すべてを孝子さんに任せっきりにしたのだ。
僕が夕方、家に帰ると、すでに二人とも家に帰り着いているようであった。孝子さんはキッチンで夕飯の支度をしているようで、紅葉はリビングにぽつんと一人、取り残されていた。何をするでもなく、膝を抱えて座り込んで、じっと虚空を見つめている。
その時も僕は、紅葉に言葉をかける事すらできなかった。そそくさと逃げるようにして、自分の部屋へと閉じこもっていく。正直なところ、紅葉とどう接したらいいのか、分からなかったのだ。
ほどなくして、階下から夕食に呼ぶ声が聞こえた。
降りていくと、すでにテーブルには紅葉も孝子さんも着いていた。孝子さんは以前、母が座っていた席に、紅葉はその向かいに。僕も、紅葉の横の、いつもの自分の席へと腰掛ける。
初めての、三人揃った食卓だった。ご馳走、というほどでもないが、いつもより華やかな、暖かい夕食がそこにはあった。
この、沈み込むような重苦しい雰囲気さえなければ、家族の団欒と言っても差し支えなかったかと思う。
実際、僕がリビングに姿を現した途端、目を交わさなくとも、僕と紅葉との間に張り詰めた糸がぴんと張るのを、僕は全身でもって感じていた。
ちょっとした刺激で弾け飛んでしまいそうな、引き絞られた糸。その上で綱渡りを強いられているかのような、ギリギリの緊張感。身じろぎ一つ、言葉一つ発する事ができない。
身が切り裂かれるような時間と空間。
だが孝子さんは、そんな僕と紅葉の顔をゆっくりと見回すと、何事もなかったかのような笑顔で、こう、言ったのだ。
――いただきます、と。
僕は数瞬、あっけに取られていた。思わず横目で紅葉の顔を盗み見る。紅葉も、先ほどまでの色のない無表情ではなく、目にわずかに驚きの光を宿しているようだったから、多分、同様の気持ちだったのだろう。もっともすぐに、紅葉の表情は元の砂色に戻っていったけれど。
そんな事は意にも会せずに、孝子さんはがっぱがっぱと食事を進めていった。そしてそれがまた、見事なくらいに自然だった。
僕がおろおろとうろたえながら、俯いて箸を取ろうともしない紅葉に声をかけようとしても、さりげない視線で圧力をかけてきて、決して口火を切らせようとしない。
孝子さんは、ごく普通に、紅葉を放っておいたのだった。
拒食の話は医者から聞いていただろうのに、特に食べろとも、食べるなとも強制しない。また、むりやりしゃべらせたり、むりやり団欒の中に引きずり込もうとしたりもしない。
ただ、孝子さんは間口を開けて待っていた。
いつでも紅葉の気が済む時に、歩み寄ってくれればそれでいい。その時は、いつでも両手を広げて迎えてあげるから。いつでも、いつまでも、待っているから。
孝子さんは、そういう事ができる人だった。
実際、紅葉の方も孝子さんに心を開くまで、そう時間は掛からなかった。
それから毎日、孝子さんは、朝になったら容赦なく僕と紅葉とを叩き起こしに来た。僕は学校があるからまだいいとしても、紅葉はまだ自宅療養中なのに、それでも朝だというだけでベッドから引きずり出されていた。小原庄助さんじゃあるまいに、というのがその理由だ。
そして必ずと言っていいほど朝食を用意し、紅葉が食卓に着こうが着くまいが、時間になったら会社へと出勤してしまう。昼間だって、特に用事がなければ電話一本入れるでもなく、夜は夜で、普通程度には遅い。ちなみに孝子さんは、雑誌の編集部員をしているので、遅い時には半端じゃなく遅い時もあった。
ある種いい加減と言えばいい加減、今までと変わらぬそんな扱いが、紅葉には何よりも心安かったようだ。
そんな生活が一ヶ月も続くうちに、紅葉の拒食も少しずつ改善され、ぽつぽつとではあるが、孝子さんとは会話も交わすようになっていった。孝子さんが仕事で忙しい時には、変わりに家事を行ったり、また、甘えるようなわがまますら言うようになったくらいだ。
僕とは相変わらず、コミュニケーションを取ろうとはしてくれなかったが、孝子さんが間に入ってくれたからか、半年後くらいにはようやく、はいといいえの意思表示くらいはしてくれるようになっていた。
だから僕が、紅葉とまがりなりにも会話できるようになったのは、ひとえに孝子さんのおかげである。
春になって、一年遅れではあったけれど、中学校にも復学した。
学校に通いだすようになって紅葉は、さらに明るさを取り戻していった。元来、人見知りをしない性格だったのも幸いし、また、一学年下とは言えよい友達に恵まれたのか、特にいじめられるような事もなく、紅葉は徐々にあの日以前の生活へと戻っていくように見えた。
このまま、何事も起きなければ、きっと、そうなったに違いない。
何事も起きなければ。
だが、それも――。
と。
がたんっ!!
手すりに寄りかかっていた身体が、思いっきり左右に振られた。物思いに耽っていたせいか、僕はその勢いのままバランスを崩して、あやうく人の間につんのめりそうになる。慌てて手すりを掴みなおす。
ふぅ。
どうにか、身体を支える事には成功したようだった。冷や汗をぬぐう。
呆けた頭を振って窓の外を見れば、今にも電車は高層ビル街の間を抜けて、駅の構内へと侵入しようとしているところであった。いつの間にか追坂駅――この電車の終着駅だ――に到着してしまったようだ。
それにしても気が付かないうちに、ずいぶんと長い間、追憶に捕われていたようであった。まったく、最寄りの駅から追坂まで、急行でも三十分近くあるってのに。
ちなみにここから大学のある大久保駅までは、国鉄の環状線に乗り換えて、二駅の距離であった。
ぐんっ。
もう一度、不意に加速度が来る。押される。踏ん張る。人が寄る。
そんな押し合いへし合いの末、ようやく電車が駅に着いた。
アナウンスに導かれるように、左手の自動ドアが開く。一気に人の圧力で、降車ホームへと押し出される。
僕は、電車を降りる人ごみに背中を押され、乗り換えの改札口へと足を向けながら――さっき脳裏に浮かびかけた半年ほど前の出来事を、砂を噛むような気持ちで思い返していた。
あの日。
叔母が亡くなった、あの冬の日の事を。
もっともたった二駅、時間にして五分足らずの距離だ。妄想に捕われるにせよ空想に耽るにせよ、時間があまりにも短すぎる。それに僕だって、いつもあんなに考え事ばっかりしてるって訳じゃない。
定期をくぐらせ、ガード下に設置された自動改札を出る。大久保駅から大学までは、ゆっくり歩いて十分くらいの距離であった。
その通り道には、大学に隣接してちょっとした公園と芝生があった。今日みたいな天気のよい日には、学食で買ったお弁当を、この芝生の上で寝っ転がりながら食べるような事もあるくらいだ。
だもんで僕は、なるべく余計な事を考えないように頭を空っぽにしながら、どこはかとなしに青い空を見上げ、大学までの道を薄ぼんやりと歩いていた。
と、その時。
「よおっ、坂口っ」
どんっ!!
そんな声と共に、不意に右の肩口に衝撃を感じた。背筋に鈍い電流が走る。これって、かなり手加減のない一撃である。
まぢで、痛い。
僕は、半ば涙目になりながら、いきなり背中をど突いたやろーを睨みつけるために、ゆっくりと背後に振り向いていった。
そこには。
しれっとした顔をしながらこっちを向いて、右手を振ってる『奴』がそこにはいた。思いっきり掌底を喰らわしときながら、特に悪気がないって辺り、こいつの場合、さらに始末に悪い。
僕は内心、深いふかいため息を吐きながら、せいぜい辛気臭そうに聞こえる声で、そいつに向かってこう言った。
「……深山か。こいつぁ朝からご挨拶だな」
するとそいつは、邪気のなさそうな笑顔を満面に浮かべながら、邪気のなさそうな声で、邪気なさそうに、こう言ったもんだ。
「どーしたんだよ、坂口。今日はいつもにもまして元気がないな?」
「いつもにもましてってのは、余計だよ」
さすがの僕も、むっとした顔をして、こいつに答えた。
まったく、こいつこそ、いつもにもまして口が悪い。
『こいつ』、深山春香は、こんな口調ではあるが、これでも立派な女であった――いや、立派かどうかは確かめた事がないが、少なくとも外面というか、外見は、そうだ。
背丈は僕よりちょっと低いくらいだから、女性にしては高い方なんだけど、背中まであるストレートの黒髪と、ちょっとほにゃんとしたタレ目は、いかにもおっとりしたお嬢様然って感じだ。実際、かなりいいとこの娘さんらしい。っても、僕が直接、本人の口から聞いた訳でもないんだけれど。
いちおう、ウチのテニスサークル――去年、一部に昇格した――の、副幹事でもある。
ウチのサークルでもたいてい女子は、戸山女子大とか、聖護院大の女子部とかから勧誘してくるんだけど――工科大学の悲哀って奴だ――こいつはウチの大学の、それも建築科に在籍していた。バリバリの理系って奴だ。しかも、建築科の連中に聞くと、科でも一、二を争う才媛とゆー事らしい。
で、見てくれもこう整ってるんで、黙ってればたおやかな深窓の令嬢とでも通るのだけれど、これでなかなかけっこう気が強いっていう辺りが玉にキズというか……ある種の奴らに言わせれば、それも魅力の一つという事らしい。だもんで、サークル内外を含め、手を出して痛い目に会う男ってのが、後を絶たないらしかった。
当の本人いわく。
「つまんない男は嫌いだよ」
だそうだが、その癖そのさっぱりとした気性からか、そういうトゲのある事を言っても回りに敵を作らない辺り、僕にしてみれば、何とも羨ましい性格ではあった。
今日もその、憎めないような笑顔で、さらにキツい一発をかましてくれた。
「悪いわるい。いつも通り、って言った方がよかったかな? あははっ」
そう言い放って、実に屈託なさそうに笑う。
「あのねぇ……」
どうも僕は、こいつはある種、苦手だ。
僕もその容赦のない突っ込みに、苦虫を噛み潰したような表情をするのが精一杯といったところだった。
とは言え、この陰日向のない明るさが、いつも回りの雰囲気を和ませてるというのも、まぎれもない事実ではあった。さっきからダーク面に落ち込んでいた僕の、心が少し、軽くなる。
だもんで僕は。
わざとらしくしかめっ面をすると、眉根を揉みもみ、疲れたような声を作って、嫌みったらしく深山の奴に言い返してやった。
「お前ってばいつも、そーゆー風に俺を見てた訳ね? ……ったく、今日はたまたまだっての」
っと。
ちょっと気が緩んだからか、思わず最後に、ぽろっと本音が出てしまった。もちろん深山に聞こえないように、小声でつぶやく程度の理性は残してるつもりなんだけど。
それでも耳ざとく、深山の奴ってば、僕の声を聞きつけていたようだ。
「ん? 何か言った?」
突っ込んでくる。
「何でもねーよ」
余計な事を言った分、僕は軽く舌打ちをして、少しばかり強引に話をごまかしていった。ごまかしついでに振り返って、深山を置きざりにして、キャンパスの方へと歩き始めていく。せっかく実験に間に合うように朝早く来たのに、こんな所で立ち話していて遅刻したんじゃあ、目も当てられない。
もっとも、深山の足に合わせて、多少、ゆっくり目に歩いてやりはするけれど。まぁ、本当にギリギリな訳でなし、これでも充分間に合うだろう。
それにしても、この女ってばまったく、いつもいつも妙なところでスルドい。だから時々、こいつと話してて気疲れする事もあったりするんだけど……その辺、この女、自分で気が付いているんだろうか。
……こいつの事だから、気付いててもそういう風に振舞っちゃうんだろうな、やっぱり。
何て、よしなし事を考えてるうちに、とててって小走りに、深山の奴が僕の横に並んできた。軽くもう一度、ひじで突っ込みを入れてくる。
小突かれたからではないが、ふと、横の深山に目をやる。
深山は、話をごまかされたのがよほど気に入らなかったのか、ちょっとだけ、鼻の頭に皺を寄せているようであった。なぜだかその表情にどきっとして、慌てて目をそらしたくなってしまう。
唇を尖らせながら、深山が言った。
「もぉ、そんな事言ったって、ここんとこ練習にもあんまり出てこないじゃないか。……で、今日は、般教か何か?」
「実験。電子回路の」
密かな動揺を押し隠しながら、事実のみを簡潔に答える。もし、突っけんどんな言い方に聞こえたとすれば、それってば、僕の日頃の行いのせいなんだろう。
ま、お世辞にも愛想のいい性格してるとは思ってないもんな。自分でも。
幸いにも深山は、そんな言い方をされても、さほど気にはしなかったようだ。
「ふぅん。じゃあ、あんまし時間は取れそうにもないな」
そう言って深山は、残念そうな顔を僕の方に向けた。
ちょっとだけ、すがるような目付きも混じってるかもしれない――なんて思ったりしたら、それって少し自意識過剰なのかも。
でも、そんな目で見られても、僕にできる事と言ったら、肩をすくめてそれに答える、それくらいだった。大体、今日だってラケットとか持ってきてないし。先約だって、あるし。
……先約、っか。
いきなり脳裏に、今朝の紅葉の顔がふっと浮かんできた。ふいに、深山の顔がまともに見れなくなる。そっと、気付かれないように――どうせ気付かれるんだろうけど――目線を外す。
案の定、深山は目ざとくその事に気付いたようであった。僕の横を歩きながら、覗き込むようにして僕の顔を見つめてくる。
しばらくそのまま、二人、黙って歩道を歩いていた。通用門から、大学の構内へと入っていく。敷き詰められた石畳の上を歩く。
よっぽど深山に、そんな風によそ見してるとコケるぞ、おい、なんて突っ込もうかとも思ったけれど、これくらいでつまづくほど可愛い性格をしていないのが、こいつの長所でもあり、また、欠点でもあった。実際、時には後ろ歩きをしたりしながら、器用に歩を進めていく。
通用門から続く小路を歩くと、杉の並木と金網越しに、大学のテニスコートが目に入った。時折、ウチのサークルも練習に使っているコートである。
さすがにこの時間、まだコートを使っている奴らはいなかったが、深山の視線が、ちらちらと僕とコートとの間を行ったり来たりするのを、コートが途切れるまでの数十メートルの距離、僕は顔色一つ変えないように我慢しながら、歩かなければならなかった。
そして、ついにコートの端を過ぎた途端、深山はわざとらしく大仰にため息を吐いて、僕に言った。
「でも、ま、坂口もたまにはサークルに顔出せよな。新人戦とはいえ、お前はウチのエースみたいなもんなんだからさ」
ぶちぶちと、諦めたように小言を言う。
どうやら今日のところは、サークルへの召喚はまぬがれたようだった。ほっと、する。
つっても、さすがに態度に出すと失礼なんで、心の中だけでしか安息は吐かないけれど。
そして僕は、深山の言葉に少しだけ頬を歪めると、お返しのつもりでこう、答えた。
「エースなんて役職はないよ、副幹事殿」
「もう、またすぐそれを言う」
よっぽどその役職で呼ばれるのが気に入らないのか、深山がぽかぽかと、両の拳で僕を軽くぶつ真似をした。
むろん本気の攻撃でないそれは、片手であしらえるほどにたわいのないものだ。
そして深山は、僕を五、六発も殴ると気が済んだのか、今度は軽く両腕を組んで、少し心配そうな顔をして、僕に言った。
「でも、ちゃんと練習しないと、いくら坂口でもあっさり負けちゃうかもよ? 今度また二部に落ちちゃったら、上から何言われるか分かんないし」
「二部落ちさせてた当人に言われるってのもなぁ――って、これはオフレコな」
「分かってるけどぉ」
何となく不満たらたらって感じで、深山が言った。ちょっとばかし、膨れっ面をしているのかもしれない。
でも、そんな顔で見られても、僕にはウチのサークルを一部に残留させる、義理も義務もないと思うんだけどなぁ。そりゃあテニスは嫌いじゃないけど、何ものをも投げ打ってって感覚は、全然ないし。
何しろ、絶対の優先順位が、僕にはあるから。
と、思考がヤバい方向に行きかけたところで、ちょうど実験室のある棟が近づいてきた。これ幸いと、僕は深山を振り切って、吹きっさらしの階段の方へと向かう。
振り向きざまに、深山に言う。
「ま、また今度ヒマ見て顔出すよ。じゃな」
「ちょっ、さっ坂口、まだ話は終わってない……って」
深山が慌てて言葉を継ごうとするが、僕の方は、とっくに三段飛ばしで石段を駆け上がってしまった後であった。
だから。
「……もう」
深山が複雑な表情でそう、つぶやいたのを、僕は、見てもいないし聞いてもいない。
その方が、お互い、身の為だ。
今日のウチの班の実験は、フィルタ回路の特性を調べるという実験だった。LCRフィルタとアクティブフィルタとを、提示された周波数特性に従って設計し――つってもやる事は、パソコン上であらかじめ組んであるプログラムに、必要な数値を入力するだけだけど――実際の素子を用いてボード上に回路を作成、オシロスコープで作った回路の周波数特性を測定して、理論値と照らし合わせる。後日、誤差の原因と設計時の許容範囲について、レポートで提出するって寸法だ。
まったく、今思い返しても実にややこしい。
実験だから当たり前なんだけど、これって二年次の必修科目でもある。ついでに、これと電磁気学の実験が、一週おきに交互にある。もちろん、一つでも落としたら、即座に留年決定だ。
自分が望んで入った学科であるから、愚痴を言うのは筋違いだとは分かってるんだけど……それにしても毎週々々、実験とレポートがあるってのは、これでなかなか地獄であった。他の教科だって、課題がないって訳ではないし。
という訳で。
僕は、いつものようにクラスの奴らとコンビニに寄ると、先輩方の残していってくれた貴重な過去レポと、今日の実験データとを、人数分だけコピーする事にした。こういう時サークルに入っていると、その時代々々のレポートが手に入るから便利である。まったく先輩方様々だ。
しばらくの間、がちゃんこがちゃんこという機械音をBGMに、コンビニの中でクラスメート達とどうでもいいような事をダベって時間を潰した。コピーの無事終了した、どことなくオゾン臭いA4用紙の束は、毎度ではあるが百枚近くある。それを、強引にかばんの中に突っ込む。
そして、学校に戻って図書館でレポートを書くという殊勝な連中と別れて、僕は一人、駅の方へと足を向けた。
ま、確かに参考文献とかも借りなきゃなんないし――それも、いい資料は早いもの勝ちだ――仲間と一緒にやった方が確実と言えば確実なんだけど、これもいつも通り、何とかなるだろう。いちおう、過去レポもトレードで数種類は確保してあるし
それに最悪、そのまんま引き写しってのもやった事がない訳じゃない。あんまり誉められた事じゃあないんだけど、それでも通ってしまう辺り、大学という所って、ある種、不思議な所だった。これも、大学生活を無事過ごしていく上での、生活の知恵って奴なのかもしれないけれど。
もちろん、言葉を飾って言ってるだけって事は、重々承知の上でのセリフだ。楽な方に流されて堕落してってる自分に、理由を付けているだけだって事も、分かってはいる。
でも、誰しもこういう風に少しずつ、現実と折り合いを付けながら、だんだんと大人になっていくんじゃないか――なんて、考えてもよしのない事も、ふと、歩きながら思ったりした。
夕方の大久保駅は混雑していた。
改札を抜けて、駅蕎麦屋の前を通り過ぎて、ホームまでの階段を上がる。晴れた六月の駅のホームは、熱気でまるでサウナみたいにむせ返っていて、この時間、通勤やら通学帰りやらの人波で溢れ返っていた。
ざっと目に入るだけでも、僕と同年代くらいの大学生、暑そうに上着を手に抱えて、顔を仰いでいるサラリーマン、ランドセルを背負った小学生、老人、その他諸々のいろんな人々が、何の因果か今ここで、僕と一緒に次の電車を待ちわびていた。
皆、一様にホームの外側を向いて、ぼおっとした表情で立ち尽くしている。
別にその事自体は、何の不思議もない、ごくありふれた風景なのだけれど。
だけれど。
ふっと線路に目を落とした瞬間、ひやりとした何かが肋骨の隙間を通り過ぎていくのを、僕の心は感じていた。ふとした考えが、頭の中に浮かぶ。それも、ごく当たり前の事なのに……。
急に襲ってきた寂寥感に、心臓をぎゅっと掴まれる心持ちがする。
怖い考えになってしまった。
そう、今このホームに、僕と同じように立っている人々。
五十人……百人……全部で何人いるか分からないけれど、この人達にも当然、それぞれの五十通り、百通りの人生があるって事を――そしてそれを僕は、何にも知っちゃあいないっていう事を。
もちろん彼らも――彼女らも。僕同様に。
僕の事を何にも知らずに、だからこそ平気な顔をして、ここで僕と並んで電車を待っている。
人は互いには絶対分かり合えない。
僕は、そんなやるせない思いに身を包まれながら、ゆっくりと辺りを見回していった。僕の目に映る、人々の薄っぺらな表情からは、僕は何も読み取る事ができない。
例えばほら、そこで階段の壁に寄りかかって、気怠そうに空を見上げている女子高生。
彼女が内面にどんな苦悩を秘めているのか、どんな思いを抱えているのか、もしくは全然そうでないのか、傍で見ている僕にはまるっきり、知る事ができない。
それでも彼女は、それらを一切、面に出す事なく、無表情でただ、電車を待っている。
それが僕には、果てしなく寂しく思えて――そして、怖かった。
なぜなら人は、他人の本当の気持ちを、絶対に知る事ができないのだから。
なぜなら人は、己の気持ちを、容易に隠してしまえるものなのであるから。
想いは決して、他人に伝わる事はない。
だから僕は――。
「――まもなく追坂、水都方面行きの電車が到着いたします。黄色い線の内側に――」
と。
いきなりの構内アナウンスで、強引に我に返らされた。現実に引き戻された身体に、徐々にホームのざわめきと熱気とが戻ってくる。
ざわざわと、がやがやと。
結果的にそれが、変に澱みかけた思考を、むりやり断ち切る格好になった。これが、幸いにもなのか、残念にもなのかは、すぐには判断が付きかねたけれど。
目の前を、まだかなりの速度でもって、環状線が通り過ぎていった。スキールを響かせながら、だんだんとそれが減速していく。まるで測ったかのように、昇降マークに合わせて止まる。擦過音を伴って、銀と緑のドアが空く。
乗り込んだ電車の中は、やけにクーラーが涼しかった。
僕は、ドア脇の手すりに体重を預けながら、先ほど断ち切られた思考の流れが再び舞い戻ってこようとしてるのを感じて、それを考えないように、何も考えないようにしながら、自分の心を抑えていった。
伝えられない、誰にも伝える事のできない想いが、隠してある心の奥底から、ぽこぽこと泡のように浮かび上がっては、消えていった。
想いは、決して他人に伝わる事はない。
だから僕は助かっている――のかもしれない。
そこは間違いなく、羨ましいほどのみずみずしい生気で溢れていた。店外まで漏れ出てくるほどに、そいつらのしゃべり声が無節操なまでに充満している。
わいわい、がやがや、ぺちゃくちゃ、きゃいきゃい。
そんなオノマトペで表される、ある種、無彩色のザップ音。カクテルパーティー効果がほどよく効いているそれは、確かに雑音ではあるけれど、それでいて決して不快という感じはしなかった。
何か、日常という名の生活の中へ、優しく包み込んでくれるような気がする。たとえそれが、僕みたいな奴でさえも。
その一角。
壁際の二人がけの小さなテーブルに、紅葉はいた。パステルピンクのテーブルにひじを突いて、つまらなさそうにシェーキをすすっている。店のガラス越しでさえも、紅葉がふて腐れたような顔をしているのが見て取れる。そこだけまるで、ぽっかり音がないような感じだ。
紅葉は一旦家に帰ったのか――紅葉の高校からでも、追坂までは電車一本だろうに――今朝の制服姿ではなく、私服姿に装いを変えていた。
上には、だぼっとした灰色の横じまのシャツを着ていて……っておい、それ、僕のじゃないか。そりゃあ、勝手に着るなとは言わないけれど、わざわざでかいサイズのを着てきてるもんだから、襟ぐりからブラの肩ひもが見えかけてるぞ、おい。
スカートも、お気にの紺のギャザーのに替えてきていた。ちらりとそこから、可愛らしい膝っ小僧が覗いている。そのミニ度数が制服のより抑え目だってのが、僕にしてみれば不思議でならない。普通、逆なんじゃないか?
もっとも、紅葉の行ってるのは女子高なんだけど。
そして、ぴかぴか光る赤い靴と、フリルの付いた白いレースの靴下を履いて。よく見れば、薄く紅を差しているようでもある。
そんな風に身じろぎ一つせず座っている紅葉は、まるで、写真集かグラビアか何かのカットみたいだった。現実からばっさり切り取られたような、そんなような美しさを備えている。
思わず見とれてしまうほどに――って、肉親の欲目じゃあないと思うんだけど。
無表情のまま、物憂げに壁を見つめている紅葉は、外見的には完全に日本人のそれなのに、何となくその全体の雰囲気が、陶磁器でできた西洋人形を思わせていた。硬そうではあるけれど、誤って落としただけで全身がひび割れてしまうほど、あっけなく、脆い。
ビスクドール。
そのイメージが、はっと僕の心を突いた。
そう、紅葉の脆さを知っているのは、もはやこの世で一人、僕だけだった。
だから僕は、どんな事をしてでも、紅葉がこれ以上ひび割れないよう、守ってやらなければいけないのだった。それが、僕に課せられた楔であった。
これも、紅葉の身体に刻まれた傷痕に比べれば、ずいぶんと軽い楔ではあるのだけれど。
そんなこんなで僕は、紅葉に見とれて歩みを止めていた足を再び動かしだすと、人いきれのする店内へと入っていった。ゆっくりと、紅葉の方に近づいていく。紅葉の前に立ち止まる。
反応が、ない。
紅葉はさっきから、ずっと壁を見続けているせいか、僕が目の前に来ても、まだ、それに気が付かないようであった。
この紅葉の様子からしても、ずいぶんと長い間待たせたに違いないのだけれど、それでも僕は、いちおうこう、声をかけてみた。
「紅葉、待ったか?」
その言葉に、弾けるように紅葉がこっちを向いた。一瞬、紅葉は信じられないものを見たかのような驚きの表情を浮かべ、そして、ぱっとそれをかき消すように、いつもの――ここ最近の――表情へと、顔を戻した。
いきなり眉を逆八の字にして、頬を膨らませてぶーぶー文句を言う。
「おーそーいー!! 兄貴ぃ」
「すまん」
待たせたのは間違いなく事実なんで、とりあえず僕は、そう言って謝っておいた。紅葉の事だから、下手すれば数時間単位で待ってたに違いないし、待っている間、非常に不安な思いをさせていただろう事は、想像に難くない事であるから。
もっとも謝ったからといって、紅葉の機嫌が直るとは、もちろん僕は思ってないのだけれど。
案の定、紅葉は矢継ぎ早に文句を投げつけてきた。
「何してたの? もう五時半だよ? あたしもう、三時間以上待ってたんだからぁ!!」
「あぁ、その、何だ……」
何してたのって言われても、紅葉には今朝、実験だとは言ってあるんで、紅葉も分かってないはずはないのだけれど……。とは言え、必ずしも今の紅葉に論理が通用するという訳では、この際なかった。
もごもごと、口の中でどう言い訳しようかと考えているうちに、紅葉が続けざまに二の矢を放った。
「もう、ボックスのサービスタイム、過ぎちゃうじゃないのよぅ。六時まで入んなきゃ、安くなんないってのにぃ」
そう言って紅葉は、いすに座ったまま、器用にもじたばたと地団駄を踏んだ。よくテーブルに足をぶつけないもんだと、しばし感心する。
で、ボックスって言ってるって事は、どうやら今日の行き先は、カラオケボックスという事らしい。僕はさほどという訳でもないが、紅葉はけっこう歌うのは好きだ。それも、最近流行りのポップスばかり、どこでどう覚えてくるのか、実によく歌う。
「もうっ、もし遅れたら兄貴のオゴリだからねっ!!」
遅れなくてもどうせ僕に払わせるくせに、と、僕は思ったが、もちろん口には出さなかった。
手首をかざして、時計に目をやる。時間は、五時半を少し過ぎたばかりのところだ。どうせボックスって言っても、地上に上がって坂上通りの方に行くんだろうから、高々歩いて十分もしない距離である。
だもんで僕は。
「ハンバーガーひとつ、喰うくらいの時間は――」
そう言いかけて、紅葉にじろりと睨みつけられた。尻すぼみに言葉尻を濁す。紅葉が無言で、上目越しに、僕の顔を、睨みつける。
三秒間ほど睨み合いを続けて、いつも通り、僕の方から目をそらした。ため息を吐く。
肩をすぼめて、紅葉に言った。
「……分かった。歩きながら喰うよ」
だが紅葉は、それすら許してくれないようであった。
「そんなの、ボックスに入ってから何か注文すればいいじゃない。だからっ、はぁやぁくぅ」
そう言うと紅葉は立ち上がって、ぐいぐいと両手で僕の腕を引っ張っていった。だからおいおい、恥ずかしいからやめなさいって。
つっても確かに、カウンターの方を見てみれば、ざっと数えただけで四、五人は列に並んでるって状況だった。だから、たかがハンバーガー一個、買うのを待ってる時間が惜しいって事は、論理的に分からないでもない。
しかし、店の中に入って、何も注文せずに出てくってのもなあ……。
何て、僕の数少ない美意識の一つが文句を言いかけたけれど、それも、紅葉の行動の前には、むなしく僕の心の中で響くだけであった。
という訳で。
僕は、紅葉に引っ張られるようにしてバーガーズ・サンを出ると、そのままの勢いで強引に紅葉に腕を組まされて、追坂の地下街を歩いていったのだった。
紅葉と二人、肩を並べて歩く。
と言うか、紅葉は僕と比べて十センチ以上背が低いんで、こういう風に並んで歩くと、ちょうど僕の肩のところくらいに、紅葉の頭がくるという計算になった。だから、正確には肩を並べていた訳ではなかったのだけれど……その代わりというか紅葉は、いつも僕の肩に頭を預けるように、頬をすり寄せて歩くのが常であった。
紅葉に言わせると、ちょうど寄りかかるのに具合がよいとの事らしいので、僕としてもむげに跳ね除けたりはできなかった。
ちなみにこうして歩くと、どうしても僕の右ひじが、紅葉の左胸に当たる事になる。やせているようでいて、実はけっこうボリュームのあるそれは、ひじの先が当たるたびに、たぷたぷと水面の揺れるような感触を、僕の触感に伝えてくれる。紅葉も別に、気にしている様子もないので、そのままにしているんだけど。
それにしてもあの冬の日以来、紅葉はまるでたがが外れたかのように、めっきりとスキンシップをしてくるようになった。事故から数えると丸四年近く、触れるどころか近づく事すら許してはくれなかったのだから、きっと、その反動もあるのだろうが。
家にいても、紅葉は何のかのと理由を付けて、僕の方へとすり寄って来る。僕はもちろん、紅葉を拒むなんて自分に許してはいないので、紅葉のその行動を、そのまま受け入れるという事になるのだけれど……それで紅葉の気持ちが安らぐなら、紅葉を拒否するなどという選択肢は、初めから僕にはなかった。
僕は、紅葉のためだけのものであるのだから。
カラオケボックスには、運よくと言うか時間にも間に合い、適当な二〜三人部屋も空いているようであった。もちろん、紅葉に連れて行かれただけあって、全室通信カラオケだ。
さっそく、二時間という事でリモコンを受け取り、ボックスの中へと入っていった。そしてボックスへ入るなり、備え付けのメニューを見て、ミックスピザとビール――それにライチサワー――とを頼む。電話で注文したのが紅葉だったから、僕が口を挟む余地はまったくなかった。
注文した品が来たのは、ちょうど紅葉が四曲目を歌い始めたところだった。僕はさっきから、もっぱら聞き役に徹している。
せがまれれば僕も歌わないでもないが、最近の歌はよく知らないんで、歌うとしても洋楽ばかりになってしまう。それも、十年以上前の奴ばっかりを。
シー・ガッタ・アウェイとか、ジャスザウェイ・ユーアーとか。どっちかというと、スローなナンバーの方が好きだ。
僕は紅葉の歌を聞きながら、缶ビールのプルトップを沈めると、黄金色をしたそれを口に含んでいった。濃いビールの味が、口の中に広がっていく。
咽喉の奥で弾けるそれは、人生のように、苦かった。だから美味いのかまでは、僕には分からなかったけど、少なくともそれはひと時の間、人生を酔わせてくれる事だけは間違いなかった。
もっとも僕は、ビールじゃほとんど酔えないけれど。それは単純に僕のせいであって、ビールが悪いって訳じゃない。
クーラーの効いた部屋の中、ディスプレイの脇で、紅葉はハイなビートに身体を揺らしながら、マイク片手に熱唱していた。それも、振りまで付けてる念の入りようだ。
今歌ってるのは、水月あいりの『セルフィッシュ』。いかな僕でも、これならサビくらいは知っている。確か、化粧品か何かのCMソングに使われてて、コンビニとか行ってもよく掛かってる奴だ。
それにしても、高音のキーが殺人的なまでに高い。よくこんな声が出るもんだと、しばし感心する。
ライトに照らされて歌ってる紅葉は、その歌詞通り、コケティッシュでフェティッシュな笑みを浮かべていた。魅惑的な小悪魔って感じが、すごくする。紅く光っている唇と、そこから覗く八重歯が、特に。
その時僕は、ふと、少なくとも紅葉はすでに、白い翼を持った天使ではないな、と、不誠実にも思ったりした。昏い闇の中にひっそりと沈む、黄昏色の目をした堕天使。そんなイメージが紅葉にはぴったりと似合う。
もちろん、その闇の中に突き落としたのが誰であるかは、今さら言うまでもない。罪は、贖わなければならない。僕は紅葉と一緒であれば、どんな闇の中にでも堕ちる覚悟はある。
そう、改めて思い返したりもした。
ラストのリフレインが終わった。紅葉がマイクを高く突き上げ、決めのポーズを取る。軽く拍手をする僕の横に腰掛け、息を荒げながら、ライチサワーを勢いよくすする。ほふ、と吐いたため息が、どきっとするほど色っぽい。
そして紅葉は、汗に濡れた髪を軽く掻き上げながら、マイクをぽんと、僕の方へと放ってよこした。
「次、兄貴の番だよ」
そう言って、ミックスピザを美味しそうにほお張る。
思わずそれ、僕んだぞ、と言いそうになったけれど、紅葉があんまりにもそれを美味しそうに食べてるんで、ついつい言いそびれてしまう。
やむなく僕は、軽く肩をすくめると、曲リストを手に取って、後ろの方、いつも歌い慣れている曲を、リモコンに入力していったのだった。
そんなこんなで、二時間はあっという間に過ぎていった。
結局その後も、紅葉が四、五曲連続で歌って、咽喉が疲れたくらいのところで僕がちょろっと一曲歌うといったペースで、曲目は順次、消化されていった。
そうそう、消化されたと言えば、食べ物の方も、あの後、追加でポテトとフライドチキン、紅葉がライムサワーと青りんごサワー、僕が三百五十ミリリットルのビール缶二つとを、それぞれ胃の腑の中に収めていった。もっとも紅葉は、そんなにお酒が強い方でもないので――って言うか、そもそもまだ未成年だ――青りんごサワーの方は、ほとんど僕が手伝ったのだけれど。
ダンスビートの強い曲ばっかり歌って――踊って――いたせいか、それともアルコールのせいか、紅葉は頬を薄桃色に火照らせていた。首筋に光る汗が、艶めいて見える。
そして紅葉は、レモンイエローのリストウォッチを見て、残り時間がほとんどない事を確認すると、僕にマイクを手渡して、言った。
「ラスト、兄貴歌ってよ」
そう言って紅葉は、僕の肩にぴとんと頭を乗せ掛けてきた。密着した紅葉の胸の鼓動が、直接僕の腕へと伝わってくる。熱っぽく湿った髪の匂いが、僕の鼻腔をくすぐっていく。
僕はこの際、何となくそうしなければいけないような気がして、紅葉の頭をそっと抱き寄せながら、最後にこの曲を入力した。
ディスプレイが検索画面になる。曲名がディスプレイに表示され、バックに、曲とはあまり関係のないイメージ映像が映し出されていく。
曲は、フィリップ・ビショフの『ヒア・フォー・ユー』。十五年ほど前の、スローなテンポのラブ・バラードだ。
ほどなく、ゆっくりとしたピアノのイントロが始まった。歌詞を見なくとも、これなら頭の中に入っている。
だから僕は、薄っすらと瞳を閉じて、曲に合わせて歌い始めた。
「I am here for you, always here for you...」
歌詞は大体、こんな感じだ。
僕はいつだって君を待っている
君がどこに行こうとも 君が何をしようとも
僕はここでずっと君を待っている
なぜなら僕は君のために生きているのだから
君だけのために生きているのだから
君の寝息と 心臓の鼓動が聞こえる
寝ている君に 夢のようにささやき続ける
君は信じないかもしれないけれど
今もこれからも 僕はずっと君だけのもの
どうか千億の夢が 君を幸せで包みますように……”
間奏の合い間に、そっと紅葉の顔を盗み見る。
紅葉はあまり英語が得意ではないはずなので、歌詞の意味は多分、分かってないはずなのだけれど、それでも目を細め、うっとりとした表情で聞き入っていた。
間奏が終わり、僕は再び歌い始める。
歌いながら、ふと思った。
こういう風に、紅葉に分からないように自分の気持ちを口にするのは、もしかしたら反則なのかもしれないけれど――それでもこれは、嘘偽りのない僕の気持ちだ、と。
曲がもうじきラストへと向かう。僕は、語るようにささやくように、紅葉に向かって歌い続ける。
嘘じゃないよ。
いつだってどこだって、僕は君のそばにいる。どうか幸せのゆりかごで、君が眠りにつけますように……。
余韻を残して、そっとマイクを口元から外す。
たんとんたんたん……たたん。
それとほぼ同時に、ピアノが最後の一音を奏でた。その後は沈黙――それだけが、ボックスの中を包んでいた。紅葉も黙って瞳を閉じて、僕に身体を預けている。
僕も紅葉の頭を抱く腕に、軽く力を込めたくらいだ。
わずか一分ほどの時間であったが、それは言葉では言い表せないくらいの、たっぷりとした密度の濃い時間であった。
そして、ゆっくりと目を開けて、紅葉が言った。
「兄貴、出よっか?」
その言葉に、僕はうなずいて立ち上がった。紅葉の手を引いて、引き起こしてやる。紅葉の腰を抱いて、カウンターへと向かう。
そう、嘘じゃない。
僕はいつだって君のそばにいるのだから。
六月とは言え、八時を過ぎると空もだいぶ暗くなってきている。
僕と紅葉はカラオケボックスを出ると、自然に肩を寄せ合いながら、車の光流れる宮前坂を、ゆっくり駅の方へと下っていった。
ボックスを出てから紅葉は、一言たりともしゃべろうとはしなかった。目も合わせずに、黙って俯いて歩きつづけている。
僕としても、紅葉がそんな風に黙っていると、僕の方から話し掛ける事がある訳でもない。ゆっくりと、紅葉に歩調を合わせて歩いていく。
クラクションやエンジンの鳴る音だけが、妙に耳に響いていた。空虚な響きだ。
ふと思った。
街の中、こんなにもたくさんの人で溢れているのに、なぜだか僕と紅葉だけが、その中から切り離されているみたいだ――そんな疎外感にも似た共通意識が、僕と紅葉とを包み込んでいるのだ、と。
その時。
ふと、繋いでいる紅葉の手に、わずかに力がこもった。僕も、それに引きずられるように、その場に足を止める。紅葉の歩みも止まっている。
僕は横目で、紅葉の顔を見下ろしてはみたが、俯いた紅葉の表情は、暗がりの中ではよく分からなかった。
しばらくの間を置いて、紅葉がぼそりとつぶやいた。
「――兄貴」
それは、一人言ともつかぬほどの小さな声であったので、僕は一瞬、答えていいものかどうか、判断が付かなかった。
それが、ぞくっとするほど、感情のない声でもあったものだから。
だが、紅葉がそんな表情を見せたのも、ほんの一瞬であった。
僕が答えようか答えまいか躊躇しているうちに、紅葉はいきなりぱっと顔を上げて、晴れやかな笑顔を見せて、こう言ったのだ。
「ねぇ、兄貴。えっちしよっか?」
急にスイッチが入ったかのように、身体を躍動させて、僕の腕にじゃれ付いてくる。
「いーでしょ? どーせ今から帰っても、お風呂入って寝るだけなんだしぃ。ねぇねぇ、えっちしよーよ、兄貴ぃ」
そう言って紅葉は、僕に身体をしなだれかからせてきた。シャツの袖が、僕の腕で引っ張られる。襟ぐりから紅葉の肩、ブラジャーの肩ひもが、ちらりと顔を覗かせる。襟元から見下ろせる、白いカップに覆われた紅葉の胸。そしてそこにあるはずの――。
「紅葉……」
僕は急に、何とも言いようのない気分に襲われて、思わずまじまじと紅葉の顔を覗き込んでいった。
「ん。何?」
紅葉は逆に、あっけらかんとした表情をして、僕の顔を見つめ返してきた。そこにはまったく邪気のようなものは感じられない――感じ取る事ができない。
少なくとも、目に見える範囲では。
――嘘だ。
お前は感じている。
目に見えなくとも感じてはいる。
紅葉のその瞳の奥に、まるで抜き身のナイフのような、怯えた仔兎のような、切迫した緊張の糸が、ぴぃんと張り巡らされている事を。
圧倒的な孤独に満ちた光が、その瞳の奥に宿っているという事を。
紅葉のその目の光が、強烈に僕を支配していた。紅葉の瞳には、それだけの力があった。
僕は紅葉には逆らえない。逆らう事ができない。
なぜなら僕は、すべてが紅葉のためだけのものであるのだから。
黙りこんだ僕を見て、紅葉がにこっと、確信に満ちた笑みを浮かべた。
「もう、そんな辛気臭い顔してないで。早くぅ」
そう言って僕を、ホテル街の方に引っ張り込もうとする。
「――あぁ」
僕にはもはや、そう答えるしか他に許されてはいなかった。
紅葉と一緒に、宮前坂の一本裏通りを歩きながら、僕は、半年ほど前のあの日の事を、思い返さざるをえなかった。
初めて紅葉を抱いた、あの冬の日の事を。
実際のところ、僕がそれを知ったのは、すべてがどうしようもなく終わってしまってからの事であった。
その日。
大学でレポートだか何だかをやっていて、家に帰り着くのがだいぶ遅くなった一月の夜の事。僕は家の玄関で、ふとした違和感に捕われていた。
人気が、まるでしないのだった――というか、明かりすら点いてはいない。鍵も閉まったまんまである。
孝子さんは仕事柄――特に最近は――遅くなる事などしょっちゅうではあったが、すでに九時を過ぎているこの時間、紅葉が帰っていないという事は、いくら何でもおかしかった。
いや待てよ。
よく思い出してみれば、今日は、紅葉は傷痕の定期診断という事で、学校を休んで病院に行くと言っていたのではなかったか? 今朝、孝子さんともそう話していたような気がする。診断が終わった後、孝子さんが迎えに行くと言っていた事も。
紅葉の傷は、表面上はすでに塞がっていたのだが、一部内臓――を傷つけていた事もあって、何ヶ月かに一度、今でもこうやって病院に検診を受けに行っているのであった。薬も欠かす事はできない。
で、その日ばかりはまだ紅葉も精神的に不安定になりやすいので、孝子さんが病院まで送り迎えして、一緒に帰ってくる、それが常でもあった。
そう考えて、少しだけ僕はほっとした。
だとしたら、単に病院帰りに二人でどこかに寄っているだけかもしれない。そういう事だったら、今までだってなかった訳じゃないし。
そう、きっとそうに決まっている。
僕はそう思い込む事で、自分を安心させながらも、この日に限っては、心の中によぎった一抹の不安を、なぜか消す事ができなかった。
鍵を開けて家の中に入った。
当然ではあるが、家の中は暗く、静まり返っていた。
そんな中で、ぽつんと一点だけ、浮き上がっている赤い光があった。闇の中に、そこだけ妙に映えている、留守番電話のメッセージ。
玄関の明かりを点けて、僕は何気なく、留守電解除のボタンをぽんと押した。
メッセージが再生され、聞き慣れない男性の声がそこから流れた。
僕は最初聞いた時、メッセージの意味がよく分からなかった。
嘘じゃない。本当に分からなかったのだ。
もう一度メッセージを巻き戻して、最初から聞いた。そして、メモった電話番号に電話を掛けて、事実関係を確認して、電話を切った。
多分僕は、天を仰いだ。
気が付いたらというか、半ば自動的に、僕は電車で、紅葉の待つ病院へと向かっていた。紅葉を迎えに行くために。
そして、孝子さんを迎えに行くために。
ここから先は、全て医者からの伝聞だ。紅葉も一部始終を見ていたはずなのだけれど、僕にはそれに触れる勇気も、そんな惨い事をする気もない。後にも先にも、紅葉とこの話をしたのは、その当日だけだった。孝子さんの葬儀の際にも、紅葉はきょとんとした顔をしていたのであるから。
それで、医者に聞いたところによると、どうやら紅葉の検査は、無事、予定よりも多少早めに終わったとの事。だもんで紅葉は、いち早く会計を済ませ、孝子さんが来たら早く一緒に帰ろうと、病院の前で、孝子さんを待っていたという事らしい。
孝子さんがやって来た時に、それは起きた。
突然、駐車場に何かがぶつかる大きな音が響き渡った。何事かと慌てて病院の職員が駆けつけてみると、そこには、後ろ向きに壁に激突している軽自動車と、入り口で座り込んでいる紅葉――そして、不自然な格好で倒れている孝子さんが、そこにはいた。
理由は、オートマ車のギアの噛み合わせだの何だのという事らしい。そんな事はこの際どうでもいい。この時も、そしてこれからも。
僕らにとって、事実はたった一つだった。そう、あっけないほどあっさり、孝子さんは逝ってしまった。それも、僕の両親と同じ、車の事故で。
病院に着いてまず僕は、遺体の確認という事で――紅葉はとてもそういう事のできる状態ではなかった――孝子さんの身体を見て取った。だがその身体、少なくとも顔は、多少の擦過傷はあるけれども、どこが死人なんだというくらいに、生前と変わらぬくらいに整っていたのだった。
まるでただ深く眠っているかのように、両の瞳を閉じている。
そしてそれは、見間違えようのないほどに、孝子さんだったのだ。
僕はそれから、流されるままに各種の手続きを終え、事後の事を決めてからようやく、紅葉と一緒に病院を後にする事を許された。
紅葉は長いすの上に座り込んで、僕がそばに行っても可哀想なくらいにずっと、虚空をただ見つめているだけであった。
昨日まで僕には、身体に触れる事すら許さなかったのに、僕の言うなりに手を引かれて、歩いて、あまつさえ返事までして、僕らの家へと帰っていったのだった。
待つ人が誰もいなくなってしまった、僕らの家。
僕は、家に着いてからまず、一階の部屋、二階、廊下、全ての部屋の電気を点けて回った。ドアも開けっ放しにしておいた。そうしないと、あまりに寂しいような気がしたのだ。
それから僕は、紅葉の上着を脱がせ――さすがにパジャマに着替えさせる訳にもいかなかったので――そのままの格好で、寝かせつけた。紅葉は、目はぱっちりと見開いていたが、始終おとなしく、言われるがままにベッドに横たわっていった。そして僕は、眠るようにと諭し、紅葉が目を瞑るまでずっとそばにいてやった。
紅葉が目を閉じ、息が落ち着いてきたところで、僕はそっと紅葉の部屋を後にした。念のため、紅葉の机の引出しから、危なそうな文房具を一揃い、持ち出しておく。
そして二、三ヶ所に電話を入れて、ようやく僕は、一通りしなければならない仕事をし終えたような、そんな気になった。もうじき時刻は、日付が変わろうかという頃になっている。
何となく手持ちぶさたになった僕は、誰もいないキッチンに行くと、煌々と照っている蛍光灯の下、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、一人、テーブルに着いた。プルタブを押し入れ、自分でもまったく何にか分からないけれど、軽く缶を掲げて、一気に半分近く飲み干していく。
咽喉下を、冷たい噴流が通り抜ける。
そして溜めた息を吐いて、涙一つ出てこない自分と、その事を哀しいとも思わない自分とに――やっぱり、何の感慨も沸いてこなかった。
頭の中で、何も考えてない事を考えながら、その後はゆっくりとビールを口にして、僕は、自分の部屋へと戻っていったのだった。
部屋に入り、ベッドの上に腰掛けると、僕は、自分の部屋だけは電気を消していった。ベッドに座ったまま、膝の上で手を組んで、ゆっくりと目を閉じる。
このまま普通に横になっても、寝られる自信など欠けらもなかった。かと言って、この格好なら眠れるって思ってた訳ではないのだけれど。
ぼおっと頭の奥が痺れるような思考の渦が、頭の中を駆け巡っていった。いろんな物事の断片だけが、繋がりもなく現れて、また消えていった。もちろんそれは、孝子さんの事ばかりではなく、むしろそれとはまったく関係のない、くだらない事や卑属な事が、その大半を占めてはいたのだけれど。
どれくらい、そうしていたのかはよく分からない。
ことりという物音で、僕は我に返った。
僕はその音に、重く垂れ下がったまぶたをむりやり気力でこじ開けて、そっちの方に目をやった。部屋の入り口、ドアが開いていて、廊下が明るくて、そこに誰かが立っている。
そこには――逆光でよく顔の見て取れない誰かが、ぼおっとそこに立っていた。
考えるまでもなく、この家で僕以外の人間といったら――それも、今日からは――紅葉しかいないはずなのだけれど、なぜかその時の僕は、それが誰だか、まったく思いつきもしなかった。
もちろんそれは紅葉だった。もっともここ数年、紅葉が僕の部屋に訪ねてくる事などなかったと言えば、確かにそうなのだけれど。
「もみ……じ?」
僕が目を眇めながらそう言っても、紅葉はじっと、そこに立っているだけであった。入り口につっ立ったまま、身動き一つしない。
僕も半分、呆けてるもんだから、紅葉が何も答えなくてもそのまま、ぼおっとした表情のままで、立っている紅葉を見つめていた。
と、そのうち、ふと僕の頭の中に、あまり愉快ではない想像が浮かんできた。よくよく考えてみれば、キッチンにもその手の物は置いてあるのだ。
そっと、紅葉の手に視線をやる。だが、幸いにもというか、残念にもというか、紅葉は手には何も持ってはいなかった。
またしばらく、沈黙の時間が流れた。
僕もいい加減、疲れてない訳でもなかったもんだから、ついそのまままぶたが重くなって、半分、夢うつつの世界に入りかけた――その時、紅葉がぼそりと呟いた。
「……全部」
「え?」
思考力が落ちかけてた僕は、何も考えずに、反射的に紅葉に聞き返していた。実際のところ、よく聞こえなかったのだ。
だがそれが、結果的には起爆剤となった。
僕のまぬけな返答に、いきなり紅葉が暴発した。
「全部、お兄ちゃんが悪いんだっ!!」
紅葉はいきなり、そう、金切り声で叫ぶと、そこらにあった物を手当たり次第、僕に向かって投げ付けてきた。
人形、写真立て、文庫本、CD。あらゆる物が僕に向かって投げ付けられてきた。紅葉が、僕の目覚まし時計を引っつかんで投げる。とっさに避けたそれは、壁に当たって、がしゃんと音を立てて動かなくなった。
そして、ついには手近に投げる物がなくなった紅葉は、僕にむしゃぶりついてきて、ぼかぼかと両手で殴り始めた。
「お兄ちゃんがいたから……ぜんぶ、お兄ちゃんが、おにいちゃんがあっ!!」
そればっかりを叫びながら、拳で僕の胸を叩く。まったく遠慮のないその殴打は、はっきり言ってかなり痛く、また、一つ殴られるたびに心にも突き刺さってきたのだけれど、僕は紅葉に殴られるがまま、そのまま、身動き一つしなかった。
できなかったと言う方が、正確なのかもしれない。
紅葉の怒りが、いかに理不尽なものに思えても、それは紅葉の中では絶対的に正しい事であるのだろうから。そして、紅葉の中での愛しい人を失ったという怒り、それは完全に正当な物であるのだから。
それが分かったから僕は、紅葉にされるがままになるしかなかったのだ。
しかたなかったのだ。
僕は、紅葉から愛しい人々を奪った根本原因であり――そして、その事を悲しむ事すらできない、畜生にも劣る外道であるのだから。
父と母が死んだのは、僕が私立なんかに受かった、そのお祝い旅行のせいだった。孝子さんが死んだのも、その事故が原因で紅葉が通院しなければいけなかったせい。紅葉も身体と心とに、一生消えない深い傷を負っている。
僕だけが一人、のうのうと無傷で生きているのだ。すべての根源は、僕であるのに。
責められるだけの正当な理由が、僕にはあった。
いつしか紅葉は、僕を叩くのに疲れたのか、僕の胸に顔を埋めて、一心不乱に泣きじゃくっていた。うわ言のように、泣き叫んでいる。
「もう……やだ……もう、誰もいなくなるなんて……やだよぉ」
だが、もし赦されるのであれば、それは僕の気持ちも同じであった。
僕に残されたのは紅葉、ここで泣いている紅葉、ただ一人であった。紅葉を守るためであれば、こんな僕一人、何が犠牲になっても悔いはなかった。
その時僕は、僕の全てを、残された紅葉に捧げる事を誓った。
もしそれを、紅葉が受け入れてくれるのならば。
僕は、泣きじゃくっている紅葉の身体をそっと抱き寄せ、背中をゆっくりとさすっていった。それで紅葉が落ち着くか、もしくは激昂するか、その時の僕には分からなかったけど、今の僕にできる事はこれしかなかったから、僕は、紅葉の背中をさすり続けた。
そのうち、紅葉の嗚咽がだんだんと小さくなり……やがては止まった。息も、すうすうと落ち着いてはいる。
泣き疲れて眠ってしまったのかと、紅葉の顔を覗き込んだ、その時。
涙に濡れた紅葉の瞳と、目が合った。
紅葉は潤んだ瞳で、僕の顔をじっと見つめていた。その瞳の色が、僕の心を捕えて放さなかった。そして、その紅葉の瞳の奥に、どうしようもない寂しさが潜んでいるのを、僕は間違いなく感じ取っていた。
だから僕は。
紅葉の顔が近づいてくるのを、決して押し留めはしなかった。
柔らかな唇が、ゆっくりと触れた。
最初それらは、おずおずと互いをついばんでいたが、じきにすべてを喰らい尽くすかのように、互いの湿った粘膜を、むさぼり絡ませ合っていった。
そのまま紅葉の身体が、僕に覆い被さってきた。紅葉の腕が、僕の首筋に回される。ベッドの上に、二つの肉体が重なり合う。
僕の右の手のひらが、紅葉の膨らみ――傷痕を受け止めても、紅葉は身じろぎ一つしなかった。
紅葉の熱い吐息が、僕の胸を焦がした。
紅葉がそれを求めるのなら、僕は地獄にもどこにでも堕ちる。
――そしてその晩、僕は、罪を犯した。
紅葉は比較的、童顔ではあったが、私服を着ている以上、それが問題になるような事は特に考えられなかった。まさか、それを見越して着替えてきたって訳じゃないんだろうけど。
ホテルの廊下を歩いている間、僕と紅葉とは、ずっと手を繋いでいた。
そして、ドアにキーカードを差し入れ、部屋に入った途端、紅葉はいきなり僕に抱きついてきた。
「えへへっ」
そんな嬉しそうな笑みを浮かべながら、僕に顔を擦りつけてくる。僕も、紅葉の髪の毛を撫でつけながら、頭をそっと抱き抱えてやる。柔らかい、紅葉のショートヘアー。
そして紅葉は、僕に頬を擦り寄せたまま、だんだんと頭を下ろしていって――ついには立っている僕の前にひざまずきながら、僕の股間に顔を埋める格好になった。
「おっ、おい、紅葉」
僕の当惑した声には耳も貸さず、紅葉はほおずりしながら、かちゃかちゃと僕のベルトを外し始めていった。ジーンズの前を開け、トランクスの前開きから器用に僕のものを取り出していっては、それをそっと指でさする。
「あ、まだかーわいーんだぁ。くふふっ」
紅葉が僕のまだ柔らかなそれを見て、可笑しそうに笑った。
僕のそれは、いきなり外気に晒されたもんだから、いまだ力なく、だらんとした感じでぶら下がっていた。それでも紅葉の微妙な刺激を受けて、徐々に血流が集まりつつある。固まりかけといったところか。
紅葉はそれを指先でつんつん突ついては、やじろべえのおもちゃみたいにぶらぶらと揺り動かしていった。上目遣いに僕を見上げ、にやっと一つ、コケティッシュな笑みを浮かべる。まるで、獲物を目の前にした仔猫のように。
そして。
「へへっ。兄貴、舐めたげるね」
そう言って紅葉は、おもむろに、まだ柔らかいままのそれを、口の中へと含んでいったのだった。
ぺちょっ……くちゅっ……。
そんな湿った音が、紅葉の口元から聞こえてきた。生暖かいような冷たいような、そんな奇妙な感覚が、僕の身体を支配していた。紅葉の舌と唇が、僕の先端をすっぽり包み込んでいる。
紅葉は僕を指でつまんで、指圧するように微妙に揉むと、先端の剥けた部分を中心に、ねっとりと舌でねぶっていった。
「どう、兄貴? 感じる?」
時折そこから口を離して、意地悪そうな口調でそう聞いてはくるのだが、僕の答えを待ちもせずに、またそこにむしゃぶりついていく。だから僕は、絶え間なく与えられるその柔らかい感触に、んむとかむぅとか、鼻声で答える事しかできない。
それでも紅葉は。
「兄貴はここが弱いんだよねー」
そんな事を口にしながら、僕のものへの攻撃を、休まず続けていくのだった。
紅葉は今、僕の先を含んだまま、唇で亀頭を締め付けていた。舌先で鈴口のところを押し広げては、ちろちろとそこをくすぐってくる。割れ目をほじくるように舌先を尖らす。ぷるぷるとそこに圧力を掛ける。
確かに紅葉の言う通り、僕はそれが格段に弱かった。それだけで甘やかな微電流の澱が、びんびんと腰の奥へと溜まっていくのを感じる。僕はそれを、息を詰めて、ただ全身で感じ入っていた。
と、いきなり紅葉が攻撃を止めて、僕の先から口を離した。
笑いながら、言った。
「ふふっ、兄貴ぃ? もうここ、こんなに硬くなっちゃったよ?」
そして無造作に、ぐいっと僕のムスコをしごいていった。その乱暴な指の動きに、思わずうぐっとうめき声が出てしまう。
だけど確かに僕の柔らかかったそれは、充分しごき立てる事が可能なほどに硬く屹立していて、それどころかさらなる刺激を欲して、熱くたぎっていたのであった。
紅葉の絶妙な口戯によって、それこそ、言い訳もできないくらいに。
「もう、昨日だってしてた癖にぃ……まったく無節操なんだからぁ」
何が可笑しいのか、紅葉がそう言ってくすくすと笑った。
思わず僕は憮然とする。
けれども僕は、あまりにも無節操な自分を前に、無愛想な顔でただ立ち尽くすだけであった。
「……昨日は、俺が舐めてばっかりで、紅葉には舐めてもらってないからな」
そんな、言い訳ともつかない言い訳を、ついつい言ってみたりする。
だが、それは確かに事実ではあったが、だからといって僕のが昨日、快感を得ていないという訳でも、ましてや射精していないという訳でもなかった。たっぷりと昨日も、僕は紅葉の中に放っているのだ。
しかし紅葉は。
「そっか」
と、僕のそんな言い訳に、妙に納得したようであった。
そして、にこっと笑うと。
「それじゃ、今日はたっぷりサービスしたげるねっ」
「おいおい……んっ」
そう言って再び、僕のものへとしゃぶりついていったのだった。
紅葉は紅葉で、今度はいきなり僕のを咥え込んだりはしなかった。
伸ばした舌全体で包むように、僕の茎を下から上まで、ねろぉっとした感じで舐め上げていく。カリの周りを一周するように、舌先をぐるっと巡らせ、つんつんと鈴口をついばんでいく。唇をすぼませ、そこをちぅ――っと吸い上げる。
陰茎ごと裏返るようなその感触に、僕の腰がびゅくんびゅくん跳ねた。
紅葉が軽く舌なめずりをしながら、僕の顔を見上げた。
「ほら、もう先っぽから、ぬるぬるしたのが出てきたよ?」
そう言いながら紅葉は、そのぬるぬるを手のひらに塗ったくって、先っぽを咥えたまま、にちゃにちゃと僕の陰茎をしごいていくのであった。その直接的な刺激に、僕のはまた一回り大きく膨らんでいく。
ふと僕は、紅葉の口元に目をやった。
そこでは紅葉の唇が、まるで笛を吹くかのように僕の先端を咥えていた。
僕を覆っているその唇は、薄く引かれた口紅で、魅惑的なまでに紅く光っていた。そしてその艶やかなそれが、僕を往復するたびに、少しずつ紅が色移りしていく。僕のものは紅葉の唇で、さらに紅黒く、凶悪な色に染まっていった。
その紅い唇の中で、紅葉が舌をひらめかせて僕のものを転がしているかと思うと、それだけで僕は達してしまいそうであった。
それにしても紅葉は、半年に比べ、格段に技量が進歩していた。まったくどこで覚えたのか知らないが、的確に僕のポイントを突いて、絶妙な舌加減で攻め立ててくる。
どこで? 誰が? 何を言ってる。
思わず僕は、自分の事をあざ笑った。
よくもまぁ、そんな白々しい事が言えるもんだ。
もちろん他の誰でもない、僕自身がそれを教えたのだ。僕以外の誰かに、紅葉がこんな事をするはずがない。そんな事がありえるはずがなかった。
僕がすべてを、紅葉が求めてくるのにつけ込んで――紅葉が求めているというのを言い訳に、紅葉にすべてを教えていったのだった。
これは誰の前でも、どんな申し開きもできないほどに、僕の自分勝手で非道な行いであった。
だが僕は。
――だが僕は。
それに深い罪悪感を覚えながらも、それでもある種、独占欲にも似た不思議な征服感が僕の身体を震わせていくのを、確かに感じずにはいられなかったのだった。
紅葉が、一所懸命なストロークで、僕のものをしゃぶっていた。
紅葉の口が、とてもぬっとり柔らかく、僕のものを包み込んでいた。
僕だけが紅葉の口を知っている――その想いが、たまらなく僕を興奮へと駆り立てていった。
「ああ……紅葉。すごく……いいよ」
思わず声が出てしまうほどであった。
紅葉はそれがよほど嬉しかったのか、僕を咥えたままにっこり笑った。そして、さらにストロークを早めていく。
僕のものが、紅葉の咽喉奥深くまで呑み込まれる。舌先が踊るように絡まってくる。唾液がぐじゅぶじゅ音を立てて、紅葉の口の端からこぼれていく。
それがめちゃくちゃ気持ちよかった。
僕は、紅葉で、気持ちよくなっていた。紅葉だからこそ、こんなにも気持ちがよかった。それがどういう意味か分かっていて、分かりきっていて、それでも僕は紅葉をこんなにも欲しているのだった。
限界が、すぐそこまで近づいていた。
「口で――口に、出すよ……いいね?」
僕は言った。
それを想像するだけで、緊張で裏筋がぶるぶる震えた。それを感じたのか、紅葉の口腔がきゅっとすぼまっていく。口全体で僕を締め付けていく。
そしていきなり、紅葉の吸引が開始された。唇でも猛烈にしごき立てていく。
「うあああっ!!」
じゅぽじゅぽと音を立てて、僕のものが紅葉に擦り上げられていく。
それだけで僕の理性はあっけなく崩壊した。
「――くっ、出るっ!!」
そんな圧倒的な気持ちよさの中、僕は紅葉の口の中で引き金を引いた。
どくっ……どくっ……。
昨日あんなに出しているのに、どこにこんなに溜まっていたのかというほどの量が、紅葉の口の中に吐き出されていった。熱いしぶきが紅葉の舌を叩いていく。
しかし紅葉はむせもせず、そして一滴も漏らさずに、それらすべてを自分の口で受け止めていたのだった。
僕は、僕自身を包んでいる暖かい感触に身をゆだねながら、その源である紅葉の顔を見下ろしていった。
それは、まさしく衆生を救う、菩薩の表情そのものであった。
それでも紅葉はしばらくの間、れろれろと舌で僕をねぶり取るのを、止めようとはしてくれなかった。
それからたっぷり一分ほども舐め続けたであろうか、ようやく紅葉が、僕を口から解放してくれた。湯気を立てている僕の先端からは、精液はすっかりこそげ取られてしまっている。
だが、それからの紅葉の行動が奇妙であった。ゆらあっと立ち上がったかと思ったら、急に僕の前に、ぬぼおっとした感じで、立ちふさがってきたのだ。
なぜだか紅葉は、唇を半開きにしたまま、にやにやと薄笑いを浮かべていた。それで、そんな風に突っ立っているもんだから、一見すると何やらアブない人のようにも見えてしまう。
まさか……ね。
ふと僕の心に、薄ら寒い想像がよぎっていった。
まさか、いくら何でも、今ので『壊れて』しまったって事は、ないと思うのだけれど……。
それでも僕は、一抹の不安を押さえきれないままに、紅葉の両肩に手をやって、紅葉の顔を覗き込んでいった。
「おい、紅葉。いったいどうし……」
僕のセリフが、途中で強張った。心臓が一つ、どくんと跳ねた。体温が一気に何度か下がる。
僕が紅葉の顔を覗き込んだ、まさにそのタイミング。
紅葉が薄っすらと半眼のまま、声も立てずに嗤ったのだ。
紅葉は唇の端をすっと吊り上げ、わずかに目を細めていった。わずかな唇の隙間から、ちろりと赤い舌先がほの見えている。それ以外は、指一本たりとも動かしてはいない。
アルカイックスマイル。東洋の笑み。月光の下で冴えざえと映える、日本人形特有の狂気の笑みだ。
それは、奇妙なまでに妖しく――そして美しかった。
僕はそんな紅葉に思わず声を失って、ただ見つめる事しかできなかった。
と、次の瞬間。
「ほはえひ」
紅葉はそう、訳の分からない事を言って、僕の首に腕を回したかと思うと、おもむろに僕に抱きついて、いきなりキスを仕掛けてきたのであった。
それも、思いっきり濃いディープなキスを。
僕も最初、訳も分からないままに紅葉の唇を受け入れていたのだけれど――紅葉の舌が絡まってきた瞬間、紅葉の笑みも、訳の分からないセリフも、すべての謎が一気に解けていったのだった。
確かに『濃』かった。文字通り。
なぜなら紅葉は、舌の上に、さっき僕が出したばかりのものをそのまま乗っけて、僕に返してきたのであるから。
苦くてえぐいそれの香りが、鼻の奥につんと抜けていった。僕も、自分のを舐めるのは初めてではないけれど、やはりお世辞にも美味しいとは思えない。もっとも、紅葉の口の中に出しておいて、言うべきセリフではないかもしれないけれど。
それでも紅葉はお構いなしに、執拗に僕に舌を絡めてきた。むしろ、いつもより激しいくらいだ。
僕も、味はひとまず置いておいて、紅葉の舌に応えてやる。
僕の口内で、僕と紅葉、二人の舌がむさぼり絡まりあっていった。じゅぷじゅぷ唾液が分泌されて、それでしゃぶしゃぶに薄められた精液を、互いにすすりあっていく。じゅるじゅる音を立てながら、精液交じりの唾液を交換する。呑み込む。
咽喉下を通っていくそれは、確かにえぐく、張り付くように粘るっこいものであったのだが、それでいてどこか、官能に訴えかけるフェロモンのようなものを、間違いなくそれは発しているようであった。
僕の脳すら刺激する、雄の匂いだ。
そのせいかどうか分からなかったが、僕のものもとっくに硬度を取り戻していた。
僕はそんなキスをし続けながら、紅葉を抱き寄せ、僕の固くなったものを紅葉の腰へと押し付けていった。そして腰を静かに揺り動かしながら、紅葉の肩や背中、肩甲骨の裏側など、紅葉の弱い所を重点的に責め立てていく。もちろん、舌を蠢かす事も忘れてはいない。
それだけで紅葉の身体がびくんびくん跳ねた。
「あふ……ん」
思わず紅葉が吐息を漏らした。
みるみる内に溶ろけていってるのが、紅葉の顔を見ないでも分かった。紅葉の舌の動きがだんだんと緩慢になっていき、首に回されていた腕も、すでにだらんと力なく垂れ下がってきている。
そろそろ、潮時かもしれなかった。
僕は、細心の注意を払いながらそっと唇を外し、紅葉の顔を覗き込んでいった。
紅葉は、口付けが終わった事にも気が付いていないのか、とろんとした無表情で、僕の後方、どこか遠い所を見つめているようであった。ただ、まだ僕が顔を向けると、ゆっくりとこっちに視線を動かしてくる、そのくらいの意識は保っているようであった。
これは、紅葉が今のキスで壊れたという訳では、決してなかった。いつもの事だ。もし壊れたというのであれば、紅葉はとっくに壊れてしまっているのだろう。
あの日以来――冬のあの日も、あの日からずっと――セックスの時、感じ始めるといつも紅葉は、あの日以前の紅葉へと舞い戻ってしまうのであった。あの、世界のすべてを拒否していた、砂色の紅葉に。
孤独に怯えている、たった一人の女の子に。
いや、ひょっとすると紅葉は、あの頃に戻っているのではなくて、今でも何一つ、変わっていないのかもしれなかった。
間違いなく紅葉は、普段は仮面を被っていた。本当の自分を隠す、道化の仮面を。この僕と同じように。だから僕には、それが分かる。
その仮面の裏の本当の紅葉は、あの頃のまま、ずっとひざを抱えたままなのかもしれなかった。セックスの時にはただ、その仮面が一枚、外れているだけなのかもしれない。その裏にもさらに仮面が潜んでいるのかもしれなかったけど、その先は僕にも、滅多に見せてはくれなかった。
いずれにせよ僕はあの日、心に誓った。あの日、罪を犯して以来、僕はそのためだけに生きていると言っても、過言ではなかった。
僕は、紅葉のその寂しさを埋めるためであれば、どんな事でもする。それが、社会的には決して許されない行為であったとしても。
僕はもう一度、僕の腕の中にいる紅葉に、軽いキスをしていった。紅葉は、どんよりと色のない目をしながら、抵抗もせずにそれを受け入れていた。紅葉の身体に、もはや力らしい力は残っていなかった。
僕は、ぐったりした紅葉を横抱きに抱きかかえると、そのままベッドへと運んでいった。そっと、ベッドの上にあお向けに横たえ、僕もその上に跨っていく。
そして紅葉の瞳を見つめながら、必ず確認しなければいけない一言を、僕は口にした。
「脱がすよ、いいね?」
――こくん。
僕の言葉に、紅葉がゆっくりと首をうなずかせるのを確認して、僕はまず、紅葉の下半身に手を伸ばしていったのだった。
セックスの時に限らず、紅葉は人前では決して服を脱ごうとはしなかった。
だから。
紅葉の服を脱がせる事ができるのは、この世でたった一人、僕だけであった。身体を重ねるこの時、僕だけが、紅葉の身体を見る事を赦される。
もっとも紅葉が、僕以外の男とセックスしているところなど、想像すらしたくはないが。
僕はまず、手早く自分の衣服を脱ぐと、紅葉の靴と靴下を脱がせていった。そして足の指を一本一本、丹念に舐めながら、紅葉のスカートも下ろしていく。皺にならぬように注意して、そっと床に落としておく。
紅葉の脚は、あれだけの事故があった割にはさほど傷も残っておらず、成長した十七歳の、艶やかな曲線を保っていた。ただ、右の膝がしらと、その内ももに少しだけ、引っかいたような潰したような、目立たない傷痕が残っていた。
だから僕は、紅葉の右膝を立ててそこに顔を埋めると、まず丁寧にその傷痕を舐めほぐしていった。左手では、内ももにある縫い傷をさすっていく。
「……っ」
紅葉の脚が、ぴくっと動いた。
紅葉はもはや、完全にあの日と同じ、されるがままの状態になっていた。何をしてもほとんど無反応で、時折、身体を震えさせるだけである。
しかしそれでも、反射的に腰をくねらせたり、わずかに吐息が深くなったりする事で、僕の動きを間違いなく感じ取っているという事実を、紅葉の身体は図らずも僕に伝えていた。
僕は紅葉の膝をねぶったまま、そっと腿をさすっている指をずらしていった。紅葉の股間へと指を這わす。ショーツ越しに割れ目をなぞるように、二、三回、そこを往復させる。
「んふ……ぅ」
僕の直接的な刺激に、紅葉がかすかに吐息を漏らした。
だが、それまでだった。
紅葉のそこは、まだ僕を受け入れる準備ができていないようで、僕が何度そこをさすっていっても、紅葉はじっと横たわっているだけで、それ以上の反応を示そうとはしてくれなかった。
ショーツ越しに感じられるそこも、まだわずかに蒸れ湿っている程度で、中が濡れそぼって溶ろけているようには、とても感じられはしなかった。
僕はそれを確かめるべく、紅葉の腰を浮かせて、丸めるようにしてショーツを下ろしていった。紅葉の丘に、つつましやかな若草が萌えている。紅葉のそこが、明らかになる。
見れば、やはり紅葉のそこは、わずかに紅く開いている程度だった。それ以上に僕を受け入れるつもりも、今のところなさそうだ。
それでも僕は、そっと中指の先を舐めると、濡らしたその先端を、紅葉のそこへと押し当てていった。そのままくっと、力を込める。ぴたっと肉が張り付く感触に続き、わずかに指先が潜り込もうとする。
その瞬間。
「……っ!!」
今までぴくりとも動かなかった紅葉が、いきなり身体を跳ねさせていった。僕の指にあらがうかのように、わずかに腰を上方へとずらす。その動きに僕は、慌てて指を引っ込めていく。
しかし紅葉は、再び虚空を見つめたまま、まるで今の動きそのものが嘘であるかのように、また静かに、ベッドに身体を横たえていくのであった。
僕は、急に早鐘を打ち始めた心臓をなだめながら、そっと一つ、ため息を吐いた。
こうなる事は分かっていた。いつも、こうだ。
紅葉はあそこや、例えば乳首などへの直接的な刺激では、決して身体を開いてくれはしなかった。顔色一つ変えずに、圧倒的な沈黙でもって、それを拒否する。
紅葉が求めているのは、たった一つの行為であった。
僕が紅葉にそれをしていく事だけが、紅葉の固く閉じた身体を開かせ、心を露出させて、ひと時の快楽――セックスに、紅葉を溺れさせていくのであった。
それが何であるかを、僕は間違いなく知っていた。
大体、知っているも何も、昨日もそれ以前も、僕は紅葉にそれをしているのだ。たとえそれがどんなに背徳的な行為であったとしても、どんなに僕の心をいたぶろうとも、紅葉がそれを求めている以上、僕にそれ以外の選択肢があろうはずがなかった。
それにそもそも、兄妹が身体を重ねる事以上の背徳的な行為が、いったいどこにあるというのだ。
僕は、紅葉のあそこからそっと手を外すと、抱えていた膝を下ろして、紅葉の身体に正対していった。紅葉は虚ろに瞳を見開いたまま、下半身のみが晒された格好で、呼吸に合わせ、緩やかに胸を上下させている。
いまだ、グレーのシャツに覆われた紅葉の胸元。その奥、紅葉の身体に、紅葉の求めているものが、そして僕の怖れおののくものが、そこにはあった。
僕は、ゆっくりと紅葉のシャツをたくし上げていった。
圧倒的な質感と共に、それが徐々に現れていく。それの姿が、くっきりと僕の目に焼き付いてくる。
僕自身、それから目をそらす事を決して許してはいない。
そこに穿たれたもの――傷痕。
今の紅葉を形作っているすべてが、そこにはあった。
僕は、紅葉の肩口までシャツをたくし上げると、改めてその傷痕を見下ろしていった。
正直それは、何度見ても、慣れるような事は決してなかった。赤黒く引き攣れた線条が、紅葉の肩口から腰にかけて、途中ブラジャーに隠されながらも、うねうねと紅葉の表面を這い回っている。下は紅葉のへその横を越えて、腰骨の辺りにまで到達している。
その傷痕は、暴力的なまでに僕を支配し、そして――醜かった。
決して口にすべきではない、その許されざる言葉を思い浮かべるだけで、罪悪感が僕の神経をきりきり痛めつけていくのだけれど――それはどうしようもなく、目をそらしたい衝動を必死に抑えねばならぬほどに、醜悪に、僕の目の前に存在していた。それと相対するのは正直、僕にかなりの精神的負担を強いていた。
ましてや、それを性行為と結びつけるなどという事は、特に。
僕は、それを直視し続けながら身をかがめていくと、紅葉の腰を抱えるようにして、腰骨の辺りに口を付けていった。ずくんという心臓の痛みを感じながら、僕は、紅葉の引き攣れた傷痕の端、肌色と暗褐色との境い目を、ちろちろと舌先で舐め上げていく。
「……んっ……ふぅ」
それに紅葉がわずかに息を深めた。かすかに身じろぎもしている。
しかしそれ以上、紅葉は何一つ抵抗せずに、僕の舌を受け入れていた。むしろ無言のうちに、それをし続ける事を促しているようだ。
だが、それをするたびに僕は、どうしようもないほどの自己欺瞞に、胸が締め付けられる思いをするのだ。胸が詰まっていく。本当に息ができなくなるくらいに。
ひょっとしたら、それを強いる事自体、紅葉なりの僕への復讐なのかもしれない。
そんな考えに陥りそうになって、僕は慌ててそれを否定した。
そんな事を考えてはいけない。僕は誓ったはずだ。僕は、紅葉のために生きている、紅葉のためだけのものである、と。
だから僕は、紅葉が求めるならば、紅葉のために、それをしなければならなかった。紅葉の寂しさを埋めるためならば、僕はどんな事でもする義務があった。
あの時、僕はそう、決めたのだから。
僕にできる事はただ一心に、紅葉のそこを舐め続けていく事、それだけであった。紅葉が快楽に身を任せ、ほんのひと時の間でも現世の事を忘れていられるよう、ただそれだけを願いながら……。
僕は紅葉のそこに唾液を絡ませ、ゆっくりと時間をかけてねぶっていった。ぷちぷちと弾ける肉の芽を、腰から腹部、そして胸骨から胸へと、丹念に唇で揉みほぐしながら、上へ上へと昇っていく。その紅葉の腹部は、まるでよく煮込んだ脂身のように柔らかくて、舌を強く押し当てるだけで、ぐずぐずと溶けほぐれて落ちてしまいそうな、そんな感じさえ僕にはした。
紅葉の腹部をつつつっと舐め上げる。長々と、ラヴィアにも見える肉襞がそこには走っている。ねとねとといやらしく、僕の唾液で光っている。まるで紅葉の体表を這う、淫らな黒蛇の粘液のように。
僕はその肉襞を、丁寧に舌の先で掻き分けながら、ぷちんと片手で、紅葉のフロントホックを外していった。重力に引かれてたわんだそれを、手のひらで掬うようにして受け止めてやる。
柔らかな塊が両手のひらに収まる。まだカップが引っ掛かっているそれを、僕はやんわりと揉み上げていく。
「……」
その動きに、紅葉がほふっと息を吸い込んでいった。
ほよほよとした手触りの右のそれは、左のそれとは対照的に、滑らかで張りのある表面を保っていた。軽く力を込めても、押し返してくる弾力が左とは違う。たわわな果実だ。
しかし紅葉は、いつも、そちらを弄られるのを、あまりよしとはしていなかった。どうしても左の溝を弄るのを、僕の舌に強いてくる。だから僕はカップをずらし、丘の上に走る一筋の断裂に、幾度となく舌を往復させていったのだった。
やわやわと双丘を揉み上げながら、僕はしつこいくらいに何度も何度も、紅葉の左胸の傷痕を舐め上げていった。丘に登っていく山道の下半分を、掻くように舌先で刷いてやる。見上げれば頂上の突起は、痛々しいまでに固く尖りきっている。
「っ……んっ……ふぅ……」
紅葉の息も、いつしか熱く短くなってきていた。
身体にぷるぷると細かい痙攣が走り始め、全体的に熱っぽく、発汗しだしている。顔はまだあの時の無表情のままだが、唇が半開きになって、そこから熱い吐息が漏れ出してきている。
僕は舌先に、紅葉の体表からにじみ出てきた汗の塩気を辛く感じながら、そろそろ紅葉の一回目が近い事を悟っていた。さらに力を込めて、紅葉のそこをほじくってやる。
僕の舌先が、紅葉の胸の脂肪をこねる。僕の熱い息が、紅葉の乳首をくすぐっていく。ちりちりと、うぶ毛が灼けるように燃え立つ。
そして僕は、紅葉の傷痕を強く吸った。
「やっ……ん!!」
それにわずかに苦しみを浮かべて、背を海老反りに浮かせながら、紅葉がいった。詰めた息が途切れ途切れになり、身体に不規則な痙攣が走っている。汗も、すっと引いていったようだ。
僕は震える紅葉の上に覆い被さったまま、紅葉を軽く抱きしめていった。紅葉が落ち着くのを待ってやる。紅葉は身体を細かく痙攣させながらも、抵抗はせずに、僕に抱きしめられるがままになっていた。
そしてようやく、紅葉が落ち着いた辺りで僕は、紅葉にバンザイをさせるようにして、シャツとブラジャーとを抜き取っていった。紅葉を全裸にする。
いや。
僕は思わず顔をしかめた。
正確には紅葉は、まだ全裸ではなかった。ちらりと手首を見る。
シャツを脱がせ上げたその左腕、左手首には、紅葉の華奢な身体にはあまり似合いそうもない、ごついレモンイエローのダイバーズウォッチが、文字盤を内側にして嵌められたままであったのだから。
紅葉はこれを、家以外で外すような事は、滅多になかった。紅葉はここにも、傷痕を持っているのだ。
それも、自分で付けた傷痕だ。
僕は、紅葉の左横に座り込んで、紅葉の左腕を抱きしめたまま、器用に右手だけでリストウォッチを外していった。紅葉の傷痕が外気に晒される。明らかになる。
横一文字に引き攣れた傷痕。
その手首に僕は、そっと口付けをしていった。
まるで騎士が貴婦人の手を取るかのように、そこに唇を這わせていく。畏れ敬うように、ゆっくりと、ゆっくりと……。
ぐずぐずに肉が引き攣れてしまったそれは、傷痕が見事に血管を横断していて、そこに何度も舌を往復させるたびに、舌先にぷにぷにとした嫌な起伏が伝わってきた。僕はそれを、どうしようもないほどの哀しい気持ちで感じている。
それでも僕は、そこをたっぷりと時間をかけてねぶっていった。それで紅葉の傷痕が癒せる訳ではなかったけれど、それだけが自らを傷つけた紅葉への、僕のできる唯一の償いのような気がしたから。
僕は、慈しむように紅葉の手首を舐めながら、ふと目を開けて、眼下の紅葉を見下ろしていった。
そこには。
さっきまでの澱んだ砂色とは違う、少しずつ感情を取り戻してきた紅葉の瞳が、下から僕を見上げていた。まだ意識ははっきりとはしていないようであったが、潤んだ瞳で、まるで何かを哀願するかのように、僕の瞳を見つめている。僕と、目が合う。
僕と紅葉との間に、光の橋が掛かる。
そんな紅葉の瞳に僕は、いったい何にかは分からないけれど、軽くうなずいて、応えてやった。それだけで紅葉は、安心したような泣き笑いの表情を浮かべる。
そして紅葉は、またゆっくりと目を瞑っていき、再び快楽の中へと没頭していったのであった。
僕は引き続き、紅葉の腱を舐め続けていた。紅葉は瞳を閉じて、うっとりとそれを受け入れている。僕はそのまま、眠れる姫に寄り添うように、少しずつ身体をずらしていって、紅葉のそばに横たわっていく。
ふとももにそっと、僕のすでに硬くなっているものを押し付ける。空いている左手を、紅葉の股間へと忍ばせる。
指先を、紅葉の秘所へと潜り込ませていく。
くちゅ。
「あっ……」
今度は紅葉は、まったくと言っていいほど抵抗しなかった。紅葉のあそこも、すんなりと僕を受け入れている。
そして、にゅるっとぬめったそこも、さっきとは異なり、とろとろになるまで溶ろけ尽くしていた。
僕は、指先の感覚でそれを確かめながら、人差し指と中指、二本の指を、ぐぐっと押し広げるように根元まで、紅葉の膣の中へと差し込んでいった。ゆっくりとしたストロークで出し入れを繰り返す。にちゃにちゃと音を立てながら、内壁を掻くように二本の指でそこをほじくっていく。
「やっ……ん」
それだけで紅葉の膣壁は、きゅんきゅんと指を締め上げてきた。まるで抜かれまいと抵抗するかのように、熱く湿った肉壁が、僕の指を締め付けて離さない。
紅葉もそれを、嫌がっているのか感じているのか、指を動かすたびに腰をくねらせ、首を振っては僕に応えていた。
「やはぁ……やっやっ」
喘ぎ声も少しずつ、出始めてきている。
苦しげに口元でちろちろ蠢く舌が、まるで何かを求めてさ迷っているかのようにも見える。
だもんで僕は。
「うぐぅ……んっ」
それに応えてやるために、紅葉の頭を抱え込み、多少強引にではあったが、紅葉の唇を奪っていった。そのまま互いを貪るように、ディープキスへと移行していく。
僕は紅葉の唾液を吸い上げていく。代わりに僕の唾液を流し込んでやる。蕩けた唾液が互いに行き交う。紅葉の舌も、紅葉の腕も、僕を求めて執拗に僕に絡み付いてくる。呼吸をするのも忘れるほどに、互いに吸い合い、互いに抱き合い、互いを求め合っている。
さながら双頭の蛇のように。
「ん……はふぅ」
思わずそんな吐息を吐きながら、お互いをたっぷりと交換した後で、ようやく二人の唇が離れた。口の端に銀色の糸が引く。
「はん……あ……ひん」
紅葉のため息がそのまま、喘ぎ声へと変わっていった。僕はもちろん、キスをしている間中もずっと、指を蠢かすのをやめてはいなかったのだから、紅葉のあそこはもう、見なくても分かるほどに、糸を引いてぐちゃぐちゃになってしまっていた。
「い……ひやぁ、あに……きぃ」
そこに襲い続ける感覚に耐え切れないのか、紅葉が声を上げて、すがるような目付きで僕を見つめた。蕩けた瞳と唇は、とっくに快楽の渦に巻き込まれてしまっている。次々と与えられる快楽に溺れながらも、もっとさらなる快楽をと、貪欲に欲している。
僕もそれに応えようと、紅葉の耳元へと攻撃を移していった。抱え込んだ腕で右耳をそっと弄っては、もう片方の耳も唇で丹念にねぶってやる。耳たぶをしゃぶる、ぴちゃぴちゃ跳ねる湿った音が、直接紅葉の聴覚に響き渡っていく。
「やっはっ……やぁん」
紅葉はそれを、駄々をこねるようにいやいやと首を振って逃れようとするが、僕は頭を抱えたまま、決してそれを許そうとはしない。髪から飛び散る紅葉の汗が、僕の鼻腔を刺激する。脳髄をつんと痺れさせる、魅惑的な紅葉の匂い。
「んあぁ、兄貴ぃ――」
紅葉もそろそろ、我慢がならないようであった。僕は、紅葉のおでこにキスをすると、胸に紅葉の頭を抱きかかえていった。そうして、紅葉を動けないようにして、さらにあそこを貫く指を動きを早めてやる。
ぐちょぐちょいう水音を飛沫かせながら、紅葉の前壁のつぷつぷを、擦り上げるように指先で掻いてやる。尖らせた親指ではクリトリスを突っつき、押し付けるように指の腹で揉み込んでやる。紅葉はそれをされると、いつも狂ったように身体をくねらせていく。
「いやっ、そっ……あっ、あああっ!!」
だがそれも、僕が紅葉を抱えているため、紅葉はどこにも逃げようがなかった。僕の腕の中で悶えながら、びゅくんびゅくんと身体を震わせるだけである。どこにも行き所のない快感が、紅葉の身体を二、三度となく立て続けに達しさせている。紅葉の身体が、快感で否応なく膨れ上がっているのが分かる。弾け飛ぶ。
「や……兄貴、して……入れてよぉ」
ついに紅葉が耐え切れなくなって、僕に向かって哀願してきた。
唇をわなわなと震わせて、先ほどとは色合いの異なる焦点の合わない瞳で、僕に貫き抱かれる事を懇願してくる。僕を、強く求めてくる。
僕は、何もかもが分かっていた。僕は、紅葉が求める事であったら、たとえそれがどんな求めであっても、それに応えなければならないという事を。
僕は、最後にもう一度、紅葉に軽いキスをすると、紅葉から指を引き抜いていった。
「くあぁ……」
紅葉が脱力したかのように、ベッドに身体を横たえていった。
僕は、しとどに濡れた指先をぺろりと舐めると、手のひらまでぐっしょりとこびりついているそれを、僕のものに塗りつけていった。そして、紅葉の両足を開かせ、そこに身体を移していく。紅葉のぱっくり開いたクレヴァスが明らかになる。そこに僕は右手を添えて、僕のものをぴとっと押し付けていく。粘膜同士が触れ合う感覚が、びびびっと脊髄を遡っていく。
そしていつでも入れられるその状態で、僕は紅葉を見下ろしていった。
目の前には紅葉の傷痕が、赤黒くうねって横たわっていた。それは、紅葉の肌と共に紅潮して、より凶悪にどす黒く浮き上がっているかのようにも見えた。紅葉の皮膚を食い破っている、淫靡な蛇だ。
紅葉はその毒に侵されて、淫蕩な表情を浮かべながら、僕にあそこを貫かれるのを、今や遅しと待ち望んでいた。さっきまでの快楽の余韻に身を焦がしながら、僕に貫かれたがっている。
だが、他の何がどうであれ、紅葉の中に入れるのは、僕自身の意思であった。紅葉は何も悪くはなかった。すべての罪は、僕一人が負えばよかった。
僕が、紅葉に、入れる。
粘膜をぐっと押し込んだ瞬間、どうしようもないほどの背徳感と――それに何倍にも勝る悦びを感じながら、僕は紅葉に挿入していった。
ずむっ……ずむずむっ……。
あっけないほどあっさりと、僕のものは紅葉の中に埋まっていった。紅葉は肺中の息を吐いて、僕のものを受け入れている。
紅葉のとろとろに溶けたあそこの中は、いつものようにとても暖かで具合がよかった。柔らかでそれでいてぎゅうぎゅうに、まるで手ぬぐいを絞り上げるかのように、僕のものを優しく包み込んでくれる。
そんな哀しいくらいに愚かな感覚に浸りながら――僕は妹を犯している――心がそんな罪悪感で満たされていくのを、それ以上に甘い悦びでもって僕は享受していた。
実際にも練れた紅葉の中は、とても気持ちがよかった。入れているだけでも、うねうねと襞がまとわりついてきているのに、それで陰茎を擦ったら、どんなにも気持ちがいいだろうかと、思わず僕に想像させる。
だから僕は。
おもむろに紅葉の腰を掴んでは、固定するようにして、激しいストロークで僕のものを突き入れていったのだった。
「いやっ、やっ、あに……あっ」
ぐじゅぶじゅと音を立てながら、僕のものが紅葉に出し入れされる様子が、僕の目にはっきりと写っていた。それがさらに興奮を増す。
紅葉が首を振って悶えてはいるが、それは決して嫌がっているのではないという事を、僕は他の誰よりもよく知っていた。すでに何回となく肌を重ねた紅葉の身体は、これくらいの動きは問題なく受け止められるくらいに、充分にほぐれ、こなれている。
だから、ほら、紅葉も。
「ああっ!! 兄貴、あにきぃ……いい、それ、気持ちいいよおっ!!」
こんなにも髪を振り乱して、悶えてるじゃないか。
それにしても紅葉は、僕に兄貴と叫ぶたびに、ぎゅんぎゅんとあそこをきつく締め付けてくる。僕もそのたびに、心臓の裏側をやすりで擦られるような、何とも言えない甘やかな錆を、身体で、心で、感じ取っている。
紅葉も、僕も、互いに犯し犯される事に、間違いなく悦びを感じ合っているのだ。それは、いけない事なのだろうか? 紅葉がこんなに悦がっており、僕もこんなに気持ちいいというのに。
たった二人の兄妹の、唯一心通わせる瞬間であるというのに。
僕は、腰をぐりんぐりん動かしながら、紅葉にキスを求めていった。紅葉もむしゃぶるようにそれに応え、腕を僕に絡ませてくる。
吐息混じりに、紅葉が叫んだ。
「ねぇ、あに……あっ、お兄ちゃぅん……抱いて……抱っこしてぇ」
だから僕は、紅葉に回した手を腋から差し入れるように背中に回し、力を込めて紅葉を抱きかかえていった。僕の上に紅葉が乗っかる。紅葉がずり落ち、僕のものが深くふかく紅葉に突き刺さっていく。そのまま僕は紅葉を抱きしめ、揺するように紅葉を下から突き上げてやる。背中をそっと掻き上げてやる。
「やん、それ、いいのぉ……」
僕の先端が紅葉の奥を叩くたびに、紅葉は髪を振り乱してそれを感じていた。紅葉の汗が辺りに飛び散る。紅葉の腕も僕の背中に回り、爪を立てて僕にしがみついてくる。
僕は紅葉の甘い匂いを嗅ぎながら、目の前にある紅葉の傷痕、そこに強くつよく唇を押し当てていった。思いの限りに吸う。
「いいーっ!!」
紅葉が身体をぶるぶる震わせ、あそこをぎゅっと締め付けてくる。虚空をさ迷う紅葉は虚ろで、もはや限界が近いようであった。
僕はそのまま紅葉をいかせようと、後ろに手を突いて腰を浮かすように、思い切り紅葉を突き上げていった。
「あひいっ!?」
紅葉のそんな悲鳴にもお構いなしに、ずんずんと僕は突き上げていく。紅葉の身体が僕の上で跳ねる。たぷたぷと揺れる胸が、僕の顔に押し付けられる。紅葉はもはや、訳の分からない悲鳴を上げながら、僕の身体にしがみついているだけだ。
限界は、突然だった。
「やっ!! お兄ちゃん、いく、いくぅ!!」
そんな叫び声と同時に、紅葉が僕をぎゅっと引き絞った。限界にまで身体をそらし、僕の背に深く爪を突き立てていく。その痛みすら、僕には快感であり、だから僕も――。
「くうっ!!」
思い切り、紅葉の中へと放出していった。びゅくびゅくと奥で弾けたしぶきが、跳ね返ってまた僕に降りかかってくるのを、僕は紅葉の中で感じていた。今さら紅葉の中で出す事に、何の畏れも恐怖もなかった。どのみち紅葉は、それしか僕には許してくれなかったのだから。
幾度となく痙攣を続ける紅葉を抱きしめながら、僕はふっと立ち昇る、紅葉の汗の匂いを感じていた。
それは、薄く塩甘い、ミルクのような紅葉の香りであった。
そんなため息を吐いてようやく脱力した紅葉を、僕はそっとベッドへと下ろしていった。紅葉は穏やかに息を継いで、瞳を閉じて――どうやら、気を失ったようだ。
僕は、横たわった紅葉の中から、ゆっくりと僕のまだ硬直しかかっているものを引き抜いていくと、抱え込んだ紅葉の脚を下ろして、そのまま静かに横たえていった。
紅葉は、眠りの森の美女のように、身じろぎ一つせずにそこに横たわっていた。
僕は、自分の股間を見つめた。
愛液と精液とでぐちゃぐちゃになった、白い粘液まみれのもの――。これが、今の行為のすべてであった。紅葉のあそこからもとろとろと、白い粘液が零れ落ちている。
紅葉はそれにも気付かずに、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。
僕はそこに座り込んだまま、徐々に脱力していこうとしている僕自身を、ただ、じっと見つめ続けていた。うなだれていくそれは、まさに今の僕の気持ち、そのものであった。
後悔しているのとは、違う。
そもそも過去を悔いるのであれば、どこまで遡って悔いればいいのか。
ただ、僕は思った。
僕は、偽善者だ。
僕は、自分が偽善者である事を知っていて、それでいてなお偽善者たろうとしている、どうしようもなく救いようのない偽善者だ、と。
……だが。
それでも、なお。
僕はふっと、視線を紅葉にそらした。
それでもなお、紅葉が僕を必要とするのであれば――僕は、偽善者たる自分と向きあいながら、生き続けねばならなかった。それが僕の罪であり、紅葉が与えた僕への罰であり、僕にできる最後で唯一の償いであるのだから。
僕は、自分のものを拭きもせずに、再び紅葉の身体へと覆い被さっていった。ゆっくりと紅葉の傷痕を舐めていく。ねぶっていく。
紅葉の傷痕は塩く、苦かった。
そして徐々に荒くなっていく紅葉の吐息を聞きながら、僕は、紅葉が望む事であればどんな事でもする、それだけが僕の生きる意味だと、そう、何度も思っていた。
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