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「ジャン=フィリップ・トゥーサン」におけるモデルニテ



目次

一・静止した不動性から動的な不動性へ(『浴室』)

二・不動性から流れる笑いへ(『ムッシュー』)

三・挫折による思索の完成(『カメラ』)

四・母性の獲得(『ためらい』)



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 一・静止した不動性から動的な不動性へ(『浴室』)

 浴室に閉じこもる主人公は運動を拒否し、不動の状態であろうとする。鏡に映した自分の顔と時計の針の運動を見比べながら、顔が何の表情も浮かべないこと、つまり不動であることを確認するのもそのためである。また、壁のひび割れという運動が進んでゆくのを見届けようと空しい努力をするのも、拒否し恐れている運動の実体が何であるか突き止める試みである。

 僕がモンドリアンの絵で好きなのは、その不動性だ。不動性にここまで接近した画家は誰もいない。

 ここでも主人公の不動性への指向が見られる。窓の外の雨や往来の運動を見て不安に陥る場面では「実のところ僕に恐怖を感じさせた本当のものは、またしても、時の流れという事実自体であったのだ」と述べられる。

 この方法によって、運動とは、一見どんな目にもとまらぬ速さであれ、本質的には不動の状態を目指すものであり、 従って、どんなに緩慢な動きと見える時でも、絶えず物体を不動の状態、すなわち死へと導くものである、ということを心に思い描くことが可能となるのだ。オーレ。

 これは、雨を眺める方法として、一滴の雨粒が地面に落ちるまで追う、というやり方を述べた部分に続く文章である。運動が結局は不動へとつながることを確認することで主人公は運動を押え込もうとしている。運動はすべて死へとつながる。モンドリアンについてのくだりでは次のようにも述べられている。

 不動性とは、運動の不在ではなく、運動の可能性の全き不在、すなわち死である。

 しかし、主人公は実際には運動をとらえることはできない。イタリアに向かう列車の中では明りを消し、運動への感覚を研ぎ澄ませて過ごす。

 不動の僕を運んでゆく外部の明白な運動に注意するとともに、僕の壊れゆく身体の内なる運動にも感覚を凝らした。(中略)何としてもその運動をとらえたいと願ったのだ。 だが、いかにしてとらえるというのか? その運動をどこに確認できよう?

 また、ダーム・ブランシュというデザートが溶け、流れ出すヴァニラの運動を見つめる場面ではこう書かれる。

 皿に目を据えて、じっとこの運動を見つめる。身じろぎもしない。(中略)無動きしない状態を保ち続けようと、精いっぱい努力した。しかし、自分の体の上にも同じ運動が流れているということは、充分に感じていたのだった。

 運動をとらえられないのは自らも運動しているからなのである。恐怖を感じている運動の実体をつかみ、恐怖を取り去ろうという試み、すなわち自らを不動にして運動への感覚を研ぎ澄ませて運動をとらえようとする試みは、結局、自らの非不動性を確認する行為となる。そしてまた、主人公の不動性への憧れも、不動性がすなわち死であるということから、矛盾をはらんだものとなっている。なぜなら、主人公は死をおそれるからである。死亡通知の貼り紙を引き剥がす行為(集英社文庫版一〇一ページ)や、病院で「死の発散するなまなましい匂い」に苦しめられる場面(同文庫一一六ページ)からこの事が判る。また、パスカルの『パンセ』から次の引用がなされる。

  しかし、モア・ディープリィに考えて、われわれのあらゆる苦悩の原因を見出した時、わたしはさらにそのリーズンをディスカヴァーしたいと願い、結局一つ確かなリーズ ンがあることに思い到った。それはわれわれが無力な、死を免れない身の上であるというナチュラルな苦悩に由来するもので、その身の上は余りにミゼラブルであるので、そこに思いをはせる時、何ものもわれわれを慰めることはできないのである(パスカル『パンセ』)

 運動が不動に至るものであることは運動への恐怖、拒否を和らげる。しかし、運動への拒否としての不動性が実は死であることが浮上し、死を嫌う主人公は矛盾に陥るのである。
 ここで、再びモンドリアンの絵について書かれた部分から引用する。

 一般に、絵画はけっして不動ではない。それは、チェスの ゲームがそうであるように、動的な不動性なのだ。個々の 作品は、不動の力にして、潜在的運動である。ところがモ ンドリアンの場合は、不動性は静止したままだ。エドモンドソン(引用者註 主人公の恋人)が、モンドリアンは我慢ならない、と言うのは、おそらくそのせいなのだろう。ぼくにとっては、心が安まるのだ。

 不動性には二種類あるというのだ。一つは動的な不動性。もう一つは静止した不動性。主人公が目指しているのは静止した不動性であるが、この静止した不動性は死へと結びつき、矛盾が生じる。エドモンドソンにダーツの矢を投げつけて怪我をさせるのは、彼女が静止した不動性を嫌うからである。しかし、主人公は動的な不動性にも魅力を感じている。たとえば腕時計を眺めながら次のように述べる。

 秒針が文字盤を回っている。文字盤は不動だ。針が一周するたびに一分経過する。緩慢な、ここちよい動きだ。

 動性を秘めた不動性。これこそ、運動を恐れる主人公が目指すべきものなのである。恐れている運動をとらえるには、自らの運動を潜在的なものとし、不動の力とすることが手がかりとなるのである。次の部分は潜在的運動の力について主人公が気づきつつある場面である。

 昼寝のあと、すぐには起き上がらなかった。そうせずに待っていたかった。ある衝動が、遅かれ早かれやってきて、考えずにする動作ならではの滑らかさで、無意識に体を動かすことを可能にしてくれるのだ。

 やがて、主人公は傷つけたエドモンドソンと和解することをきっかけに動性を秘めた不動性へと身をゆだねる。以下に挙げる、第二章「直角三角形の斜辺」の最終断章である。

  (80)ぼくらは白い廊下で抱き合った。

 この後、主人公は再びパリへ向かって動き始める。しかし、この動きも明らかなものではない。あくまでも不動性の中の運動にすぎない。ここまできてこの『浴室』を見直してみると、小説の形態そのものが静的な不動性から動的な不動性へと移行する過程を表していることが判る。断章につけられた番号は物語の動性を不動性としてとどめようとする動きの現れである。しかし、物語は進んでゆく。「危険を冒さなきゃだめなんだ、この抽象的な暮らしの平穏さを危険に晒して、その代わりに」と主人公が言葉に詰まる場面がある。そしてこれが浴室を出るきっかけでもある。主人公が言葉に詰まったのは、この浴室を出るという行為そのものが、静止した不動性から動性的な不動性への移行に他ならないからである。進行する物語と、それを断ち切るかのように振られた番号は主人公の葛藤を表すかのようである。そして、第二章「直角三角形の斜辺」から再び第一章と同じ名前がつけられた第三章「パリ」への移行によって、主人公は、そしてまたこの『浴室』という物語そのものが、静止した不動性から、動的な不動性へと移行するのである。三角形の辺上の動点は頂点から頂点へと辺をたどり、また出発した頂点へ戻る。主人公は再び浴室に入る。不動性へと帰結する運動。そしてまた、『浴室』のエクリチュールそのものが、三角形をなすことによって、内部に動性を秘めた不動性に変化してゆくのである。また、出来上がった三角形が、ただの三角形でなく、直角三角形であることがこの物語の動きに優雅さをも与えている。

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 二・不動性から流れる笑いへ(『ムッシュー』)

 第二作『ムッシュー』でも運動をとらえようとする試みは続けられる。『浴室』で文章を不動のものとして閉じ込めようとしていた番号がここでは取り払われる。また、主人公「ムッシュー」の動きそのものが『浴室』で得られた「動的な不動性」でもある。

 あなたっていつでもまるで何もしていないような様子だわね、と彼女(主人公の上司)は折を見ては親しみのこもった調子で言い、それこそが本当の働き者のしるしなのよ、となかなかうがった意見を付け加えた。

 「何もしていない」様子の「働き者」。つまり、不動性の中に秘められた動性がうちだされるのである。また、この『ムッシュー』の冒頭部分は彼の変ることのない日々の生活の様子を描こうとしているかのようである。もしこのまま変ることのない日常を描き続けて物語が終わるならば、『ムッシュー』は『浴室』で獲得された「動的な不動性」にとどまったままの物語であるといえる。しかし、繰り返される日常を描く冒頭からやがて別の動きが生まれる。たとえば「午後にも、ほんとの話、ムッシューはまたカフェテリアに下りていくのだった。」という文から始まる断章は繰り返される不動の日常を描くはずが、後半ではある特定の日の、談笑する受付嬢たちの様子を描きはじめる。また、「木曜日ごとに」で始まり、定例の幹部会議を述べる断章でも後半は、「あたしのアヴァニトスを見なかったかしら」と上司から尋ねられるという特定の日の出来事を描く。
 決定的に物語が動き始めるのは「ムッシューは、少しでも自分と似たところのある相手はどうも苦手だ。嫌なのだ。」から始まる断章である。先の文に続けて、「例えば、手首をねんざしてしまったあの晩は」と繰り返される不動の日常の例として不可解な事件が語られる。バス停で自分と良く似た「一人のムッシュー」に突き飛ばされるのである。このもう一人のムッシューこそが『浴室』の思索から生まれた「動性を秘めた不動性」によって運動をとらえようとする「ムッシュー」である。そしてこの「ムッシュー」から主人公の「ムッシュー」は攻撃されるのである。この決別は、別の形で次のように描かれる。

 (オレンジの皮の飾りむきをしている時は)時間の流れということをもはや全然意識しないでいられた。以前だったら、二つの別々の、全く異なる実体を、もちろん抽象的にではあるけれども、たやすく思い浮かべることができた。その一方は、不動そのもの、例えば彼という人間で(中略)そして他方は、彼の上を動いてゆく時間である。ところが 今では、二つの実体なんてないんだ、唯一の実体があるだけ、一つの巨大な運動があるだけで、それが今自分を難なく運んでいっているんだ、という考えが彼のうちに頭をもたげているのだった。

 静止したものであれ、動的であれ不動性が切り捨てられるのである。このことは下宿先の子供に物理を教える場面でも象徴的にあらわれる。運動の相対的性質について教えるのである。不動のものがあれば、そこからの差を絶対座標として全てのものを表すことができる。しかし、不動のものはないので相対座標で表さなければならないのである。「持続」という単語も登場する。「シュレディンガーの猫」の挿話も興味深い。不確定性原理が運動をとらえることの困難さをさらに強調する。

  万事は場合によりけりだ。

しかし「ムッシュー」はこう軽く言ってのける。もはや彼は運動をとらえようとする意志をなくしてしまったのだろうか。そうではない、不動性を持つ客観的な視点によって運動をとらえることの不確かさ、あるいは不可能に気づいたのである。「ムッシュー」が鉱物学の本の執筆を手伝うアパルトマンの隣人がいる。この隣人が鉱物学の本の序文として次の一文を読む。

 すなわち、主観的な立場にたって読者を導くことであり、それが読者のためになるよう、願うものである。

 この文に秘められた物事のとらえかたの不確かさこそ「ムッシュー」が鉱物学の本の執筆から手を引くきっかけなのである。「主観的な立場」と言いつつも客観的である事を仄めかすこのような立場は不確定性に思いを馳せる「ムッシュー」にとっては理解しがたいものなのである。このように、不動のもの、絶対的なものがないと判った上で、「ムッシュー」は次のような体験をする。

 (夜空を見上げながら)彼は思考の夜を経巡り、宇宙の記憶の彼方、天空の奥底の輝きに到るまで、くまなく検索した。そこで平静不動の境地に達すると、ムッシューの精神の内ではもはや、いかなる考えも揺れ動くことなく、精神が――自らの呼び起こした――世界そのものとなったのだった。

 客観性を捨てて全てを主観としてとらえる禅にも似た一つの境地がここにある。そしてまた、このような一見不動に見える行為はまた、「一つの巨大な運動」へと彼を導くものでもある。また、「ムッシュー」は絵を描き、さらにものを書く。

 ただし、と彼女(恋人)に打ち明けて、言葉よりも光線のほうが好きなのですが(きっとそれが彼の明るいところなのだ、そう、生命の方を向いているのだ)。

 『ムッシュー』の語り口はあくまでも明るい。そしてまた、運動をとらえることの困難さに気づきながらも運動そのものに身を委ねて生きてゆく「ムッシュー」の生き方は魅力的である。しかし、このような反省も見られる。

 ぼくってあんまり大人しすぎるんだなあ、としきりに反省した。人生のいろんな局面において、少しずつでいいから、とにかくもうちょっと怒りをあらわすようにして、たまりにたまったストレスが一気に爆発したりしないようにする必要があるのだ。

 流れに身をまかせるばかりではならないのである。しかし、『ムッシュー』では流れに身を任せるだけでなぜかうまくゆく。運動についての思索から、プリゴジーヌの話に到る「ムッシュー」。だが恋人はそんな思索には関係なく、「ムッシュー」にキスをする。いわゆる「ハッピー・エンド」である。

 やったー。ほらね、それほど難しいことじゃあなかったんだ。

  人生は、ムッシューにとって、お茶の子さいさい。


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 三・挫折による思索の完成(『カメラ』)

 『ムッシュー』は確かに楽しく読める物語であり、前作『浴室』からの「運動の把握」という主題を引き継いで深化させた。そして、到った結論がある種のユーモアを含んだ、大きな運動に身を任せるという姿勢だった。これは『浴室』で生まれた直角三角形のように優雅である。しかし、この思索にはある種の逃げがあるようで物足りなさが感じられた。第三作目の『カメラ』ではさらに思索が進められる。「ムッシュー」も夜空を見上げながら思索を行ったが、『カメラ』の主人公はさらに思索を行う傾向を強める。放尿すると思念が沸き、そればかりではなく、どんな椅子でも腰を下ろせばたちまち「精神がいつでも繰り広げてみせてくれる、おぼろげな、しかし整った世界にうっとりと没入してしまうのが常」なのである。主人公「ぼく」は、思考は流れであり、様々に枝分かれしてゆくが最終的にはある一点を目指していると感じている。そして、思考を言葉で表してみようとすると期待外れの結果になるとぬけぬけと言ってのける。

 そういうわけで、思考が平穏無事のうちに仕事に励むに任せ、自分にはまるで興味がないようなふりを装いながら、思考の洩らすつぶやきにやさしく揺すぶられるがまま、余計な雑音など立てずに、あるがままのものを知ろうとする方がいい。とにかくそれが、今のところ、ぼくの行動方針だ。

 ここには『ムッシュー』で獲得された生き方が思考の流れとして提示される。別の部分では、些細な動きを積み重ね駒の潜在的な力を高めてから一気に責めるチェスのブレーエの手や、オリーヴの実をそっとフォークで押し付け続けてくたびれたところを食べるといった姿で示される。

 ぼくのアプローチ法は、一見はっきりしないものではあるが、その狙いは行く手を塞ぐ現実をくたびれさせることにあり、(中略)何であれけっして事を急がないというぼくの性分は、そんな性分どころか、実はそれでこそ都合のいい具合に地盤をならし、機が熟したところで一気呵成に攻撃をしかけることが可能となるのである。

 流れに身を任せているかに見えることが、実はたゆまぬ粘り強い攻撃となっているのである。少しずつ怒りを表し、溜まったストレスが爆発しないようにしなければならないと『ムッシュー』では語られるが、『カメラ』ではこの「怒り」を利用して現実へ攻撃を仕掛ける。粘り強い、しかし一見何もしていないかにみえる攻撃によって現実がくたびれたとき、「ぼくはこの、ずっと以前から身のうちに感じていた憤怒が勢いに乗じて迸り出るのを、何物ももう止めることはできない」。この主人公の姿勢は『カメラ』の構成自体にも影響している。自動車教習所に通い始めたという冒頭から、話は思考の流れのままそれ、十年ほど前に教習所に通った話へと動いてゆく。ちなみに、主人公がこの教習所を辞めたのは、「ぼくのアプローチ法」に合ったやり方で教えていた教官の態度が変ったからである。つまり、主人公に毎回ほぼ同じ教習コースをチェスのブレーエの手のように巡らせながら、居眠りをしている教官という図は「ぼくのアプローチ法」に従った好ましい方法なのだが、突然車庫入れの練習となるとこれは、このスペイン定跡の一変種のような優雅さを捨ててしまうのだ。親しくなった教習所の受付嬢(彼女は、いつも眠そうにしている、という優雅な生き方をしている)とロンドンにゆく場面も、いきなり到着した晩のレストランでの食事が語られ、そこから思考の流れのままにロンドンにやってきた経緯が語られる。そしてまた、パリに戻った日のことが語られ、再びロンドン滞在のことが語られる。物語は揺れ動き、一見はっきりしない思考の流れに従うように、また、粘り強い攻撃という側面を秘めながら流れてゆく。
 また、『浴室』で語られた雨のへの視線も発展された形で展開される。探照灯の光条を通り抜けてゆく雨の様子を見ながら主人公はこう考える。

 (略)、光と闇とのあいだにきっぱりと境界線を引くことは不可能なように思われ、とすると、一瞬光の中に固定されたかに見えながらも消え去り、そしてまた新たに現われる雨というのは、まさに思考の流れのイメージそのものではないかと思われるのだった。

 ここで、運動をとらえる行為と思考の流れが統合される。

 そう、美しいのは流れそのものであり、世界の騒音をよそに流れ続けるせせらぎの音なのである。

 そして再び、「思考の流れを止めてその内容を白日のもとに表現しようとしたところで」無残に失敗するのが落ちだと述べられる。ここで、運動と重なった思考の流れを表現することの困難が繰り返される。そしてまた、飛行機の窓から外をみる場面では、「たんに一個の存在」を「ほとんど光もなしに」カメラで撮りたいと思ったことがあると述べられる。これが、『浴室』以来続いてきた運動、そして流れそのものをとらえる事への希求と重なりを見せてくる。主人公は何も動くことなく、飛行機もその中で止まっているかにみえる空の透明さに希求していたものを発見する。とらえられた運動である。さらにパリへ戻る船中で拾ったカメラで撮影した写真こそが、希求していたものであったと述べられる。

 (略)あんなに長いあいだ追い求めていた一枚の写真からぼくは解き放たれていたのであり、自分の存在の近づきがたい深みにはまり込んでしまっていたその写真を、一瞬の閃光のうちに捉えおおせていたのだということが、今になって理解できたのだった。いわばそれは、わが身のうちから迸る憤怒を写真に撮ったようなものだが、しかしその写真ははまた、迸り出る勢いは長続きせず、結局は挫折に終わるということを予告するものでもあった。(中略)それでもその写真は今や不動であり、運動は止められ、ぼくの存在も、あるいは不在も、もう何も動くことはなく、(中略)不動の状態が一面に広がって(略)

 希求していたものは獲得された。しかしそれは無残な失敗が発覚したことに他ならない。運動をとらえようとする試みはシュレディンガーの猫の容体を見ることのように不可能で無益なものなのである。哀れな小猫は容器の蓋が開かれたとたんに数学的性質を変化させ、生きているか、死んでいるかというどちらかの状態に固定されてしまう。運動も捉えられた時には性質を変え、存在か不在かという不動に変化してしまうのである。主人公にとって常に眠たげな様子をしている「パスカル(教習所の受付嬢)」が魅力的に見えるのは、このような無駄な希求を行わない生き方が彼女の中に現われているからかもしれない。ロンドンでの半ば眠りながらの彼女との性行為のシーンでは、主人公の射精に彼女が驚いて目を覚ますくだりがある。射精という一瞬の行為によって男性はオルガスムを迎える。これは短いものである。女性は射精といった迸りはなく、緩やかなものが続く。主人公が惹かれているのは、このような女性性かもしれない。子宮としての「浴室」という視点から『浴室』を母体回帰の物語として読みうることも関係するのだろうか。
 だが、『浴室』という物語は主人公が「浴室」から抜け出さなければ動き出さなかった。同様に、無駄な希求を行わない生き方から抜け出さなければ袋小路に陥ってしまうばかりである。『カメラ』では主人公がパスカルに感じていた過大な魅力が、眠り込んだ彼女の横顔を写真の中に発見することによって色褪せる。最終部分で夜中、路に迷った主人公が電話ボックスから彼女に電話をかけ、小銭がないのでかけ直してくれるよう頼む場面がある。電話は掛かってこない。果たして主人公はパスカルに本当の電話番号を教えたのだろうか。あるいはパスカルは再び眠りに入ったため電話をしなかったのだろうか。ともあれ、希求を行わないパスカルの生き方から主人公が決別するのがこの場面である。やがて、主人公はまた、思索の中に埋没してゆく。

 そのときぼくの頭には、言葉も、イメージもなく、(中略)ただいろいろな形をしたものが、心の中で、まるで時間の運動そのもののような運動を、変らぬ晴朗な、果てしない明確さで繰り広げていたのであり、ぼくはその捉えがたい輪郭をした震えるものが、穏やかに、なめらかに続く無益で広大な流れの中を、音もなく流れ去るに任せた。そう、ぼくは考えにふけり、恩寵は汲めども尽きず、あらゆる恐怖は収まり、不安は消え去って(略)

 挫折した、運動をとらえることへの希求は、思索にふけるという形によって再び姿をあらわす。大きな流れに思考をのせることによって、「ときおり思考が心の一点に静止して手で触れられるような気持ちになったり」、流れと思考との衝突によって運動がとらえられるのである。ここで、主人公の運動に対するアプローチの仕方が、より力強く生まれ変わる。

 (略)ぼくはただ現在の、この瞬間のことだけを考え、薄 れてゆく恩寵を今一度捉えようとした――ちょうど、針の 先端を、生きた蝶の体に突き刺すようにして。

 またしても、不動のものとして運動をとらえようとするのであろうか。いや、それだけではないのだ。彼は挫折によって運動の性質を知ったのだ。ものを書くより絵が好きで、生命の方を向いている「ムッシュー」の生き方が形を変える。次に示す最後の一文が再び動き出す希求への旅を暗示する。

  生きている。

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 四・母性の獲得(『ためらい』)

 『カメラ』はトゥーサンの思索の到達点を主人公の思索に仮託して描き出した作品だったが、『ためらい』はこの思索が具体的な作品の形をとって表現されたものだといえる。そもそもトゥーサンの作品は思索の形と作品の形がつかず離れずの形で提示されてきた。『浴室』での番号付きのごく短い断章から作品を追うにつれて番号を捨て、次第に長くなる断章という形として。この『ためらい』ではトゥーサンの思索の到達点が主人公の意識の流れにそのまま反映される。またそれが、『カメラ』のように思索についての思索という形ではなく、生き方として身についた自然な意識の動きとしてあらわされている。主人公は外界の物事を観察する。そして、『カメラ』で述べられた「針の先端を、生きた蝶の体に突き刺す」ような方法で意識のうちに取り込む。それは例えば黒猫の死体であったり、その死体かの口から垂れていた釣り糸の切れ端が消えていたりすることであったりする。そしてこのとらえられた現実から思索は出発する。それは初めは「猫は殺されたのではないかと言う考えを僕に抱かせた」といったものだが、次の断章では釣りでもするかのように猫の口に釣り糸をかけて海に落としてしまう「ビアッジ」の姿が描かれる。思考が流れ、憶測が憶測を生むうちに主人公を取り巻く世界そのものがサスペンスじみた色合いを持ち始める。猫の死体から釣り糸を取り去る何者かの様子が子細に描写され、再び細かな観察が加えられる。ホテルから締め出されたときには、自分を観察している者がいるに違いないと考える。

  ビアッジだ、その人物とは、ビアッジに違いない。

 親戚なのか友人なのか判らないが以前は親しくしていた「ビアッジ家」を訪れるために主人公はやってきているのだが、「最初にためらいを覚えて以来」なかなか訪問することができない。思索を重ねるうちに「ビアッジ」が次第に謎めいた人物に変化してゆく。常に尾行されているのではないかという恐怖感が増大し、ただ普通に行き過ぎてゆく車の行方も詮索するようになる。宿泊するホテルの上の階から聞こえてくる物音からタイプライターを連想し、さらに「ビアッジ」がタイプしている音に違いないと確信するに到る。思索がやがて主人公の行動にも影響を及ぼす。現実を思索の中でとらえた時の恐ろしさが次のような形でもあらわされる。

 (略)波のない穏やかな海が、まどろむ水のうわべばかりの平安をたたえて、悠然とうねっているのだろうと考えた。

 うわべは平安な現実も思索の中では不気味な相貌を見せるのである。ふたたび「ためらい」を感じたきっかけについて思索が始まり、猫の死体にたどりつく。思索のきっかけ、そしてこの『ためらい』のきっかけこそが猫の死体であり、開始された思索の中では現実は様々に形を歪め、主人公を取り巻くのである。また、主人公はじホテルにビアッジが宿泊しているに違いないと考え、無断で鍵を借り、他人の部屋を探るまでになる。ところが、思索は裏切られる。「ビアッジ」のタイプライターがあると予想していた部屋は、女性が泊っているらしいと判る。別のへやにはカメラと「小さな透明の、六角形の灰皿」が置かれている。主人公はこのカメラを使って「ビアッジ」が自分の写真を撮っているのではないかと考える。流れ出す思索は現実に対する視線をもぐらつかせる。ホテルの主人がガラス戸を閉めたのは自分だと言い、黒猫が入ってこようとしていたからだと弁明するが、主人公は死んでいるはずの黒猫が生きているという不可解さには気づかず、「ビアッジ」と主人が結託しているのではないかという思いに囚われる。猫の死体は思索の中で「ビアッジ」の死体に変化し、主人公が「ビアッジ」を殺害する映像さえ浮かんでくる。だが、極端に肥大した意識の流れは次の一文で終止符を打たれることになる。

 (略)ぼくは三十三歳、つまり青春の終わる歳を迎えたと ころなのである。

 そして奇妙なサスペンスじみた思考の流れに終止符が打たれる。思考は再び穏やかな流れに戻る。だが、初めに感じた「ためらい」から主人公はなかなか抜け出す事が出来ない。次第に明らかになってゆく現実も奇妙なものになってゆく。ホテルで女性が泊っている部屋とカメラがある部屋は別だったが、なぜか女性がカメラを持っている。また、「ビアッジ」の屋敷に行き郵便受けを探ってみると、盗んだのだが戻しておいた手紙が消えている。しかし、屋敷は留守である。そしてまた、屋敷からホテルの帰り道で黒猫を見かけるが、この猫は死体だった猫と同じ眼差を持っている。また再び「ビアッジ」の死体に思索が流れ、彼の死体は沖にみえる島に置かれているのではないかという奇妙な考えが浮かぶ。
 やがて、現実は徐々にその相貌を顕わしはじめ主人公の思考の流れがまったくの無駄なものだったことが明らかになる。猫は二匹いたのであり、一匹が死んだのは、網に掛かった魚を食べようとして絡まっていたのを、漁師が網を切ると慌てて海に落ちたからだと判る。そして、「ビアッジ」の屋敷には新しい番人が来ていたために手紙が消えたりといった不可解なことが起こったのだ。

 結局、ビアッジ家の人たちは僕がサスエロに到着したときからずっといなかったのであり、ぼくが彼らの存在のしるしを見出したと思ったのは、実際はいつもこの男の存在を 感知していたにすぎなかったのだろうか?

 ここで、『カメラ』の冒頭の一文「普段はこれといって何も起こらない、いたって穏やかな暮らしの流れ」が再び立ち現われる。サスペンスじみていたのは思考の流れそのものだったのであり、現実はいたって平凡なのである。だがしかし、まだ解き明かされない謎はのこる女性が宿泊していたのと異なる部屋のカメラを持っていた事や、「ビアッジ」の屋敷にあった「六角形の小さな灰皿」である。この灰皿はホテルにあったものと同じなのではないだろうか。だとすれば、あのカメラが置かれていた部屋に泊っていたのはこの番人、あるいは「ビアッジ」その人で主人公か考えたように彼の写真をこっそり撮っていたのではないだろうか。そして、女性が持っていたカメラは黒猫が二匹いたように同じ形の別のカメラではなかったのだろうか。また、こう考えることも出来る。灰皿が黒猫と同じく二つあったのだと。展開された主人公の思考の流れが更なる物語を生み、『ためらい』は広がってゆく。そしてまた、このような描写にためらいを覚えずにはいられない。

 (略)僕は一歩踏み出すごとに地中により深く足を踏み込 んで、濡れた砂との接触から生じる満足感をいっそう強く 味わおうとした。

 主人公は再び大地に、母性の中に戻ろうというのだろうか。また、主人公が子供を連れているということも、その影にある母親の存在を感じさせる。子供の母親については一言も描写されない。このことは主人公に父親と母親という二つの属性を与える。『浴室』という母親から離れ歩き出したトゥーサンの小説が、遍歴を重ね「青春」が終了する時にいたり、母親と父親の両方の性質を持ったより強力なものに「ためらい」ながらも変貌したのである。「ためらい」は書くことの「ためらい」でもあり、この繰り返される反省が文章に流れを生む。『ためらい』は一見、またしても破綻した思索の果てに立ち現われる何も起こらない日常を描きだし、運動をとらえることの失敗を語る物語のように見えるが、実は、失敗するのが明らかな思考の流れを巧みに利用して、この流れそのものをサスペンスじみた面白いものに昇華させているのである。この荒業を可能にしているのが、獲得された母性であるのは言うまでもない。


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【参考文献】
『浴室』(集英社)
『ムッシュー』(集英社)
『カメラ』(集英社)
『ためらい』(集英社)
『浴室』(集英社文庫)
『カメラ』(集英社文庫)
全て作者はジャン=フィリップ・トゥーサン、訳者は野崎歓
引用は文庫版で訳文が改められているものはそちらに依った。




お便りは iwami@geocities.comまで


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