先日近くの町の日本語の先生の家に泊まり込んで話し込みました。職業柄か、どうしても話は日系人と日本語教育の話に終始してしまいますがいろいろとおもしろい話が聞けました。その中のひとつに、こっちでよく聞かれる「どうして日本人は素直に国旗国歌を尊敬しないのか?」という話があります。
他の地域はいざ知らず、僕のいるノロエステ地区は入植してほぼ90年近く、つまり日本人移民第一号といわれる笠戸丸時代からの古い歴史を持っています。そして戦後日系人社会を二つに分裂させた「勝ち組」「負け組」問題の一方の当事者「勝ち組」の総本山とでも言うべきところでもあります。そんな地区ですから何かの集まりの時に君が代を歌ったり、軍歌を歌ったりするようなこともありますし、広島の国旗問題で校長が自殺したことを聞いて日本人のモラルの低下を憂慮する声もいくつか聞きました。
僕自身日本にいるときはそういったものに対してなんとなく右翼的なものを感じていたんですが、こっちに来てそういう人たちを見るにつけ、それだけではない何かを感じました。日本人にとって国旗国歌が戦争当時の戦争指導者たちと結びついていてなかなか素直に尊敬できないという気持ちも分かります。というか今までの僕にとって国旗国歌とは「まあいろいろな意見があり、面倒くさい問題なのでなるべく避けていたい存在」といったものだったかもしれません。そういったことが言えたのも、僕が日本にいたからのようなに思えてきました。
日本にいるかぎり国旗国歌を否定しようと、日本はつまらない国だといって日本の欠点ばかりを探したとしても、「自分は日本人」というアイデンティティーが簡単に手に入りそれを自分の前提の一つとすることができました。でもここではそうは行きません。自分で積極的に「自分は日本人(語弊があれば、自分には日本人の血が流れていて日本的なものをを受け継いでいる)」という意識を持たないかぎり日本人になれません。
これまで一番痛感したのはほっといても日本人でいることができる(と思っているだけかもしれない)自分と、ほっとくとどんどん日本人ではなくなっていく彼らとの違いです。そんな彼らにとって国旗国歌は自分が日本人であるための大事な要素です。というか、彼らは自分が日本人であることを確認できる要素をそれほどたくさん持っていません。その数少ないひとつが国旗国歌だと感じました。だからそれを簡単に否定する日本の人たちに歯がゆい思いを抱いているのだと思います。しかしこれも世代によって違いがありますが。
じゃあそんなことはやめてブラジル人として生きていけばいいじゃないかとも言えるかも知れません。しかしそれはそれで難しそうです。まずは顔です。やっぱり顔は日本人です。「人を見かけで判断するなんて!」と言いたくなりますが、まわりをみると動かしがたい事実のようです。たとえ本人が「俺はブラジル人だ」と思っていても、パッと見「あ、あなたは日本人ね。」と判断されるんだそうです。もうひとつの理由はブラジルのような多民族社会では自分の血統に基づいたアイデンティティーがかえって大事なようです。まだこれについてはあんまり見ていないし間違っているかもしれませんが、そのように感じました。
ここまで考えてきて、思ったのがよく言われる「日本の国際化」という問題です。ある意味でブラジルの日系社会は「国際化」を90年前から実践して来たとも言えます。日本という枠から出て、多民族社会の中に飛び込んだ人たちだからです。その彼らの結論の一つにそういった国旗国歌観があるんだとすると、これからの日本の国際化とかいう問題に対するひとつのヒントが隠されているように思えました。
まだまだ一ヶ月が過ぎたにすぎませんが、日系社会っておもしろすぎます。日本にいるときの一年分以上のものを見て・聞いて・感じた気がします。他の国だったらどんな問題を見ても「違う文化の違う人たちの話」で高所から見下ろすことができるけど、ここで出会う問題の多くは日本人である自分の今まで気づかなかった・逃げていた部分を直撃するからです。他の国だったら「ここではこうですが、日本はこうなんです」と言えるけど、ここでは決して言えません。そしてそこではきれい事ではすまされないつらいこともあるかもしれません。日本人としての、そして人間としての自分が試される日々はこれからです。