担任雑記No,30 「ヨーロッパ旅行記17」

古城街道沿いにあるヒルシュホーンという小さな町が、ハイデルベルグよりもさらに東、ローテンベルグの北西約100kmにある。我々夫婦はその町の小高い丘のうえに建つ「シュロス・ホテル ヒルシュホーン城」に宿泊した。

ヨーロッパ各地に、このような古くて誰もいなくなった中世のお城を改装して、ホテルにしている所がたくさんある。このホテルも元はお城なので、昔のままに分厚い城壁に囲まれ、物見台があったり牢屋があったりして、面白い趣向のホテルであった。

私達が泊まった部屋は1号室。全8室しかないホテルの一番端っこにある部屋だ。ソファとテレビと洋服タンスが置いてある部屋とベッドルームと別れていて、今まで泊まった安いホテルとは違う高級な雰囲気を醸し出していた。壁にはかなり年代もので色が少し褪せかけているタペストリーが掛けてあったりする。壁は石でできており、1メートル弱の分厚いものだった。窓を開けると城下に流れるネッカー川に沿ってヒルシュホーンの美しい町並みが見える。この瞬間は、王侯貴族になった気分を味わえた。

夕食はホテルのレストランで所謂フルコースを頼んだ。もちろん、我々はスーツケースの奥にしまってあったスーツとネクタイで、妻はとっておきのワンピースでドレスアップ。今夜ばかりは、ロウソクの光の中に浮かび上がる2人は、やっとこさ新婚旅行中の夫婦らしく見えた。…。ムフフ。

朝。すがすがしく天気もよい。窓から見えるヒルシュホーンの町は今日も平和そのものであった。ところが、どうも妻の寝起きがよくない。低血圧であったのでもともと朝は不得意のほうであったが、今朝はそれに輪をかけて顔色が青い。どうしたのかと訳をたずねるのももどかしく、妻が泣きつくように聞いてくれとせがむ。何でも悪夢の連続で、眠れなかったと言う。一番ひどかったのは、何でもこの私が出てくる夢だそうだ。極悪非道、言語道断な卑劣な男という設定の私が、次々と片っ端から女性を弄んで行くというものであるらしい。何を馬鹿な、そんなのは捨て置けと思ったが、紳士らしく優しく妻を宥め賺して朝食へ行く準備を整えた。

さて時計を腕にはめ、時刻を確認する。ん?6:00、まだこんな時間か。ベッドサイドの時計に視線が行くと、何だ、7:00、腕時計の指す時刻は1時間ほど遅れているではないか。仕方ないな、とあまり気にせず竜頭を回し時刻を合わせて、食堂へ降りていった。朝食は至ってシンプルな、コンチネンタルスタイル。ただし、パンはドイツ風の中身ががらんどうのカリッとした香ばしいものだった。おいしい朝食を私は済ませ、妻の食事が終わるのを待っているとき、何げなく腕時計に目をやった。すると、止まっている。どうしたものか、私の時計は自家発電方式という、腕を振るたび中の振り子が動き内蔵電池が充電される優れもの。その充電が終わってしまったのだろうか。再び針を合わせ、時計を振って充電する。動き出したのもつかの間、20秒ほどでハッタリ止まってしまうのだ。4〜5回はやり直しただろうか。何度やっても結果は同じ。半年前、両親から結婚の餞として貰った記念の品、思い入れは深い。そして寿命にはまだ早い。少なくとも30年は使おうと思っていたから日本に帰ったらオーバーホールに出すしかない。何とも残念な気持ちがあって、使えなくても構わず腕にはめておいた。

今日はいよいよアウトバーンを通って300km北のケルンという大都会へ向かう。荷物を車に詰め込みヒルシュホーン城を後にした。美しい森に囲まれ、ネッカー川のほとりにある城は遠くから見るとおとぎ話の挿絵にありそうな魔女の城のようだった。

ケルンの街に到着。特に見るべきものはない街であるが、町の中心に聳え建つ黒いゴシック調の大聖堂を見学した。都会の排気ガスに汚れ、建物の回りに櫓を組み、クリーニングの最中ではあるが、その高い尖塔の数々が教会の大きな権力を誇示し、ゴテゴテした装飾の数々は霊力を宿しているような気がした。

その大聖堂の中に入る。薄暗い。しかしステンドグラスから差し込む光が七色に美しく輝いていた。正面祭壇に向かい祈りを捧げる人達が各自思い思いに手を組み跪き、神への言葉をつぶやいている。ここは彼らにとっての心のより所であり神聖な場所なのである。たくさんの観光客や信徒がいるにもかかわらず、ゴシック建築の粋を集め建てられた気の遠くなるほど高い天井が音を吸い込み、教会内は不思議な静寂に包まれていた。 一通り見学を終え、教会の重々しい扉を開けて外に出る。都会の喧噪が我々を包み込む。そのむせるような音の圧力に押され思わず動かない腕時計に偶然にも視線が移った。その時私は腕時計を擬視した。

動いていた。ついさっきまでウンともスンとも言わなかった秒針が、一秒一秒、正確に、事もなげに時を刻んでいる。私はそれを「奇跡」と感じた。

私はヒルシュホーン城とこれらの事件に何か関係があるのではないかと考えている。妻の悪夢のことから論じてみよう。妻は私を凶悪な犯罪者に見立てた夢を見た。

無論、本当の私は紳士を絵に描いたような人物であるので、妻の夢が全く事実無根であることは太陽を見るより明らかだ。妻と私との過去に何か人には言えない暗い思い出がある覚えもない。断っておくが、昨夜は至って穏やかで静かな夜であった。

ここはかつてヒルシュホーンを統治していた支配者の居城である。中世、支配者層は権力争いで泥沼の歴史を繰り返していたに違いない。そして、その陰惨な歴史は多くの犠牲者を出し、中には無念の死を遂げたものもいるに違いない。もしかしたら、古代ローマのカエサル(シーザー)にも劣らぬ暴君がいたのかもしれない。そこで、きっとこの城には成仏できない霊魂(西洋風に言うと『神に召されない魂』)が未だ城の中をさ迷っているのではないだろうか。そして、その霊魂が妻の夢に影響を与えていたとすれば。夢の中で私に姿を変え、破廉恥な行為で妻を恐怖に陥れたのも頷ける。妻は昔から霊力の強い人であった。「1号室」というのもなんとなく気掛かりである。

次に、私の時計の事件である。止まり方が奇妙であった。20秒程動くと、痙攣を起こし止まる。まるで活け造りの鯉ように。それは実に不自然だったし、何かを訴えているようにも感じた。そして、ケルンの教会で感じた霊力もまた、今まで感じたことのない不思議な気分だった。教会を出たとたん動き出したのは紛れもない事実である。この教会でヒルシュホーンの霊が除霊されたとしか考えられない。それから今でも一秒の狂いなく正確に時を刻み続けている。

このように、何か我々には理解したい現象が起こったヒルシュホーン城。「水曜スペシャル」並のフィクションだと思ったら間違えである。もし、あなたがドイツを訪れることがあったなら、ぜひ一度は立ち寄って戴きたいところである。そういえばここで撮った写真はすべて悉くピンぼけだったことも付け加えておこう。

さて、そんな怪現象とは無関係に、念願のアウトバーン走行が実現し、ドイツの交通事情に感動した私だったのだが、それはまた、別の話。

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