一週間が過ぎた。花形は店に姿を現さなかった。
休憩時間にいつものようにカウンターについて一服している間、ふと藤真はこの間テレビで見たある番組を思い出していた。心理的負担が及ぼす様々な身体障害の特集が組まれていたのだ。
藤真が店に顔を出すのは夜の八時過ぎだ。それまでは自宅で過ごすのだが、たまたまつけていたテレビで放映していた番組がそれだった。症状は軽いものから始まって、次第に重症になっていくという話だった。手足の震え、よく云われるチック症状というものだ。しきりと指を動かしたり、瞬きを繰り返すのも立派な心理的負担による身体障害の一つである。他には頭痛、腹痛、吐き気、目眩などがある。
ぼんやりと見ていただけなので正確には記憶していないが、言語障害というものの原因に最も多いのは幼少時に両親から虐待を受けていた場合であると出演していた医者が話していたのだった。
藤真は花形のことについては何も知らないと云っていい。自分と同じ年齢、二十四歳であること。それから仕事は外資系の薬品会社に勤めているということくらいしか知らないのだ。勿論、何処に住んでいるのか、その正確な住所も知らなければ電話番号も知らない。故に両親や家庭のこと、私生活については殆ど無知なのである。
花形がテレビで云われたように虐待を受けていたのか否かは別としても、彼の言葉が途切れがちで語気やテンポが曖昧なのは、心理的負担が原因なのだということは確かだろう。
それが何であるのか、そしてそれをどうやって取り除くのかは藤真も分からないし、花形も知らないのかも知れないが、あの日以来花形は二度と店には姿を現さないことを考えると、藤真には取り合えず花形の言葉が流暢に口に出せるように思案する必要はなくなった。
おそらくもう来ないだろうから。
客入りの多い店内を振り返って、催促があったのでピアノの前に戻り単調で平凡なリクエスト曲を奏でながら、黒く円形をしたテーブルを囲むぺしゃんこの人型をした粘土たちを目に写していた。
「良い曲だね、おれはこの曲が好きだよ。何て云うの?」
演奏を終えてカウンターに戻ると、三つ程の空席を置いて腰掛けている客の一人が云った。他にも一人でカウンターに座っている客は何人かいた。
声を掛けてきた男は、同年かそれよりも幾らか上の年の頃で、かっちりとしたスーツを着込んでいた。親しげな口調、愛嬌のある笑顔、好奇心一杯の顔つき、花形とは何もかも別だったが、云ってきた言葉は花形が初対面の時に云ったのと同じだった。
藤真は背もたれのない椅子に浅く腰掛けると肩を竦めた。
「忘れた」
男は愉快そうに笑ったが、藤真が酒を注文するのを見て、その代金を自分が払うと云ってよこした。藤真は特に言葉を差し挟まずにその好意を受けた。見たことのない顔からして、初めて来た客のようだった。
「もう、演奏は終わり?」
男の質問に藤真は頷いた。
「いつ出番なの?他にもピアニストいるの?」
続けざまに質問を浴びせる男に、乾いた視線を送って答える。
「いや、火曜以外は出てるよ」
男はそれを口の中で繰り返していたが、悪意のない様子で云った。
「これから暇?どっか飲みに行かない?」
藤真は男を眺めた。
中肉中背、均整の取れた手足。明朗快活な口調。健康そうな顔色。くったくのない表情。悪人には見えない。それどころか善良な人物のようだ。
低血圧気味の溜息を洩らして煙草を灰皿に押し付けて藤真は答えた。
「おごってくれるなら」
男は満面に笑みを浮かべて頷いた。酔っているのかも知れない。裏へ下がって着替えを済ませると、見知らぬ男と連れ立って店を出た。
黒い扉を開けつつ男が名乗った。平凡な名前だ。外は冬の乾燥した空気がぴんと張り詰めていた。漆黒の天空に幻影のように痩せた月が浮かんでいた。こちらの名を尋ねる男に返答しようとした藤真は、通りの向かいのビルの裏口に人影が立ってこちらを見ているのに気付いた。
黒いコート姿の長身の人物は、あの日以来一度も店に現れなかった花形だった。一瞬、そこで何をしているのかと訝しく感じた。しかしすぐに、自分を待っていたこと以外に花形がここにいる理由は探せなかったので納得した。花形はこちらには近付いて来なかった。距離があるので表情は読み取れない。
「どうかしたの?あれ、あそこにいるの知り合い?」
いつまでも名乗らない藤真に男は云い、継いで薄暗いビルの裏口付近に立ち尽くしている不審な人影に目敏く気付いて云った。藤真は男を見た。この場合、どうしたものか。
藤真には元来意志がない。あるのは状況を判断する洞察力と、そのどちらが自然なことであるかを決定する傍観的理性だけだった。
「まあね、そんな大したもんじゃないけど」
「何してんだろう?待ってるようにも見えるけど」
男は不思議そうに呟きながらも、藤真が特に行動に示さないのでそのまま歩き出す素振りを見せた。なんとなく流れに従って藤真も歩き出した。
視界の隅で黒い影は微動だにしなかった。
幾らか道を進み、曲がり角までやって来て藤真は足を止めた。ちらりと背後を振り返ったが、この位置からでは建造物が邪魔をして花形は見えなかった。
唐突に男に別れを告げる。男は戸惑いの表情を作ってどうにか藤真の良心を擽ろうと試みたが、藤真の良心は例えあったとして、そんなことには容易に擽られないよう出来ていたので、男の目論見は無駄に終わった。男は煮え切らない態度ではあったが、口では割り切った言葉を並べてまたいずれ近い内に店に行くことを約束すると去って行った。
引き返すと、花形の姿は既になかった。男との約束を破棄してまでやってきたことに対して、無人の通りを目にしても藤真の心の内に後悔の念は起こらなかった。
建物の裏に回り、細い路地に立った時やや前方を歩いている花形の姿が目に入ったが、その時も藤真は自分の行動が実を結んだことに対する幾分の感動も湧き起こらなかった。
花形との距離を縮める為に歩調を早めて進むと、足音に気付いたのか花形が立ち止まり振り返った。そしてその後は、藤真が横に来るまで待っていた。
並んで歩き出しながら藤真は云った。前回最後に会った時に、花形が自分に対して憤慨していた事実は藤真の脳裏から抹殺されていた。
「随分久しぶりだな」
花形はその言葉に少し考えた様子で答えた。
「仕事、が、忙しか、ったか、らね」
その口調が今迄と同じに、不格好なものだったことにテレビの番組を思い出した。
心理的負担によって言語障害になる場合においては、幼少時の両親からの虐待という事実がその一番の原因となる。それを思い出したことにより藤真は不愉快な気持ちになった。
「この時期に?」
何気なく返答した。花形は暫く無言だった。足音が路地に響いた。
「うそ」
花形は云った。藤真は目を上げて一度だけ花形を見た。横顔を見せる花形の表情は、陰気ではあったがそれは常のことでそれ以外の変化はなかった。藤真は視線を反らした。
「こ、来ないつ、もりだった、馬、鹿に、されるのはお、れは嫌、だから、もう、こ」
花形は最後まで云わなかった。
花形の言葉に前回の出来事を思い出した。客の女たちが花形を笑った。そして花形は憤慨していたのだった。だが、今になって思い起こしてもその理由が分からなかった。女たちが笑うのは当然のことのように思えた。聞いていておかしくないという方が信憑性に欠ける。そして自分がいつまでも花形に話を続けさせたからと云って、それが花形の気に障ることだとは藤真は考えない。だが、それに対してこうまで花形が拘るというのだから、藤真は頭の中で花形はここに来ない方が正解だったかも知れないと考えた。花形の心理的負担、そんなものがもしあるのだとしたら、まず最初にここへ来て自分と会うのをやめた方が賢明ではないかと感じた。
しかしそれを云うことはしなかった。何故ならそれを決めるのは、花形だから。
それから特別な会話をせぬままに往来に出た。目的のない二人は足を止めて、目の前を過ぎる車を眺めていた。何台目かのタクシーが眼前を通り過ぎた時、花形が藤真を自宅に誘った。
藤真は承諾した。
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