藤真の自宅から更に十分程車で進んだ所に花形の自宅はあった。いつも二人でタクシーに乗っても先に降りるので花形の家を目にすることはなかった。
 それは十階建てのマンションで、建造されたばかりらしくグレイ一色の壁のペンキはまだ新しく艶やかだった。硝子張りの入り口のドアを抜けてエレベーターに乗り八階で降りた。花形の部屋は廊下の一番奥だった。ドアを開けて玄関の広い間取りと正面に延びる板張りの廊下を目にして藤真は背後の花形に云った。

「良い生活してんだな」

 花形は云われると嬉しそうに笑った。言葉はなく、そのまま後ろに控える形で居間に案内してくれた。磨り硝子のグレイのドアを開けると、正面には床から天井まで一面を使ったテラスがあった。電気をつけると、カーテンのないその窓の向こうには夜景が見えた。高い天井。そして、ホールにも見える居間と続いたもう一つの空間には黒いピアノが置かれていた。

「どういう訳?」

 藤真はそれに気付いて問う。花形は上着を脱いでいたが藤真の云いたいことを理解すると云った。

「ふ、古い、中古の、なんだ。何、も置くも、のがない、から随分、前に買った。おれ、はピア、ノなんかに、は触ったこ、ともない」

 そして部屋の中央に立ったままでいる藤真の横を通り過ぎて、ピアノの置かれているホールに行くと覆いを開けて鍵盤を見て云った。

「な、にか、ひ、弾いてく、れないか」

 藤真は花形の促すような顔に、ピアノの側に近づき立ったまま鍵盤を触れた。花形は横で黙って見ていた。

「調律が滅茶苦茶だな、全然いじってないみたいだ」

「い、云った、ろ。それ、を初めて弾く、のはお」

 しかし花形はピアノの鍵盤に立ったまま指を触れ、長年の放置故に甚だしく狂った調律に戸惑っている藤真を見てそれ以上は云わなかった。居間に引き返すと、藤真の指が紡ぎ出す重々しく、時には弾むような音階を耳にしながらワインを用意している。
 二人は揃って酒に強かった。どちらもワインが好きなのだ。
 ある程度まで調律が行き届くと、藤真は自分の気に入っている曲の前奏部分だけを何曲か披露していたが、ふと手を止めて花形を見た。花形はグラスにワインを注ぎ終えて黙ってこちらを眺めていた。藤真は依然立ったままであったが、ピアノの側を離れつつ花形の方へ進みながら云った。

「ひどい騒音だ。苦情来るぞ」

 それに対して花形は何も云わなかったが、ただこう云ってよこした。

「今度、じゃ、昼間のう、ちにお願、いするよ」

「金になんないことはしないよ」

 冗談めかして藤真は言い捨ててワインを飲んだ。花形はその言葉に微かに笑ってはいたがその微笑は長いこと続かなかった。

 花形にはこれといって趣味のようなものはないらしかった。それは聞いた訳ではないが、室内を見回す限りにおいては必要最低限の調度品や家具の他は何もなかった。ただでさえ広い室内が、それによって余計に寒々しい印象を醸していた。
 壁際に置いてあるステレオの上に古いレコードが一枚乗っていた。それは藤真も持っていた。花形が最初に声をかけてきた時に、自分が店で演奏していた曲だ。レコード盤は今では希少価値のある品で、滅多なことでは手に入らない。それをどうして花形が所持しているのか、つまり元々この曲が好きだったからか、それとも藤真が演奏しているのを聴いて購入したものなのか、藤真にとっては別段興味もそそられはしなかったので尋ねることはしなかった。

 ぽつりぽつりと会話を交わしている内、四時近くになったので藤真は帰る為に立ち上がりかけた。花形が出してきた上等のワインのボトルは殆ど空に近い状態になっていた。だが、どちらも顔に出る程は酔っていない。

「も、行く、の」

 と、花形が問う。藤真は大きなテラスの硝子越に外の景色を眺めていた。遠くに繁華街のネオンが見える筈なのだが、今の時刻では大抵の明かりは消えていて、ただ深く濃い闇だけが遠くにまで漂っていた。花形の質問には藤真は特に答えなかった。振り向いて花形を見ると、相手は返答を待っていたような顔をしていたが藤真の表情によって言葉より多くのものを理解したのか云った。

「く、車、呼ぶ、か、この時、間じゃ多、分ないか、ら」

 そして背後にある黒い電話機を藤真に見えるようにした。藤真はまだ開いたままのピアノの覆いを閉じようと歩み寄りながら頷く。花形はそれを確認してから、立ち上がって電話機の側へ行き受話器を上げた。番号を押す前にそうして、暫くは無言で立っていた。
 藤真は適当に鍵盤を弾き鳴らしていたが、ふとそれに気付いて覆いを閉めてビロードのカバーを丁寧にかけて後に云った。

「おれがかけるよ」

 そして花形の返答を待たずに電話の側へ行き、受話器を受け取った。花形は何も云わなかった。ただもう一方の手に持っていたアドレス帳を藤真に見えるようにしただけだった。
 番号と照らし合わせて電話をすると、十分程度で到着するとのことだった。電話をしている間、花形は藤真の側から離れてテーブルの上に放置されたままのワイングラスを片付けるような仕種をしていた。受話器を置いて振り返ると、ソファに腰掛けた横顔を見せてボトルを手にしていた。
 藤真は壁に掛けられていた幾枚かの抽象画を眺めたが、再び花形が何か話をしたがっているという、あの感覚を意識した。何を云いたいのかは分からない。それを何故躊躇うのかも分からない。だが花形は確かにこちらに話をしたがっている風だった。花形の言葉を待つというのでもなく、藤真は無言で絵画を眺めていた。
 云うか云わないかは花形の自由意志だ。それを云わないことが、云わないのではなく云えないのだとしても、そしてその原因に藤真自身がなっていたとしても、藤真はそれに対して何か花形の話し易いような状況を作る必要性は感じられなかったし、事実そのようなことは一切しなかった。

 何もかも花形が決めるべきことだと藤真は考えた。

 あらかた絵画を眺め終え、藤真は向きを変えて窓辺へ歩み掛けた。カーテンはない。巻き上げ式の白いブラインドが天井に見えた。おそらくリモコンか何かで下ろすに違いない。居間の奥には濃色のグレイのドアが二つ並んでいた。一方は寝室であるのだろうが、もう一方のドアの向こうの部屋はどんな風に使っているのかは分からなかった。
 花形は依然ソファに腰掛けたままボトルを見つめていた。長い冬の夜は朝の四時を回ってもまるで明るくはならない。濃い闇に閉ざされた町は深い眠りに落ちている。遥か眼下に広がる道路には、等間隔に立つ外灯の白い明かりに照らされて幻想的な趣を讃えていた。
 その内、一台の白い乗用車がマンションの前の通りに横付けした。微かなエンジン音。タクシーだ。藤真は窓辺を離れて玄関へ向かった。花形は手にしていたボトルをテーブルに置いて立ち上がると後をついてきた。ドアを開けて廊下に出、待っていたエレベーターに乗り込む。
 平凡な別れの挨拶を交わして、藤真は階下に、花形は自宅へ戻った。


 タクシーに乗り込み、走り出した車の窓からふとマンションを見上げると八階の窓は一つを除いては全て照明を落としていたが、唯一明かりのついているその窓にも、今はブラインドが下りていた。


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