五分間の休憩時間にカウンターへ向かうと、いつものように花形はそこに座っていた。今晩は最近にしては珍しく暖かい日和だった為か、平常なら着用したままでいるコートを脱いで隣りの座席に置いている。中に着ているスーツも黒色のシンプルなものだった。コートが置いてある椅子を挟んで隣りに腰掛けてピアノが設置されている、床とは一段高くなったステップを見やった。次の演奏が始まるまでの間、照明が落とされている。代わりにホールの明かりが僅かに強まる。淡い茶色を帯びた光。
花形は前を向いたままの姿勢で云った。
「人、多い、ね今日、は」
云う通りにさして広くもないホールに並ぶ円形のテーブルにはぎっしりと人の姿があった。藤真は顔を前に向け用意された灰皿を自分の方へ引き寄せながら頷いた。
「金曜だから、月末の」
花形は何も云わなかった。腕時計を気にしているのに気付いて藤真は云う。
「最後までいるか?あと、四時間もあるけど」
「そ、そうい、う意味じゃ、な、ない」
時計を見たことについてそう弁解すると花形は藤真を見た。藤真はそれならいいというような顔をして見せると煙草に火をつけた。
「藤真」
花形は云った。
かなりの沈黙の後に云った言葉だったので、普段よりはずっと発音が美麗だった。藤真は目を上げて花形を見つめた。線の細い輪郭に落ち沈んだ印象を醸す目鼻立ちが並ぶ花形の顔は、美しくはないがそれでもある種の風情はあるようだった。
「は、はな、は、は」
どうした訳か酷く云いにくそうに花形は言葉を詰まらせていた。こういうことは時々はあった。そしてこのような時にいつも決まって花形は一端口を閉ざして、頭の中で言葉を整理してから再び口を開くのだった。
「何だよ?」
藤真は尋ねながら、花形の準備が整うのを待っていた。花形は視線を合わせず、思考を整理するのにかなりの時間を費やしたが、やっとのことで口を開こうと藤真の方を見て、ぷつりと開いた唇を閉じた。
藤真は背後から声を掛けられた。休憩が終わり、リクエスト曲の演奏をする催促の呼び声だった。支配人は云うと、何処かへ姿を消した。
「じゃ、後でな」
煙草を消すと花形に一瞥を投げて云った。花形は頷いた様子だったが、もしかしたら見間違いかも知れなかった。
それから二時間の後に再び休憩を得た藤真は再び花形の隣りに腰掛けた。花形は空のグラスを前にして口を噤んで何か思案している様子だった。喉が乾いたので藤真も飲物を注文しつつ、花形に云った。
「ミーティングが入ったから、終わるのは朝方だな」
それは別に花形に関係のある事柄ではなかったが、藤真は何気なく云っておいた。花形は聞いているのかいないのか、何も云わなかった。
「さっき云いかけたこと、何?」
思い出して尋ねた。
花形は小さく首を振って何でもないという仕種をした。しかしその様子はまだ何か云いたげであった。
「勿体つけないで云えよ」
云ってからグラスに口をつけた。花形は藤真を見て、渋面を拵えた。何か酷く気にでも障ったといわんばかりの様子だった。相手のその顔つきを目にして、藤真ももう催促はしなかった。
呼ばれてピアノの前に戻る時、背後で花形が何か云ったような気がした。それでなくとも聞き取りにくい言葉であるので、何を云ったのかは聞こえなかった。ただ声だけが耳に入ったというだけで。
振り向いたが、花形は背を向けていた。何を云ったのか聞き返そうかとも考えたが、花形の人より長い言葉を待つだけの時間はなかったので何も問わないままピアノに向かった。
最初のリクエストは、偶然にも花形と会った時に自分が弾いていた曲だった。淡々としたもの悲しい旋律。この曲だけは、今も藤真の心に埋没したきりの音楽への情熱を煽った。男性客が殆どのホールでも、美しい曲調に胸を打たれたのか皆しんみりとした様子で耳を傾けていた。著名な曲ではないが、一度耳にしたのなら何か感じずにはいられない程の戦慄が走ってしまう。五分程度で曲の演奏が終わった。拍手喝采に軽い会釈で応じていた藤真は、ふと入り口の側のカウンターに目をやったが、いつ出て行ったのか花形の姿は既になかった。
次の演奏が始まった。
週末は花形はまず店に現れなかった。従って土日は当然のように姿を見せなかった。月曜に開店したと同時に姿を見せたが、すぐに帰ってしまったので話すことはしなかった。火曜は店の定休日で藤真は自宅にいた。水曜になって、今度は十時を過ぎた辺りに花形は姿を見せた。その日は閉店間近まで店にいたが、休憩時間にカウンターへ向かったものの花形に声は掛けなかった。ちょうど客がカウンターに犇めいていたので、随分と距離を置いた場所に腰掛けねばならなかったことも原因の一つではあったが、それよりも何よりも花形に話しかけるという義務感が耐え難く感じていたからであった。
花形の方もめっきり他人行儀になった。もう、閉店まで店にいて共に帰宅するようなことはなくなった。花形は来たと思えばすぐ帰ってしまったし、向こうからこちらに話しかけることもしなかった。
そんな日々がどれ程続いたろうか。藤真は時折、前に花形が云いかけた言葉を思い起こした。あの時、花形は何を云おうとしたのだろう。そして何故その後にこちらが尋ねた時には答えなかったのだろう。その日、花形は予告もなしに帰ってしまったが、それから二人はもう知り合いではなくなったかのような目礼さえない付き合いに戻ったのだった。それを思い出してはみるものの、靄のかかったような不明瞭な思考を晴らす答えは何処にもなかった。そして藤真もその内、花形について考えることはなくなった。
ところが二人は最初からこうなるように定められていたのだろうか。まるで何事もなかったかのようにして過ぎた他人の日々は幾らも続かなかった。時間にして示せば、それはほんの一週間程度のことだった。いつか昔に、花形が藤真に対して肩に掴みかかり憤慨を露にした時のように、藤真の方がいよいよ花形のことを脳裏から抹殺しかけた頃、花形が何か云いかけて口を閉ざしたこと、それから二人は互いに他人の仮面をつけて過ごしたこと、それらを奇麗に抹消しかけたある晩、花形は閉店前に店を出た筈だったが、藤真が仕事を終えて外に出ると通りに立って待ち受けていた。重苦しい沈黙と冷徹な顔をして、待っていた。その時も藤真は一瞬不審に思った。しかし例によってすぐに花形がここにいる理由は自分を待つこと以外にないと合点したので、やはりその洞察に従って花形の方へ向かった。
花形は何か沈痛でもあり、また苦しげでもあったが以前にもまして打ち解けた雰囲気は更になかった。まるで嫌々ながらもここにいるといった顔つきをしていた。それでも花形は藤真を自宅に誘った。
藤真はこう答えた。
「嫌だよ、疲れてるから」
花形は何も表情には表さなかったが、一層冷酷にも見える顔つきで黙していた。藤真は相手の態度を見て続けた。
「用がないなら、行くぜ」
そしてきびすを返して歩き出そうとする藤真の腕を花形が取った。
強引な行為だった。
何か花形にはそういうところがあった。気紛れで強引な男。
振り向いて掴まれた腕を振り解きつつ藤真は云った。
「おい、おまえはもうここに来るな。二度とやって来るな」
それを聞いても花形は別段感情を表現しなかった。瞳が鈍重な輝きを放ったのが僅かに見て取れる程だった。
背後の店のドアが開いて従業員が何人か往来に姿を見せた。それに気付いた花形は、藤真の腕を引っ張って路地に入り、あらかた進んでから手を離した。その間も、その後も花形は何も云わなかった。
藤真が拒否する気配を見せないのを良いことに、花形はタクシーを呼び止めてマンションへ向かった。
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