部屋に入って明かりをつけ、立っている藤真と目が合った時に花形は云った。

「お、おれの、は、話を、き、聞いて」

 なんだか暫く会話をしなかった間に、花形の言葉は余計に未熟になったような気がした。軽蔑に近い感情が湧き起こるのを感じつつ無言で花形に続きを促した。花形は藤真にソファに座るよう動作で示したので云われるまま腰掛けた。
 花形は距離を置いた場所に立ったまま、藤真が見下ろしているテーブルの上のパンフレットを見て云った。

「出、ろよ、今か、らで、も遅く、はない」

 それは来春に催されるピアノのコンクールの広告だった。年齢制限なしのアマチュア対象のものだ。藤真は花形の真意を探る為、相手を見上げたが、花形は無表情の仮面をつけていたので分からなかった。

 仮面の男は続けた。

「優、勝し、たらス、ポンサー、もつ、くし、や、やって、みる価値、はあ、あ、あるとお、思う」

 花形はその広告を手に取って見るように促したが、藤真はそうしなかった。

「お節介だな」

 花形は表情を曇らせた。眉間に漂う濃い影が不気味だった。

「それ、でも、い、いい。ピ、アノが、す、好きならや、やれよ。な、何、もし、ない内か、ら、諦め、ることな、んか、ない」

 藤真は鼻で一笑した。花形が時間とエネルギーを費やして喋る言葉を、こちらが一言で退けることが可能だということが、藤真には面白かった。

「おまえはおれが優勝出来ると思う?」

 藤真は意地の悪い悦びに顔を歪めて問うた。花形はその表情に憤ったのか、何も返答しなかった。パンフレットに無慈悲な一瞥をくれて、藤真は続けた。

「素人のおまえでさえそう思わないんだったらやる価値はないし、素人のおまえがおれの優勝を信じたからといって、おれはそれを信じない」

 花形は何か反論を試みようと口を開いた。

 奇妙な空白。

 藤真は遮って云った。

「音大を卒業してるからといって、本当に才能のあるやつなんかは一握りだぜ。後のやつらは、早々とその道を断念して普通に事務員でもやってるさ。おれがあの店でピアノなんかを弾いてんのは、いつか夢を叶えようと思ってじゃない。他の道へ進む為の努力をしたくないからさ。おれが四年間の音大生活で身につけたものは、ただ人よりは音符が読めて上手く弾けるというだけのものさ。だからこんなものは無意味だな」

 藤真はテーブルの上の広告を摘んで宙に放った。それはひらひらと舞って、板張りの床に落ちた。花形は渋面を作った。

「う、嘘を、つけ」

 花形は冷たい口調で云った。

「ち、違う、お、おまえ、はま、だ諦、めてない、そ、それは、振り、をしてい、るだけ、だ。そ、れは、愚か、だ、逃げて、るの、と一緒、だ。は、はじ、初めて、聴いたと、時、お、思った、優、勝だ、だって、決、してむ、無理じゃ、ない筈、筈だ、だ、だか、ら」

「違わない」

 横柄に花形の貧弱な語調を遮って云った。立ち上がって花形と面と向かって云った。

「無理なもんは無理なんだよ。おまえに何が分かる?」

 花形は口を閉ざした。その顔は陰鬱だ。瞳が責めるようにこちらを見返していた。

「さっきも云ったけどな、もう店に来るなよ。どうしても来るっていうなら、こっちがやめるからな。ま、その方がいいかもな。おれが決してピアノなんかにしがみついていたんじゃないってことがおまえにも分かるだろう」

 花形は何も云わない。物憂げな表情を見せるだけだった。帰る為に背を向けて藤真は云った。

「上手く喋れるように練習でもしとけよ」



「好きだ」



 背後から花形の声が云った。

 藤真は足を止めてゆっくりと振り返った。

 唐突な切り出しは気紛れのように室内に響いた。
 花形は奇妙に厳しい顔つきをして繰り返した。

「おまえが、好きだ」


 完璧な発音。淀みない口調。あたかも幾度も練習に練習を重ねたかのような。それが本当にしろ間違いにしろ、藤真はその流暢な言葉を耳にして、俄に軽蔑心が湧き起こるのを意識した。
 言葉の意味は問題ではなかった。ただその発音が、語調が、世間並みに正しく基本的に口に出されたことが、藤真の嫌悪感を煽った。

「話ってそれか」

 馬鹿にしたような冷めた口調で藤真は呟いた。


 こんなことか。

 退屈だ。

 世の中は白黒の無声映画そのものだ。


 いつか昔に感じた感覚が再び藤真を虜にした。

 平坦な日常。そこで起こる悲劇も喜劇も、ぺちゃんこに潰れた奇怪な粘土細工の人間たちが演じている。潰れた粘土細工が、正しい発音で恋愛感情を打ち明けたからといって何だろう?それも、同じように拗くれた粘土細工の人物に向かって。

 馬鹿げてる。滑稽だ。

「それで、おれに何を云って欲しい?」

 花形はその言葉に一瞬顔を赤らめて、それからすぐに気分を害したような気難しい顔をした。
 花形は藤真に何を期待したのだろう。藤真は花形に何を与えられるだろう。好きだ。それが何?それは何なのだ?どういう意味があるのだ、その言葉には?意味なんてない。それはただの言葉だ。それは花形の気持ちではないし、藤真の気持ちではない。ただ花形は自分が演じなければならない役柄を忠実に演じたまでのことだ。何度も発音を練習して、間違わないよう、美しく仕上がるよう努力しただけだ。そしてそれがこの上もなく成功した時に、藤真はこの上もなく相手を軽蔑しただけのことだ。

 花形は苦虫を噛み潰したような顔をして黙していた。自尊心が強く、強引で高慢な男。気分屋で変わり者。それが花形だ。よく機嫌を損ね、そして度々何の前触れもなく和解する。無様な言葉のせいで、花形の感情の起伏さえこちらには脈絡ないものとして伝わる。

 不器用な主人と、利己的な下僕。


「男からそんなこと云われて悦ぶと思う?」


 藤真の言葉に対する返答は素早かった。

 花形は唐突に藤真を殴った。その力は、さほど強くはなかったが、事前にそれを予知出来なかった藤真はよろめいた。藤真を見据える花形の情のない冷たい瞳。無慈悲な両の瞳が冷酷に藤真を見下ろしている。何の感情もない瞳が。

 花形は罰を与え終えた奴隷には目もくれずに、玄関から出て行ってしまった。


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