MORIVER'S SWEETEST DIARY (35) 更新日記 (35)

1月 9日(金) 喧嘩/痴人の愛
1月 10日(土) アウトブレイク
1月 11日(日) 寝てた
1月 12日(月) 水の音
1月 13日(火) 作文
1月 14日(水) 奇行/クローン人間禁止条約/テルマ&ルイーズ
1月 15日(木) 短編3編/列車の中で・青猫・ありふれた愛に関する話
1月 16日(金) サーバーダウン



1998年1月 16日 (金)  GeoCitiesのサーバーがダウンしていたらしく、15日の日記を含め、全てが 更新できなかった。16日の昼にも何度かアクセスしてみたが、駄目。結局、更 新を諦める。また、夜も12時頃にはさっさと寝てしまった。  皆様にもご迷惑おかけしました。 (1/17 16:45)
1998年1月 15日 (木)  雪、また降ってきましたね。もう雨になってますが。  そんな今日は成人式。 ***  あまりにも更新が無いので、ついにお茶濁しのための奥の手を発動。ハード ディスクを漁り、過去に書いた短編を3つ程、強制サルベージしてきました。 「列車の中で」  この作品は、なんと6年前のもの。大学浪人時代、いらいらにまかせてそば にあったカレンダーの裏に殴り書きしたものがこれ。ほっといてくれ、と言い たくなるほど妄想ちっくなタッチですが、実はそれなりに気に入っていたりも する。今見ると、どこぞのダイヤモンドのCMのようですがご勘弁を。 「青猫・せいびょう」  高校時代からの友人からもらったネタをパクって書いた作品。基本は人のア イデアだからつまらなくても責任転嫁できる、と楽に仕上げた記憶がある。し かし意外に面白くなってしまったので、ちょっと困った。 「ありふれた愛に関する話」  これを最初、発表した時「よく分からない」とのコメントを幾つかいただい た。冗談を言っているのか、本当の話なのか分からない、という。実は作者に もよく分からない。酒を飲んだ帰った日、まだたっぷりアルコールが入った頭 で書いたので、自分でもその意図しているところが分からなくなってしまった のだ。読み返して見るに、とりあえず「本当の話」として読んで構わないよう ではある。話はたわいもの無いが、伝えたい雰囲気はまあまあ醸し出している と思っている。 (1/16 2:54)
1998年1月 14日 (水)  何も無い。気の利いた言葉も思いつかない。  昼に本屋で買った本はあまりにもくだらなくて、途中で飛ばし読みに入る。 損した気分。  滞った小説がホームページにアップしているもの、していないものを含め山 ほどあるので、せめてシノプシスぐらいまとめようとキーボードを叩くが、ど れもラストまでの構想がきっちりたたず挫折。きっちり設計図をつくって、そ れに従って計画的に書くというのを一度やってみたいが、書けた試しが無い。 大概、どこかで「このままじゃつまらない」と計画変更してしまうのが常。で、 自爆すること多々あり。  その昼に買った本の一文に「小説を書くなんてことは、それ自体奇行なのだ からそれ以上奇行をすることは無い」というのがあった。そこだけは妙に印象 に残っている。しかし、自身を振り返るに手遅れな気もする。困った。 ***  ここ数日、ペースダウン気味だが、勉強もまだ忘れずにやっている。頭が働 かないのはそのせいか、などを心でつぶやいてみたりもする。 ***  新聞で最近「クローン人間禁止条約締結の動き」という一文が踊る。SFし ている現代。イギリスは、研究の自由を理由に批准しない動きとか。一方、不 妊症の夫婦が自らのクローンを欲しがって、人工受精機関を中心に打診し始め ているとか。でも、自分のクローンははたして自分の「子供」なのか? ***  など考えながら、後は、眠っていた。最近、体が妙にだるい。 ***  さっき、夜中、「テルマ&ルイーズ」を見た。結構すごい映画だった。女性 二人の逃亡劇・ロードムービー。アカデミー脚本賞受賞作品。その脚本は女性 が書いたものらしい。  逆光のシーンが多く、太陽の光がひたすら綺麗に見えた。監督はトニー・ス コット……だったかな。トップ・ガンや、トゥルー・ロマンスの監督。そうい えば、トゥルー・ロマンスに話が似て無くも無い。あっちは、ラスト、メキシ コでよろしくやるという結末だが。トニー・スコットと言えば、映画好きの友 人の間では「いつも逆光で、二人のシルエットが動くというエッチシーンがあ る」と笑われていた。思うに、どんなシーンでも彼は逆光のシルエットが好き らしい。格好いいから私的にはよし。  リドリー・スコットはお兄さん。弟だったかな。とにかく兄弟。ブレード・ ランナーやエイリアンで有名。やっぱりコントラストの強い画面を好む。血筋、 なのか。どうでもいいが、エイリアンの主人公をやったシガニー・ウィーバー と、テルマ&ルイーズのルイーズ役をやったスーザン・サランドンは似ている。 この好みも兄弟の血筋、か? (と思ったら、テルマ&ルイーズの監督は、トニー・スコットじゃなくて、リ ドリー・スコットの方だった。なぜか家にあったTSUTAYAのビデオカタログで 確認。途中から見ていたのだが、『馬鹿っぽい映画ばかり撮ってるトニー・ス コットにしては面白いな』と不思議には思っていた。やはり監督としてはリド リーの方が断然上、だと再認識(1/15 9:47)) ***  毎度、書こうと無理に思うと書けてしまう。ひどい性分だ。 (1/15 5:57)
1998年1月 13日 (火)  下の文章を読み返してみた。何カ所がおかしな書き方をしているの気付く。 特に、最後近く「伝えられる人だけが芸術家とされる。私は芸術家ではないの で、それは無理だ。」の所を最初「私は芸術家なので、それは無理だ」と書い ていたのには慌てた。心のどこかでそういう偉ぶった気持ちがあるのだろうか と考えたらちょっと怖くなる。芸術家きどり、なんて嫌いなはずなのに。  また、文章の構成もちょっと論理的じゃないですね。思いついたことをその ままぽんぽん、と書いているようで説得力はあまり、ない。 ***  なんてことを書くのも、なぜか本棚をいじっていたら出てきた岩波新書の 「ワープロ作文技術」(木村泉著)などを読み返したせいだ。正直、それほど 新しいことが書いてある本では無いが、KJ法に現れるような文章のアイデア の出し方、まとめ方などがそつなくまとまっていて、知識が整理されてゆく感 覚は味わえる。この手の作文技術の本としては他に、本多勝一氏の「日本語の 作文技術」や立花隆氏の「知のソフトウェア」などが有名だ。読んですぐどう になるもんでは無いが、読めばなにがしかは得られるものだとは思う。  結論、としては「その人にとってのよいよい書き方、というのは人それぞ れ」ということ。後は、昨日の話にからめて言えば、いかに無意識レベルでの 活動をうまく利用できるか、にもかかっているよう。そして、その次にそれを まとめて他人に分かるようする意識レベルでの知識や技術が必要となるらしい。  しかしどっちかを優先させれば、一方がお留守になるものまた事実。まとも なものを書くためにはやはり修行が必要、ということか。 (1/14 4:26)
1998年1月 12日 (月)  この所、どんどん日記を書く時間が遅くなってゆく、と我ながら思いきや、 とうとう「欠番」まで生じさせてしまいました。  寝てた、書きましたが別に大した病気を煩っていたわけでなく、確かに少々 風邪気味でしたが、まあ、なんといいますか……「眠ってた」と言うべきか… …。自分でもその莫大な睡眠時間はびっくりしているぐらいで。合計すれば1 5時間ぐらいはそんな仮死状態を続けていたように思います。  寝入りばなや、寝起き間もない時。表の方から雨の流れる音が聞こえてくる。 雨どいをちょろちょろと滴れる音。プラスチックの屋根の部分に、ととと、と 雨粒があたる音。もはやどこまでが夢なのか現実なのか。 ***  無意識の層、というのがある。  人間の意識出来る層というのは、まさに「氷山の一角である」と言われる。 そこから下にたまに意識出来るレベルの層があり、その奥にはほとんど意識出 来ない部分がある。色々な学説があるが、深層心理学の認識する基本的なイ メージはそんな所である。  夢、というのは、その無意識層の働きが意識の部分に現れた形、とされる。 それは形としては昨日見たテレビの内容などであったとしても、なぜそれが出 て来たか、には何かしら「意味が」あるのではと疑ってみる。勿論、意味が無 いように見える場合も多いが、とにかく無意識の動きの現れと見る。仮説では あるものの、そういう風に見ることでうまく心の動きが説明できる場合がある ので、「そうだ」とされる。  古来より、巫女などのシャーマンは鏡や水晶玉、水の張った桶などを用いて 「お告げ」を得た。一節によればそのような物を凝視することで、人が自らの 無意識を活性化させるらしい。何も無いものや、水のような不定形なものを見 ていると、心の一部が不安定になり、そこに「何か」を見つけようとする。そ ういう傾向があるのだという。  昨晩のCBSドキュメントでロンドンの「現代アート」の話を放送していた。 何も書かれていないキャンバスを並べたり、牛の輪切りのホルマリン漬けをお いたりして、そこになにがしの説明を加えた上「芸術だ」とするものだ。  想像力を喚起させれば、日常の物、もしくはゴミでさえも芸術になる。想像 力というのは無意識の活動に大きくよるものの一つではある。そして、そうし た力を喚起させるという意味では確かに「芸術」と呼べなくも無い。  だが、そうであるならば、それはもはや物をも必要としないレベルでの芸術 では無いだろうか。芸術全般には多かれ少なかれそういう面があるが、現代 アートでは特に「分からない奴には分からないもの」と言い放ち、その一種の ふてぶてしさ、押し切る傾向が強いようにも見える。  現代アートを見て、そこに芸術を感じるものがいても、それはアートの作り 手がすごいというより、それを芸術と感じる人がすごいだけのような気がする。 無論、最初にそれをアートと感じた作り手のセンスはさすがではある。だが、 話を聞くと「現代アート」には常に「話し手」によるパフォーマンスがセット となっている場合が多いとか。その話し手は、作り手である場合もあれば、商 品を仲介するブローカーであったりするらしい。  芸術とは「感じる心」にその本質がある。そしてその感じる心を生み出すも のはそうした「物」であったり「言葉」であったりする。そして、すごいと言 われる芸術とは心の奥深く……つまり無意識と呼ぶ物……にどこまで食い込ん でいるか、にかかっているのでは無いか。素人考えだがそんな気がする。  そうであるならば、前述のようなシャーマンの用いた水晶玉や鏡も芸術なの であろうか。或る意味そうだと思う。芸術と宗教的なものが深く関わることが 多いのも、宗教がそうした心の深い層を意識するのに役立つ……と言うかそう したものを扱うからだとも思う。  そして水、というのは特に重要だ。古代の哲学者の一人は、万物の元は水で あると言った。水の持つ不定形さと共に、自ら感じるイメージの大きさもそこ に指摘されているように思える。  風呂場で、風呂おけからお湯を両手ですくい、そっとこぼして見たときの、 その姿にふっと何かを感じることもある。だが、その感じたものを伝えること は難しい。伝えられる人だけが芸術家とされる。私は芸術家ではないので、そ れは無理だ。  今朝の眠りに片足をつっこみながら聞いた雨の音には、確かに何かがあった ように覚えている。伝えることは叶わないが、ささやかなアートの時間であっ たと僕は思う。 ***  大学入試の小論文を思い出すような文章ですな。苦笑。 (1/13 1:44)
1998年1月 11日 (日)  寝てた。 (1/13 0:56)
1998年1月 10日 (土)  また更新をさぼる所でした。  ……今日は何をしていたのか。 ***  テレビで録画しておいた「アウトブレイク」を飛び飛びに見ていた。ダステ ィン・ホフマン主演。アフリカからアメリカに持ち込まれた一匹の猿に凶悪な ウィルスが紛れており、一つの街がたちまち感染者であふれかえる。それをく い止めるべく奮闘するのがダスティン・ホフマン扮する陸軍の細菌対策班、と、 話はわりと単純。しかし、シナリオがうまく、物語のテンポもよい。面白い。  物語にダスティン・ホフマンとその妻との離婚問題、陸軍上層部が細菌兵器 を用意していたという秘密などをからめ、膨らみもある。  元々はエボラ出血熱を描いたノンフィクション作品「ホット・ゾーン」を映 画化しようと思っていたが事情により流れ、変わりにと作ったのがこの「アウ ト・ブレイク」だと聞く。そのせいで、ドキュメントというより正当派エン ターテイメントとして完成したのだから、どちらがよかったのかは分からない。  ラストの収束のはあざやかだが、あまりにも調子いいので、素直に喜んでい いのかは判断に苦しむ。職人的感覚で作り上げた佳作、という印象。似たよう な系統に「スピード」などがあると言えばわかりやすいだろうか。アクション も満載だし。  個人的には途中、感染して倒れてしまう、メガネでのっぽの同僚が最後、死 んだのかどうかはっきり分からなかったのが気になる。おそらく、死んだのだ ろうけれども……。 (1/11 5:56)
1998年1月 9日 (金)  やはりというか、今日の東京は交通が麻痺状態。朝方、妹の高校の担任から 電話があり私が受け取る。授業が一時間遅れるというので連絡網で回して欲し いとのこと。母を起こしてその旨伝える。  後にこの事で「一時間って、二時間目から始まるってことじゃん。早く行っ て損した」と妹が文句を言ってきてそのまま大喧嘩することになる。私も手を 上げてしまったので泥沼状態。嫌な気分だ。 ***  朝方、昔古本屋で買ってきてそのまま放置しておいた谷崎潤一郎の「痴人の 愛」を読む。面白い。大正時代の小説なのに存外読みやすく、一時間半ほどで きっちり読み終えていた。話の筋は、明かしすぎると面白く無いので簡単にし ますが、15歳(数え歳か?)の少女を引き取り自分好みに育て、二年後に結 婚するけれども、その妻は大学生の男達と関係持ちまくり状態になって、主人 公の男は慌てたり泣いたりするというストーリー。  私は喜劇、と見た。こんなんで文学って言っていいのかと思うようなものだ が、名作と言われているのだからまあそれはそれでよいのだろう。  不満としてはどうして、女がこんな性格になったのか、とか、男がなぜこん な女にひかれるようになったのかという分析めいた部分が弱いということ。  しかし、話としては面白いので、作品としては成功なのだろう。陰気さはあ まり無いのもよい。上品なのである。おかしな話だがそれがかえって「現代的 だな」と感じた。 (1/10 4:36)

戻る


1