第一章 四大心情圏及び三大(代)王権と皇族圏

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

第六章

第七章

目次

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一節 四大心情圏

1、神の構想理想

神自身のことは神自らにおいては感ずることができない。そのため神はご自身を鏡に写し出すように対象化させ、分立してそこからくる刺激によって自身の存在と素晴らしさを感知し、喜びを得るようにされたのである。

神御自身の全てが完全に写し出された対象が人間であった。そのために神は天地創造の一番初めに人間の創造についての構想理想をもたれたのである。従って最愛の喜びの対象としての人間が欲しいという神の願いが創造目的の中心テーマであった。

構想の段階では男の子と女の子というアダムとエバのイメージが神自体内に形成される。この時神は本陽性と本陰性の中和的主体として陽性と陰性が一体となっているので、構想の中のアダムとエバも別々に離れたものではなく、一つのものとして現れてきた。主体であるアダムが先に立ち、アダムが兄、エバが妹となって、双子の兄妹というイメージが神自体内に生まれてきたのである。

また神の構想の中には単にアダムとエバを実体として生み出すことだけでなく、生まれたアダムとエバにこうなって欲しいという理想とそこに至るまでの計画が全て入っていたのである。

2、子女の愛の教本

神はアダムとエバに、第一に人間が神を親として愛する基準を立てること、すなわち子女の愛の教本となることを願われた。

子女の愛の教本とは子女として神を愛するとはどういうことかを模範として示せるような基準を立てることである。ここで留意すべきことは神の目的と人間の目的とは完全に一致するということである。アダムは男の子女として神の願われる完成基準を目指して成長し、エバは女の子女として神の願われる完成基準を目指して成長していくようになっていた。

アダムとエバは養育係である天使の協助を受けて、神との親子の心情を育てながら、被造世界との授受作用を通じて神の創造の美を感知し、被造世界の主管の仕方を学びながら、経験と知識を広げていくようになっていた。

アダムとエバの子孫である我々の場合、教育は天使でなく自分を生んでくれた父母の役割である。最初の幼年期は心情が大切であり、自然や父母との触れ合いを通じて心情教育をしなければならない。少年少女期に入れば、心情の成長は継続してなされなければならないが、特に知能が大きく伸びる時期なので、知識教育をするべきである。青年期に入ると知と情が一体となり、意的世界が大きく展開するようになる。ここで自分の人生に対して深刻に考えるようになるので、人生観の問題をはっきりと教えなければならない。

3、兄弟姉妹の愛の教本

アダムとエバはお互いに同じ人間でありながら形状や性相に差異があることに気づき始め、やがて兄と妹であることを知るようになった。

アダムから見てエバは弱々しそうであるが、何か可愛らしく見え、いとおしく思われ、守ってあげたい、助けてあげたいという気持ちをもつようになる。一方エバにとって、アダムは荒っぽくて恐そうな存在であるが、何かしら頼もしく、慕わしいと思える気持ちが芽生えるようになる。このようにして、兄と妹の心情が生まれてくる。こうなるのは既に神の中に、アダムとエバに兄弟姉妹の基準を立てて欲しいと願われる構想があったからである。

神の中には子女の愛や兄弟姉妹の愛として現れてくる、その原因となる心情が存在していた。しかし神はアダムとエバからくる刺激を受けて初めて、子女の愛や兄弟姉妹の愛を実体的に経験し、そのことを通して神御自身も愛において成長していくのである。

共通の父母から生まれたものが兄弟姉妹であり、父母なしに兄弟姉妹となることはできない。従って兄弟姉妹の愛は常に父母の愛を中心において成熟していくようになっている。兄弟姉妹の愛の高まりの中で父母の愛を感じ、また父母の愛を受ける中でさらにより高い兄弟姉妹の愛へと成長して、兄弟姉妹の愛の完成に向かうのである。

子女の愛と兄弟姉妹の愛は別々の異質のものではない。子女の愛の成長の延長線上で、次の段階に展開したものが兄弟姉妹の愛である。

子女が親を愛するようになれば、その子女はまた親の愛する他の子女をも愛するようになるこれが兄弟姉妹の愛である。そのようにして愛の二重圏が形成される。

親は子女が親を愛する以上に兄弟姉妹がお互いに仲良く愛し合って欲しいと願うように、神も人間が神を愛する以上に人間同士お互いに愛し合うことを願うのである。 

4、夫婦の愛の教本

子女の愛を兄弟姉妹の愛を通過すると、やがて男性と女性は正分合の原理により互いに向き合うようになる。その時両者を結ぶ一点で二人の愛がスパークする。この中心点で、男性と女性、夫と妻が初めて一体となる。男女はこの一点で初愛の体験をするのである。

神は本性相と本形状の中和的主体であるために、人間も性相と形状の二性性相になっており、愛にも性相と形状がある。性相的な愛だけでは四位基台を完成することができず、いつでも崩れる可能性をもっているので、永遠に完成することはできない。心においてどれほど愛し合ったとしても、体が遠く離れていれば、寂しくて仕方がないのである。

心と心、体と体が一体となって、心も震え、体の細胞までも震えて、二人が溶け合うようになるとき、初めて喜びと幸福が完成する。

夫婦の愛も他の二つの愛と無関係ではなく、この二つの愛の延長線上につながるものである。父母を愛し、兄弟姉妹を愛し、自然を愛して、個人として立派にならなければ夫婦の愛を完成させることはできない。そのようにして愛の三重圏が形成されるようになるのである。

アダムとエバの愛がスパークするこの中心点は神の愛が垂直に下りてくる点でもある。縦的な神の愛と横的な夫婦の愛が90度で交わるこの点こそ、実は三つの愛の完成点なのである。 

神は二性性相であるから、男性一人または女性一人だけでは神の似姿となることができない。初愛の場で夫婦が初めて霊肉共に一体となるとき、人間は神の二性性相に似た実体対象となる。

初愛の中心点からさらに父母の愛が出発し、父母の愛もこの一点で完成する。 

この一点を中心として愛の四重圏が形成されるようになる。そして、全ての愛と心情はこの一点に集中するのである。それ故この一点を「四大心情圏の定着点」という。この点はまさに創造理想の完成点であり、神が安着するのもこの点である。

この一点で神の愛と人間の愛が出会い、絶対にして永遠なる愛が地上に定着するのである。 

5、結婚の目的 (内的・性相的目的)

a)相互完成  

人間の完成とは愛の完成であり、愛の完成とは人間の愛と神の愛が出会い、両者が溶け合って、絶対的に一つとなることである。神の愛はアダムとエバが結婚して神の似姿となった時、凹凸の交わる中心点に下りてくる。この神の愛と子女の愛がまず出会い、子女の愛が完成してアダム・エバは子女として完成する。次に兄弟姉妹の愛が神の愛に出会って、兄弟姉妹として完成し、その次に夫婦の愛が神の愛に出会って、夫婦として完成する。そして最後に父母の愛が神の愛と出会って完成することにより、アダム・エバは父母として完成するのである。従って、四大心情圏の完成、すなわち人間の完成はアダムとエバの結婚が前提条件となっているのである。夫婦の愛、父母の愛のみならず、子女の愛も兄弟姉妹の愛も、アダムとエバの結婚を条件として完成していくのである。それ故に結婚することなしに人間完成はありえないのである。

お互いがお互いなしには双方とも四大心情圏を完成できず、人生の目的を達成することができない。配偶者は第二のメシヤである。さらに結婚することによって初めて、子女を生み殖やすことが可能となる。子女なしには父母の愛を出発できず、四大心情圏と創造目的を完成することができないので、子女は夫婦にとって第三のメシヤとなるのである。

b)神の愛を占領

神の実体対象として人間が結婚して完成するとき、夫婦は完全なる神の愛の対象となる。そして神は完全にその対象を愛することができるようになる。この時の神の愛は真の愛であり、愛の中でも最高の愛である。このような愛で結ばれた神と人間との関係は絶対に切り離すことができない。これをアダムとエバの立場からみると、彼らは結婚によって神の愛を占領したことになる。

男性と女性が一体となる場所に、神は永遠に共に住むようになる。その具体的実体としての場所が愛の器官である。従って男女が一体となるこの一点を決定しなければ、天国は出発できないし、永遠の愛と幸福もありえない。

神が共に住む場所は最も性なる場所であるために、安全なところに大切に保持されなければならない。その場所に相対できるのは神の代身としての配偶者のみであって、他の誰にも触れさせたり、見せたりしてはならない。

神は至聖所に住んで、そこから永遠なる神の愛の国を出発しようとした。しかし人間の堕落によってサタンがその場所に住むようになってしまった。サタンは愛の一番素晴らしい中心点を奪った存在である。 本来の住むところを失った神は旧約時代には幕屋や神殿に、新約時代にはキリスト教界などに住む場所を探すようになった。しかし神は外的神殿ではなく、内的な実体神殿としての人間自身の中に住みたいのである。

至聖所にはたった一人の祭司のみが入ることを許されていたように、配偶者以外に入ることのできない場所が愛の器官である。

夫婦の愛の器官はお互いが必要とする器官となっている。夫は妻の器官を通じなければ神に会うことができず、妻もまた同様である。

男女の関係において人間は絶対的に相手を必要とし、互いに愛さざるを得ない。そのような関係になるように神が創造されたのである。これはまさに驚くばかりの神の知恵である。 

c)神の完成

愛においては神といえども自分だけ完成できない。相対なしには愛は経験することもできないし、完成も不可能である。神の愛も対象との関係において完成し、神の子が完成するとき神も完成するのである。 愛の対象としての人間の価値、愛が成長する分だけ神も成長するのである。 

アダムとエバの結婚はそのまま神の結婚となる。そしてアダムとエバが夫婦の愛を完成し、子女を生んで父母となり、父母の愛を完成するときに、神もまた経験的に四大心情を完成し、神としての完成を成し遂げることができるのである。アダムとエバの結婚なしに神は完成することができないのである。我々は神の喜びのために夫婦の愛を完成させなければならない。そのために夫婦愛の芸術化を通して素晴らしい愛の世界を築き上げなければならないのである。

6、父母の愛の教本

母親が子女を産む時、死ぬような思いを通過するのは神がアダムとエバを創造する時に神御自身が全てを投入された基準を人間に相続させるためである。

父母は全てを投入した基準故に生まれた子女に対して父母の愛を感じることができるのである。生まれた子女は神が創造したアダム・エバと価値的には全く同じであるために、父母は子女を生むことによって神と同じ創造の業をしたことになる。 

父母の愛は自分以上に子女が素晴らしくなることを願う愛であり、愛しても愛してもまだ足りないと感じ、投入してまた投入しておきながら、さらに投入し、全てを忘れてしまう愛である。これが真の愛の基準である。父母の愛は子女が成長して結婚するときに完成し、そうなった時その父母を「真の父母」というのである。この時に4つの全ての愛、すなわち四大心情圏が最終的に完成する。神の人間に対する願い、創造目的は人間が真の父母になることである。従って真の父母という観念は天地創造の初めから神の構想理想の中にあったのである。

7、四大心情の定着点

三代祝福の観点からみれば、第一心情と第二心情の完成によって第一祝福が完成し、第三心情と第四心情の完成によって第二祝福が完成するようになる。

四大心情を完成したアダムとエバに対して、神は所有する一切を与えてそれでも足りないという立場に立つようになり、全被造世界の主管圏を人間に与えるようになる。このようにして四大心情を完成した人間は被造世界に対する所有権を神から相続するのである。これが第三祝福の内容である。

第一心情…子女の愛
第二心情…兄妹の愛 第一祝福→長子権
第三心情…夫婦の愛        ↓    ↓
第四心情…父母の愛  第二祝福→父母権
                                            ↓        ↓
                                        第三祝福→王 権 

8、四大心情圏の拡大

家庭における四大心情圏を世界的に拡大させることによって、世界的天国がなされる。心情の拡大には縦的なものと横的なものがある。

子女の愛は上向性の愛であって、その世界的拡大とは父母から祖父母へ進み、さらに霊界の先祖までも敬愛するようになること、さらに自分の父母を愛するように自分の父母のような人々を愛するようになる。

兄弟姉妹の心情の世界的拡大とは世界の多くの自分と年齢の近い人々を自分の兄弟姉妹のように愛するようになることである。

父母の愛は下向性の愛であって、その世界的拡大とは子女からさらに子孫への愛に至るようになることである。霊界の善の先祖が子孫に協助するのもこの愛の延長である。さらに自分よりも年下の人、あるいは立場上自分よりも下位にいる人々を子女と子孫を愛するように愛するようになることである。

第二節 三大王権と皇族圏

1、三大王権

神の創造理想は全ての愛を内包している父母の愛を完成し、万物主管を完成することである。父母の愛を完成した人間が真の父母である。従って四大心情の目的は真の父母になることである。神の構想理想の中に既に真の父母の基準があったが、人間は堕落することでその基準を失ってしまった。そのため復帰摂理の目的は真の父母を如何に復帰するかというその一点に向けられてきた。「真の父母宣布」とは御父母様がその基準を復帰したことを意味するものである。

長子権を完成することによって間接主管圏を越え(第一祝福)、夫婦の愛と父母の愛を完成することによって父母権を完成する(第二祝福)。その基盤の上に万物主管(第三祝福)を成就して、神と完全に一体となり、神と同じ立場に立つことによって王権を完成する。これが御父母様の成就された基準である。

長子権、父母権、王権の基準は天地創造の構想理想としてもともと神自体内にあったものである。神は無形であっても、長子権、父母権、王権をもった神であった。しかしその王権は無形の霊的王権であった。第一の王権は神の王権、無形の王権であり、過去を代表する祖父母の王権である。

次にアダムとエバが創造理想を完成することによって、第二の王権の立場に立つ。この王権は父母の王権であり、有形実体世界の王権であり、現在を代表する王権である。

子女は第三の王権の立場に立つ。無形・有形の両実体世界の王権であり、未来を代表する王権である。 現在の王権を完成する立場に立つアダムとエバは無形の王権者である神の愛しか体験できなかったのであるが、未来の王権者である子女は無形の王権者である無形の父母からの愛と共に、有形の王権者である実体の父母からの愛をもうけるので、無形・有形両面の王権を相続し、真の意味において初めて王権を完成することができる。従って子女の位置が王権の定着点(完成点)となるのである。

このようにして三つの王権が一つになった王権を三大王権という(三代王権でもよい)。ここに決定された王権は子孫代々にわたって受け継がれ、天の王権が永遠に続くようになる。これが本来の神の願いであった。

2、皇族圏

アダムとエバから生まれた子女は二人だけではなかった。王権の相続は直系以外の傍系子女に対しても行われなければならない。アダム家庭における王権は直系として縦的に相続されるだけでなく、横的にも相続され、拡大していくようになっていた。

そのようにして広がる直系と傍系の全てを合わせた全体を皇族圏という。皇族圏を時間的にも空間的にも無限に拡大することが神の願いであった。 

第三節 良心

1、良心とは

ここで言う良心とは「原理講論」で言う本心と同じである。心を静めて自己の内より自分自身に静かに語りかけてくる良心の声というものは絶対に誤ることがない。良心は「第二の神」である。神は全天宙に責任をもつ存在であるが、良心は自分自身に対して責任をもつ「神」である。良心は創造神に対しては第二の位置、すなわち相対の立場であるが、私にとっては絶対である。それ故我々はこの良心を絶対視しなければならない。

2、良心についての三つの命題

a)良心は両親に優る

良心は常に自分と共にあって、絶対に誤ることがない。

b)良心は先生に優る

良心は教えられなくても自分に関する限り全てを知り、誤ることなく正しく導くことができる。

c)良心は神に優る

良心は神と同じ性質をもつものであるが、神自身ではなく、第二の神として神の対象の立場に立っている。それ自体自由と責任をもち、その分野においては神も敬意を払い干渉しない。それ故に良心は我々自身のことについては神よりもよく知り、しかも神よりも先に知るのである。

アダムの堕落の時、神は「何故隠れているのか。」とその良心に尋ねたのである。良心は内在の神であり、我々はこの良心に祈ることができる。良心はそのままその奥に根として生きておられる神に通じる。

3、良心は何故傷ついているのか

堕落人間は良心の声に従って生きたいと思いながら、そうすることができなかった。それに対して、良心は絶対に妥協しないのである。悪の勢力が強いときには良心は血みどろになり傷だらけになってきた。

良心も成長し、人間が直接主管圏に入って、神の愛と一体となれば、その良心はもはや傷つくことはない。未完成期におけるアダムとエバの堕落によって良心の悲劇が起こった。その時の良心の基準は長成期完成級の基準であった。

良心は神の相対であるために、サタンは相対することができない。サタンの基盤は肉身の欲望である。良心は理に対応し、肉の欲望は情に対応する。情の力が理の力より強いために、良心の力よりも欲望の力、すなわち狂った愛が強く作用して良心が傷ついた。

良心が肉の欲望の前に破れ、原理的な良心が非原理の愛の前に破れたのが堕落であった。このことによって人間の良心は傷ついてしまったのである。

4、良心の解放

堕落は非原理の愛が良心の力を主管したことであった。従ってそれを解放するためには非原理的愛の力以上の原理的愛の力がなければならない。これが真の愛である。

良心の強化 良心の願いが何かをはっきり表現しているみ言を知り、祈祷を深化させていく中で良心の声を聞き、み言を実践することで良心の力は最大となる。

肉身の欲望の否定 良心の力と理性で肉身の欲望を主管する

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