私の町では日系人とブラジル人がうまく共存しているように感じます。
日系人は移住当時から主に農業の分野でこの町に貢献しました。現在では、
政治、商業、農業のあらゆる場面で町を先導しているといってもよいでしょう。
ブラジル人たちはそれをごく自然に受け止め、日系人たちも現地に沿うように
生活しています。
しかし、町の経済状態は年々悪化し、過去に困難な時期もありました。
土地柄ゆえに新しい商売を始めるには骨折りが多いことを知っている
日系人たちは、入管法改正をかわぎりに「出稼ぎ」という形でたちまち
日本に流れ始めました。
現在、日系の家族で日本に働きに行ったことがない家族を数えた方がはやい
くらいでしょう。
日本に行ける、ということはひとつのお祝い事のようです。
もちろん、家族が離れ離れに暮らさなければならない、その他いろいろの
問題は多い出稼ぎですが、「乾杯」という曲が流行っていた当時はそれを
歌って送り出したと聞きました。仕事があって、働ける、というお祝いです。
日系人の子弟で(もちろん人によりますが)ブラジルの学校を卒業せずに
日本へ働きに行く人が少なくありません。ブラジルの学校には日本の小学校
と中学校を合わせたものに当る「プリメイロ・グラウ」、その次に高校に当る
「セグンド・グラウ」というのがあります。さまざまな年齢の生徒が同じ学年で
学ぶことが普通であるここでは、休学して出稼ぎに行き、戻ったら復学する例も
珍しくありません。しかし、復学率は低いようです。
やはり、勉強よりも稼げるということに魅力を感じてしまった人達は復学せずに
(または復学してもまたすぐに休学して)再び日本を目指します。
私がある日系人から聞いた話です。
プリメイロ・グラウを途中で止めて日本に働きにいったある人が大金を得て
この地に戻ってきました。が、それをどう使っていいのかわからず、
土地を買う、労働者を雇う、など順次必要な段階をすっ飛ばして、突然大きな
農業用のトラックを購入しました。
大金を目の前にしていても使い方を知らない彼は、うまく周りの人間から騙され
巻き上げられ、結局文無しになり、トラックも売り、また日本に行きました。
しかし、何度やっても同じなのです。
働けばお金は出来る。しかしそれをどう使うか、学ぶべきところを欠いてしまって
いる彼らは、堂堂巡りを繰り返すのです。
これは、「教育」というものを受けることの意味を痛切に感じた一説でした。
この話をしてくれた日系人の方は、自分の子供には、
日本に行くことは勉強になるからいいけれど、日本人にばかにされないように
高校までは出てから行きなさい、と厳しく教育しています。