先日、生徒達と町のホームページを作るにあたり、あちこち歩いてきたんですが、そのなかでリンスにある墓地に行って来ました。その墓は釣りに行くときの通り道にありますが、いつか行ってみようと思いつつも今まで一度も足を踏み入れたことのない場所だったので期待しながら行ってみました。
墓地に入ったときの第一印象は普通のブラジル墓地です。この前にサン・パウロ市内の巨大なクリニカス霊園でブラジル式のお墓は知っていたので、大きなモニュメントのある墓などを見てもさほど驚きは感じませんでした。しかし歩いてみると、クリニカス霊園とは大きく違ったところがあります。それは「日本人の墓の多さ」です。見渡してみると「○○家之墓」「○○家累代之墓」などと書かれている墓石があちこちにあります。
もともとリンスという町は日本人が密林を開拓して作った町です。そしてここでコーヒーを育て、自作農としてブラジルの大地に根付くきっかけになったところで、いわば「日系人の故郷」のひとつでもあります。そのため移民当初は各地で契約農民をしていた移民者達が年季が終わると大挙しておしかけ、リンスを含めたノロエステ線周辺には一大日系コロニアが誕生しました。当時はリンス市内だけでも20校近くの日本語学校があり、町中に日本人があふれていたそうです。という話を本で読んだりしていましたが、今、市内を歩いてみても普通のブラジルの町と同じでそれほど日本人が多いとは感じません。「本当にそうだったのかなぁ」と思ってしまいます。しかし墓地に来て、その頃の日系人全盛のころが分かりました。これだけ多くの人達がリンスの地に眠っているんですね。全部の墓のうち、半分近くが日系人だったと思います。
その墓の様子も日本とは少し違いました。日本だと表に家名があり、後ろに納められている人達に名前があります。こちらの墓もそれは同じです。ただ、これに加えてこちらの墓に多いのは「移民年、及び出身地」の記述です。「大正○○年、○○丸渡伯」とか「○○県○○町字○○」とか書いてあります。移民当初は出稼ぎ気分の人達が多く、「いつかは錦の御旗を立てて日本に・・・」と思いながらブラジルの土になった人が多いんですが、そんな移民達が子孫に残したメッセージのように感じました。「自分たちがどこから来た何者であるか、決して忘れるんじゃないぞ!」という叫び声が聞こえてくるようです。
実際、お墓には生徒と行ったんですが、その生徒も自分の先祖がいつ、日本のどこから来たか知りませんでした。そこでその生徒のお墓に行ってみると「大正三年渡伯、福島県○○村」と書いてあり、そのあたりのことを説明してあげると興味深げに聞いていました。後日聞いた話によると、家に帰った後、自分の先祖の話を親に聞いたそうで、親からも「自分が子供の頃に育ったコロニアの話や、日本から移民してきた自分のおじいちゃんの話をしてあげたんですよ」と教えてもらいました。
遙か西方にある故国に向かって墓石がならんでいるというハワイ移民の墓地まではいきませんが、今後ブラジル社会を担っていく日系人達の大事な大事な出発点になっているんだなぁと強く感じた墓地訪問でした。