10月2日 土曜日
ブラジルに来て一番と思うほどの暑さの中を前夜出発したクリチーバ行きバスはサン・パウロとパラナの州境をこえたあたりからどんよりと曇りいつの間にか雨になってしまいました。月も星も見えず、町の灯りもない真っ暗な道を進んでいくと時折雷に染められてあたり一面があかるくなります。そのたびに見える景色が違っていると感動もあるんでしょうが、毎回同じような牧草地の景色ばかりなので旅情もなにもありません。
早朝のクリチーバについた感想は「寒いっす。」前日までの灼熱のブラジルとはうってかわって冷たい雨が降っています。乗り換えのバスまで半日時間があるのでクリチーバ観光に行きましたが、前回ここを訪れたときも雨交じりの天気で寒かった覚えがあります。とはいえこの町は真夏の燦々とした太陽よりもどんよりした空の方が似合います。それもこの町がどことなくヨーロッパの匂いを漂わせているからでしょうか。
降ったりやんだりの天気ですが、昼前になるとやはり活気が出てきます。そのなかでも一番活気があったのはロッテリア、といってもハンバーガーショップではなく「宝くじ屋」のことです。このところブラジル全体で話題になっているのがメガセナ。全国規模の宝くじです。1から99までの番号の中から好きな数字を6つ選び、それが見事に的中すると賞金がもらえるという仕組みです。計算してみると分かりますがこれがまた天文学的に低い確率なのでなかなかあたりません。誰もあたる人がいないとその賞金が次回に繰り越しになります。それがたまりにたまってこの日の段階では四千三百万ヘアル、日本円になおしてだいたい24億円ぐらいです。抽選が土曜の夜に行われるので昼間には各ロッテリアに長蛇の列です。結局この日もあたらず、次回の賞金はなんと六千万ヘアル(36億円)ということになりました。結果的にはこの次の州にバイーアの誰かが獲得したみたいですがこの治安の悪いブラジルでそんな大金を持ってしまった人の不幸(もう不幸としか言えないと思います)を考えると気の毒です。
その他ガイドブックでは有名な「24時間通り」にも行ってみましたが、相変わらず閑散としておりこの町の景気は悪いのかなぁと思わせてくれました。
そして昼1時の便でサンタ・カタリーナはカッサドールに出発。今回の旅の第一目的地はこのカッサドールです。当初、僕はカッサドールの日本語学校で日本語を教える予定でしたが生徒数の減少で学校が廃校になり急遽いまの町に来ることになったんです。そんな因縁もあり、一度は行ってみたいと思ってましたが、今日やっと行くことになりました。
雨の中進むバスの景色もサン・パウロやそれよりも北の方の景色とはだいぶん違います。ひとことで言って「日本的」です。うねうねと続く山々の間を縫うように道は続いていきます。その両側に広がる畑はたくさんの水を吸っていて生き生きとしています。ただ、生えている木々がパラナ松というところがちがいますが、日本の山中のひなびた村をバスで通るときの景色に不思議と似ています。このパラナ松はパラナ州以南に特徴的な松で、形が変わっています。口で説明すると難しいんですが、ちょうど英語の「T」の字のように上のほうに枝がたくさん生えていて、下の方には枝がほとんどないというような松です。
そのうち日も暮れていき、目的地カッサドールのホドビアリアに到着。一度はこの町に来ることになっていたので、他の町についたときとはなにか違う感じです。「あ〜〜、ついにカッサドールに着いたぞ!」という気持ちです。ブラジルで生まれた日系人が小さい頃から話しに聞いていた父祖の国・日本に着いたときの気持ちと似ているのんでしょうか。そんな感慨にひたった後の印象は「寒い!」です。昨日サン・パウロを出たときは暑くて暑くて短パンTシャツで汗をかきながらバスに乗ったんですが、こっちはもう真冬の寒さ。何でも天気予報では「雪」のようです。まだ雪にはなっていませんでしたが凍るように冷たい雨と、目の前に高くそびえる教会の灯りがしっとりとしながらも重苦しい雰囲気を醸し出していました。 今回、カッサドールには出迎えが来ています。カッサドールの文協と交流が深いクリチバーノスの文協の人です。彼女とは日本の研修所で知り合い、その時は「一緒にカラオケ大会とかやるのでこれからもよろしく。」と言っていましたが、結局会うのは半年後になってしまいました。
再開を祝した後、今晩はカッサドールの文協で飲み会があるのでそれに顔を出すべく出発しました。カッサドールの町を出た後、ガタガタの山道をカッサドールの移住地にむけて進んでいきます。なかなか険しい山道で「う〜ん、ここにいたらこの道を通うことになったのか。」とまたまた感慨に耽ります。当時の話では町に住んでそこから通うことになっていました。通り過ぎる車もなにもない山の中を進んでいくとポツポツと人家の灯りが見えてきました。これがカッサドール移住地です。戦後移住の人達が切り開いた移住地でニンニク栽培で有名です。
点在する家々の間にあるのが会館で、みんなそこに集まっています。「お〜寒い」を連発しながら車から降り、扉を開けたときに感じたこと。それは田舎の公民館です。日本の公民館で冬場に集まると、みんなストーブのまわりに集まりながら話していますよね。そんな雰囲気です。地元の日系人団体のフェスタに行っても、確かに日本人が多いんですがなんとなく日本的ではない、別のもの(ブラジル的でもありませんが)を感じましたがここでは日本と全く同じものを感じました。
その大きな理由のひとつはみんな日本語を話していたということかもしれません。僕の町のフェスタでは僕相手には日本語をしゃべってくれる人が多いんですが(もちろんしゃべれる人)、デフォルトの会話はポルトガル語です。でもここではあちこちのテーブルで日本語の会話が聞こえ、久しぶりに「隣の人の会話まで聞こえちゃう」という日本の居酒屋的な空間に入った気がしました。
僕もそのテーブルのひとつについたんですが、そのテーブルは50代すぎの一世のおじさん達のテーブルでした。パッと見た目、大学紛争時代の人達のようなちょっと脂ぎった長髪にセーターといった出で立ちで「そっち系のひとかな。」という印象。話してみると、果たしてほとんどの人がこちらに来て30年ちょっとぐらいの人で、まさに大学紛争の頃に青春をすごしていた人達。さらに聞いてみると確かに「その時期に日本が嫌になって出てきた」という人もいます。そういった人達の話は純粋ですね。日本の全共闘世代の人達と話してみると「そうはいってもねぇ、実際の生活も大事だし。」ということになりがちですが、それに「No!」を唱えてブラジルにやって来た人達だけあって気持ちいいぐらいまっすぐな人達です。
彼らといろんな話をしましたが、「青年らしい主張を持ってフロンティアに飛び出していった」彼らの気持ちがというものが、今時の僕達のような海外放浪の旅に出て行っちゃうような青年の気持ちとオーバーラップし、すごく親近感が持てました。そんな彼らの移民スタイルも他の日系人町とはちょっと違いました。他の町では家族で移民してきた人が多いんですが、ここの人達は若い頃に単身で渡ってきた人が多いです。このあたりも単身で世界に飛び出す今時の若者との共通点を感じさせます。話の内容でも日本やブラジルや世界の政治や経済のことが多く、しかもよく知っています。僕なんかでもよく分からない最近の日本の政界の動きのこともよく知っていて、「話が合う」という感じを強く持ちました。
久しぶりに面白い話をすることができ、いくらでも話していたいんですが、そろそろ帰らないと行けません。後ろ髪を引かれる思いで帰りましたが、「この町にはもういちど来なければならない。」と思わせてくれる町でした。
10月3日 日曜日
今日は友人の住むクリチバーノスの町です。といっても全く観光地ではないのでなにも見るところはありません。雨上がりで気持ちのいい青空の下、ちょっと冷たい風に吹かれながら高台の教会に行ってみると、なだらかな起伏が続き、その上にへばりつくように広がる平屋の家々とその間の広い道路、その先に見え、遠く彼方まで野原が広がっています。それを見ていると、なんとなく「健やかなフロンティア」とでもいうのか、あっけらかんとしてすがすがしい気持ちになります。もしかしたら昨日の楽しいお酒の影響もあったのかもしれません。
昼頃になると、友人の家族が来てシュハスコをやってくれましたが、友人の兄もかっこいいです。けっこう大きな子供がいるんですが、ロンゲで革ジャンに黒いサングラスで颯爽と登場です。そして職業は「農業!」。もちろん乗り付ける車は戦車のように強力そうなカミヨネッチ。これが本当のかっこよさかなと思います。目尻にある人の良さそうな笑いジワもいい味だしてます。
やって来る子供達がみんな日本語が分かるのもすごいです。今となって僕の町ではあり得ないことですが、きっと40年、50年前だったこういった光景が普通だったんでしょう。そう思うと50年前にタイムスリップしたような気持ちになります。
さてさてシュハスコも終わると友人が育ったラーモス移住地訪問。ラーモス移住地とカッサドール移住地は姉妹移住地(?)のようなもので、お互いによく行き来していて、昨日のカッサドールにも何人のラーモスの人達が来ていました。ラーモス移住地はクリチバーノスからダートロードを延々24kmほど行ったところにあります。友人と話しながらの移動でしたが、昔は各家庭に一台のように車が普及してなかったので町まで出るのが大変だったみたいです。
移住地に入ると、すぐにあるのが「カイカン」、日系人会の建物です。その敷地に入ってみるとそこは日本でした。ちょうどゲートボールをやっていたんですが、気のよさそうなおじさん、おばさんが日本語でにぎやかにしゃべりながらやっています。これなんか日曜日の昼下がりに日本の田舎によくある光景ですね。誘われるままに1ゲーム参加してみたんですが、熟練の方々によってあっというまにやられちゃいました。ブラジルのゲートボールのレベルも高いです。
そしてラーモス移住地の世話役のおじさんの家に到着。もう日本慣れしてしまった僕の目には普通にうつりましたが、おじさんの家も純日本風。とはいえ建材はブラジルのものを使っているのでややブラジル風ですが、家のまわりのつくりが日本の農家そっくりです。庭には池が掘ってあり、コイが泳いでいます。そのまわりにはきれいに剪定された盆栽がならび、庭の一角には竹林などが配してあります。今まで見てきたブラジルの庭は、やはり西洋風でヴェルサイユ宮殿式に定規で測ったようなものが多かったんですが、そういったものとは違う不規則な庭の配置に日本の姿を見る思いです。それに家の中、食堂などはブラジル式に土足で上がるようになってますが、家の一室が和室になっていて畳がしいてあるんです。そういえば、今まで日系人の家をいろいろと見てきましたが、畳の部屋を見たのは初めてですね。
久しぶりに和風の家でくつろいでいると、奥さんがお茶と茶菓子を出してくれますが、これらは全部手作り。大福に回転焼きと純日本風なお菓子もあんこから何からすべて手作りです。何か買おうにも一番近い町まで20km近くあり、日本食材屋もないので味噌から醤油から豆腐からすべて手作りだそうです。今時の日本よりも色濃く日本の伝統が残っています。日本の伝統と言えば、五右衛門風呂。一日動いて汗をかいただろうから風呂にでも入りなさいと案内されたのが今は懐かしき五右衛門風呂でした。風呂場の裏ではおばさんが薪を炊いてくれるんですが、五右衛門風呂なんて子供の頃に祖父の家で入ったきり、二十年ぶりぐらいです。でもさすが五右衛門風呂、よく言われるように「お湯がやわらかい」ですね。サンタ・カタリーナの冷たい空気で冷やされた体にはとても心地よいものでした。
日本で風呂の後といえば晩御飯(僕だけ?)。出てくる料理は日本の山奥の小さな民宿で出てくるような心づくしの素朴な料理。日本の食材や調味料が全く手に入らないなか、苦心して作り上げた料理です。もう何もいうことはありません、日本情緒を心まで味わうだけでした。
こうしてサンタ・カタリーナ旅行第一弾として日系人コロニアを訪ねてみましたが、歴史の古いサン・パウロ北西部のコロニアとはひと味違った世界がありました。右に左に振り回されることの多いブラジル社会のなかで、かたくなに日本を守り続ける人達がいるということですね。