2月1日 火曜日
午前中は自転車を借りて上の町を見てまわることにします。町のはずれのほうに向かって50mほど行くと、目の前にドーンと広いアスファルトが広がっています。これが空港。土地を開いてアスファルトを敷いただけのアマゾン空港。滑走路も平らじゃなくて、端っこの方が盛り上って山になっていて、山の向こうに続く滑走路が見えません。世界広しといえども滑走路が平らじゃない空港なんてないですよ。この空港の着陸は、いにしえの香港・啓徳空港の「香港カーブ」よりも難しい技術に違いありません。幸いなことに国際線が来ていないので問題になりませんが、いつの日かこの町に国際線がくることにはパイロットの間で「アマゾンマウンテン」として語り継がれることになるんでしょうね。
滑走路に沿ってキコキコこいで行くと、町の一番外れにきました。僕の後ろには家々が並んでいますが、これから先はどこへ行くのか分からない土の一本道が続き、両側にポツポツと建物があるだけ。それでも止まることができないままに先へ先へと進んでいくと右側にきれいなプールが見えます。入り口には「ブラジル銀行保養所」と書いてあります。入り口が空いていたので入ってみると中には涼しげなプールがふたつあり、売店もあるなかなか立派な保養施設です。
何よりも驚いたのはこれが「ブラジル銀行」の保養所だってこと。ブラジル銀行はブラジル最大の銀行でサン・パウロの僕の町にもあります。この他、旅先各地でも見かけます。だからモンテに保養所があるのも不思議はないんですが、やはりブラジル辺境のこの地にまでブラジル銀行があることに感銘を受けました。日本で言うと山奥のさらに山奥の村に郵便局を見つけた時のような気分です。日本の旅行ファンの中には郵便局に口座をつくり、旅先で郵便局を見つけるたびに100円ずつ預金して、各地の郵便局名を記帳する人がいると聞きました。ブラジル銀行でもできそうだなぁと思いましたが、こっちの銀行には通帳がないんだった…
また、保養所内にはベルテーハ( Belterra )で松田さんに聞かせてもらったマラッカがありました。これはバナナの屋根の集会所みたいなもので、壁はなく、柱と屋根だけの建物です。週末の夜になると、ここに若者があつまって音楽に合わせて踊るそうです。他に楽しみがないので、一番中踊りつづけるだけだとか。踊りが好きではない僕としてはそんな退屈なことやってらんない!と思いますが、みんな最高におめかしして集まって、一晩の快楽に酔いしれるんだそうです。他に娯楽がないんだから仕方がありませんが、日本の娯楽を知っている僕としては複雑な思いです。
このあたりでいったん戻ることにします。またキコキコこぎながら空港へ近づくと、なんと空港に飛行機がやって来ます。友人の話だと現在改修中とのことだったのでびっくりして行ってみます。到着した空港正面を見てまたびっくり。建物には「モンテアレグレ空港」と書かれているんですが、なんとも小さい。管制塔もなければ窓もない建物で、日本だったら学校のプールの更衣室としか思えないような建物。中に入ってみても登場ゲートもなければ出発ゲートもありません。滑走路の入り口ももちろん24時間365日開きっぱなしの大サービスです(たんにドアもないという話)。
滑走路に出ても文句を言ってくる空港職員なんていません。その滑走路にはセスナがポツンと止まってます。何しに来たのかな?と思っていると、自動車がセスナに接近し、車の中から点滴をぶら下げた人が出てきました。急患の搬送のようですね。急いで患者を乗せるとすぐにエンジン始動。滑走路の端まで移動しますが、滑走路の端は山の向こうになるのでやがて飛行機は見えなくなります。遠くでエンジン音がひときわ大きく響き、山の向こうからやってきて傾斜した滑走路を下りながら飛んでいってしまいました。しかしなんで滑走路に山があるんでしょうね。
珍客を見送るともうそろそろ帰らないといけません。午後から授業です。今日はモンテの日本語学校の授業のお手伝いをするんです。といっても今日は日本語の授業はありません。この日曜日に開催される運動会の飾り付けの準備。万国旗をつくります。
「アマゾンの日本語学校」なんて書くと先入観が入って申し訳ないんですが、普通の日本語学校と同じです。黒板に机。教室の周りには生徒の工作が並んでいて、いかにも学校という雰囲気。ただひとつ違うのは窓。窓がありません。もともと車庫だった建物なのでフルオープンといったところですが、暑いアマゾンではこれぐらいがちょうどいい。吹きぬける風が心地よいアマゾンの学校です。
授業が始まる頃になると子供たちが「こんにちは!」と元気にやって来るのはどこでも同じですね。ここの学校の先生ではないのに「さ、今日も頑張らないと!」と気持ちが引き締まる瞬間です。やって来る子供たちを見ていると、サン・パウロ( Sao Paulo )の我が町と違って混血児が多い。こちらは日系人人口がサン・パウロに較べると各段に少ないので、現地の非日系人と結婚することが多いんでしょうか。顔は違っていますが、子供の無邪気なところは同じ。とくにブラジルの子供は人見知りしないので初めて見る僕に対しても親しげに話しかけてきます。話しかけられて驚いたのは日本語ができる生徒が多いということ。日本語学校なら当たり前だろ!と思うかもしれませんが、我が町のように三世や四世の子供が多くなってくると日本語で会話できる生徒もだいぶん少なくなっています。その点、ここは移民の歴史が浅く、まだ二世の生徒なども残っているので、そのぶん日本語力が高いようです。生徒の顔を見ると、我が町の方が日本的ですが、そういったところはこっちのほうが日本的ですね。
子供たちはとても元気。うちの生徒も相当元気だと思っていましたが、それに輪をかけて元気です。日本のように塾などで忙しくてゲッソリしている生徒はいなくて、みんな「私の仕事は遊び!当たり前やん!」って顔です。見ていて気持ちがいいですね。なにをやるにも一生懸命です。たくさんの万国旗を作らないといけなかったんですが、子供たちもよく手伝ってくれ、無事に終了することができました。
授業のあとはたってのお願いで、めぐみちゃん、いずみちゃんに「モンテで一番おいしいタカカ屋」に連れていってもらいました。夕方になるとあちこちに出現するタカカ屋ですが、店によって味が違い、みんなごひいきのタカカ屋があるみたい。このあたりは我が町のカショーホ・ケンチ(ホットドッグ)屋事情に似ていますね。この二人が知っているタカカ屋はおいしいと聞いていたのでぜひとも行ってみたかったんです。
案内してもらったのは空港の近くでやっているおばちゃんのお店。客は僕達だけでしたが味はなかなか。サンタレンで食べたタカカはちょっと僕には塩辛かったんですが、ここは塩分控えめでより日本人好みの味でした。さすが地元民、おいしいところを知っています。
2月5日 土曜日
今日は午後から運動会の準備になっていますが、午前中はこれといった用事もなく、この上なく暇でした。ゴロゴロしているのも悪いので、昨日乗ってみて調子の悪かった自転車でも修理して時間をつぶします。倉庫の中での作業は蒸し暑さも手伝って汗だく。修理が終わったあとの試運転の時は上半身裸で街中を乗り回してみます。日本ではもちろん考えられませんが、さすがにサン・パウロの我が町でも上半身裸で出歩くのには勇気がいります。その点、アマゾンはありがたいことに裸率が高いので恥ずかしさも半減。こんな暑い時には素直に裸になったほうがいいですよね。
自転車の調子も良くなったので、下の町に行ってみます。上の町が住宅地区だとすると、下の町は商店が建ち並ぶ商業地区です。モンテは風の町で上の町にいると心地よい風が吹き抜けて気持ちがいいんですが、下の町に移動すると風が通りぬけないというだけで体感気温がグーンとあがります。また、町の熱気も上の町よりも高く、なおさら暑さを感じてしまいます。町は大通りがTの字型に走り、縦棒を下っていった先に上の町があります。今その縦棒を上に向かって進んでいるんですが、石畳の坂道の両側には商店が連なり大勢の人達が買い物にいそしんでいます。昼間になるとあまりの暑さのために活動停止になるのでまだ涼しい午前中に動こうというわけですね。
店をのぞいてみるとサン・パウロとは違います。どことなくたそがれているといったら失礼でしょうか。照明も薄暗く、うずたかく積まれた在庫の山の中で店主がのんびりと座っています。流れ流れるアマゾン川とは対照的に停滞ムードがだだよっています。対岸のサンタレンの方が活気があったような気がして、ベルテーハの青年・松田さんの言葉が頭に浮かびます。
「オレもモンテに三年いたから分かるけど、アマゾンの北と南では全然違うんだ。ここ、サンタレン( Santarem )は南部と道がつながっているから品物を送る時でもトラックで送れるけど、モンテだったらどうしても船を使わないといけない。するとコストもかかるし時間もかかる。これじゃあ商売にはならないよ。だからオレはモンテじゃなくて、サンタレンにしたんだ。」
この言葉が実感として感じられるモンテの町です。
商店街を下っていくと埠頭にたどり着きます。ここから商店街は左右に広がっていき、まさにここがモンテの町の中心地です。港にはちょうど船が到着したようで、港の前の広場には客待ちのタクシーが集まり、活気があります。遠くの町から待ちに待った人や品物が到着するこの瞬間は、まるで水泳の時の息継ぎようで、町全体にエネルギーが行き渡るのが分かります。
埠頭のあたりをうろうろ歩いていたら、河原のメルカードにたどり着きました。きれいな砂浜の上にお世辞にも立派とは言えない店が並んでいますが、ここが町で一番活気がありました。もう時間も遅かったので閉まっているところも多かったんですが、店の前には活きのいい魚がならび、目の肥えたお客さんが慎重に選んでいます。浜辺には魚を積んだ船があらたにやってきては店先にとれたての魚を補充していきます。それはこれまでずっと続いてきた生活で、これからもずっと続いていくのでしょう。さっきまではこの町は停滞しているなんて先進国的な価値観で見ていましたが、もしかしたらそういった価値観とは違うところで生きている町なのかもしれませんね。
しかしこの町から逃げ出す人が多いのも事実。特に日系人の間では若いうちから出稼ぎに出てしまい、戻ってこない、もしくは戻ってきても社会復帰できないという問題もあるようです。
このあたりで下の町をあとにして上の町まで帰りますが、延々と続く坂にとうとうギブアップ。自転車を降りて、歩いてしまいました。昔だったらこれぐらいの坂は気合で乗りきったもんだ!と思うと一抹の寂しさがありますが、これは自転車が悪かったということにしておきましょう。
日もかげってきて外で働きやすくなった3時ごろ運動会の準備のため会館に移動します。会館は昨日訪れたブラジル銀行の保養所の近くにあり、もう大勢の人が準備を始めていました。会館とそれに隣接するマラッカでは明日の食事を提供する予定なのか、机を並べたりビールを冷やしたりと準備に余念がありません。見てみるとマラッカの下には巨大なスピーカーが置かれていて、いや〜な予感。この前のアマゾン船のときのように大音量で音楽をかけられるんでしょうか。
僕の担当は運動場の整備。1年間ほったらかしだったようで、雑草が伸び放題に伸びていて、「明日の運動会に間に合うんかい!」と思ってしまいます。草刈班と焼却班に分かれて作業開始。僕は焼却班として刈られた草を運動場の端っこに集め燃やしていきます。ここ数日旅行三昧で各地でお客さん気分だっただけに久しぶりの仕事が心地いいですね。とくに肉体労働は何も考えることなく没頭できるので、汗だくになりながら楽しんでいました。
疲れた体を休めるために、ホッと一息ついて顔を上げてみると、運動場のまわりにはどこまでもつづく緑の森。緑の森に囲まれてぽっかりとここだけ開けている感じです。こんなのん気な気分ではないと思いますが、開拓者達が畑のまわりに広がる樹海を見たときもこのような景色だったんでしょうか。僕が見るかぎり万能に見える森ですが、開発のためにモンテでも年々減少しているのは事実。そのうち万能の森から手痛いしっぺ返しを受けないかどうか心配になります。
黙々と作業を続け、夕方になる頃には運動場の雑草もあらかた片付けられひと安心。また、運動場の一角にある屋根付の観覧席には昨日生徒たちと作った万国旗も飾られ、日本ほど豪華ではありませんが運動会らしい飾り付けです。もう運動場で手伝うこともないので会館に戻ると、こちらも準備完了といったところで売店もできあがっています。全身泥まみれになってしまったので水道で顔や体をひと洗いしていると、和夫さんから「お疲れ様、一杯やりましょう」というありがたい一言。売店で冷やしておいたビールです。ビールを冷やすことにかけては並々ならぬ熱意を見せるアマゾンだけにここでもビールはギンギンに冷えていて、大汗をかいた体の隅々にまで染み込んでいきます。やはり山登りでも仕事でもなんでもいいんですが、一汗かいた後の一杯は格別ですね。
まだ細かい準備などは残っていますが、大きいところは片付けてしまったので、僕達は一足早めにご帰還。今晩は東夫(はるお)さんのところで晩御飯です。東夫さんは日本語学校の校長もしている人で、日本語学校の将来や日系社会のことなどについてビールを飲みながら話しますが、モンテもリンスも学校のことになると同じ問題を抱えていることが分かりました。減っていく生徒、子供たちの日本語離れ、ブラジル人生徒の増加(これは問題じゃないんですけどね)、どこへいっても先行きがあやしい日系社会です。
2月6日 日曜日
今日は待ちに待った運動会。モンテの日系社会最大の行事です。会場に来ると、早くも大勢の人が待っています。上位入賞者には商品がでるので、日系人だけでなく地元のブラジル人もたくさん参加するようです。賞品は石鹸や洗剤、油などといった日用品で、そのあたりは我が町の運動会と同じでホッとしました。内心ピラーニャとかアカリとかを期待していたんですけどね。
また、今日はこの日のためにわざわざサンタレンから日系人会の人達が船をしたててやってきています。サンタレンからモンテの運動会に団体で参加するのは初めてとのことでこれが今後の両日系人会の交流のきっかけになればいいんですが、お互い初めての経験なだけにおっかなびっくりといった顔です。そしてサンタレンからやってきた顔ぶれの中には先日までお世話になっていた友人の顔も見え、数日ぶりの再開を楽しみました。
まず最初の行事はラジオ体操。これは世界共通の日本文化ですね。おっとその前に会長が出てきて表彰がありました。モンテに長く暮らし、日系社会の発展に尽くした人達にたいして国際協力事業団から褒賞が贈られたようで、その伝達式です。戦前にも移住者がいたそうですが、ほとんど全員四散してしまったという話も聞くぐらいなので、何十年もこの町で移民として暮らすのは並大抵の苦労ではなかったと思います。この町の日系人と話していると、その頃の苦労を実体験として知っている人が多く、移民生活をナマの話として聞くことができます。我が町は移民の歴史が80年を越え、移民当時の生活を知っている人が少ないだけに、貴重な体験です。
表彰が終わったら、今度こそラジオ体操。参加者全員が運動場に集まって、体を動かします。もちろんおなじみの音楽でちゃんとラジオ体操第二まであります。こんなアマゾンの空の下でラジオ体操をやっていることを知ったら、ラジオ体操協会(あるのかな?)が喜びそうですね。そっちのほうも表彰してもらいたいものです。
それが終わると、競技開始です。すると大きな声でアナウンサーががなりはじめました。このアナウンサーは特別に雇ったらしく、車の上にスピーカーを取りつけた街宣車を運動場まで持ってきてまくし立てていきます。ブラジル人ってビンゴやフェスタなどのイベントの時になるとテレビのアナウンサー顔負けの司会者が出てきてベラベラとしゃべりつづけます。それこそ休みなしのマシンガントークで、日本の人達が南米のサッカー中継に対して抱いているイメージそのものの巻き舌の嵐です。モンテの日系人たちも本当はこれがイヤみたいですが、町の行事としての役割もあるため、ブラジル人うけを狙ってやっているそうです。しかしうるさい。運動会ごときでよくそれだけしゃべれるもんだ。
では各競技ごとに簡単な感想など。
●徒競走
運動会の定番ですね。子供から青年まで参加します。一応100m競争とか50m競争とかかかれていますが、測ったわけではないので適当です。別に記録うんぬんなんて言う人はいないので問題ないんでしょう。走っている人をみると裸足がおおいですね。地面が砂っぽくて柔らかいこともあるんですが、僕の偏見に満ちた目には「やっぱアマゾンだぁ!」と見えてしまいます。
●障害物競走
子供たちの障害物競走。途中で麻袋に両足を突っ込んでピョンピョン飛ぶところがありますが、ある男の子はこれが上手にできず、結局完走できませんでした。すると何を思ったのかその子は運動場の真ん中まで走っていき、うずくまって泣き始めるではありませんか。かなりの負けず嫌いですね。親も子供のことは分かっているようで、しばらく一人で泣かせておき、ほとぼりが冷めたところで迎えに行ってました。
●うどん食い競争
パン食い競争ならぬうどん食い競争。舞台裏では台所係の人がうどんの準備に大忙し。長く置いておくとのびちゃうので最新の注意でタイミングを見計らっています。この台所係がこの大会で一番いい仕事をしていましたね。
●風船割り競争
その名の通り、風船を膨らませ、一番最初に割った人が勝ち抜けの競争。結構小心者の僕は風船が割れる時の音とか衝撃がいやなので、できなさそうな競技です。パ〜ンと割れる時、口のまわりが痛くないんでしょうか。
●ビール早飲み競争
これも分かりやすい競争。ドドド〜ッと途中まで走ってくるとそこにはビールの中瓶が置いてあります。それを飲み干した後、再びゴールまで走っていくというものです。単純なんですが、みんながまじめな顔をしてビールを飲む姿が面白いですね。日本の運動会でも父母の競技としてやってみたらいいなぁと思うんですが、教育的配慮か何かで潰されそうな気もします。父母と書きましたが、もちろんビール競争には女性も参加していましたよ。
●豆つかみ競争
これも定番ですね。さすがに一世がまだまだたくさんいる土地柄か、みんな箸使いが上手です。我が町みたいに日ごろ箸を使い慣れない日系人が一生懸命箸を使っている姿はあまりみかけません。もちろんこの町でもブラジル人達は箸に悪戦苦闘していて、それを眺めるのも楽しみのひとつでもあります。
このほかパン食い競争やムカデ競争など日本でもおなじみの競技が続きます。
ところで、この日は日本からのお客さんも来ました。今は治療のために日本にいるモンテの友人の友人の久保田さんが遊びに来たんです。マナウス( Manaus )やベレーン( Belem )ならいざ知らず、こんな町に来るとは物好きなもんだと思いますが、それは僕も同じですね。彼女は昼過ぎの船でモンテに到着し、そのまま運動会の会場へ直行。日本からはるばる地球の裏側、しかもアマゾンに来たら運動会をやってたなんて本人も驚いたんじゃないでしょうか。
はからずもこの運動会場には日本から来た若者が三人集まったことになるので(久保田さん、サンタレンの友人、僕)、一緒にお話をしたり、運動会をのんびり眺めたり楽しみました。僕も友人ももう長いことブラジルにいて、頭がブラジル化しているので日本から来たばかりの人の話を聞くのは新鮮でもあります。でもよく考えてみると、これってブラジルに来て何十年にもなる一世の人が僕達の話を聞いて新鮮に思うのと同じかもしれません。そう思うと、もっと積極的に一世とお話しないといけませんね。
やがて運動会も終わりに近づきます。会場のあちこちにテーブルを囲んでビールを酌み交わす人達がいて、みんな楽しい日曜日といった顔つきです。また、子供たちは自分がもらった賞品を見せ合いっこしながら遊んでいます。今思い返してみると、自分が子供の頃の運動会の賞品といえばノートと鉛筆というのが定番でしたが、それでもうれしかったですねぇ。この子供たちは大きくなっても今の喜びを忘れないでしょう。実際、子供に日本語を教えても全然成果が表れないことがあり、その時「自分は子供の将来のために種をまいているんだ!」と思うようにしていますが、それは本当なんだと思いました。
その後はサンタレンの人達のお別れ会があり、モンテやサンタレンの人達の話を聞かせてもらいます。今までブラジル各地の日系社会に出没し、いろんな人の話を聞きましたが、一口に日系社会といっても町によって全然事情が違いますね。移民90年になるサン・パウロ州奥地や、移民の歴史が浅いアマゾンやパラナ( Parana )、それに今も日本企業駐在員がたくさん住んでいるマナウスやリオ・デ・ジャネイロ( Rio de Janeiro )、それぞれの町の日系社会にはそれぞれの歴史があります。「日系社会」を一言で語るのは難しいですね。
2月7日 月曜日
昨日は一日中外にいたし、酒もたくさん飲んだので遅めの起床です。起きた後はモバイル君とともにこれまで撮った写真の整理などをしていると、下から声がかかります。行ってみるとアカリの刺し身ができていました。久保田さんも来ているし、僕も今晩の船で旅立つ予定なので最後の思い出にアカリを食べさせてくれるようです。和夫さんのやさしさに感謝しながらおいしいアカリを食べます。
僕はこれからマカパー( Macapa )へ、久保田さんは僕より後に出発してベレーンへ行く予定ですが、和夫さんの話によるとベレーンはかなり治安が悪いようです。和夫さんがベレーンまで船で下ったときも船内に泥棒が出没し、何人もの人が荷物を盗まれながらも結局犯人が分からなかったそうです。さらに夜のベレーンも危険だとか。それよりも怖かったのが出稼ぎ強盗の話。これは近年出稼ぎ達を震え上がらせている強盗で、日本からのお土産や電化製品をたくさん持って来た出稼ぎがサン・パウロの国際空港に到着し、車で町に出たところを追跡し、ひとけのないところで襲うという強盗です。出稼ぎ達も逃げる方法がなく、かなりの被害にあっているとか。そして和夫さんのお兄さんも出稼ぎ強盗にあったらしく、日本で稼いできたお金を一瞬のうちに奪われてしまったそうです。ブラジルの治安が悪いというのは何度も聞く話ですが、こうやって実際の話として聞くと強盗に対する強い憤りを感じますね。お兄さんが何年も苦労して働いた努力を拳銃一丁で簡単に奪ってしまうんですから。強盗には地獄に落ちてほしいです。
そんな怖いベレーンにこれから行かなきゃならない久保田さんはちょっとびびっている様子。すると和夫さんがすかさずベレーン在住の友人を紹介してあげていました。やっぱり面倒見のいい人です。
アカリのあとは久保田さんと一緒に散歩です。まずは上の町の高台にある眺めのいいところに行きますが、今日も空は薄曇り。天気のいい日にここからアマゾンの写真を撮ろうと思っていたんですが、この一週間ほとんど曇りでした。運が悪いというか雨季のアマゾンではしょうがないのかもしれません。あきらめて曇天のモンテの町を写真におさめ、坂の途中のジュース屋でまたまた一休み。今度は若い日本人どうしでお話です。ブラジルにも一世はたくさんいるんですが、やはり同世代の日本人と話す時のほうが話しやすいんですよね。そう思ってみると、ブラジルに来て以来、たまに会う同期以外でそういった話をしたことがないことに気づきました。するといろいろと話すことがあるもんで、延々と話は続きます。
二人は同じくらいの世代の日本人ですが、ちょっとした違いがあってモンテに対する印象が違っていることが分かりました。それは滞在期間。久保田さんはまだブラジルについたばかりで、僕はもうそろそろ8ヶ月になるあたり。ブラジル社会も一通り見たような気がします。そういった目でモンテを見ても驚くことも少なく、それほど新鮮な感動はありません。一方、久保田さんにとってのモンテはアマゾンの田舎町というだけあって驚くことも多いらしく、久保田さんの話を聞いていると自分が失ってしまった「ブラジルに対する新鮮な感動」を思い出します。
始めてブラジルに来た時、リベルダージのホテルに泊まったんですが、ホテルから100mほど離れたリベルダージ駅前の東洋市に行くだけでも緊張と興奮が入り混じって心臓がドキドキしてましたね。それに、日本で缶詰になって勉強させられたポルトガル語を実際の場面で話すということだけでも信じられない体験でした。しかし、今では「日本語で話すことの方が珍しこと」という状態に慣れてしまっていて、逆に毎日日本語だけで暮らしていた日本の生活が懐かしく思い出されるぐらいです。
おかげで旅行者には見えない(と思いこんでいる)ブラジルのいろいろなことが見えてきたし、逆に日本に住んでいる日本人には分からない(と思いこんでいる)日本のことも分かるようになりました。そう思うと今のブラジル暮らしも悪くないもんですね。
なんてことを話しているうちに夜になってしまうのはアマゾンの不思議なところ。早くもモンテで最後の晩餐となってしまいました。再び和夫さん一家に囲まれていつものように晩御飯を食べていますが、この光景がもう何十年と続いているような、と言ったら大げさかもしれませんが、少なくともここが自分の町であるかのような落ち着いた気分になっていたのは事実です。明日からモンテの日本語学校で授業を始めても何の疑問も持たないことでしょう。
しかし僕は今晩の船でこの町を出て、「帰らないと」いけません。自分の町みたいに感じているモンテを出てどこに帰るんだ?という疑問が頭の中をグルグルとまわります。でもサン・パウロには僕の帰るべき町があり、待っている人々がいるのも事実です。まるで自分の家を出て、自分の家に行くような気分です。そして、こんな気持ちは今まで経験したことのないことだっただけになんとも収まりが悪い。
結局無理をしてあっさりと別れを告げる自分がそこにいました。
和夫さんの車に乗せてもらって埠頭に行く時も、まるで週末の旅行に行ってくるような軽い気持ちを心がけ、埠頭で和夫さん一家と分かれるときも、近くの友人と「じゃ、また」と分かれる時のように何気なく分かれてしまいました。でも他にしょうがなかったんです。重く分かれてしまうと悲しくなってしまいます。
たった一週間の滞在でさえそうでした。すると来年の4月に日本に帰る時はどうなるんでしょう。二年間の熱い思い出が残るリンスの町。この二年間まさしく「自分の町」であったリンスの町から、「自分の国」の日本に戻るということ。帰るべきふるさとであったリンスからふるさとの日本に戻ると言うこと。リンスと日本がバスで一時間のところだったら「ふたつのふるさと」と思うことも出来るんですが、直行便でも24時間もかかるほど離れているだけに重いです。遠く離れた「二つの祖国」にはさまれている移民達の気持ちのほんの一部が初めて分かった瞬間でした。
真っ白な心の僕でしたが、埠頭についてみると激しい雨。車から荷物を下ろすと屋根の下に走りこみ、和夫さんたちに最後の別れを告げます。軽いクラクションを残して和夫さんたちが去ってしまった後、一人残された僕は再び旅人として歩き始めました。