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2000年2月 短期集中ベレーン観光



2月12日 土曜日

朝一番の飛行機でベレーン( Belem )に移動です。朝一番といっても4時半発なのでほとんど寝ることなく出発。昨日頼んでおいたタクシーで空港まで行きますが、ちゃんとメーターで走ってくれて、朝から何か気持ち良いですね。

空港もマカパーサイズ( Macapa )で州都とは思えない大きさ。飛行機ということで1時間前に到着しました誰もいません。客がいないどころかチェックインカウンターの空港職員さえいません。もしかして時間でも間違ったんでしょうか。ベレーンを午後3時発の飛行機に乗らないと帰れなくなっちゃうのでこれは困ります。あせってあちこち見てまわると、発着便ボードにはちゃんと4時半発の便がかかれていたので一安心。しかし1時間前になってもチェックインが始まらないとはなめていますね。

それからしばらくしてやっとチェックインが始まりましたが、窓口に並んだのは数人だけ。もしかしたら座席一列を占拠して横になれるかもしれません。まだやったことはありませんが、旅人なら一度はやってみたい極楽状態です。

と喜んでいたのも束の間、出発時刻の4時半ごろになると続々と搭乗客が集まってきます。チケットにも発着便ボードにも4時半って書いてあるのに、4時半に堂々とやって来るとはブラジルの客は一味違います。それにもまして遅れてきた客をさも当たり前のように受け付けるVARIGもすごいです。

結局客がほぼ全員集まってきたのは5時過ぎ。そして飛行機が飛び立ったのは5時半でした。ラテンアメリカでは「7時に来てね」と言われたら8時過ぎに行くことは常識になっていますが、時間にうるさいと思っていた飛行機の世界までもがこのラテンタイムに犯されていたとは…

気を取りなおして飛行機に乗り込みます。この便はマカパー発ベレーン行きのジェット機でベレーンまでの飛行時間は50分。マカパーはアマゾン河口の北岸に位置する町で、ベレーンは河口の南岸の町。つまりアマゾンを横断するだけなのに飛行時間は50分もかかります。恐るべき川幅です。よく世界の川の大きさを言い表すのに「対岸が見えないほど大きい川」という言葉をよく聞きますが、さすがアマゾン、そんなケチ臭い形容詞は使いません。「川を渡るのにジェット機で50分」です。ここを船で横断すると24時間はかかります。川を渡るのに船で24時間というのもアマゾンでしか聞けないダイナミックな表現です。

ちなみに河口のマカパーとベレーンの間にはマラジョー島という中州があるんですが、この中州の大きさは日本の九州に匹敵する大きさだそうです。島と言いたくなりますが、両側をアマゾン川に囲まれているのでやっぱり中州です。このあたりもスケールがかなりでかいです。

などという感動はそこそこに朝も早いので寝ているうちにベレーンに到着。朝もやの中に鈍く輝くアマゾンとベレーンの町の明かりが美しく浮かび上がります。飛行機で朝に到着すると「さあ、これから旅が始まるぞ!」的気分が盛り上ってくるから不思議です。


ベレーン

人口114万人。パラー州( Para )の州都にしてブラジル北部の経済の中心地。

ポルトガル人が最初にベレーンを訪れたのは1616年といわれています。その後すぐに欧米各国の侵入からアマゾン地域を守るためにカステロ要塞が築かれたのが町の始まりです。当時の航海技術ではベレーンからブラジルの首都サルバドール( Salvador )まで直接たどり着くのが困難だったため、1626年にはほかのブラジルから切り離され、ポルトガルからの長官が直接支配する植民地となり、この状態は1775年まで続きました。

当時のベレーンはジャングルから取れる香料や薬草をヨーロッパに輸出する豊かな町で、その後も奴隷の力を使って無尽蔵に広がるアマゾンの奥深くまでこれらの産物を捜し求めましたが、ヨーロッパから持ち込まれた病気でインジオが減少した18世紀になるとベレーンの繁栄にも陰りが見え、1820年から30年代にかけては激しい内乱が立て続けに発生しました。

その後のゴム景気とともに再び活気を取り戻したベレーンの町にはブラジル北東部から多くの人々がゴム農園労働者として流入し、人口も1875年の40万人から1900年の100万人まで急速に増加し、電気がともり、車や電話もある近代的な都市がアマゾンに誕生することになりました。


小さなマカパー空港から一転、ベレーンの空港は最新式の空港。建物が新しいだけじゃなくて、名のあるデザイナーの作品らしい芸術的な作りが美しさを際立たせています。これまでアマゾンをあちこち歩いてきましたが、この空港はアマゾン的世界とはかけ離れていてますね。

早速午後の便のチェックインを済ますと、半日の観光に出かけます。僕の旅行の場合、どの町にも数日は滞在するのが原則で、半日観光なんてはじめてのことです。限られた時間の中で時計を見ながら旅行をするなんて、なんかまっとうな日本人に戻ったみたいでちょっとワクワクしています。他の人の旅の話しを聞いていて「よく一日でそんなに観光できるもんだねェ」と感心していましたが、こうやって時間が限られてしまうと「たくさんまわるぞ!」と気合が入ってしまうから不思議です。

まだ朝も早いのでこの時間も空いているところを探してみたら、ナザレ聖堂がありました。さっそくここに行くことにしましょう。


ナザレ聖堂( Basilica de Nossa Senhora de Nazare )

1909年の建設されたローマ風聖堂。ローマのサン・パウロ教会をモデルにしていて、建築材料はすべてヨーロッパから取り寄せています。

この教会はその名の通り、ナザレ女神を祭っている聖堂ですが、もともとこの女神像はイスラエル北部のガリラヤのナザレスで作られたと言われています。その後、ヨーロッパの様々な王朝の手を経て最後はスペインの西ゴート王国にまで運ばれますが、8世紀のイスラム勢力の侵入とともに女神像は失われてしまいます。

400年後、羊飼いによって発見された女神像は数々の奇跡を起こして信仰を集め、17世紀になるとイエズス会宣教師の手によってブラジル、パラー州のヴィジア( Vigia )という町に移されました。その後ベレーンに移す際に女神像はジャングルの中で失われ、またもや歴史の中に消えてしまうのです。

1700年の10月1日、牛飼いのパラシド( Palacido )によって再び発見された女神像はまたたくまに民衆に知れ渡り、パラシドの家はいつしかナザレの聖堂となりました。1721年には時の司教により「女神ナザレ」として正式に認められ、1793年にベレーンでは最初のナザレ大祭が行われました。

その後も10月になるとこの大祭は開かれ、現在では100万人以上を集めるブラジル三大祭のひとつとなっています。


空港から市内へ向かうバスの窓の外では人々が朝の準備をしています。バスの中にも出勤途中の人らしき姿がたくさんいますが、町のあちこちに点在する教会や聖堂の前を通る度に何人かの客が十字を切って軽くお祈りをしているのを発見しました。バスに乗っている人全員ではありませんが、四、五人の人達が一斉に十字を切る姿はとても美しいものです。たまに何も無いところで十字を切る時があり、振り返ってよく見てみると小さい庵があったりします。俗世に汚されたサン・パウロ( Sao Paulo )ではあまり見かけない光景で、朝一番からベレーンの印象がかなり良くなりました。

やがて到着したナザレ聖堂は見上げんばかりの高さを誇る白亜の聖堂でした。おりしも赤道直下の太陽が後ろから照りつけ、光り輝く空に白い尖塔が浮かび上がっています。異教徒の僕でさえも女神ナザレのご利益を信じたくなるような荘厳な光景です。

教会に入ってみると、ちょうどミサをやっていて、朝早いにもかかわらず敬虔な信者達が集まっています。こんな教会で賛美歌でも流れていたら雰囲気も出るんでしょうが、軽快な音楽をバックに神父さんが歌いながら説教しているところがブラジルです。

朝のミサを見学した後はさっそく写真撮影。宗教建築物内での写真は禁止されていることが多いんですが、そこはブラジル。自由に撮影できます。カメラを抱えて見てまわった聖堂ですが、思いのほか手が込んでいて立派です。今までブラジル各地の教会を見てきましたが、どこもきれいですね。いつも思うんですがブラジル人の建物を飾る才能には驚きべきものがあります。我が町の文協の会館でもそうです。もともと二十年以上前にできた建物で、今となっては雨漏りで汚れた天井や、ちょっと古くなってきた壁など決して美しい状態ではないんですが、ブラジル人のフェスタのために貸し出したりすると、壁にきれいな壁紙を張ったり、絶妙の間接照明でほころびを隠したりして「これがあの会館なのか?」と思ってしまうほど美しく飾り付けてしまいます。

ひとしきり教会を楽しんだ後はタクシーを捕まえて港のほうに出かけます。アマゾン河口の町、ベレーンの中心はもちろん港です。まず目指したのが港の一角にあるカステロ要塞。港沿いの高台の上にあり、昔はここからアマゾンを通る船ににらみを聞かせていたという場所です。核ミサイル時代の現代となっては役に立たない代物ですが、今も軍人さんが駐屯していて、入り口は物々しい雰囲気。「入れるかなぁ?」と聞いてみると「どうぞ、どうぞ」と招き入れてくれました。

中に入ってみると売店や喫茶店もある普通の公園です。河岸沿いにズラリとならぶ大砲も砲口がふさがれていにしえの面影を残すのみ。大砲の横には「 1864 Manchester Ordnance and Rifle Co. 」という刻印もあって、往時のヨーロッパとブラジルの交流を忍ばせてくれます。1864年といえば、英・米・仏・蘭の四ヶ国が長州藩の外国船砲撃に対する報復措置として下関を砲撃し、占領した年です。以前下関の市立博物館で下関の砲台を占領するイギリス兵の写真を見たことがあるんですが、これと同じ大砲が使われていたのかもしれません。国際化されたと言われる現代ですが、すでに百年前にも世界を駆け回っている人々がいたんですね。

大砲が立ち並ぶ川沿いのテラスから見ると、目の前にアマゾン川が広がり、右手に「ヴェル・オ・ペーゾ( Ver o Peso )」のメルカードが見えます。ヴェル・オ・ペーゾとは「重さを量る」という意味で、市場に持ち込む品物に重さに応じて税金をかけていた時代の名残だと言われています。ここはべレーン最大の市場で近隣の町々から魚や野菜や果物や薬草から何でも売られています。べレーン最大ということは、すなわちアマゾン最大。アマゾンの産物が一同に会する市場です。朝の9時ということであちこちの産物を運ぶ船が市場の横の河岸に横付けされており、その横では一日の商いを終えた人々が船に乗って帰ろうとしています。もちろん市場のまわりには売り子から客までありとあらゆる人たちがごった返しているのがよく見えます。

ただ、この市場はスリで有名。カメラを首から下げていても、ナイフで紐を切って持っていかれるという話です。今日は荷物が多く、そんなところに行くと狙われてしまうのは明らかなのであきらめることにしましょう。ベレーンにはまた来るので、その時にしておきます。

市場には入らないまでも、その雰囲気を味わおうということで、近くまで行ってみることにしました。市場の近くにはきれい芝生が植えられているドン・ペドロ2世広場があり、そのまわりは旧市街らしく重々しい建物が並んでいます。ともに19世紀に立てられた有名なパラシオ・アントニオ・レモス( Palacio Antonio Lemos )やパラシオ・ラウロ・ソドリ( Palacio Lauro Sodre )が立ち並ぶこのあたりはとてもアマゾンとは思えない雰囲気があり、当時「熱帯のパリ」と言われていたそうです。日本よりも先に電気がとおっていたマナウス( Manaus )といい、熱帯のパリのベレーンといい、ゴム景気に沸く18世紀のアマゾンはもしかしたら今よりも華やかだったのかもしれません。

そのパラシオ・アントニオ・レモスの建物は現在市立博物館になっています。昔は市庁舎として使われていた水色の建物で、見るからに涼しげです。内装はヨーロッパから取り寄せた大理石で飾られ、調度品はフランスのルイ16世のパリから運んで来たとか。床が黒っぽい木と、白っぽい木で縞々模様になっているあたりはマナウスのアマゾナス劇場にそっくり。そう思ってみてみると、建物の装飾もどことなくアマゾナス劇場を思い起こさせます。ほぼ同じ時代にできたからなんでしょうか。どちらも奴隷たちを働かせて稼いだ大金を湯水のように使い、建材をわざわざヨーロッパから持ってくるとはなんて無駄遣いなんでしょうね。目の前の絢爛豪華な建物よりもそちらのほうに頭が行ってしまいますが、発展途上国の安い労働力をもとにして稼いだ大金を使ってフランスから自由の女神を運んで来たり、ボージョレ・ヌーヴォーでお祭り騒ぎをする日本も似たようなものかもしれません。

だからといってはなんですが、博物館内では土足厳禁。といってもこちらでは人前で靴を脱ぐのは恥ずかしいこととされているので、靴のままはけるような大きなスリッパが用意されていました。素足の上に靴をはいて、その上にスリッパをはくとなんとも変な感じがするものです。スリッパ履きで見て回った館内で一番印象深かったのが「カバノの殺戮」という絵でした。これはブラジルの歴史の暗い1ページである「カバノの反乱」をモチーフにした絵です。


カバノの反乱

1820年代、インジオ奴隷を使った香料産業が、インジオの減少とともに斜陽化していくと、ベレーンの白人支配階級が二つに分裂して内乱状態になりました。その後、内乱はインジオや黒人奴隷やメスチッソ達の間にあっという間に広がり、アマゾンを二分する戦いになります

1835年、反乱軍はベレーンに侵入し9日間の激しい戦闘の末、人民政府を樹立。彼らは金持ちからお金を奪い、人々に分け与え、ベレーンの独立を宣言しました。しかしすぐにイギリス政府がベレーン港を封鎖し、外との貿易の窓口を閉ざしてしまいます。なぜなら当時のブラジルの最大の貿易相手国がイギリスだったからです。

1年後、ブラジル軍がベレーンに攻撃をしかけると多くの人々はアマゾンの奥深くに入って激しく抵抗。これに対してブラジル軍は歴史に残る大殺戮を展開しました。ブラジル軍はインジオや黒人の男を見つけると無差別に虐殺。男性の三分の二が殺され、当時のパラーの人口10万人のうち4万人が殺されたと言われています。


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絵には教会らしい建物の横でぶつかりあう人々が描かれていますが、あんなにのんびりしているアマゾネンシ( Amazonense :アマゾンの人 )もいったん火がつくと、激しく燃え上がるんですね。普段は見せることのないアマゾネンシの一面を見たような気がしました。

そしてもう一枚は何の変哲もないアマゾンのおばさんを描いた一枚。どこにでもいるようなおばさんが描かれていましたが、その遠くを見つめる表情の中にアマゾネンシの力強さがにじみ出ていて、吸い込まれるように見つめてしまいました。

さて、博物館を後にしたら現代のアマゾネンシが熱く燃えるモノを買いに行くことにしましょう。もちろんそれはサッカー。その他のブラジルの町のご多分に漏れずベレーンにもサッカーチームがいくつかありますが、注目しているチームがあります。それはヘモ( Remo )というチーム。サン・パウロではアマゾンサッカーなんて報道されないのでチームのことはよく知らないんですが、ユニフォームに注目しています。パラー州を歩いていると胸に大きくイプシロン・ヤマダ( Y.YAMADA )と書かれたシャツを着ている人があちこちにいて、気になっていたんですが、聞いてみるとそのシャツはヘモの昨年モデルのシャツなんだそうです。イプシロン・ヤマダはアマゾン日系社会では誰もが知っている大会社。日本から来た一世が裸一貫で築き上げたスーパーで、パラーのあちこちに支店があります。世界のサッカーシャツで SONY とか Panasonic とか日本の多国籍企業の名前が書かれているやつは腐るほどありますが、現地日系企業の名前が刻まれているシャツはそうそうあるもんではありません。ベレーンの貴重なお土産としてぜひとも獲得しないといけませんね。そこらの人に聞いてみると、ヴェル・オ・ペーゾ市場の裏手に雑貨屋街があり、そこに行けば売っているそうです。

雑貨屋街に行ってみると、なるほど両側にはたくさんの店がひしめいていて、たくさんのアマゾネンシが歩いています。その迫力にしばらく圧倒されていましたが、この景色はどこかで見たことがあります。東京浅草のアメ横です。店の雰囲気といい、町のごちゃごちゃした雰囲気といい、人々の活気といいアメ横そっくりです。日本でもそうでしたが、活気のある町を歩いているだけでこっちまで元気になってきます。やはり僕には博物館よりも市場や駅といった雑踏の方が似合うようです。無事にヘモのシャツも入手するころにはそろそろ帰る時間となりました。旧市街まで歩いて、そこからバスに乗ることにします。

さすがに旧市街というだけあって、由緒正しけど古臭い建物が並んでいます。建物のほとんどはまだまだ現役で、所々に石畳が残る狭い路地では子供達が走り回り、それを建物と同じくらい年季の入ったおじさん達が見守っています。歌の『異邦人』さながらにあてどもなく歩き回り、町の奥深くにどんどん入っていく自分を楽しんでいると、いつのまにか港にたどり着いていました。そこは小さな港で主にベレーン近郊の町へ行くボートが着くところです。木製の桟橋にはこれから積み込むのか積み下ろしたのかたくさんの荷物がおいてあり、それはテフェ( Tefe )やモンテ・アレグレ( Monte Alegre )でも見かけた庶民の波止場の光景でした。

近くのバス停から乗った空港行きバスはまるで映画の一シーンのように旧市街の狭い路地を爆走していきます。流れ去る旧市街に最後のお別れを済ませ、空港に着くころには心地よい疲れとともに充足感を感じていました。たった半日のベレーン観光でしたが、かなりまわれるもんですね。これからサン・パウロまで長いフライト、そしてサン・パウロからはなつかしの我が家までのバスの旅です。

延べ日数にして一ヶ月あまりのアマゾンの旅もそろそろ終わりです。この旅ではサン・パウロではお目にかからないような異文化を体験することができました。それはヨーロッパ人とインジオと黒人のそれぞれの文化が交じり合って昇華された唯一無二の文化。まるでアマゾンの流れのようにゆるやかで、それでいて力強いものでした。そしてその中にしっかりと根付きつつある日本人達。日本から来た僕と同じような日本の心を持つ人々ですが、瞳の中には巨大な自然に敢然と立ち向かう開拓者の魂がやどっていました。彼らからは今まで知らなかった日本人としてのもうひとつの生き方を教えてもらったような気がします。

しかし何といってもアマゾンは巨大です。たった一ヶ月の滞在ですべてが分かったとはとうてい思えません。「アマゾンにはまだまだ知らないことがたくさんある」ということが分かっただけでも今回は良しとしましょう。


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