4月19日 水曜日
今日からしばらくポルト・セグーロ ( Porto Seguro ) 旅行。4月22日は記念すべきブラジル発見500周年の記念日。ちょうど500年前のこの日にペドロ・カブラル ( Pedro Cabral ) がポルト・セグーロ付近に上陸したという、ブラジルにとって大事な日です。これを逃す手はないということでさっそく行くことにしました。
ただ、4月20日から23日にかけての週末はパスコア(復活祭)で、ブラジルの一大旅行シーズン。しかも500周年記念のまさにご当地を訪れるだけあって相当の混雑が予想されます。ということで僕の旅行としては珍しく帰りの航空券まで予約しての大名旅行です。
と意気込みは高かったんですが、帰りの飛行機のチケットを見て愕然!4月24日だとばかり思っていましたが、よく見ると4月23日でした。てっきり24日だと思いこんでいたので、全ての旅程を24日発で予約していたんです。ホテルも23日の夜まで押さえているし、空港までのバスも予約してしまいました。というのも二か月前の段階でもポルト・セグーロ発サン・パウロ ( Sao Paulo ) 行きの便はとれなかったので、ポルト・セグーロからバスで5時間ほど離れたイリェウス ( Ilheus ) からサン・パウロに飛ぶ便の切符をとっていて、そこに行くためのバスの切符も必要だったからです。「やべぇ〜」と思いながら一縷の望みをかけてインターネットで航空券の空きを調べてみましたが、やはりポルト・セグーロ付近の空港発着の便はすべて売り切れ。考えても仕方がないので、帰りの切符のことは考えずに出発することにしました。
こればっかりは僕がすべて悪いんですが、だいたい僕が旅行をすると必ずトラブルがつきまとうんですよね。そう思うと真っ先に思い出すのが93年のインド旅行。前年に生まれて初めての海外旅行で中国南部ぶらり旅にでかけ、味をしめた僕は「今度はインドでしょう!」なんて浮かれて、夏休みにインドに行ったんです。その時はバンコク発の便だったので、喜び勇んでバンコク・ドンムアン空港で飛行機に乗りこんだのはいいものの、滑走中に急に減速してしまい、再びターミナルへ。結局エンジントラブルで5時間ほど遅れてしまい、インドのカルカッタに着いた時は深夜の12時をまわっていました。しかもその時、空港付近は腰あたりまでの洪水にみまわれ、ほうほうの体で安宿にたどり着いたという苦い思いでです。さらに翌年ベトナムに行った時は、チケットに書いてあった出発時間にあわせて2時間前に成田空港に着いたんですが、そのチケットが間違っていたらしく、搭乗予定の飛行機が目の前を飛んでいきました。最近ではサン・パウロからマナウス ( Manaus ) に飛んだときに命よりも大事なデジカメをサン・パウロの空港に忘れたし。僕が歩くところロクなことがありません。
4月20日 木曜日
不安な気持ちのまま早朝のバーハ・フンダ・ホドビアリア ( Barra Funda )に到着。ポルト・セグーロ行きのバスはそことは別のチエテ ( Tiete ) のホドビアリアから出発するのでとりあえず移動して9時出発のバスを待ちます。で、チエテに落ち着いてのんびりしながらチケットを出してみて、またまた驚愕!!4月20日発のチケットだとばかり思っていたんですが、よく見たら3月20日発のチケットでした。そういえばチケットは3月中旬にサン・パウロに用事で出かけたときに買ったやつでした。その時は窓口のおっちゃんに「3月じゃなくて4月の20日の切符ね!」と言ったんですが、向こうは「3月の20日」と思っていたみたいです。
だいたい切符を買ってから、中身を確認しないまま一か月以上放置していた僕が悪いんでしょうが、またもや困った事態になっちゃいました。単純に言うと、「ポルト・セグーロのホテルは予約しているが、往復の交通手段が全くない!!」という状況です。「あ〜あ〜、せっかく事前準備をしていたつもりなのにぜ〜んぶ水の泡ってことかい!」と悲しい気持ちになりましたが、そんなことで沈んでいる暇はありません。なんとかしないと!
ただ、日頃からトラブル続きの旅行を続けているお陰かどうかしりませんが、そういった時になると妙に落ち着いてしまう自分ってのもいて、今できることを冷静に考えたりしています。まずはポルト・セグーロ行きのチケットです。チエテのホドビアリアのチケットブースをあちこち探してみたところ、14時発のポルト・セグーロ行きのバスの空きがひとつだけありました。まさに天佑。ついでに24日にポルト・セグーロから戻る便についての空きがあることが判明。即座に購入!これで往復の足が確保できたことになりホッと一安心。次の問題は使わなくなった航空券の処理です。捨ててしまうにはもったいない値段なので払い戻しをしなければなりません。幸いバスの発車時間が14時なので、午前中にチケットを買った旅行社に行く時間があります。ホントに運がいいですね。もし午前中のバスしか空きがなかったら、ポルト・セグーロの町で払い戻しのために格闘しなければならないところでした。実際はろくなことがなかった昨日今日でしたが、こんなことで幸せになれる僕は安上がりでありがたいです。
と、いうようなことを10分ほどで済ましてしまったあとは手に入った午前中のフリータイムを楽しむことにします。といってもやることは決まっています。それは教科書探し。何でもそろう我が町ですが、日本語教育用の教科書だけはサン・パウロにしかないのでちょうどいいチャンスです。120万の日系人が住むブラジル。日本語書店もちゃんとあります。その中でも一番有名な高野書店は店の外観もちょっと古めで御茶ノ水や神保町あたりの老舗の書店の雰囲気です。また、戦後移民でブラジルにやってきた店主も話好きで、いつも口癖のように「サン・パウロに寄ったら顔を出してくださいね」と言ってくれるんですが、そんな店主と日本の本がごちゃごちゃと並んでいる店内で話しているとここがブラジルであるということを忘れてしまいそうです。
その後、旅行会社に行って、今度はそこの人と話しこんでいると、もうバスの時間になりました。チエテに戻り、バスの準備をしますが、今回は25時間のバスの旅ということで少し気合いが入ります。こんな長時間のバス旅行は7年ぶりですね。前回は中国のタクラマカン砂漠越えのバスでしたが、古い車だったので窓がよく閉まらず、『砂漠の夜は猛烈に寒い』ということを肌で体験しただけに、長時間のバス旅行と思うと緊張してしまいますが、今回のバスはそれに比べると格段にいい車なので大丈夫でしょう。しかも今回はエゼクチーボというワンランク上のバスなのでもう寝ているうちに着いちゃうんじゃないかな?と思ってバスに乗ったら本当にあっという間に寝てしまいました。
ほとんど寝ながらの旅路でしたが、途中憶えていることと言ったら、サン・パウロからリオまでは延々と町並みが続くなぁと言うことと、深夜になってリオ・デ・ジャネイロ ( Rio de Janeiro )にあるリオ・ニテロイ ( Niteroi ) 橋を通ったということぐらいです。あいにくリオの街はどんよりと曇っていてキリスト像などは見えませんでしたが、夜景がまぶしい街を見ていると、カウントダウンやカルナバルで町中を歩き回った思い出がよみがえってきました。
でもそんな思い出よりも何よりも一番心に残っているのが「空腹」です。我らがバスは14時発のサン・ジェラルド ( Sao Geraldo ) という会社のバスです。この会社はノルデスチ(*)南部を基盤にしている大きなバス会社で、ドライブインも自社直営のものをあちこちに持っています。サン・ジェラルドのバスはこの直営ドライブインか提携ドライブイン以外はとまりません。それがあちこちにあったらいいんですが、リオ=サン・パウロ間にはあんまりないもんだから、バスはどこにもとまらずに疾走することになります。そういえば、夕方の5時前にドライブインにとまったときに運転手が食事をしていたので「ずいぶん早いなぁ」とか思ったんですが、彼はちゃんと知っているんですよね。次のドライブインまで時間がかかることを。夜の9時をすぎても10時をすぎても全然とまりません。いい加減腹が減ってきた乗客が「どこかにとめろ」と訴えたのでとまりましたが、それも道ばたでココナッツを売っているような小さな露店。食事なんてありません。結局11時頃になって、やっとサン・ジェラルドの直営ドライブインに到着しました。あんまり会社が大きくなってドライブインにも手を広げたおかげでサービスが低下している好例です。
(*)ノルデスチ ( Nordeste ) :ブラジル北東部のこと。北東部はブラジルの中でも乾燥がはげしく、貧しい地帯と言われています
こんなことがあったので、思い出したことがありました。今回の旅ではカシオの新しいデジカメを使うことにしていて、取扱説明書とか読んでいたんですが、その中に頻繁に出てくるのが「○○には当社専用の○○をお使い下さい」という記述。これもサン・ジェラルドのやり方と同じですね。このデジカメにはUSB出力端子があって、パソコンに接続できるのが売りみたいですが、端子の差込口がUSB共通の形ではなくて、カシオ独自の形になっているので、結局専用ケーブルを買わないといけません。まったく使い勝手よりも売り上げの方が大事なんだなぁと思わせてくれます。
その後は満腹になったので安眠できるかと思いきや、昼間寝すぎたせいで全然眠くなく、悶々としながら真っ暗で何も見えない車窓を眺めることになりました。
4月21日 金曜日
寝られないと思っていた夜ですが、いつの間にか寝ていたようで、バスはいつのまにか未知の国、バイーア ( Bahia ) に入っていました。ブラジルが好きな人なら一度はあこがれるというバイーアです。残念ながらバイーアにもサウバドール ( Salvador ) にも格別の思いこみがない僕が窓の外のバイーアの大地を見ても、なんの感慨もわきません。あ、ひとつありました。「土地がやせている」ということです。サン・パウロやパラナ ( Parana ) はとっても土地が肥えているので、更地にしても、すぐに雑草が生い茂り、緑におおわれていきます。それに比べるとバイーアの土地は痩せているのか、道路沿いの更地を見ても草が生えているところは少なく、表土が流出してしまっているようです。これ以外にもノルデスチ内陸部は降雨量が少ないというのも原因かもしれませんが、全体に殺伐とした雰囲気を感じます。これがノルデスチの本当の姿なのかもしれないと思うと、「ノルデスチ内陸部を見ずしてブラジルを語ることはできない」というのもうなづけますね。南部にはない何かを感じさせてくれます。
そしてある町のドライブインでバスから降りて感じたのは「暑さ」。サン・パウロでは4月の終わりにもなると、暑さの峠も越し、昼間でもそれなりにすごしやすくなりますが、ノルデスチはまだまだ夏です。たぶん一年中夏なんでしょうが。とにかく久しぶりの暑さを感じてしまい、ちょっとクラクラしちゃいました。で、ドライブインのまわりには靴磨きの少年達がいます。やはりこのあたりもサン・パウロとは違います。これが現実なのかもしれませんが、ブラジルを旅しているとバスのまわりに靴磨きや物売りが集まってくる州と、そういった人達が全然いない州がはっきり分かれていて、このあたりにもブラジルの本質が隠れているような気がします。
もう一つ感じたのはインフラの整備の遅れ。といってもそんな本質的なところを見抜いた訳じゃなくて、単に「舗装道路が少ない!」ということです。もちろん僕たちのバスが走っているのはサン・パウロからサウバドールに抜ける幹線道路なので全線舗装されているんですが、そこに交わる支線を見ると舗装されていないところが多々あります。そのせいでしょう、町中が何となく埃っぽくて、アメリカ映画の西部劇の舞台を思い起こさせるところです。そうです。西部ですよ。荒涼とした大地に土埃はまさに西部の雰囲気です。
ま、とにかくバイーアに入ったというのはうれしいですね。これでブラジル27州のうち、14州を歩いたことになりますし、ノルデスチの土を初めて踏んだことになりますから。
その後も僕たちを乗せたバスはわりとアップダウンの激しい道のりを進んで行き、やがてイリェウスの町に着きました。ここでバスはサン・パウロ=サウバドールの幹線道路に別れを告げて右に曲がり、大西洋にむけて進みます。道が大西洋とぶつかるところがポルト・セグーロです。そこのドライブインで休憩したんですが、ふらっと何気なく見た看板を見てちょっと感動しました。 それはこんな看板でした。
どれもこれもサン・パウロから見ると遠いところの地名です。だいたい看板にサン・パウロという文字がありません。いかにも遠くに来たことを感じさせてくれる看板で、ひとり武田鉄矢の「おもえば遠くへ来たもんだ」を口ずさんだりしちゃいましたが、この曲って旅をした人なら一度は口ずさんだことがあるんじゃないでしょうか。もう一つが山口百恵の「いい日旅立ち」、歌詞の中の「ああ〜日本のどこかに、わたしを待ってる人がいる」の「日本」のところを「世界」に替えて歌った人は少なくとも年間300万人にもおよぶ独身男性旅行者のうち、100万人は越えるんじゃないでしょうか。その他にも「異邦人」を歌った人もアジア方面を中心に50万人はくだらないでしょう。個人的には、シルクロードに行って「ニンニキニキニキ ニンニキニキニキ ニニンが三蔵」を歌うような人が大好きですが。
などと下らぬ感慨に耽りながら出発しますが、出発したと思ったら止まってしまいます。しかも何もない農場の真ん中で。何があったんだろうと思っていたら運転手が「たぶん長い間とまると思うから外に出たいと思う人は出てもいいよ」なんて言います。「ええ〜何があったの?」とか思って外に出てみると車の大行列でした。しかも先頭の方には軍警察がうろちょろしています。「何があったの?」と聞いてみると「ポルト・セグーロが車で一杯だから進入規制をしてるんだって」との返事。あ〜なんてこった。もうこれは長期戦ですね。何と言ってもブラジルの警察ですから10分で済むことも1時間かかっちゃいそうです。他の車の人達もあきらめ顔で出てきます。しょうがないので列の先頭に行ってみると、軍警がピケを作って通行止めをしています。で、無線でいろいろと交信しているみたい。頭の上にも時折軍警のヘリが飛び交い、道路状況を見ているようです。
こうなると仕方がないので人間観察ということにします。日本でも渋滞の時に真っ先に困るのが子供のトイレ。もちろん状況はブラジルも同じ。路肩では大人に抱えられた子供が用を足しています。と、よく見たら大のほうでした。「おいおいここでさせるか?」と思いましたがその子供は体には不似合いなほど大きな痕跡を残して去っていきました。ブラジル人恐るべし。何を食べているんだ。
やがて車の列はどんどん後ろにのびていきます。その伸び具合と、我がバスの前に並んでいる車の数を計算してみると、僕たちがここに到着する30分ほど前に通行止めが始まったようです。そう思うとここまでチンタラ走ってきたバスが恨めしい。ただでさえ遅れ気味だったのに、これではかなり遅れることになってしまいます。ポルト・セグーロでは友人と待ち合わせをしているだけに、なおさらあせってしまいます。
かれこれ1時間ぐらいは待っていたでしょうか。みんないっこうに開こうとしない検問にイライラいしています。そのうちしびれを切らせたのか後ろの方から反対車線を続々と車がやってきます。そして車一台分ぐらいが通れるすき間を作って反対車線をびっしりとふさいでしまいました。それを見ていた警察もとめるわけでもなく眺めています。もともとブラジルという国は「なし崩し」的というか、たとえやってはいけないことでとりあえずやっちゃって既成事実を作っちゃった者勝ちという社会なので、ここにもそれを狙った人達がいたわけです。日本人としてそういうのを見ると、検問のイライラに加えてさらにイライラしちゃいます。
やがて日も暮れて真っ暗になりました。あきらめて引き返す車もあります。僕も「あ〜どうしよう。ポルト・セグーロのホテルはもう予約しているし、今晩友達とポルト・セグーロで待ち合わせしているのにぃぃっ!」と気が気じゃありません。幸いうちのバスの運転手は気が長い人らしく、引き返すことなく待ってます。と、軍警の動きがあわただしくなり、人々も「動き出すぞ!!」といって小走りに自分の車に帰ります。僕も何と言えばいいのか分からない不思議な喜びを感じながらバスに戻りました。中国の駅の切符売り場で1時間もならんだ末「没有(ないよ!)」と撃退されることを繰り返した末、やっとのことで切符が買えた時の感動とでも言うんでしょうか?1月のマラカナンスタジアム ( Maracana ) 、世界クラブ選手権大会のヴァスコ・ダ・ガマ対マンチェスターユナイテッドの試合の入場券を買うためにもみくちゃにされながらも窓口に突入し、ものすごい狂乱の中でなんとか入場券を獲得したときの喜びとでも言うんでしょうか。なにか肩に乗っていた重荷がふっと消えて無くなったときの様な喜びです。なぜか空を見上げたくなっちゃうような喜びです。
明るい気持ちでバスに戻っていたら、なんとさっきまでは何もしていなかった軍警が対向車線の車に引き返すように言っています。言われた運転手達は「信じられない!なぜ!?」って顔をしながらUターンしています。彼らの所行に憤っていた僕としては「ざまあみろ」という意地悪な気持ちになっていました。やはり他人の不幸は自分の幸せなんでしょうか。そんな自分をちょっとだけ自己嫌悪したりしながらバスに乗り込み再スタートです。
これでやっとポルト・セグーロに行けます。車内の客もなんとなくうれしげです。もう進むだけですから。途中何カ所か検問があり、何度かとめられましたが長いこと停車することなくどんどんポルト・セグーロに近づきます。
ポルト・セグーロ
よく、ブラジル発見の地と言われますが、1500年の4月にブラジルに到着したカブラルの船団は実際にはポルト・セグーロには上陸せず、北方17kmにあるコロア・ヴェルメーリャ ( Coroa Vermelha ) に上陸し。そこでブラジル初のミサをおこない、数日後には帰途につきました。 ポルト・セグーロが本当に「発見」されるのは3年後で、それはガンサウボ・コエーリョ率いる探検隊によるものでした。その後、高台に海軍の駐屯所が作られ、同時に今も残るミゼリコルジア教会などが建てられました。 このように長い歴史を誇るポルト・セグーロですが、1970年代までは農業と漁業と林業を主体とする歴史から忘れられた小さな町でした。やがて道路が整備されると静かな海岸とのんびりしたたたずまいが観光客を呼び寄せ、一大観光地となります。そして1980年には5000人だらずだった人口が2000年には6万人を越えるほどにまで膨れ上がり、今では500軒を越えるホテルやポウザーダが立ち並ぶ、ノルデスチ随一の観光地の一つとなっています。 |
やっとのことで到着しましたが、先にポルト・セグーロに入っていた友人との待ち合わせの時間には到着できませんでした。「80日間世界一周」で主人公がロンドンに到着予定日の一日遅れで着いた時の気持ちほどではありませんが、「ああ〜、しまった」という気持ちになりますね。まずはホテルに直行と行きたいところですが、同じバスに乗っていた日本人女性二人組がブラジル旅行初めてということなので彼女たちの目的地の近くまで送ることになりました。彼女たちはカンピーナス大学 ( Campinas )に留学中ということですが、結構日本から留学に来る人が多いんですね。話を聞くと、予約してあるホテルはポルト・セグーロの町から川をはさんで反対側にあるアハイアル・ダジューダ ( Arraial D'ajuda ) という町だそうで、渡し船の船着き場まで送ってからホテルに急ぎます。
船着き場は南北に細長いポルト・セグーロのセントロの南のはしにあり、ホテルは北寄りにあります。ということでセントロを横断しなければなりません。といっても歩いて15分ほどの小さいセントロですが、その目抜き通りはひしめくばかりの人通りです。さすがブラジル500年、世界中の観光客が来ている見たいです。そこを大きなバックパックを持って歩いたんですが、旅行者が多いせいか、それほど危険を感じません。ガイドブックにものどかな町と書かれていたぐらいなので歩き慣れたリオやサン・パウロの町にくらべると「ほとんど安全」といった気分です。とはいえすごい人混みには辟易しましたが。
約束の時間に二時間遅れでホテルに到着しましたが、まだ友人は待っていました。もう夜の8時をまわっているのでお互いにおなかがすいています。でもそれ以上に風呂に入りたい!!バスに乗っている間はかれこれ40時間近く風呂に入っていないことなんか全く気になりませんでしたが、ホテルについた瞬間、シャワーの近くに到着した瞬間、体が求めてました。シャワーを。お約束の回想ですが、山登りで長期間風呂に入らなかった時もこんな感じですね。たとえ二週間風呂に入っていなくても山の上やテントの中では全然気になりませんが、いったん下界におりて風呂が入れる環境に到着すると猛烈に自分の体が汚く感じられます。一刻も早く風呂に入らないと死んでしまうような気持ちになります。それと同じです。ただ、二週間の山ごもりの後ではシャンプーをしても三回目までは泡さえ立ちませんが、さすがに今回は40時間だったので二回目には泡が立ちました。
さて、今日の食事ですがホテルにチラシが置いてあったレストランにします。先ほどの旅行者を送り届けた埠頭の近くから船にのって少し行ったところにある岬の突端にある気持ちのよさそうなレストランです。その細長い岬全体が敷地でコンサートなんかも開かれているみたいです。なんかお祭りっぽくて面白そうですね。
と、歩き始めましたがひとつ忘れていたことがあります。最近ブラジルに来たことがある人ならみんな知っている「500年時計」です。これはブラジルのテレビ局GLOBOが企画したものですが、高さ10mぐらいの大きな時計で、ブラジル中の観光地に建てられています。時計の下のほうに「ブラジル500年まであと○○日」と書いてあって、これが毎日ひとつずつ減っていくんです。今まで旅行したほとんど全ての町に置いてあり、時を刻んでいましたが、ついに建国の地ポルト・セグーロで「ブラジル500年まであと1日」の表示を見ることができました。いろんな町で「あと何日」の表示を見ましたが、ポルト・セグーロの時計を見ていると、この一年間の旅行がすべてこの瞬間のためにあったかのような気さえします。ブラジル中の人々の500周年への思いが、ここポルト・セグーロに集まっているんじゃないでしょうか?
時計も見て満足した僕たちは満を持してレストランへ。レストランのある岬までは船で渡りますが、大勢の客を乗せた大きな船が半島に到着すると歓迎の楽団が演奏を始めます。ブラジルなんでサンバみたいな音楽がかかると思いきや、日本風。何と言ったらいいんでしょう。フライパンみたいな太鼓をカンカンとたたきながらの歓迎で、懐かしい田舎の村祭りのような音楽です。いつもデジカメとメモ帳は持ち歩いているんですが、この時ばかりはMDがほしくなるほどの素晴らしい演奏でした。しかし旅をしていると、これ以外にも録音したい音って結構ありますね。旅の思い出を残すにはもちろん写真もいいんですが、音ってのも重要だと思います。音といえば、日本語学校の授業で効果音CDを使ったことがあるんですが、その中に新幹線とか地下鉄の効果音があって、目を閉じて聞いていると日本にいたときの記憶が鮮明によみがえってきて、ちょっとだけ日本が懐かしくなったものです。そして忘れてならないのが匂い。僕の場合匂いが一番思い出に残るんですが、ブラジルだとリオやサン・パウロの街の匂いでしょうか。ドブの匂いが混じっていてお世辞にもいい匂いとは言えませんが忘れられない匂いです。
そんな楽団に歓迎されて入ってみるとレストランの敷地は東京ディズニーランドみたいです。ごみひとつ落ちていないきれいな遊歩道のまわりには美しい木々が植えられています。その木々にぜんぜん自然の雰囲気を感じないところがこれまた東京ディズニーランドみたいで、プラスチックか何かで出来ているような感じです。そして遊歩道の途中には水槽があり、魚たちが泳いでいるのが見えます。水族館といえば、ブラジルは日本ほど海と仲良くないのかあまり見かけたことがありません。動物園の一角に水槽があることはありますが、日本のような立派な水族館はありませんね。やっぱり日本は海洋民族なんだなあと思います。そんなブラジルの水槽を見てみると、まだまだ日本には及びません。すし屋のいけすを大きくしたようなもので、見栄えはしませんが普段こういったものを見慣れていないのかブラジル人たちはその周りでにぎわっています。
でも二人とも相当おなかがすいてるので素通りしてレストランを探します。途中すし屋がありましたが、あんまり食べたくはありません。ちょうどブラジルに来て一年、毎日ブラジル料理ですがまだまだ日本食が恋しいという気持ちにはなりませんね。だってブラジル料理がおいしいから。それにブラジル人は一生ブラジル料理を食べているんだから一年ぐらい食べつづけても死ぬことはないでしょう。
夕食を他の店で食べた後、ちょっとだけすし屋に寄ってみることにしました。海外で日本料理屋に入ったことがある人なら分かると思いますが、ちょっとヘンな日本語や日本文化を見ることができて面白いんですよね。この店にもいくつかありましたが、漢字の間違いなどはまあしょうがありませんよね。でもこれだけは許せないというか勘弁して、と思ったのが「お茶」です。頼んでしばらくしたらお盆に徳利を乗せて持ってきたので、てっきり酒でも持ってきたものと思い、「それ違うよ」といったら「お茶です」とのご返答。思わず絶句してしまいました。たしかにテーブルに置かれた徳利を上から見ると中にウーロン茶みたいなお茶が入っています。さらにおちょこまでついてきたのを見ると、お茶をおちょこで飲むのがこの店流なんでしょうが、どうもちびちび飲んでいるとお茶を飲んでいる気分になりません。お茶でもないしお酒でもないし、ヘンな味です。今まで「どんな入れ物に入れても味は同じ」と思っていましたが、やはりしかるべき入れ物に入れないとぜんぜんおいしくないんですね。
そのあたりを店員に言ってみると、おとなしそうな店員はとっても恐縮しています。しばらくその店で友人と話して、深夜2時前ぐらいに出たんですが、わざわざ帰り際に「この店はいかがでしたか?他に何か問題ありませんでした?」と心配そうな顔で聞いてきます。あんまりかわいそうだったから「ちょっとした間違いはあったけどおいしかったよ」と元気づけて出てきました。
その後ホテルに帰ったのは3時前でしたが、帰り道ではまだ空いているお土産屋もあり、バーも客でにぎわっています。以前ここに来たことのある友人の話だと、普段はこんなに遅くまで開いていないそうで、早くも祭りの予感を感じさせてくれる晩でした。