4月22日 土曜日
友人に朝の10時に起こされホテルの朝食に。ホテルの朝食というとほとんどがバイキング方式で、飲み物や果物なんかを自由に取ることが出来ます。お米が主食のブラジルですが、朝食はパンが主流です。ただ、いまだにブラジルのパンはあまりおいしいと思いません。なんかパサパサとしていてるんですよ。それに甘いパンも多くてこれも朝から胃に思いですね。それにこちらの朝食のメインはコーヒー。朝食のことをブラジル語では「 Cafe da manhao (朝コーヒー)」というぐらいで、とにかくみんなコーヒーです。これまたいまだにコーヒーが飲めない僕にはうれしくありません。
さあ、今日は4月22日、ブラジル発見500周年の記念すべき日です。何が起こるんでしょう。ホテルにはイベントガイドがあるんですが、これがさすがブラジル式のガイド。日時と場所は書いてあるんですが、肝心の時間がわかりません。確かにこれまでの経験から考えると、ブラジルでイベントの時間を記すことは無意味なことが多いんですがここまで開き直っているとすがすがしいものがありますね。「そのうち始まります」ということでしょう。
今日はまず最初にホドビアリアに行って友人の帰りの切符を買わねばなりません。雨が降っていたのでバスで行ってみると、なんだかホドビアリアのまわりに警察がうろちょろしています。切符を買った後、警官に聞いてみると、なんでも大統領が記念式典に参加するためにやって来るみたいです。「いつ来るの?」と聞いたら、「もう空港に着いたので、まもなくここを通る」とのこと。これは千載一遇のチャンスです。写真を撮らねばなりません。そのあたりで一番偉そうな警官に「写真撮ってもいい?」と聞くと「もちろん!」と気持ちのいい返事。で、その警官は何を思ったか「もちろん!」と言った後で、帽子をとって頭をなでつけてポーズをとって「ほら、準備は出来た、撮りな!」。警官にとって一番緊張するこんなときにそうやって笑わせてくれるブラジルの警官っていいですね。日本だったら「写真撮ってもいい?」なんて聞いたら「なに言ってやがるんだ」って顔をして冷たく「ダメです」なんて言われそうだし。
「こいついいヤツじゃん」とか思いながら待っていると、すぐに大統領ご一行がご到着。護衛の白バイやパトカーに護送されて、大きなバスが何台かやってきます。そのうち一台は全ての窓のカーテンが閉められてしたので、僕は「この車両に大統領が乗っていたんだ」と思いこむことにしました。でも後で聞いたところによると、諸般の都合により、結局大統領はやってこずに、副大統領だけがやって来たみたいです。ということで僕がありがたく拝んだバスに乗っていたのはどうも副大統領だったようです。別にどっちでもいいんですが。
その後はホドビアリアの近くにあるシダージ・イストリカ(歴史地区)に行きたかったんですが、副大統領様がいらっしゃるので一般人は立入禁止。すごすごと町に引き返すことになりました。ホドビアリアやシダージ・イストリカのある地区は高台になっていて、セントロに戻るには長い下り坂を歩かないといけないんですが、その途中の景色がなかなか良かったですね。ポルト・セグーロの町が一望の下に見渡せます。ちょうど見晴らしのいいところに簡単な展望台みたいなところがあって、「ようこそポルト・セグーロへ」と各国の言葉で書かれていたんですが、その日本語表記が間違っていたのはご愛敬でしょう。
セントロについた頃にはもう昼になっていて、観光客でごった返しています。昨日感動しながら眺めた「500年時計」は「あと1日」の表示がなくなっていて「ブラジル500年」になっていて、いやが上にもお祭りムードが盛り上がります。ポルト・セグーロはもともと静かな町ですが、今日ばかりは人々のエネルギーが町中にみなぎっています。ワクワクしながらもやはり昼飯は食べないといけないのでレストランを探して歩いていると、昨日埠頭まで送っていった女性二人組にばったり。「旅は道連れ」ということで一緒にご飯を食べます。昨日も書きましたが彼女たちはサン・パウロのカンピーナス大学に留学中です。「日本人が留学するんだったら普通欧米でしょう」という先入観がある僕は思わず「どうしてブラジルなんかに留学しようと考えたんですか?」と聞いちゃいましたが、逆に「私は大学でポルトガル語を専攻していたからブラジルに来るには理由があるけど、どうしてあなたこそブラジルに何の縁もないのに来たんですか?」と聞かれて困ってしまいました。今までブラジルに来ている自分は「普通」だと思っていましたが、どうもハタから見ると普通じゃないのかもしれません。
食事の後、もうそろそろイベントがあるだろうということで岸壁に行ってみますが、なにやら人だかりがあります。「なんだなんだ?」と見てみると、沖の方に白い帆船の姿が見えます。「おおっ、あれこそは再現されたカブラルの船か?」と思うと「ついに始まるぞ〜〜」って気分が高まります。しかし帆船は水平線のはるか彼方にあり、はっきりと見えないんですが、あいにくなことに肝心の双眼鏡を部屋に忘れてきてしまいました。ホテルまで戻る時間ももったいないんですが、やはり双眼鏡がないと話にならないので取りに帰ることにします。
急いでホテルに戻り、部屋の中をごそごそやっていると、今度はなにやら窓の外から「ブーン」というエンジン音。またまた飛び出すと、空には何機ものプロペラ機が飛んでいて曲芸飛行をしています。なんとブラジルにもブルーインパルスみたいな部隊があったんですね。アメリカや日本がジェット機を使っているところを、プロペラ機を使っているところがブラジルって感じですが。日頃こういったものを見なれていないブラジル人達はみんな通りに飛び出して指をさしたりと楽しそう。そういう僕もぽかんと口を開けながら空を見上げてしまいましたが、見上げる先にはまだまだ真夏を感じさせる暑い空がありました。それは子供の頃セミ取りをしていた時の空と全く同じけだるい空でした。
空のショーも一段落した頃、岸壁に戻りますが、帆船はだいぶん岸に近づいています。双眼鏡で見ると、大きい帆を何枚もはためかせたかなり大きい帆船のようです。カブラルの船がそんなに大きいはずはないので随行船でしょう。その証拠に二隻の随行船の船尾には巨大なポルトガルとブラジルの旗がはためいています。空では飛行機が舞い、沖からはきれいな帆船がやって来ているからにはもうまもなく500年のイベントが始まるんでしょう。岸辺にならんでいる大勢の人達もみんな同じ様な期待に目を輝かせています。
でもしばらくすると飛行機はどこかに行っちゃいました。さらに、頼みの綱の帆船も途中から反転してポルト・セグーロの町から遠ざかってしまいました。そのうち、岸辺の人達も残念そうに帰っていきます。どうも今のは「飛行機が飛んでいるときにたまたま帆船がやって来た」というだけのようです。ちょっとがっかり。発見500年とかだったら国の総力を挙げてのイベントとかやりそうなもんですが、さすがブラジル、適当にごまかしちゃうみたいです。それにこれも後で聞いたことですが、カブラルの再現船は進水したとたんに故障してしまい日の目を見ることはなかったみたいです。この船はブラジルの海軍工廠で作っていたんですが、ブラジル現代技術の粋を集めた海軍工廠でも500年前にポルトガルが作った船を再現することができなかったみたいです。「今のブラジルは500年前のポルトガルの技術よりも劣っている」と言うととっても失礼ですが、あながち冗談とも思えないのもまたブラジルです。
肩すかしをくらってしまい、がっかりしてそこを離れる頃にはもう日も傾いていました。なんだか時間を損しちゃった気がします。ま、気を取り直しておみやげ屋にでも行こうと思って、海の近くのおみやげ横町に行ってみると、今度は警官が現れて観光客を入れてくれません。おいおいこんな時に通行止めもないだろうと思って聞いてみると、どうも今晩イベントがあるみたい。確かにおみやげ横町のそばにはサッカーのスタンドみたいなのが作られています。しかも招待客専用のイベントだから一般観光客が中心部に近寄ることは禁止だそうです。今日はいろいろとブラジルらしさを感じることが多い一日ですが、またもやブラジルらしい理不尽な事態に遭遇しちゃいましたね。全くブラジル政府は何を考えているんでしょう。今日は、ブラジル人の「面倒くさいことはやらないけど、自分や自分の身内の利益になることだけはやる」という性格を目の前に見せつけられた感じがします。
イベントには入れないけれど、岸壁に行けば、立入禁止の塀越しになんとか見ることができることを発見。6時に始まるということで行ってみましたが、もちろん始まりません。こっちも始まるとは思っていなくて、客の入りでも見ようと思って行ったんですが、まだほとんど入っていません。たぶんだいぶん遅れて始まるでしょう。
その間におみやげ物でも見て歩きます。おみやげ横町の大部分が封鎖されていますが、残ったところはすごい賑わいです。友人はポルト・セグーロの近くに住んでいて、外国人登録のためにここの連邦警察まで来たときにこのあたりも通ったそうですが、閑散として静かな町だったそうです。でも今では日本の縁日みたいな状態です。まあそれもうなづけますよね。だって500年に一度のかきいれ時なんですから。もともとポルト・セグーロは何もない寒村で、観光地として開発されたのはここ十数年です。つまりほとんど今日の日のために観光地として開発されたと言っても過言ではないと思います。
そんなポルト・セグーロの町に多いのは「Tシャツ屋」。おみやげ横町のほとんどの店がTシャツ屋だと言ってもいいぐらいです。三枚10R$の安いTシャツや野球帽が店先にたくさん飾られています。もちろん競争が激しいだけあって、品質やデザインがいいTシャツも結構見かけられます。Tシャツコレクターとしてあちこちの町で探していましたが、この町はそういった意味で楽しいですね。ブラジルに来てTシャツを買いたい人にはお勧めの町です。一方、これまでの経験でTシャツコレクターにはお薦めできないのがアマゾン地域。ベレーンやマナウスを含めてロクなTシャツが売っていませんでしたね。
Tシャツ屋のような普通のおみやげ屋が「500年に一度」の商売チャンスで頑張っているなら、広場にはブラジル全土からやって来たおみやげ屋台がぎっしり並んでいてこちらも「500年に一度」の景気にあやかろうとしています。絶対に儲けてやるゾ的屋台村をブラブラと歩いていると、面白い屋台を見かけました。ノルデスチ名物「砂絵屋」です。文章で説明するのは難しいんですが、ワイングラスなどに赤や青や緑の細かい砂を使って絵を描くというもので、ノルデスチの観光地でよく見ることができます。その芸術的な腕前を見ていると時間たつのも忘れてしまうほど素晴らしいものです。日本でも観光地の一角でよくアメ細工をやっていて、思わず見とれてしまいますが、それと同じような「制作過程で魅せる」系のおみやげです。作っているのを見ると、それが欲しくなっちゃうんですよね。でも買った後に困ってしまうアメ細工と違って、砂絵は本棚にでも飾るのにはうってつけだし、頼めば名前も入れてくれるので、アメ細工よりも勝っているかもしれません。
おみやげ屋を冷やかしているうちにイベント会場の方からドド〜ンと音がして花火があがります。どうも始まったみたいです。時計を見ると9時過ぎ。3時間遅れということでまあ順当なところでしょう。さっそく行ってみます。イベント会場は海に向かって階段状になっていて、海の上には昔の帆船の模型がたくさん並んでいます。その帆船の帆にプロジェクターで映像を表示しながら花火や音楽でストーリーを綴っているようです。あんまり話は分かりませんが、ブラジル500年の歴史を音と映像で表現しているみたいです。細かい話は抜きにして、イベントの中で一番興味深かったのが音楽。途中ブラジルの国歌をサンバ風にアレンジしたところがあって、とってもエネルギッシュな感じがして良かったですね。でもこれを聞きながらふと思ってしまいました。以前、日本の忌野清志郎が「君が代ロック」を作って、問題になってましたよね。一方ブラジルは政府企画の500周年イベントで国歌をサンバにしています。それを見て、「ああブラジルはまだ国歌というものが生きているんだな。それにくらべると日本の君が代は死んでしまった国歌なんだなぁ」と思ってしまいました。
それには訳があります。以前チベットのラサに行ったんですが、僕も観光客のご多分に漏れず、ダライ・ラマの居城だったポタラ宮に行ってきました。で、裏口から出て、ふと見上げてみると、石垣をコンクリートで補修していました。日本だったら国宝級の文化財なので、コンクリートで塗り固めるようなことはしないでしょう。またラサの中心部にあるジョカンというお寺にも行きました。ここはチベット仏教の中心地で、これまた日本なら国宝級のお寺です。でも中に入ってみるとここも補修中で、歴史を感じさせる柱や壁を赤や黄色の原色のペンキで塗り直していて、これまた日本でこんなことをしたら大問題でしょう。それを見て「どうして日本のお寺はなるべく昔のまま保存しようとするのに、チベットのお寺は塗り直すんだろう」と考えていましたが、その時の結論は「チベットの仏教は生きているから」というものでした。たとえば、今僕たちが住んでいる家が壊れたら補修をするし、古くなってきたらリフォームをすると思います。昔のままにしておこうとする人はいないでしょう。チベットの人達はきっとそれと同じ感覚でポタラ宮やジョカンをリフォームしていたんでしょう。彼らにとってポタラ宮やジョカンは僕たちの家と同じように生活の一部なんです。逆に日本のお寺はすでに僕たちの生活の一部ではなくなっていて、単に文化財としての価値しかないために保存が優先されるんだと思います。それと同じ理屈で考えると、君が代はもう日本人の生活の一部ではなくなっているのかもしれません。文化財みたいなもんです。一方元気なブラジルの国歌は今もブラジル人の生活の一部なのかもしれません。
4月23日 日曜日
このところ夜遅くまで頑張っていたので今日は昼間で全休。
行動開始は昼御飯。セントロにあるいかにも美味しそうな店に行きます。リオでもそうですが、こういった店ではテーブルにつくと、まず机の上に紙のテーブルクロスをかけてくれます。このテーブルクロスにはバイーアの観光名所などが写真入りでのっていてとっても良いんですが、使い捨てです。今日の場合、敷いてくれたテーブルクロスが風で飛ばされて落ちてしまったんですが、店員はそれを拾うとくしゃくしゃにして捨ててしまいます。確かに下に落ちたけどまだきれいなのに。
これに限らずブラジルにいるとこういったシーンをよく目にしますね、フェスタをやるときもほとんどが紙皿にプラスチックのナイフを使っていて終わったら全て捨ててしまいます。こっちでは「いちいち洗うよりも捨てた方がラク」って考えが根強く残っているようで、いまだに抵抗があります。その他にもゴミの分別がなく、全てのゴミを一緒に捨ててしまうところもちょっと慣れませんね。ラクと言えばラクなんですが。
そんなことを思いながらの食事の後は、昨日行くことが出来なかった歴史地区に行くことにします。ここはホドビアリアなどがある高台にありますが、高台に集落を作るというのは外敵防御のためなんでしょうか。そんなことを思いながら歩いていると、ホドビアリアの近くに自動車の中などで使うクッションを売っているおっちゃんがいました。このあたりは歴史地区の近くといっても外れのほうで、あんまり観光客も通らず、全く売れている気配がありません。おみやげを売るならもっとセントロに近いところで売ればいいのに…と思っていると、そのおっちゃんは看板の近くにいた人に自分の記念写真を撮ってくれるように頼んでます。どうも500年景気を当て込んでやって来た田舎の物売りのようです。右も左も分からないポルト・セグーロのホドビアリアで下車し、最初に目に付いたところで商売を始めたんでしょう。そんな具合なので半分観光気分なのかもしれません。
そのやる気のなさもブラジルらしいなぁと思っていたら、バイーアに住む友人は「いや、違う、それはブラジルらしさじゃなくてバイーアらしさだ!」と教えてくれます。もともといい加減なブラジルですが、バイーアではさらに磨きがかかっているらしく、なにかうまくいかないことがあると「ここはバイーアだから」という一言で片づけられてしまうそう。これに限らず、あちこちを歩いているとそういった「もうこれ言われたらオシマイ!」って一言によく巡り会いますね。僕が思うに、その代表格はイスラム圏の「インシャラー(神の御心のままに)」ではないでしょうか。その他にもインドの「ノープロブレム」や、ちょっと違いますが中国の「没有(ないよ!)」ってのもその仲間かもしれません。
のんきなおっちゃんを後にして、歴史地区に行ってみますが、京都の歴史ある裏町のような重厚な雰囲気は全くありません。緑がまぶしい芝生が敷き詰められた広場に真新しく塗り替えられた建物が並んでいます。建物の前には看板が置いてあって、それぞれが由緒正しき建物であることは分かるんですが、パッと見にはハウステンボスのようなテーマパークにしか見えません。今日は曇り空でしたが、もしカラッと晴れて青空でも見えれば空の青と、建物の白と、芝生の緑がはえて写真撮影にはもってこいなのかもしれません。
青、白、緑という三色の取り合わせといえば、日本の三段紅葉が忘れられません。これは日本の山に登ると、たまに見ることができるとてもありがたい景色で、山の麓の赤と、頂上に早くも降り積もる雪の白、そして青空というまさにトリコロールです。天気や降雪状況などに左右されることが多いので、あんまり見たことはないんですが、日本を代表する三色だと思います。ブラジルの三色と言えば国旗にもなっているやはり青、緑、黄色でしょう。青は海、緑は自然、黄色は太陽だそうですが、この取り合わせも有名ですよね。なんといってもそれを有名にしているのはサッカーの代表ユニフォームだと思います。世界中のユニフォームを見ても、これほど国のカラーを表していて、しかも長年変わることがなく、それでいて美しいユニフォームも珍しいんじゃないでしょうか。
ちょっと期待はずれだった歴史地区を後にしますがまだまだ時間があります。どうしようかと考えた末、北の方に行くことにしました。ここから北に行くと、ブラジルで初めてのミサがおこなわれたコロア・ヴェルメーリャ ( Coroa Vermelha ) やブラジルで三番目に古いと言われている教会があるサンタ・クルス・カブラリア ( Santa Cruz Cabralia ) などの歴史的な町がいろいろとあるみたいです。
北行きのバスは海岸沿いを走ります。右側には椰子の木が立ち並び、その合間から白い砂浜が見え隠れします。そして左側には鬱蒼とした森が、遠くに見える山の方まで続いています。曇っているせいか、その景色を見ていると玄界灘沿いの道路を思い出しますね。もちろん玄界灘には椰子の木はありませんが、そのかわりに虹の松原と言われるぐらいの美しい松林があり、ここの景色に似ています。さらに海岸沿いを進んでいくと両側にポツンポツンと郊外型のリゾートホテルが現れます。どのホテルも平屋建てですが、広い敷地にプールやコテージが広がっていて開放感にあふれる作りです。以前この道を走ったことのある友人いわく「その時は建築中のホテルが多かったと」ということなので、500年に当て込んで作ったものなんでしょう。
その後も椰子の木と砂浜の景色は続いていきますが、これがノルデスチなんでしょうか。サン・パウロにいるかぎり「南国に来た!」って感じは全くしないんですが、ここにいると否が応でも南国気分が高まりますね。
そしてサンタ・クルス・カブラリアに到着。ポルト・セグーロの町もそれほど大きくないんですが、ここはさらに輪をかけて小さい町でした。日本の小さな漁村と同じで、海岸沿いの通りの両側に小さい町が広がっています。ちょっと裏通りに出ると子供達が元気に遊び回っていて結構いい雰囲気です。
ここの教会も高台の上にあります。急坂の上に教会があるんですが、そのまわりには子供達がたむろしていて「ガイドするよ!」と集まってきます。これまた友人の話によると、前回行ったときは子供達にガイドを頼んだんですが、子供によって言っていることが違い、しまいには子供達どうしで「僕は学校でちゃんと教えてもらったんだ!」と喧嘩を始めちゃったそうで、なんとも楽しげな子供達です。と言ってもそこには教会が一つあるだけでガイドをしてもらう必要もないのでブラブラと歩きます。ここも数ヶ月前まではちょっと汚い教会だったそうですが、ペンキは塗り替えられている上に、教会のまわりにはきれいな芝生が植えられています。またまた500年効果による改修でしょう。そう思うとちょっと残念な気持ちがする僕でした。
でも日本でもこういったことはありますよね。僕は「天皇効果」と名付けているんですが、僕が高校生のころ天皇が九州を行幸したことがあり、うちの町で一休みして汽車から自動車に乗り換える予定になっていました。その時まで、我が家の近くの道路は日本の道路のご多分に漏れず、無計画な水道工事や電気工事によってでこぼこになっていたんですが、天皇行幸を前に、天皇が通るルート沿いの全てのアスファルトがはがされてきれいに舗装し直されました。お陰でその後しばらくはとっても快適な道路だったんですが、時がたつごとにまたもや元のボコボコの道路になっちゃいました。また遊びに来てほしいです。
なんとなくサンタ・クルス・カブラリアもいまいちな感じがしましたが、その後ブラブラした海岸はなかなか良かったですね。そこはちょっとした岩礁になってましたが、大西洋から風が強く吹きつけ、どんより曇った空と鉛色の海がいいコントラストです。沖合を見ると手こぎ船に乗った漁師達が強風の中を巧みに櫂を操りながら、安全な岩陰に入ろうとしています。太陽と椰子と水着のモレーナとは違った、「生活の海」を感じさせてくれる瞬間でした。もともと夏の海よりも冬の海が好きな僕にはこういった風景が一番落ち着きます。
これがノルデスチなのかもしれません。昨日までのポルト・セグーロはお祭りに備えて化粧ばっちりでしたし、話に聞いたフォルタレーザやサウバドールもそんな雰囲気のようです。まわりの人達からは「ノルデスチを見ないとブラジルを見たことにはならないよ」と言われているんですが、もしかしたらこういったノルデスチのことを言っているのかもしれません。
4月24日 月曜日
ポルト・セグーロ最終日となって初めて太陽が顔を見せてくれました。快晴。真っ青な空が広がっています。昨日までは鉛色の空もいいね!とか言ってましたが、やはり南国の強烈な太陽もいいもんですね。
せっかくの晴天ですが、今日は昼過ぎのバスで帰らないといけません。ゆっくりと歩く暇はありませんが、写真でも撮りに行くことにしました。ということなので、町を歩き回っただけで何もしていませんが、こういう天気だと何を撮っても絵になりますね。絵になるというよりか絵はがきになると言った方が正確かもしれません。そんな景色ばかりでした。
さて、時間まで思う存分写真を撮った後はホドビアリアに急ぎます。ホドビアリアには、これからブラジル各地に帰る観光客がたくさんいました。でいつものごとく人間観察。今回目についたのはイタリア系らしい父親と黒人の母親の家族連れ。子供が二人いたんですが、兄は黒人風で肌も黒く髪もチリチリなんですが、弟は髪もストレートに近く、肌の色も小麦色程度です。ブラジルは混血が多いんですが、混血一代目はこういった具合になるんですかね。それともどちらかが貰い子なんでしょうか。こちらでは子供がいない夫婦が貰い子をすることが多く、その場合、肌の色など気にせず貰い子にするようですから。
で、その子供達はバスを待つ間におじいちゃんからポテトチップスを一袋買ってもらっていましたが、そのおまけが「ポケモンカード」で、二人で取り合ってました。こんなところにまでポケモンは広がっているんですね。
やがてバスも到着。これからまたもや30時間にわたるバスの旅の始まりです。しかし今回の旅では一週間の間に70時間近くバスに乗ることになってしまいました。しばらくバスには乗りたくありません。