原相論
存在論
第三章 第四章 第五章 第六章
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第五章 教育論 一、統一教育論の原理的根拠 (一)神への相似性と三大祝福 神は御自身に似た対象として人間を創造された(創1/27) (1)完全性 神の完全性に似る 心情を中心として性相と形状が一つになること 生心と肉心の一体化 生心が主体、肉心が対象 愛を基盤とした真美善の生活を中心にして、衣食住の生活を営まなければならない (2)繁殖性 神の繁殖性に似る 夫婦の調和 夫、妻としての道理を果たすことができるようになり、結婚して子女を繁殖しなければならない (3)主管性 神の主管性に似る 神の創造性に似ること 心情を中心として万物を主管するようになっている (二)人間の成長過程 神に似るようになるためには一定の成長期間がなければならない。成長とは神に似てゆく過程である。三大祝福とは成長したとき神の完全性、繁殖性、主管性を相続するという意味の祝福である。三大祝福は三大予約祝福である。 アダム、エバは三大祝福を純粋に自分自身の責任分担として完成しなければならなかった。アダム、エバが完成していればその子女は父母の教えに従順に従えばよかった。父母が子女を三大祝福を完成できるように導くことが教育の根本となっていた。 今日の学校教育においても教師は父母の心情で、父母の代身として生徒を教えるのが本来の在り方である。 二、教育の三形態 (一)心情教育 (1)個人完成のための教育 生心と肉心が一つになるためには心情が生心と肉心の授受作用の中心にならなければならない。子女に神の心情を理解させなければならない。 (2)神の心情の表現形態 神の心情は創造、堕落、復帰を通じて三つの形態に表現される。希望の心情、悲しみの心情、苦痛の心情 ○希望の心情 : 宇宙創造における神の心情 最愛の子女アダム、エバを得る期待と希望に満ちた喜びの感情と実際にアダム、エバが生まれたときの喜びの感情 神は最愛の子女を得る一時を望みながら、苦労をものともせず長い期間を通じて宇宙を創造された。 ○悲しみの心情 創造の時の期待と喜びがあまりにも大きかったために、アダムとエバが堕落してサタンの支配権に落ちてしまったことは格別の悲しみとなった。 ○苦痛の心情 堕落した人間を再び生かしていく過程における神の心情は苦痛の心情 神は聖人、義人達の受ける迫害を御自身に対する迫害として受けとめられた。 (3)神の心情の理解 心情教育のためには神の三つの心情を子女に理解させなければならない。復帰路程における神の心情を教えることが必要である。 (4)実践を通じた心情教育 父母は子供を真剣に愛さなければならない。子供が父母から叱られても愛の故に叱られているという思いが自然に湧いてこないといけない。子供が父母をかわいそうだと思うぐらい父母は神と人類のために苦労して働くことが必要である。 (二)規範教育 : 家庭を形成する資格を備えるための教育 夫、妻としての道理、家庭における父母と子女の在り方・兄弟姉妹の在り方 規範教育は心情教育と併合させなければならない。規範に愛がなければ形式化して律法的になってしまう。愛の雰囲気の中で規範教育は実施されなければならない。規範と愛は一体になっていなければならない。 愛は円満であり規範は直線的であるから、愛と規範の統一された人間は円と直線を統一したような人格といえる。このような人格を持つ人間はあるときには厳しく、またある時には優しいというように、時と場所に応じていつでもふさわしい態度をとることができる。 (三)主管教育(知識教育、技術教育、体育) (1)主管性完成のための教育
(2)創造性の開発と二段構造 創造の二段構造における内的四位基台及び外的四位基台の形成能力を養わなければならない 内的四位基台の形成能力 ロゴス(構想、設計図)の形成能力 外的四位基台の形成能力 一定の構想に従って道具や材料を用いて構想を実体化する能力 (3)普遍教育を基盤とした主管教育 心情教育と規範教育は全人類が共通に受けなければならない教育であるから普遍教育という。主管教育は個人の資質によって学ぶ領域が異なるから個別教育となる。普遍教育と個別教育は性相と形状の関係にあるといえる。 愛の教育、倫理・道徳教育の基盤の上で知識教育と技術教育が行われなければならない。教育の原点は家庭にあり家庭教育の延長、発展したものが学校教育である。 三、被教育者の理想像 人格者、善民、天才 教育を理想的人間像という観点からみると、心情教育は人格者教育、規範教育は善民教育、主管教育は天才教育 四、統一思想から見た従来の教育観 ○プラトン プラトンは善のイデアを認識した哲学者を理想的人間像としてそのような哲学者が国家を統治すれば理想国家が実現されると考えた。 善のイデアの思想が漠然としている。神が人間と宇宙を創造された目的が明らかにならない限り善の基準は明確にならず、その理想を実現することはできない。 ○中世のキリスト教 中世のキリスト教は神を愛し隣人を愛する人間になるように教育した。 神の愛は何故イエスの十字架に現れたような犠牲の愛なのか、神は何のために人間を造られたのか明らかにされていない。それ故人間性に目覚めた近世の人々を導けなくなった。 ○ルネサンスの時代 ルネサンスの時代の教育は抑圧されていた人間性を解放した。人間中心に偏ったために次第に宗教的な道徳性を失っていった。 ルソーは人間を自然のままに成長させることを主張した。人間の性質を無条件に善としたところに問題があった。心情教育と規範教育を施さなければ自然のまま育てるといっても本来の人間の姿に成長させることはできない。 カントは道徳教育に重点をおいた。道徳の基盤となるべき神が実存しているのか曖昧だった。個人的規範としての道徳のみが問題にされているのは不十分である。 民主主義の教育は個人の権利を尊重するあまり個人主義、利己主義の風潮を生んだ。また人道主義に基づいて人間性を主張しているので価値観が相対的になった。その結果社会の混乱が生じた。心情教育と規範教育がなされて初めて個人の尊厳性が確固たるものとなり、社会の調和と秩序が保たれる。 |