オンラインエッセイ: 月は東に尾は西に


昨日と違って風はもっと向こうに

でも、今日も月は頭上に高く高く

はてさて、明日はどっちへいってみようか

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「届けなかったラブレター」、「半端者」のふたつを一つにまとめました

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十二月のエッセイ 「そうは問屋が卸さない」

こう見えても浜っ子である
見栄で生きているところがある
美学なんて格好のいいものではないが
それでも他人様よりはほんの少し先を行ってみたいとか
ちょっとずれていたいとか思うことが多い
離れていたいなんて風にも思う
どうもつるむのはいただけない、なんて思ったりもする

身勝手なだけとも言えるし
我がままが過ぎると言えなくもない
人からみれば、へそ曲がりの天邪鬼に見えるだろうし
協調性がないと写ることもあるだろう
しかし、それは致し方ない
己を見失わないためには
生き方を貫くためには
避けて通れないこともある
ぶつからねば成らない事だって多いのだ

変に分かったような顔をした大人になったとして
それが一体何になるというのか
その答えを知ろうとしても
今どきの学校では決して教えてくれないに違いない
そんなものに正解なぞないからだ
だったら自分に正直に
多少の軋轢は覚悟の上で
正直に生きたいと思うのである

それなのに、不思議に
協調性があっていい人だ、などと言われたりする
世の中
そうは問屋が卸さないということか

十一月のエッセイ2 「どうしてなのかなあ」

どうしてなのかなあ、と思うこと度々である
つまりは自分の不徳のいたすところであるわけだが
自分のことであっても、自分のどのへんが不徳であるのか
さらに言えば、一体全体どこに
いたすところがあるのかが分からない
我ながら無知蒙昧、甚だ恥ずかしいと言わざるを得ない

しかし多少得心がいかぬでもない
そもそも本人が分からぬような不徳は、たとえあったとしても
些細な不徳なのではないか
いや、むしろ・・・そのような不徳など本当は存在しないのではないか
などと、不徳にも考えてしまうのである
これを不徳と言わずになんと言えばいいのだろう
まあ、一般には「愚か」と呼ぶのだろうと
頭の片隅では理解してはいるのだが
いかんせん、ねじ山のつぶれたねじのようなおつむなので
そのような真っ当な考えは耳の穴や鼻の穴から漏れ出てしまうのである

若い頃に勉強しなかったつけがまわってきたということだ
反省しよう
なにしろ反省だけなら只である
おおいに反省しよう
などと不真面目な、いいや不埒な言動をするにつけ
どうしてなのかな
どうしていつも同じ道をぐるぐる回りしてしまうのかな
進歩しないなあと涙が出そうになる

人に優しくならないといけないことはわかっているのだが
分かっていることと実行できることは違うからなあ
と、また逃げに入っている私なのである

十一月のエッセイ 「なんということもなく」

冷え性なので寒さが訪れると足元が冷えるのである
小さいときはかなりの低血圧だったので
足が冷えるのはそのせいだろうと思っていた
30をこえ老化とともに血圧は徐々に上がった
だが、冷え性はいっこうに改善の兆しがみえない
この歳になってやっと血圧と冷え性の相関は小さいことがわかった

血圧と冷え性の相関が小さいことが分かったのは嬉しいが
肝心の冷え性が改善されないのでそれほどには嬉しくない

知的好奇心だけで人生は輝やくと誤解していたのは30代
やはりそれだけでは、今ひとつ人生は輝かない
今はやっぱ健康が一番と早合点してる40代といったところか

こんな馬鹿な話を端末に向かって一人書き連ね
読み返しては一人笑いしている間にも
冷気はシンシンとせまり指先はジンジンと痛みをます
季節は私に容赦なしである

妥協の無さを潔いと誤解していたのは20代
やせ我慢は男の美学だと今も誤解している40代
季節が流れるように時も流れていくことを
やっと受け止めれるようになったのかもしれない

まあ、いうなれば・・・なんということもなく、ではあるが

十月のエッセイ 「遠く離れて」

近くにあると分からないことがある
どうやら人間は自分の足元を見るようには出来ていない
だから転んだりつまずいたりして危なっかしい
それでも目線はどうしても地平に向かう
コンクリートにさえぎられている都会の隅でも
見えない地平を探すかのように
下を向いて俯きながら歩きたくはないけれど
中年と揶揄されるようになれば肩を落とし俯くことも多くなる
それでも足元を見ているわけではない
呆然として漫然と歩を進めているだけだ

ああ、なんて出来の悪い生き物だ
ライオンだって馬だってけつまずいたりなんかしない
像だってキリンだってよろめいたりなんてしない
生きる活力も生き抜く気力もない日本人
タフでなければ生きていけない、それとも生きる資格がないだったか
とにかく探偵さんくらいしかタフな人はいなくなった
そのぶん生き方が随分ラフになった
お手上げである
不真面目にさえ生きられないようではまったくもってお手上げだ

地平を見る性癖はたやすく負けを認めるためのものではない
しぶとく、図太く生き抜くためのもののはずだ
色んなことがあるかもしれないが
何もなければ人生とはいえないだろう
あっちやこっち、上や下
前に後ろ、みぎひだり
振り回されているだけじゃない
呼吸を整えて一気に叫べ
私はここにいるぞ!と

あなたはひとりじゃない
あまりに近すぎて分からなくなってるかもしれないけれど
地平に向けていた目線を少し変えて
あなたの周りを見回してみてください
ほらね
生きるための色々なものが、そこにあることに気づくでしょう
まったく、こんなことも分からなくなるなんて
本当にもう、お手上げですねえ
やっぱり人間って出来がよくないようで

九月のエッセイ 「カレンダーはめくられていく」

偉くなると碌なことがない
態度が大きくなるのがいただけない
声に品がなくなるのもいただけない
目つきが悪く、顔色がすぐれない上に
身勝手な振る舞いが増えてくる
どれもこれもマイナスの作用が強い
マイナスイオンとやらは健康にいいそうだが
これらのマイナスは
人の心持を湿っぽくさせていく

圧倒的な権力者と言われる人は
どうもそんな風であるように思われる
大手新聞社のお偉いさんや外務省の局長さんあたりは
かなりマイナスの作用に毒されている
ワンマンなどと言われているうちはまだ良いほうだが
それこそ裸の王様状態になってしまってからでは遅い
でも、不思議なことに
圧倒的な小物にも同じような人が居たりする
まあ自分のことは棚に上げて言うからいいようなものの
私が生真面目な小心者であったら
エッセイを書きながら、自己嫌悪になってしまうだろう
幸運にも単なる小心者なので自己嫌悪に陥ることはない
第一そんなことでは長生きが出来ない
長生きできなければ役得にもあずかれない
生真面目にならないように気をつけよう

小市民であれと思う
平凡でありたいとも
普通の人生をとも
それとともに何か他人様と違う
一瞬の華やかさを求めたりもする
永遠のきらびやかさを望まないところが
小心者の証左である
身分不相応では生きられない
では身の丈はどの程度なのか
測りかねている
そんなものを測る定規を持ち合わせてはいない上に
誰も教えてくれないから、困ってしまう

一週間の短さを強く感じるようになった
聞けば歳を重ねればもっと早くなるそうだ
エライコッチャである
偉いか偉くないかなどと思い煩っているうちに
カレンダーはどんどんめくられていく
頼みもしないのに、である
あせりで顔が曇り
声がかれる
心臓がバクバクする
ああ、そうか
偉い人にも、偉くない人にも貧相な人が居るのは
頼みもしないカレンダーをめくられてしまうことへの
抑えようもない苛立ち
隠しようもない焦燥
それがあるからに違いない
少し納得はしたが
だからといって解決には程遠い
トホホなことである

七月のエッセイ 「夏の暑さを考察する」

暑いというと余計暑くなる
父は不機嫌に汗をぬぐった
そんなことを言っても暑いものは暑いんだ
子は恨めしげに天井を見上げた
庭にはだれきった駄犬が舌をたらしてダウンしていた
昭和30年代あたりのどこにでもある夏の景色である
確かにあの時も暑かった
でも
こんなにひどくはなかった
なぜ日本はこれほどまでに暑き国にと変貌したのか
まあ、東京を含む一部の都市だけのことかもしれないが

考えるに
アスファルトがいけない
まさに焼けるようにという形容詞がふさわしく
東京の夏のアスファルトは焼けている
その鉄板の上で焦がされた日本人が
何を恨むこともなく暑さに踊り狂っている

さらに考える
クーラーがいけない
熱風を噴出しながらうなりをあげて回っている室外機
自分だけがよければいいと言わんばかりに
傍若無人の振る舞いである
隣がクーラーを入れれば
対抗上こちらも入れざるを得ない
隣の暑さと騒音をいただく義理はかけらもないのだから
敵がそうくるなら守りをかためなければならない
生きていくための悲しい知恵だ

さらにさらに考える
森は木からコンクリートに変わった
部屋には熱源となる家電製品がはびこっている
ヒートアイランド現象に異常気象
原因は複雑で幾層にも折り重なっている
でもそんなことより
夏の暑さを喜ぶ余裕
実りの秋を楽しむ心を失くした
せみやカブトムシ
トンボを追いかける裏山
そんな夏の景色が失せたことが大きい
暑苦しくなるから暑いと言うな
そう怒る30年代の親父さんの姿も消えた
冷蔵庫の中に頭を突っ込み
一時の涼をとった子どもたちの姿も、もう消えしまった

六月のエッセイ 「いやあ世はワールドカップですなあ」

にわかファンも筋金入りのファンも入り乱れてというべきか
一糸乱れぬというべきか
叫ぶ喜ぶ笑う泣く、ですなあ
熱しやすく冷めやすいのが国民性かどうかは知らないけれど
サッカーのサの字くらい言わないと非国民扱いである
さすがのタイガーズファンもしばらくおとなしくしていたほうが無難であろう
もちろんジャイアンツファンもしかりである

サッカーほど世界の人に愛されるスポーツはない
ワールドカップの巨大さ、熱狂の度合い、陰謀の深さ
どれをとっても申し分ない
他のスポーツとは明らかに一線を画している
さて、それは何故だ?と考えてみる
どこでも出来る
それこそサッカー場どころではない、ゴールだってなくてよい
用具もそれほど大したものは必要ない。手作りのボール一個で十分
誰でも出来る
小さな子どもからお年寄りまで、体力も技量も千差万別でよい
走れて、ボールをけれればそれでOKなのである
いつでも出来る
場所を選ばず、人を選ばなければ当然のことである
独りでも二人でも10人でも20人でも30人だって出来る
結局世界のどこでも、誰でも出来るってことだ

手を使ってはいけないという理不尽なルールも
攻守の区別がない点も
めったにゴールが生まれないことも
栄光も名誉も名声も手に入る
もちろんそれに倍するだけの金銭もばっかばっかと降り注ぐ
もちろん一握りのスーパースターだけではあるが
むしろ他のスポーツに比べてその寿命は短かいかもしれない
それでも世界中の人々にドアは開かれている
誰でも出来る、そんなものがサッカーの他にあるだろうか
いや、ない
サッカーファンはそう断言するに違いない
似非サッカーファンだろうと真性サッカーファンだろうと
サッカーファンなら当然のことである
それは当たり前のことである
なにしろワールドカップである
一次リーグ一位である
猫も杓子もサッカーなのである

四月のエッセイ 「春爛漫」

初夏と言ってもいいような日差しの中
マンションの植え込みは一面の花びらである
いつ咲いたのか知らぬ間に
いきなりの春爛漫である
挨拶の一つもあってしかるべきだろう
と、中年のおじさんなら一言嫌味も言いたくなる
まあ、私は中年でもなければ、おじさんでもないので
いきなりかい!とただ、突っ込むだけのことであるが
さほどに季節は急ぎ足で過ぎ去っていくのである
まるで何者かから逃げさるかのように
それは青春が急ぎ足で駆け抜けていくかのようでもあり
25過ぎた女性のお肌が急ハンドルで曲がるかの如くでもある
違いはただ一つ
季節はまた巡ってくるということだ
それだけで十分なほどの圧倒的な差異である
まあ、嫌になっちまうほどの大差である
完敗である
誰が誰に負けたのかは定かではないが
周回遅れって感じの惨敗ではある
と、中年のおじさんなら
春爛漫という言葉にさえこの程度の嫌味を言う
もっとも私は中年でもおじさんでもないので
はっきりとは分からないが
多分こんなもんだろうと、推察してみるのである
致し方ない
中年予備軍であるし
おじさん手前でもあるわけだから
今から準備と言うか覚悟と言うか
それなりに心構えといったものを用意しておきたいのである
清く、正しく、美しい中年になるのも結構大変なのである
そんな馬鹿なことを考えながら買い物から帰ってくると
マンションの植え込みの花は微苦笑を浮かべながら
出かけるときと同等に
優しく私を迎えてくれるのである
それは可憐な少女の
少しはにかんだ微笑みのようで
ああ、春なんだと
ひねくれものの私を単純に幸せにしてくたのである

三月のエッセイ 「桜-2002年」

今年は温暖化の影響ではないだろうが
いやに気ぜわしく桜が咲いた
東京は満開になる前に吹いた風のためか
まだ咲ききらないつぼみを抱いたまま
かなりの花が散ってしまった状態で
どことなく向こうの景色が透けて見えてしまい
力が入らないような風情である

でも、そこはやはり桜
腐っても鯛である
色気と妖しさを振りまきながら
人々に今年も意識の底からこみ上げてくるような
胸騒ぎを与えている
もちろん私も例外ではなく
今年もまた意味もなく
桜の木の下には死体が埋まっているんだ
などとつぶやいて
桜の花をビール片手に見上げているのである

引っ越した関係で多摩川のガス橋の堤の桜並木を
二日続けて見る
屋台が殆どないこともあってか、それとも昼日中かだからか
家族連れやご近所さんといった人々が目に付いた
体育会系の若者の喧嘩騒ぎもあったにはあったが
突然の雷と雨、春まだ遠いと思わせるような肌寒さ
これらのことを除けばいたって穏やかな花見の宴である
そう、いつだって花見は穏やかなのである

もしかしたら明日は突然消える命であるかもしれないことを
あそこの親子にもこちらのカップルにも
目の前の学生さんにも、もちろん私にも
それこそ平等に思い知らせてくれる意地悪な花なのである
すこし心がザワザワする
そういう花なのである
だから・・・なのか今年もまた勇んで花見に行くわけである
2002年の桜は少し色が薄い気がする
中年の夫婦がそんなことを話しながら通りすぎていきました

一月のエッセイ 「抱負というほどのものではないけれど」

今年は去年よりも明るく過ごしたい
出来れば笑顔を絶やさず
肩の力を抜いて
悲惨な幕開けの21世紀を
人々の強靭と呼ぶべきしなやかさで乗り切りたい
その一人になりたい
憎むことではなく
思いやることで世界を眺めたい
いや、世界などとは言わぬ
私の周りの大切な人一人一人を
見つめていたい
病み上がりの母と
その母を心配する父と
兄と弟と
義姉と姪っ子甥っ子と
もちろん親戚のおじさん、おばさんも
遠くに住む友と
近くに居る友と
中々会えない全ての人と
いや、時々会ってしまう嫌な人とも
にっこり笑って挨拶しよう
世界が幸せになれますように
イスラム教徒も
キリスト教徒も
仏教徒も
全ての「何か」を信じる人と
今日が平穏でありますように
どうか、人みな幸せでいられますように
クリスマスと同じ言葉を口にしよう
病み上がりの母と
遠く離れた友に
少しだけ大目の思いやりをこめて
今年がいい年になりますように

どうですか、今年の出足は
優しさに溢れているといいですね

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