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日々の記録 2001年3月


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2001年3月30日 金曜日

こっちでトム&ジェリーを見ていて、日本未公開カットがあることを発見しました。

「トム&ジェリーの花火戦争」とかいうタイトルだったと思いますが、花火を使ってトムとジェリーがいつものように戦います。全体のイメージが第二次大戦っぽくて急降下爆撃とかやったりするんですが、最後にはお約束の通り、トムが巨大花火にくくりつけられて空に打ち上げられてしまいます。

その花火が爆発して星条旗の形の花火になるところまでは日本と同じですが、その後に大事な1カットがありました。もちろんブラジル版では放送されたんですが、画面いっぱいに「戦場に兵士を送れ!」という戦時中のポスターみたいなものが映し出されて終わったんです。漫画的にはトムが花と散ってしまったので、それを戦争風に表現して「戦場に兵士を送れ!」になったんでしょうが、日本ではこのカットはなかったと記憶しています。たぶん戦時中の赤紙を連想させるからなんでしょうが、このあたりに日本のテレビ局の細かい配慮を感じたりしてしまいました。

その他にも日本とブラジルでは違うものがたくさんあります。まずは格闘ゲームストリートファイター2。このゲームには「ベガ」というボスと、「バルログ」「バイソン」「サガット」という三人の部下がいますが、このように変わっています。

画像ベガサガットバルログバイソン
日本名ベガサガットバルログバイソン
ポル語名バイソンサガットベガバルログ

ポル語名といっても、アメリカ版を移植しただけなので、ことの原因はアメリカにあるようです。まず「バイソン」は明かに「マイク・タイソン」をイメージしているのでまずいでしょう。それに「ベガ」という名前は女性の名前であり、ボスの名前としてはとても情けない。だから女性的なキャラクターのバルログがベガと名づけられたんだと思います。

この他にもケンというキャラクターがいますが、ポル語で「ケン=quem」というと「誰?」と言う意味。ゲームの中で「ケ〜ン」と名前が呼ばれるたびに子供達は「誰や誰や?」と笑っています。

ケン

なんだかこのケンは高橋英樹に似てません?

ちなみにバルログというのはもともとトールキンの小説「指輪物語」の中のモリアの洞窟で出てくる鬼の名前ですが、バルログというキャラクター名を知ったときに「お〜スト2の作者もバルログを知ってるんだ!」と奇妙な連帯感を感じてしまいました。

また、ポケモンは日本とブラジルでは全然呼び名が違います。半数以上の名前が変わっていて、いちいち原因を考えてもキリがありません。多分、日本的な響きがポルトガル語にマッチしなかったり、日本語の単語をもじってつけた名前をポルトガル語に代えたりしたんでしょう。帰国前になんとかポケモンリストを手に入れて、ちゃんと比較したいものです。



2001年3月29日 木曜日

今日は、我が町に領事館の人達が来て、在外邦人選挙登録を中心とした「一日領事館」が開かれました。僕も日本語での書類の書きこみや、ポルトガル語の書類の翻訳などで狩り出されましたが、朝8時から、夕方の5時ごろまで大勢の人達が訪れて大盛況でした。日本との絆を深めるためにやってきてくれた人達の思いを直に感じることが出来、とても貴重な体験でした。このあたりは後日まとめて「もうひとつの百万都市」に掲載するつもりです。

*     *     *

水曜日は文協主催の公式送別会でした。生徒の父兄を中心に大勢の町の人たちが集まってくれてとてもありがたかったです。みんながこんなにも僕のために尽くしてくれたのに、僕のほうは町の人達に何ができたのだろうと思うと、ちょっと申し訳ない気もします。

その中でみんなと話していたんですが、全然日本に帰るという気がしません。文協の人も「先生は日本に帰るんだけど、全然そんな気がしないねぇ。だから不思議と悲しくないよ。」と言うし、僕も日本に帰る気がしないので、あまり悲しくありません。これだけ深いつながりができたこの町に二度とやって来ないなんて全く考えられないなぁ。何か二年か三年間出稼ぎに行ってくるぐらいの軽い気持ちの自分です。実際、来年の終わりか再来年の始めには新婚旅行でこの町に戻ってくる予定だし、それからも時間を作って子供と一緒に訪れるたいし。

これまでアジア各地を旅行していて、「僕は一生あちこちをうろつくんだろうなぁ」と思っていました。旅先で「いつかお前も『ここだ!』と思うところに出会うかもしれない。そこにめぐり合った旅人は幸運だ。」と聞かされたときも「自分にそんなことあるんかなぁ」と思っていましたが、どうもこの町がその場所のようです。



2001年3月27日 火曜日

このところ身の回りの人達の日本旅行熱が過熱しています。だから「先生、日本ではどこがいい?」と聞かれることもしょっちゅう。

先日は「先生、今年の終わりに沖縄で大きなフェスタがあるらしいけど知っとるね?」と聞かれました。多分11月に行われる「第三回世界のウチナーンチュ大会」ですね。沖縄が移民県として世界各地に同胞を送り出してきたのは有名な事実。「○○県人会」というのは星の数ほどありますが、「○○村民会」、「○○町民会」レベルまで組織されているのは沖縄県ぐらい。それだけ移民の数が多いんです。

こちらでは沖縄出身の移民のことを「沖縄さん」と呼んでいます。現在でも沖縄と本土とは微妙な関係ですが、その影は移民社会にも伸びていて、沖縄さんと本土の移民とでは仲が悪かったそうです。沖縄さんが生活に困って、本土の人に米を借りに行ったけど、取り合ってもらえなかったなどという悲しい話をいくつも聞きました。この広大な大地でも、矮小な島国根性が発揮されていたのかと思うと本土人の僕としても悲しくなります。そのため、日系人の統合のシンボル「ブンキョー(文協)」も本土の人達の文協と、沖縄さんの文協が別々のところもあるそうです。

ブラジル沖縄さんがたくさん住むところとして有名なのはカンポ・グランジ ( Campo Grande ) 。マト・グロッソ・ド・スウ州 ( Mato Grosso do Sul ) の州都のこの町には大勢の沖縄さんが住んでいるとか。そのことを町のおじさんにしたところ訳を教えてもらいました。

「あの頃の沖縄さんは鉄道工事の人夫をやってたんだ。この町を通るノロエステ線の工事とかもやっていて、ノロエステ線は奥地までどんどん伸びたけど、カンポ・グランジまでで工事が終わったんで、そこで定住することになったんだよ。」

ノロエステ線といえば、日系人の故郷と言われ、たくさんの日系人が住むところ。普通ならもっと多くの沖縄さんがいてもおかしくないんですが、彼らは鉄道工事の進展にしたがって、奥地へ奥地へと入って行きました。もしかしたら沖縄さんたちの定住を阻むような何かがこの町にもあったのかもしれません。



2001年3月26日 月曜日

三日連続の送別会が終わって一段落。

この二年間、日本に比べると遅々としてすすまない仕事に「僕の仕事ってなんだったんだろう。この町のみんなの役に立っているんだろうか。」と思うことも多かったんですが、集まってくれたたくさんの人々の「先生、二年間どうもありがとう。また来てくださいね。」という一言で救われました。目に見える成果がなくとも町の人たちの心の中に何かを残せただけでも十分です。

*     *     *

アラサツーバの送別会では新任の教師が三人来ていたので、自己紹介を兼ねてゲームをしました。ある人の印象を色や鳥や動物などにたとえて、それが誰かを当てるというゲームです。その中で、背が低くて面倒見の良いある先生のイメージについて僕が「看護婦」と言ったんですが、ブラジルの先生たちから「全然違うよ!」と反論されてしまいました。

後で詳しく聞いてみると、ブラジルでの看護婦のイメージは「背が高く、凛としていて、知的な雰囲気」なんだそうです。日本の「どちらかと言うと背が低くて、世話好きで、明るい人」というイメージとはだいぶんかけ離れていて驚きました。

*     *     *

また、送別会と言えばお別れの記念撮影。いろんな人達を記念撮影をしましたが、僕は記念撮影が苦手。みんなで並んで準備完了状態になり、「はい、撮るよ!」と言われると、まばたきをしないように頑張るんですが、頑張ろうとすればするほどまばたきがしたくなってしまいます。「はい、撮るよ!」からシャッターが押されるまでの時間に耐えられず、まばたきをしてしまった瞬間にかぎってシャッターが押されるんですよね。昨日だけでも、五回は目をつぶってしまいました。もうここまで来ると、マーフィーの法則を超えて、ある種の障害のような気がします。そう思うと僕には他にも似たような障害がたくさんあることに気がつきました。

なんとも情けない障害ですが、三番目の場合、バンジージャンプのように「飛びこめ!」と言われると、絶対に飛びこまないんですよね。これを利用することができれば、僕の障害は一挙に解決されるはず。つまり、逆のことを意識すればいいんです。「勉強しなくちゃ!」なんて思わずに「俺は試験前には勉強しないもんね!」と思えば、勉強が出来たんです。

今週の目標 【 引越し準備なんかするな、のんびり休め! 】



2001年3月23日 金曜日

今日から怒涛の送別会ウィークの始まり。

今晩は100km離れた隣町のバウルー ( Bauru ) の先生方に呼ばれて送別会、明日はそこから200kmはなれたアラサツーバ ( Aracatuba ) で送別会、そして日曜日にはリンスでの送別会第一弾。あちこちの方々に呼んでいただき、送別会までやってもらえる僕は本当に幸せ者です。

ということでちょっと時間がありませんので、この辺で。次は月曜日かな?



2001年3月21日 水曜日

日本のスポーツで今、一番の話題といえばイチローです。。。ですよね(ちょっと不安な問いかけ)。オープン戦を見るかぎりでは日本にいる時と変わらぬ大活躍のようで、来月日本に帰る僕として、楽しみがひとつ増えました。ただ、反対に野茂、佐々木、イチローと日本の有力選手が大リーグにどんどん行っちゃう日本では「プロ野球の空洞化」が問題になっているとも聞きました。確かに有力選手がいないプロ野球は寂しいものがありますよね。

と、思ってまわりを見まわしてみると、ブラジルも全く同じ状況でした。話はサッカーなんですが、ブラジルの有名選手がヨーロッパや日本で活躍していることは周知の事実。国内リーグで若くして活躍する選手がいると、すぐに海外移籍の噂がたってしまいます。移籍の数は半端な数じゃないので、そのおかげで国内リーグの人気が落ちるのかもしれませんが、逆の見方をすると、不動のレギュラーが海外に移籍してしまう分、将来有望な若手がドンドン育つという効果もあります。

また、人々を見ていると、海外で活躍する選手を応援こそすれ、嘆く人はあまりいません。しかし海外に取られっぱなしなら怒るはず。そんな人々が溜飲を下げるのがワールドカップなのかもなぁと思いました。ワールドカップになると世界中のトップリーグで活躍する選手がブラジル国旗の下に集まってきて、快進撃を続けます。「たとえ選手を世界にとられたって、ブラジルサッカーリーグのレベルがヨーロッパより低いと言われたって、最後に勝つのは俺達なんだ!」と思える瞬間なんでしょう。

ということで、野球でもワールドカップをやったらどうでしょう。大リーグで活躍する日本人選手に日本のオールスターの選手が日の丸の下に集合して世界のチームと真剣勝負を繰り広げる。想像するだけでもワクワクしませんか?現在、野球の世界選手権みたいなものとしてはオリンピックがありますが、プロ選手の出場が少ないので、「本当の日本の実力はこんなんじゃない!」とフラストレーションが溜まる人も多いはず。もしワールドカップがあったら、『実力のあるヤツは大リーグで腕を上げて来い!その分、空いたポジションを使って国内の若手の有望株を探すんだ!』という雰囲気がうまれて日本の球界が盛り上がると思うのは僕だけでしょうか。



2001年3月20日 火曜日

夜はホームページ更新の時間。四階に住んでいる僕は窓を全開にし、涼しい風を受けながらパチパチとキーボードを叩いています。

すると窓の外から「パ〜ン」という乾いた音。新車が走りまわる経済都市サン・パウロと違って、田舎のこのあたりではウン十年前の車が現役で走っています。多分マフラーが壊れた車が走っているんでしょう。

と、続けざまに「パン、パン、パン、パン、パン」と連続音。この音は前に聞いたことがある音でした。そうです、銃声です。以前、スイッチョでオートマチックの銃を撃たせてもらったことがありますが、この乾いた音はその時に聞いたピストルの音です。犯罪都市として世界に名を轟かすサン・パウロやリオだったら日常生活の中でピストルどころかマシンガンの銃声さえ聞くことがあるそうですが、何もない田舎町で銃声が鳴り響くのはとても珍しいこと。この2年間の生活で初めて聞く銃声です。

しばらく耳を済ましていると、銃声が鳴り響いたあたりでガヤガヤと声が聞こえます。きっと銃声に驚いた近くの住人が表に出てきて「今のは銃声?」「誰が狙われたの?」などと話しているんでしょう。最近サン・パウロ市近郊では少年院や刑務所での集団脱獄が相次いでおり、逃亡者たちがサン・パウロから遥か離れたこのあたりにまでやって来るかもしれない、と言われています。だんだんと物騒になっていくブラジルです。

銃といえば、この前お世話になった友人の家にはたくさんの銃があるみたい。「ほら、こんな銃は珍しいだろう」と言って見せてもらったのは軍隊が使うような大型の自動小銃です。なんでもこのあたりをうろつくならず者や、時には軍隊あがりの人々が密かに売りにくるのだとか。かといってその友人は銃器マニアなわけではありません。銃器マニアどころか、一度も撃ったことがないとか。

「このあたりで武器を売り歩く奴等なんて、夜になれば泥棒をやるような奴等さ。そいつらからしょっちゅう銃を買っていれば『おい、あいつの家にはたくさんの銃があるから危ないぞ!』と警戒して泥棒に来ないんだ。だからそいつらに町で会ったら『この前の銃だけど、タマが無くなったので新しいのをよこせ』って言っておくのさ。そうすれば二重に警戒するからな。泥棒よけと思えば銃の代金も安いもんさ。」

まさに攻撃は最大の防御なりを地で行くブラジルです。



2001年3月19日 月曜日

ちょっと長くなりますが、ニッケイ新聞の3月10日の記事です。文中のバイレというのは日本で言うと「クラブ」みたいなものです。


「ファンク」バイレ流行に警戒−性病蔓延の恐れも−「罠」にはまる少女たち

リオ市保健局では、バイレでの未成年女子の妊娠、性病の蔓延を警戒している。最近、リオのバイレではファンク音楽をガンガン鳴らし、乱行パーティーに近いセックス遊戯が行われ、これによる「ファンク妊娠」が多発しているため、当局や親などを危惧させている。ひどいケースでは、妊娠させた相手を知らないという売春婦まがいの「事故」もあった。

問題となっているのは、通称「ダンサ・ダス・カデイラス(椅子ダンス)」と呼ばれる遊戯。これは椅子取りゲームに似たもので、輪状に置いた椅子に男性が座り、ファンク・ミュージックが流れている間に女性がその回りを「ポポズーダ」しながら踊る。これは腰を大きく振る独特のファンクダンスで、大抵のケースでは女性はミニスカートでパンティーをはかないのが決まり。音楽が鳴りやんだところで女性は前に座っている男性の膝に座るというゲーム。

これだけなら問題がないが、この遊戯の連続、飛び撥ねるリズムとメロディー、アルコール、刺激的な女性のファッションがこの怪しげな雰囲気をさらに高め、暗がりのこの場所で一気に行為に及んでしまうケースがあるという。

また、過激なファンク音楽と共に、列に並んだ男女がエロチックなボディーランゲージを行い、その意味する通りの動作を行う「フィリンニャ」、また「ボンジ」という遊戯もある。

少女M(一四)ちゃんは一月にこのバイレで妊娠した。少女はエイズに感染していたがゲームに参加し、望まない妊娠をしてしまった。Mは相手にエイズを感染させた恐れがある。

アロウカ保健局長は、「もしこれらが真実なら重大問題だ。少女らは望まない妊娠をし、エイズのみならず多くの性伝染病が流行する。驚くべき事態だ。この事態を制止するのではなく、予防しなくてはならない」と心配している。

バイレ・クラブ「オースチン」、「オリンダ」のある常連少女らは、「そんなの見たことないよ」と性遊戯を否定した。遊戯はバイレの密室で行われるといわれているが、同店の警備員ジョルジェさんは「椅子ゲームは頻繁に行われ、時には踊り場の真ん中で行われたことがある」と証言した。ジョルジェさんによれば、バイレのプロモーターらは、ダンサ・ダス・カデイラスを行うために桜としてのプロ女性を雇い、これをみて安心してその気になった素人の少女が参加することがある。この場合、一般少女らは強制されたわけではないが、うまく罠にはまってしまったことになる。


ブラジルの性風俗が日本よりも開放的なのはここでも何度も書きましたが、なかなかすごいことになっていますね。僕はあんまりディスコには行かないんですが、テレビのニュースやディスコ番組を見ていると驚きます。「ボンジ」らしいやつも流してましたが、女性が膝に手をついて前かがみになって踊り、男が後ろから尻を突き上げていて、もうセックスそのままといった感じ。

しかもコンドームを使うなんて認識がないので、かなりの勢いでエイズが広まっているとか。そのせいか、町中にも「コンドームを使いましょう」という看板が増え、大きなフェスタの開場では無料でコンドームを配っています。さらにエロ雑誌にはコンドームが付録でついていたりと、あの手この手でエイズや性病の予防に努めているようです。

これに限らず、ブラジルにいると日本では考えられないような話を聞きます。ブラジルの国旗の真中には「秩序と発展 ( ORDEM E PROGRESSO ) 」と書いてありますが、そういった話を聞くたびに「美しい自然と豊富な資源を持ち、人口も多いこの国で、唯一欠けているのが『秩序と発展』だよなぁ」としみじみ思ってしまいます。



2001年3月18日 日曜日

今日は日曜日の日課ということで釣りに行ってきましたが、道中の車内の会話。

「先生、もうすぐ帰国だね。」
「そうっすねぇ」
「先生はもうブラジル中を旅行したから、私達よりもブラジルのことをよく知っているよ。」
「まあ、遊んでばっかですみません…」
「でも日本に帰ったら忙しい社会で、こき使われるんでしょう?」
「多分そうでしょうねぇ」
「だったら、この2年間は長〜い休暇なんだね。」
「はぁ…(えらいダイレクトですなぁ)」

この2年間はやっぱ休暇っすよねぇ。もうすぐ帰国。日本に帰ったら就職活動をしないといけないので、眠れない夜には頭の中で面接シュミレーションとかをやったりします。ロクな社会経験のない僕の場合、他に書くことがないので履歴書に「ブラジル○○市で2年間日本語教師として働く」と書かざるを得ませんが、きっとそれについても聞かれると思うんですよ。でもそれにどう答えたらいいんでしょうね。

いろんな諸先輩方に聞くと、ブラジルみたいなマイナーな国での2年間の経験は面接官的にはマイナスにしかならないみたいです。だから「この2年間はとっても有意義でした」風に答えてしまうと「こいつ、2年間遊んできて、何言ってやがんだい!ブラジルボケしたか?」と思われてしまい危険です。かといって「ほとんど遊びみたいなもので、恥ずかしい限りです」なんて答えても「ケッ!本当は自慢したいくせに。本気で恥ずかしいと思ってるなら履歴書に書くなよな!」と思われそう。

こうなると「ブラジルの2年間の生活は意義深いものだったけど、だからといって社会人として役に立ったというわけではないので、謙虚な気持ちで御社で働きたいんです。」といった線で答えるのが無難なのでしょうか。

面接のほうはなんとかなる(ごまかせる?)として、実際に日本社会で使い物になるのかどうかは自分としても多いに疑問です。まあ、最低限のポルトガル語は覚えたけど、ポルトガル語が出来る人は他にもたくさんいるので、それを武器に世を渡るのもちょっと厳しいですね。それになんといってもブラジル人に「だったら、この2年間は長〜い休暇なんだね。」と言わしめたのん気な生活に2年間もどっぷり使っていただけに、日本のスピード社会に着いて行けるとは到底思えないし。

こうやって神経症的な悩みを抱きつづける毎日ですが、どなたかおいしい就職先ないでしょうか。このホームページのように、薄い内容を引き伸ばして長い文章を書くのは得意ですので、政治家の答弁作成などには力を発揮できると思います。





……「神経症的な悩みを抱きつづける毎日」とか言いながら、インターネットで仕事探しひとつしないのん気な僕が怖い。



2001年3月17日 土曜日

この下に「日本ゴールド・ディスク大賞」のことを書きましたが、今日、近所のNHKが見れる家に遊びにいったら、おりしも「日本ゴールド・ディスク大賞」の授賞式を放映していました。久しぶりに見る日本の歌手。知らない人がたくさんいたけど新鮮でした。で、その感想

しょうゆ味の歌
よく和食は薄味で洋食は濃味といわれますが、これは音楽にも当てはまるんでしょうか。各賞の受賞曲を聞いていると、どれもこれも薄味ですね。メリハリのない穏やかなメロディーで、環境音楽というか、イヤシ系の音楽が多いように思います。日ごろ聞きなれているブラジル・ポップスは濃味のブラジル料理そのままにはっきりしたメロディーと分かりやすいビートの音楽ばかり。日本も一昔まえのピンクレディーのころははっきりとした音楽だった気がしますが。

これがパラパラ
リオのカルナバルで見かけた腕だけで踊る不思議な「パラパラ」をテレビで始めてみました。う〜ん、これだけは申し訳ないけどショボかったっす。きっと「日本ゴールド・ディスク大賞」に出てくるぐらいだからとっても有名なパラパラ・ダンサーなんだと思いますが、ブラジルのダンスとくらべてしまうと悲しいかなラジオ体操にしか見えません。僕を含めて、日本で育った人にはあのラテンの踊りは無理なんでしょうか。

やっぱりビートルズ
はビデオクリップを流すだけでしたね。だいたいビートルズの人達は自分が「日本ゴールド・ディスク大賞」を受賞したことを知っているんでしょうか。多分知らないような気がします。ビートルズはきっとこれ以外にも「イラク宗教音楽大賞敵性音楽部門」とか「北朝鮮音楽祭退廃音楽部門」とか知らない間にたくさんの賞を受賞しているんでしょうね。



2001年3月15日 木曜日

新聞でこんな記事を見つけました。


昨年のレコード売上数を基に選ばれる「第15回日本ゴールドディスク大賞」(日本レコード協会主催)が14日発表され、グランプリの「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」は、邦楽部門に浜崎あゆみさん、洋楽部門にザ・ビートルズがそれぞれ選ばれた。ザ・ビートルズは3度目の受賞。

洋楽部門ってのがいかしますね。

司会者 : 「第15回日本ゴールドディスク大賞洋楽部門は!」
ドコドコドコドコ(例のドラムの音)
司会者 : 「ビートルズに決定しました!」
司会者 : 「なお、ビートルズのみなさんは都合により、本日は欠席されております。」

なんて真顔でアナウンスするんでしょうか。で、後ろの画面にビートルズの写真がデ〜ンと映し出されたり。

それはいいとして、僕としては邦楽部門の「浜崎あゆみ」ってのが誰なのか全然分からないことの方が大問題だったりします。思った以上にこの2年間の空白は大きいようです。



2001年3月14日 水曜日

掃除は生活の基本、ということで教室の掃除は子供達にさせるんですが、彼らの掃除を見ているといつも疑問に思うことがあります。

絞りが甘い!

日本で雑巾がけをするときは固く絞った雑巾でやりますよね。でもこっちの雑巾がけを見ていると、軽く絞っただけで、まだ水がしたたっているような雑巾で机をふいたりします。もちろんふいたあとの机はびっしょりとぬれていて、日本人的には「ちゃんとふきなさい!」と言いたくなるんですが、どの生徒も同じようにふいているので、これがブラジル式なんでしょうか。

洗剤使いすぎ!

こっちの雑巾がけを見ていて納得できないのが洗剤の使い方。日本でも洗剤を使って頑固な汚れを落とすことはありますが、普通バケツの水に洗剤を溶かして使い、拭き終わった後は水ぶきをして洗剤をふき取りますよね。しかしこっちは違います。軽く絞った雑巾の上に洗剤をかけて、それでふくんです。しかもそのままで水ぶきなし。ブラジル的にはほのかに洗剤の匂いがするほうが「ちゃんとふきました!」って証拠になるみたいですが、これでいいんでしょうか?



2001年3月13日 火曜日

今、僕はブラジルにいますが、メインのメールアドレスは日本で使っていたプロバイダーのアドレスをそのまま使っています。だからブラジルからメールを送っても「 XXX.ne.jp 」。ブラジルからメールを送るありがたみが感じられないアドレスです。ちなみにブラジルのアドレスは


日本
ブラジル
co.jp
com.br
or.jp
org.br
ne.jp
net.br

となりますが、日本だと国名の「.jp」の前はアルファベット2文字だっただけになんとなく違和感を感じてしまいます。

上に書いたように日本のアカウントを残していますが、インターネットはブラジルのプロバイダーから接続しているので現在のダイアルアップ設定はブラジルの設定。日本に帰ったら、再び日本のダイアルアップ設定に戻さないといけないので、今日は久しぶりに日本のプロバイダーのホームページに入って、ダイアルアップ設定を確認してきました。

ほとんど2年ぶりに見るそのホームページはだいぶん変わっていましたが、特に「高速接続サービス」が目新しかったですね。日本を出る頃にはISDNぐらいしか高速接続がなかったんですが、今ではいろいろなサービスがあるみたい。NTTの東日本と西日本で名前が違っていたり、細かいサービスに分かれていたりとブラジルボケした頭には理解不能な世界です。確かに高速接続は魅力なので、僕も日本に帰ったら利用することになるんでしょうが、そのためには複雑なサービスシステムを理解しないといいけないのかと思うとちょっと憂鬱。日本にいて、Up to date にそういった情報を得ていた頃は苦でもなかったんですが、こうやって2年のブランクをおいて新しい情報を取り入れようとすると体が拒否反応を起こしますね。『日本に帰っても浦島太郎なんかにゃならんよ!』と思っていましたが、現実はそうもいかないようです。

そのうえちょっとビビッているのが携帯電話の世界。日本にいる頃も全然使っていなかったんですが、さすがにこのご時世、使わないわけにはいかないでしょう。しかし携帯の「け」の字も知らなかった僕がいきなりiモードなんか使いこなせそうにもなく、だいたいどこの会社のどういった携帯がいいのか皆目見当もつきません。旧時代人の僕としてはiモードよりもモバイルパソコンの方が好きなので、高速でデータ転送できる携帯が欲しいです。日本を出る前には『高速のデータ転送ならPHS』なんて言われていましたが、今でもそうなんでしょうか?

それよりもPHSって絶滅したりしてません?



2001年3月12日 月曜日

サン・パウロ、マト・グロッソ・ド・スウ ( Mato Grosso do Sul ) の旅から帰ってきました。マト・グロッソ・ド・スウでは透明な川の中、たくさんのお魚と泳げることで有名なボニート ( Bonito ) に行ってきましたが、前日の大雨で水は見事に濁っていてまるでアマゾン川。50mを超えるという透明度もこの日ばかりは0mmでした。

これに限らず、このところ水系リゾートに行くと雨にたたられますね。砂丘と青い湖のタタジューバ ( Tatajuba ) もしかり、アマゾンのビーチリゾート、アウテール・ド・ション ( Alter do Chao ) でも水が濁っていたし、どうも相性が悪いみたいです。もともと水系リゾートが好きではない僕だけに、これも運命かもしれません。

*     *     *

旅の宿泊はボニートから少し離れたドウラードス ( Dourados ) という日系人が多く住む町の友人宅にお世話になりました。住所を見ると「○○農場」となっていたので期待して行きましたが、まったくもって日本ではお目にかかれないような大農場。その面積は1200ha。東京ドーム○○個分なんて比較は意味がなく、縦3km×横4kmの農場と言ったらそのスケールが分かるんじゃないでしょうか?

その家では大豆とトウモロコシの二毛作で、僕が訪れたときは大豆の収穫の真っ最中。せっかくなので収穫機に乗せてもらいましたがこれまた大スケールの収穫機。タイヤだけでも人間の背丈ほどあり、真正面には幅7mほどの大きな刈入れ機がついている他、機内には脱穀機も完備。収穫機内部だけで10tの大豆を収容できると言うモンスターマシン。日本でも北海道に数台あるかないかのマシンだそうです。しかしこんなマシンでも200mも刈入れると満杯になり、次々とトラックに移し替えていました。それもそのはず、年間の大豆生産量は1700tということで、何でもかんでもスケールがデカイブラジルです。

おまけにでかかったのがトラクター。このあたりはテーハ・ロッシャと呼ばれる栄養分豊かな赤土地帯ですが、この土、一旦雨が降ると泥濘となってしまい、大豆搬出の大型トレーラーが立ち往生してしまいます。このトラクターはそういった時の大型トレーラーの牽引の役割もあるんだそうで、普通のトラクターよりも大型で、重さもなんと10t。あまり軽いとトレーラーを牽くことが出来ないので、各所に車重を重くする工夫がしてあるそう。タイヤなんかは重さを増すためにチューブの中に空気の代わりに水が詰まっているんだそうです。

とにかくデカイ農場ですが、主人の話しだと「中ぐらいの大きさ」だとか。謙遜の美徳の日本人が言う言葉なのでちょっと割り引かないといけませんが、この広いブラジル、ここよりも広い農場もたくさんあるんでしょう。しかしこんな大規模農業を目の当たりにしてしまうと、日本の集約型農業がかすんで見えてしまいますね。農業経験のない僕でさえ大農場で一攫千金の夢を見る人達の気持ちが分かるような気がします。



2001年3月6日 火曜日

日本に持って帰るお土産購入のために歩き回った一日。サン・パウロのセー教会の近くにはフェイラがあり、そこではサッカーチームのバッタ物ユニフォームがたくさん売られているので、何枚か買ってきました。その近くを歩いていた時のこと。小型のエコノミーカーが多いブラジルにはめずらしく、ポルシェが停まっていました。高級外車ですね。サン・パウロの町を歩いているとたまにベンツとか見かけるので、お金もあるところにはあるんですね。

しかしこのポルシェ、パッと見たところなんか違和感があります。日本で見かけたポルシェのような「おいら、走らせたら速いんだよ〜〜!」って迫力がありません。

なんだろう?と思ってよ〜く見てみたのがこの写真。

porche
なんかヘンだと思いませんか?車の下のほうがスースーして寒そう。そうです。地面と車体との隙間が大きいんです。日本にあるポルシェは地面すれすれまで車体が迫り、地面に張りつくような感じで精悍なんですが、ブラジルのポルシェは車体の下が間延びしていてなんか間抜けです。

理由は簡単。ロンバーダーでしょう(生活記の道行くものども参照)。ブラジルには車のスピードを下げるためにカマボコ型の障害物があるんですが、車体の低いポルシェだったら思いっきりガリガリやっちゃいそうですからね。そう思うとこのポルシェはロンバーダーのあるブラジル仕様なんでしょうか。そう考えてみると他にも各国独自仕様のポルシェがあるのかもしれません。

そんなポルシェなら乗ってみたいですね。普通のポルシェでもいいけど。



2001年3月5日 月曜日

ついに帰りの航空券を買いました。4月9日23時50分発のVARIG8836便。チケットに書かれた「FROM SAO PAULO GRU TO TOKYO NARITA」の文字を見ると、日本に帰るうれしさよりも、ブラジルを離れてしまう悲しさのほうが大きいのが事実です。これまで土地に愛着を持つことが少なく、飄々と引越ししていた僕ですが、今回ばかりは違いました。故郷を離れる辛さってこれなんですね。大学進学のために東京に来た時も、日本からブラジルに来た時も全くホームシックなんか感じませんでしたが、日本に帰ったら逆ホームシックにかかってしまうかもしれません。

*     *     *

ショッピングセンターに行き、あちこちフラフラ歩いているうちにゲーセンの前に来ていました。するとゲーセンの中に人だかり。人だかりがあるとのぞかないとすまないタチの僕が入って見ると、それは日本でもはやった「 Dance Dance Revolution 」でした。まずディスコ系の音楽がかかり、目の前のスクリーンに出てくる指示にしたがって足もとのパッドを踏むというゲームですが、上手な人がやっているようで、たくさんのギャラリーがいました。やっているのは黒人と白人の二人で、かなりやりこんでいるようで回転をかけたり、わざと難しいステップを踏んだりしてギャラリーをわかせます。このゲームは日本にいるころに見たことがありますが、どこも半分オタクっぽい少年達がやってましたが、ダンスウェアに身を固めた外人がやっているのを見るとなんか別のゲームみたいです。

ブラジルにもたくさんゲームセンターがありますが、そのほとんどは日本製のゲームです。ゲーム一回のプレイ料金は50センターボから1ヘアルぐらい。でも1ヘアルは紙幣なので窓口でフィッシャ(専用コイン)に換えるか、専用カードを買って、それでプレイします。今まで中国と香港のゲームセンターに行きましたが、そこでも専用コインでプレーしていましたが、コイン読み取りの機械は外国通貨に対応していないんですかね。

さて、ブラジルで人気のゲームはやっぱりサッカーゲーム。今は「Virtua Striker 2.0」がはやっています。もちろんみんながプレイするのはブラジル。日本で何度かサッカーゲームをプレイしたことがありますが、僕のような下手クソが日本チームでプレイして勝つのは至難の技。負けるとお金がもったいないので結局ブラジルとかイタリアとかの強豪チームを使うんですよね。でもそんな僕の心にはいつも「日本人として日本チームを使いたい。なのに目先の勝利にこだわるあまりブラジルやイタリアを使のは情けない!!」というジレンマがありました。その点、なんとブラジル人達のうらやましいことでしょうか!心に一点の曇りもなくブラジルを使って勝つことが出来るんですから。



2001年3月4日 日曜日

今日は仕事でサン・パウロに来ています。日曜日中にサン・パウロに着きたかったので、昼前にホドビアリアに出かけたんですが、どのバスも満員。「夜の11時まで満席だよ。」なんて言われてしまいました。カルナバル休みで里帰りした人達が大挙してサン・パウロに帰るのが原因だとか。日本で言うと帰省ラッシュというところでしょうか。

宿泊先は歩き方にも載っているリベルダージのニッケイパラセホテル。サン・パウロでは有名な日系ホテルで、部屋のテレビでもNHKをやっています。部屋の作りも日本のホテル風で、そこでこうやってNHKを見ながらホームページを更新していると、日本のホテルにいるみたいですね。

サン・パウロ滞在ももうこれが最後かもしれない、と思うと感無量…だったらいいんですが、頭の中はお土産でいっぱい。日本に帰ったらあちこちで配ることになるので、今度のサン・パウロ訪問でたくさん買いたいっすねぇ。

しかし困ったことにブラジルにはこれといったお土産がない!歴史も浅く、たいした民芸品もなく困ってしまいます。サッカーファンにはユニフォームのレプリカでも送れば喜ばれるんでしょうが、オフィシャルレプリカは5000円以上するのでたくさん買うこともできないし。後はTシャツぐらいですね。

他に考えられるのは

と、悩んでいて教えてもらったのがプロポリス石鹸。プロポリスはブラジル名産の健康食品で、日本でも愛好者が多いそうですが、ブラジルで買うと半分以下の値段で買えます。そのプロポリスで作った石鹸だとか。石鹸だったら男女とも使えるし、配るのも簡単だしなかなかいいアイディアですね。



2001年3月3日 土曜日

明日から仕事でサン・パウロに出かけます。今度は現地更新できるかもしれません。あくまでも「しれません」ということでよろしく。

*     *     *

インターネットなどを見ると、アフガニスタンのタリバンによるバーミアン石像破壊が大きく取り上げられ、日本ユネスコ協会連盟などが緊急に署名活動などをしているようですが、なんか複雑です。アメリカの空爆で死んでいくイラクの人や、ヨーロッパから狂牛病の牛を輸入してまで飢餓を防ごうとする北朝鮮の人々には何の関心も抱かず、タリバンに壊される石像に涙する人ってのも本末転倒ですよね。そういえばフランス革命の時のマリー・アントアネットが宮殿に押し寄せる民衆を見て「まあ!パンがないならケーキを食べればいいのに」とうそぶいた話しを思い出しました。

経済封鎖に苦しむタリバンにしても、誰の命を傷つけることなく世界の注目を集めることが出来るので効果的な手段のようです。ということで、これを見て真似をする国が出てくるかもしれません。当のブラジルも、「借金をチャラにしてくれないと、アマゾンの原生林を焼き払っちゃうぞ!」ぐらい言いそうだし。



2001年3月2日 金曜日

カルナバル後もしばらくリオに残っていたので遅くなりましたが、無事に帰ってきました。やっぱりカルナバルは良いですね。昨年は大勢の友人達とカルナバルを楽しみましたが、今年はみんなサルバドールやヘシーフェのカルナバルに行ったようです。でも僕にはリオのカルナバルが一番合っています。

カルナバル会場には珍しく日本からの観光客らしき人々もいました。去年はそれほど日本人がいなかったセトール3ですが、このホームページで「セトール3は安くて良い席なのでおすすめだよ!」と宣伝した結果でしょうか?だとしたらうれしいんですが、そんなことはないか…

日本人観光客の一団には卒業旅行らしき若い女性がいて、「卒業旅行に南米にまでやってくるご時世になったか」と感動しきり。で、彼女達なんかよく知りませんが両腕を振り上げて上下に振る踊りをやっていて、まわりのブラジル人も「こいつらなにやってんだ?」と注目してます。そんなの初めて見る僕にとっても逆カルチャーショックでした…

後で人に聞いてみると、これが噂に聞くパラパラだそうで、だとしたら初めて見たことになりますね。これでまた一歩日本に近くなったような気がします。

もし本当にパラパラだとすると、とっても激しい踊りで男性的なダンスに思えます。日ごろ見ているブラジル女性のダンスがうら若きというか、ほんの子供から大人までみ〜んな腰をカクカク、クネクネで性的本能丸出し。これでは若い男の子は黙っちゃいないでしょう。で、子供がどんどん生まれるという良いんだか悪いんだか分からない循環になっています。

そう、カルナバルは男女が燃え上がる日。踊りのエネルギーそのままにあちこちで熱い夜が繰り広げられ、結果として十月十日(とつきとおか)あとにたくさんの子供達が生まれることになります。かくして年末年始に生まれる子供達のことを「カルナバルの子供達」と呼ぶようになったとか。

全く情熱的なブラジルですが、「サカリ」と言ってしまっては失礼でしょうか?

生活記にアミーゴの国を追加。


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