2002年
1月
17日:年が明けて,2002年となった.帰国後総合診療部に席を置いて3年になり,いろいろと考えた結果,4月からは斜里町国保病院へ転勤することにした.理由は,当医局が北海道の地域医療に貢献できる医師を育成することが大きな存在意義であるが,講座ができて6年が経過しようとしているにもかかわらず,実績が全くないこと.何が問題かというと,日本の総合診療畑の人々が常々言っている,primary careあるいは,家庭医という形態を,北海道の地域医療に当てはめることに無理があるからに他ならない.彼らの言うprimary care医や家庭医は無床の診療所で医療を展開するような医師である.CT,内視鏡,エコーなどの医療器具はない,あるいは利用が難しいという状況を設定して,そのようなsettingでの医療を想定している.アメリカの調査で,一般患者の80%は入院の必要がない家庭医が対応すべき患者であり,残りは入院や専門的な評価が必要な患者であったということを良く引き合いに出し,このような大部分の患者をさばくためには,今の日本のように多数の専門医は必要ではなく,家庭医がもっと必要であるという理論である.一見理路が一貫しているような印象がある彼らの主張には,実は矛盾がある.北海道の地域医療を担っているのは,主として各自治体が運営する自治体病院である.そのほとんどの医療施設では,病床を持っている.それゆえ,北海道の地域医療を担うためには,このような医療施設で力を発揮できる医師でなくてはならない.入院患者を診ると言うことは,彼らの主張にもあるとおり,何らかのある程度の専門性を備えていなければならないわけである.またこれらの医療施設では,内視鏡,CT,エコーなどが整備されており,当然それらresorceを有効に活用できなければ,地域への貢献は難しい.無床の診療所という診療形態は,北海道では,大都市近郊で,救急などに対応しなくても良い一部の地域に限られる.北海道では,救急の搬送だけで大都市の総合病院まで1時間以上かかるような地域が多い.そのために病床を持ち,医療機器の整備が成されてきたわけである.つまり北海道の地域医療は,一次だけではなく,二次レベルの医療も提供せざるを得ないわけである.このような状況を考えれば,今の日本の総合診療で叫ばれているような,診療形態では,北海道の地域医療への貢献は難しいと言わざるを得ない.自分が自ら実践し,そのことを明らかにしていかないと,この状況は変わらないと最近考えるようになった.学生教育でも,自分はこの点を特に強調して,北海道の地域医療について話してきた.もともと,医師を志した理由は,北海道の地域医療に貢献することがその目的であった.大学にいる2ヶ月は,これまでの研究の集大成の時間に当てようと思っている.もちろん地域に行っても,何らかの研究は今後も続けて,impact factorは低くても,英語の論文を書き続けたいと思っている.またそれが自分には可能であると考えている.

2月
5日:今年のAGA,アメリカ内科学会もテロの影響を考えてapplyしなかった.アメリカ内科学会専門医の認証式もこのあとの3年の間に出席すれば良いことになり,少なくとも今年は学会で渡米はしない.今年の5月に国際内科学会が京都で開かれるが,年末思いついて演題を一題を応募しておいた.先日発表できる旨連絡が届き,3年ぶりに英語を使った発表となる.その前の4月は,旭川で消化器病学会があり,その期間中に行われる消化器心身医学研究会のシンポジウムで発表するように言われている.地方の病院に行ってもacademic activityは今と同様に保っていこうと思っている.
19日:札幌から地方へ引っ越しをするにあたって,引っ越してから買えないものは,今買っておこうという口実のもと散財を繰り返している.今使用しているコンピュータのmain machineはThinkpad A20Pで一年半前に科研費で買ったものである.とうぜんこれは大学に置いていかなければいけないので,main machineが必要になるという口実で,Thinkpad A30PというHigh end machineを購入.メモリーも512MBに造設,UXGAの広大な解像度で快適に仕事をしている.実はこの機械は取り外しができる内臓ベイが2個あり,標準ではFDDとCD-RW/DVDのコンボドライブとなっている.FDDはほとんど使わないから,ここに別売りの250MBZipドライブを購入して装着.そうすると,他のコンピュータにもZipドライブが欲しくなって,外付け用のドライブを購入.新しい病院では内視鏡の画像をMOに保存しているのでという口実で,GIGAMOを購入.どうでならUSB2.0で接続しようと,PCcardも購入.他のコンピュータにもMOが欲しくなり,Firewire接続のGIGAMOをもう一台購入.物欲が満たされまくりである.

3月
12日:日本に帰ってきて3年半住んだ札幌を引っ越すとなると,事務的な手続きやその他でいろいろ大変である.加えて,大学でしかできないようなこと,カルテのチェックや文献のコピーなども至急やっておかなければいけないので,荷物の整理だけに時間を割いてはいられない.また大学を離れるため,知人や親戚で病気を持っているが,大学での評価が必要な患者が何人かいるが,それらの人は自分が大学にいるうちにまず自分で診て,今後の方針を決めると言うこともやっていかなければいけない.いろいろな人から,親切にも送別会をやってくれるという申し出を受けているが,このような状況から,全てお断りしているような状態である.寝不足も続いているので,体をこわさないように注意している.向こうの病院は4月1日からの勤務で,引っ越しの疲れをいやす時間はない.
18日:引っ越し,転勤を前にやっておかなければいけないことが山積みで,連日寝不足が続いている.緊張感が持続しているので風邪はひかないが,引っ越し後は疲れが出て体をこわしそうである.4月以降は,ということで地域医療の一線で仕事をすることになりました.留学,大学での生活とめまぐるしく変化していますが,今後は斜里から田舎医者としての生活について書いていこうと思います.今後とも興味がある方はおつきあいください.それではまた.

4月
6日:斜里町に引っ越して1週間がたった.仕事も4月1日から開始している.職場の印象は,忙しいの一語に尽きる.8時30分からfullに診療が開始される.外来患者の多さは,しばらく大学でしか外来をやっていなかったものとしてはショックである.しかしやりがいがあり,一日が終わると今日も終わったという充実感がある.ただし,論文をまとめたり,学会の準備をする時間がとれずにこまっている.朝は6時に起床し,6時30分からランニングに出かける.札幌と異なり,信号がほとんどなく車もあまり走っていないので,非常に走りやすい.おかげで連日かなり早いペースでトレーニングができている.仕事,引っ越し,ランニング,寝不足が重なり本日は風邪をひいてしまったので,完全休養に当てる.あれだけ多くの患者をさばくためには,自分の体調を万全にしておかないといけない.
29日:4/26は消化器心身医学研究会で旭川に行って来た.前日は患者の状態が悪くなり,病院に泊まったため2時間ほどの睡眠で,そのまま車を4時間運転して旭川に到着.すぐさま会場に行って発表.研究会ではシンポジウムで発表させてもらったが,同じところ(UCLA)に留学していた先輩二人もシンポジストで,座長の先生は私の大学時代の直接の上司であった.座長の先生が私ごときをシンポジストに抜擢してくれたのだが,彼らと話をしていると自分はいつも勇気づけられる.自分もそうであるが,研究に夢を持って取り組んでいる.根底にあるのは純粋な好奇心と,患者を救済するために何ができるかという精神である.日々の臨床は忙しいが,だからこそ研究心をもって仕事に当たらないと,早晩マンネリに陥り限界を感じることになるだろう.この地にあっても研究を続けて,英語で論文をpublishしてこそ,自分のこれまでのpolicyを貫くことに他ならないと再認識した.

5月
19日:毎日忙しい日々を過ごしている.朝8時半から外来をやって,1時過ぎまでそれが続き,検査や病棟を見ているともう3時過ぎになっている.まさにあっという間である.それでも夜は当直以外freeのことが多いので,子供と過ごす時間が増えている.一緒にランニングすることも(もちろん子供は自転車)ある.この町には陸上競技場もあるため,スパイクを履いてインターバルトレーニングなども練習に取り入れている.病院は感染対策委員会をきちんと機能するようなものに変えるために,事務的な手続きを時間の合間にやっている.病院管理ということはこれまで自分には経験がなかったが,やりがいのある仕事だと思っている.来週の終末は国際内科学会の発表のため京都へ行く.内科専門医会も学会でブースを設けてアピールするとのことで,大会期間中の一日は当番で,自分のブースの留守番をすることになった.この一週間で頭の中を英語にchangeさせて,発表に望もうと思う.
30日:昨日京都から国際内科学会での発表を終えて帰ってきた.久しぶりの英語での発表に緊張したが,無事に終了した.学会はcase studyなどの教育講演もたくさんあり,時間がある限り聞いてきたが,どれも興味深いものばかりであった.アメリカ人講師の講演は,内容もさることながら,教育のプロフェッショナルとも言うべき話のうまさで,聴衆を引き込んでいく.ここが日本人の講師と決定的に異なるところである.アメリカでは医師の教育が非常に重要視されていて,また教育のプロフェッショナルは研究で大きな仕事をすることと同じくらいの社会的な評価を受ける.日本の医学教育は研究の片手間にしか行われていないから,やる気のない講師が義務的な講義をして終わってしまう.また日本で自分は教育を専門にやっていると言っている人たちは,多くは何の専門性ももたず,総論的な話を学生に繰り返すにすぎないので,学生の興味を得るには至らない.また,話の内容も各科専門家との整合性がとれないことが多く,学生はどちらの教官の話を信じてよいのか困ることがしばしばある.よい教育者は優れた臨床医でなければならない.これは私の持論である.教育は机上の空論であってはいけない.優れた臨床医でなければ教育はできない.今回の学会での講演を聴いて,私の持論の正しさを再確認することができた.内科専門医会の会員の先生と,今回の学会で少しの間意見交換する機会に恵まれ,医学教育(医学生や研修医,各専門医の教育)や各臓器別専門医の姿勢などについて,自分と同じ考え方を持つ人が多くいることが確認できた.今後も内科専門医会での活動を通じて,教育などについても携わっていきたいと思った.

6月
23日:やっとこちらの生活にも少しずつ慣れてきて,日々の臨床の他に,論文をまとめたり新しい研究の準備などを始めている.先日,ついに私は39歳の誕生日を迎えた.10代後半から20代,そう子供が生まれる前までは,自分はいつもこのままこの瞬間死んでも良いと思えるような生活をしてきたような気がする.このまま死んでも良いと思えたのは,日々の生活に対して,何事もこれ以上できないというほど,全力を尽くしているという自己満足感があったからである.仕事が終わってから,暗い中20Kmのランニングを行い,ランニング・ハイになりながら,毎日こんなことを考えていた.子供が生まれてからは,こんなことは全然思えなくなってきた.自分の仕事,生活に対して満足感が得られなかったのと同時に,子供に対する責任から,なにがあっても自分が死ぬわけにはいかないのだと考えるようになり,そんな自己勝手な満足感が得られなくなったのだと思う.しかし,最近再びそんな満足感が少しずつ得られるように感じている.ここにいると,しばしば,自分がここの病院で力を発揮し,患者さんの命を救っているのだという実感が得られる.単なる自己満足であるが,自分にとってはこの充実感は重要である.39歳になって10代のころの自分に戻れた感じがする.

7月
15日:昨日は今年の初レースである,オホーツクマラソンに出場してきた.この大会は紋別市をスタートしてサロマ湖の三里浜にゴールするワンウェイコースである.朝7時30分のスタートいうのがトリッキーだが,コース自体は前半にほどよいアップダウンがあり走りやすいコースである.朝3時に起床し,車で150Kmを運転し紋別に到着したのが5時30分.スタート前に寝不足で疲労してしまった.レースは気温28度,湿度も高く,過酷なものとなった.何度か精神的に切れそうになったが,切れずに完走し,タイムは3時間23分50秒であった.本日は筋肉痛が最近経験したことがないほどひどく,階段の上り下りに支障がでている.全力を尽くした証拠であろう.特に酷暑のレースは,脱水と相まって筋融解をひどく起こすせいで,翌日の筋肉痛がひどい.レースに出るとどんなレースでも,何らかの学習ができて,今後の目標ができる.ゴールする前,2-3Kmを走っているときはいつも,こんな苦しいことはもうやめようと思うのだが,ゴールをすると一瞬で,次のレースのことを思い浮かべる.走らない人間には理解できない感覚であろうが,自分と同じような人が,レースに行くとたくさんいる.今回のレースでも,自分は朝3時に起床してレースに参加したが,車の中で寝袋で前夜泊まったおじさんや,テントで野営してレースに出場したおじさんもいた.たぶん,私と同じ病気にかかっているに違いない.
23日:先日,今年の日本消化器病学会本部からメールがあり,ワークショップ機能的腸管障害の病態生理と治療方略の演者に選ばれたことを知らされた.留学中,AGAでoral presentationに選ばれた仕事でも,日本では応募してもいつもポスターだった.正直,日本の学会には失望していたがやっと認められたという思いがする.個人的な見解だが,アメリカではフェアに純粋に仕事の中身を評価してくれるが,日本は,演者の所属やしがらみから,このようなシンポジウムやワークショップの演者を選ぶような印象が強い.これはアメリカでは,教授もフェローも仕事をやるという面では全く対等で,日本のように教授が絶対的な力を持つという,精神の違いに多分によるものだと思う.フェローも仕事ができなければドロップアウトするし,教授も仕事ができなければ,自分の給料を得ることができない.研究をするという面からすれば,このアメリカのシステム,精神はすばらしいと思う.それにあこがれて,日本の研究者はアメリカで仕事をすることを望む人が多いのだろう.自分もその一人だった.また今でもそれにあこがれている.それでも日本の消化器病学会が変わってきたことは,画像診断のみから,最近今回のワークショップのような,消化管機能に関するテーマが必ず一つは企画されてきていることである.世界の趨勢に逆らえなくなって,やらざるを得なくなったというところかもしれないが,この点は進歩だと思う.日本ではこの領域での基礎研究は,非常に手薄であり,今後は欧米に追いつくよう,発展させていく必要がある.また日本では心療内科というカテゴリーで,消化管機能性疾患を診療していたという歴史があり,そのためもあってか,心理的な面ばかりが臨床,基礎的な研究でも強調されて,真の科学的なアプローチというものがなされてこなかったと思う.もうそんな旧態然とした体制では,欧米には対抗できないと思う.胃潰瘍が以前は,その治療や病因に心理的な面ばかりが強調されてきたが,今では医学生でも,それにHelicobacterが絡んでいることを知らない者がいないといった歴史を経てきたように,消化管機能異常に関する疾患も,同じような経緯をたどるものと思う.自分のこれまでの実験結果も,この歴史の積み重ねに,少しは貢献できているのではないかと自負している.

8月
13日:8月の第一週に夏期休暇をとった.休みといっても家族を連れて,2つの実家に行っただけで,体を休めることはできなかった.休みのその当日の朝まで当直をして,ほとんど眠らずに斜里から小樽まで車を運転したりと,体を酷使していた.8/4は網走でハーフマラソンがあり,私も出場したが,5Km地点ですでに呼吸が苦しくなり,その後は歩くようなペースでゴール,タイムも過去最低の1時間31分もかかってしまった.失敗の原因がわからず,その後も毎日トレーニングをしていたが,どうも走っていても少しペースをあげるとすぐに苦しくなってしまう.試しに血液を調べてみたら,Hbが10.5と,かなりの貧血になっていた.過労とオーバートレーニングのための鉄欠乏貧血である.7-8年前にも同じような状態になったことがあったが,しばらくは貧血になっていなかったので気にしないでいた.昨日からは鉄剤を飲みながら,練習をしている.それにしても鉄剤を飲むと,吐き気はもよおすし,下痢もするしとかえって調子が悪くなるような気がする.患者にはきちんと飲むようにといつも指導しているが,その気持ちがわかるような気がする.

9月
15日:本日は,豊頃町でハーフマラソンに出場してきた.貧血は治療により完全に良くなったが,はたして体調が戻ったか走る前は心配であった.それもあって,最初はいつもよりかなり押さえ気味に入った.このレースには,カネボウの高岡選手(トラック500M,10000Mのオリンピック選手)とそのチームメイトの2人も出場していて,実力が違いすぎて,スタート直後から後を追おうという気もなくなってしまったという事情もある.それが良かったのか,折り返しは9位で通過したが後半は逆にペースがあがり,4位,1時間23分4秒というまずまずのタイムでゴールすることができた.このまま満足に走れなくなるのではないかと心配したが,復活の第一歩を実感できた.病院の仕事は相変わらず忙しく,特に時間外の救急が最近多い.斜里町は人口は1万4000人程だが,隣接する町や,観光地ウトロの観光客をカウントすると,医療人口は20000人程となる.観光客は流氷観光があるため冬も途切れることがない.それが救急の多い理由だろう.先週の日曜の当直は睡眠時間が1時間.きつかった.これを受けて,人工呼吸器を急遽もう一台新たに購入することにした.これで3台の呼吸器があることになるが,冬になって肺炎が多くなるとこれでも足りなくなるかもしれない.北海道の地域医療の現況を毎日実感しているが,ここで医療を行うためには,まず救急がしっかりできなければつとまらない.大学にいるとき,この現況を既に十分知っていた自分は,医局の学生教育コンセプトと相反していたが,学生にこのことを口を酸っぱくして教育していたことを思い出す.総合診療部も,北海道の地域医療を考えるなら,この現実に目をつぶらず,いつまでも無床の診療所イコール地域医療という間違った概念を捨てて,もっとレベルの高い,ファンタジーではない現実的なコンセプトをもって学生教育を行わなければ,優秀な人材が確保できないばかりか,北海道の地域医療に少しでも貢献したいと思っている人の芽を摘んでしまうことになると思う.

10月
6日:今日は今年のメインレースである,別海パイロットファームマラソンに出場してきた.気温は16度,風が若干強いものの,絶好のコンディションであった.前半は押さえ気味に走り,25Kmからスパート.後半は前半より6分早く,走り抜けるようにしてゴールを越えた.タイムは3時間18分1秒.満足がいくレースで,今年の最終レースを終えることができた.今日の調子だと,条件が合えば3時間10分を切ることは,今でも可能であるように思えた.走り終わった後も筋肉にはあまりダメージがなく,もう20Kmぐらいはいけそうな感じだった.貧血を直すと確かに体調があがる.今後も定期的に鉄剤を飲み続けて体調を維持していかなければ.先週は病院は大荒れであった.胃潰瘍の吐血,腸閉塞,心室細動の患者が立て続けに運ばれ(ほとんどが時間外)息つく暇がなかった.睡眠不足が続いて,風邪を気味であったが,なんとか今日のレースには体調をあわすことができた.今月下旬はDDW-Japanでの発表があるためその用意もしなければいけない.多忙な日が続く.

11月
16日:消化器病学会での発表から帰ってきたら,すぐに新しい医師住宅に引っ越し.さらに仕事に関する依頼原稿の締め切りが11月いっぱいということで多忙を極めている.またこのようなときにかぎって病院も荒れていて救急も多い.病院は新しいCT(MDCT8列)が導入され,そのすばらしい能力に感動している.まだ北海道の大学病院にも導入されていない,最新の機械である.先日も原因不明で突然腹痛をきたした男性が運ばれてきたが,血液検査などでは全く異常がなく,このCTで造影を行ってみると,上腸管膜動脈の解離が発見され,他院へ時間をロスすることなく搬送することができた.これまでならこのような症例を根拠を持って紹介することは不可能であった.その他CAGを含めて血管造影をこのCTだと完全に置き換えることができそうで,これからますます力を発揮しそうである.引っ越しは大学卒業後実に10数回目で,面倒くさかったが,今度の家は病院のすぐ近くで5LDKという大きさで,livingは30畳ほどもある.電話にでるにも数歩歩かなければならず,贅沢きわまりない.町民に対してこれまで以上のサービスに努めなければいけないと言う思いを強く自覚した.

12月
10日:相変わらず忙しい日々を送っている.早くも12月になり,日々の長さも大学にいた頃と比べると,ひどく早いような気がする.最近,商業雑誌からの原稿依頼が重なり,別にすべての依頼を受けなくても良いのだが,自分の研究領域に関することなのでなるべく引け受けるようにしている.消化管の機能異常というフィールドは日本ではこれまでほとんど手がつけられてはおらず,ここ2−3年特に自分が帰国した頃から,消化器病学会でもシンポジウムが途切れなく開催されるようになっている.それでも一般臨床医家にはまだまだなじみ薄いものなので,自分が文を書くことによって少しでもその認識が深まれば良いと思っている.斜里は札幌と違って雪が少なく道路は未だ夏と同じ状態である.走りやすいことこのうえない.日々ランニングを堪能している.

2003年
1月
5日:年末は12/28から12/30までは小樽の実家に帰省.12/31は当直なので札幌からの飛行機が欠航すると31日の仕事に差し支えるので,車で帰ることにした.久しぶりに札幌に行き,電気店をぶらぶらしていると,前から気になっていたコンピュータを発見.次の瞬間それを持ってレジに並んでいた.一年ぶりの大きな衝動買いであった.30日は天気が大荒れで,高速道路が閉鎖され,実に9時間もかかって自宅に着いた.翌日は朝から当直.こちらも大荒れで一睡もすることなく朝を迎えた.1/2から1/4まではもう一つの実家の足寄に帰省.1/4も大荒れの天気で吹雪きがひどかいなか,車を運転してなんとか自宅に着いた.降り積もった雪と格闘.1/5は,またもや朝から当直.休みだった割には,疲労がたまっている.

2月
11日:疲労のせいか,悪性の風邪が続いている.熱はあまり上がらないが,関節痛や頭痛,咳などがひどい.毎日20Km以上を氷点下20度を下回るような環境で走って,かつ仕事をしているので,なおらないのも当然ではあるが.商業雑誌からの原稿依頼がまたしても届き,特に最近多い気がする.今回の雑誌は,昨年10月のDDW-Japanでのシンポジウムで発表した演者にそのまま原稿を依頼しただけのもので,安易な編集方針に疑問を感じてしまう.大学で臨床をやっているとき,たくさんの消化管機能障害患者をみていたが,そこで感じたことは,臨床医の対応の悪さである.対応の悪さから患者の人生が大きく狂ったと考えざるをえない症例もたくさん経験した.命に別状がない病気であるが,症状のために精神的な障害を二次的に来たし,対応が良い医療機関を自分で渡り歩くという行動がこの病気に罹患した患者に特徴的である(Nozu et al. Journal of Gastroenterology 37:231,2002).大部分が初期治療の段階では特別な治療が必要な疾患ではないため,一般臨床にこの疾患の概念が浸透すれば,自分が大学で経験したような不幸な症例は確実に減らせると確信している.このような思いから,商業雑誌の総説などの原稿依頼は,当面断らずにすべて引き受けようと思っている.それにしても一般病院にいると,論文などの仕事は当直が当たっていない,土日だけにしかできないということが良くわかった.それでも時間のやりくりをなんとかして,いろいろなことを同時進行することは結構得意なので,忙しいのも実際結構楽しんでいる.

3月
9日:3月下旬から1週間,アメリカ内科学会専門医の認証式に出席するため,3年ぶりに渡米する.式はSan Diegoで行われるが,LAにも滞在して,UCLAの方にも顔を出そうと思っている.そのために出発までに仕上げなければならない仕事(商業誌の原稿依頼や学会の演題抄録など)に今追われている.かといって仕事ばかりしているかというと,そういうわけでもなく,すぐ隣にある町営のスケートリンクで,15年ぶりにスピードスケートをしたり,これも久しぶりにクロスカントリースキーをしたりと,ウインタースポーツを楽しんでいる.もちろんランニングは,どんなに気温が低くても,吹雪いても休むことはない.それにしても今年のこちらは低温と大雪の冬で,氷点下20度ももう15日以上下回っている.毎日朝6時30分から走り始めるので,最も寒い中のランニングになる.氷点下20度を超えると,凍傷になるおそれがあるので,マスクをつけて走ることになるのだが,そうすると呼吸が非常に苦しくなる.まるで高地トレーニングをしているかのようである.こんな環境で毎日トレーニングを繰り返していても,つらいことばかりではなく,楽しいこともある.四季を敏感に感じ取れることである.どんなに吹雪いていてもその中に春のにおいを感じることがある.
16日:渡米前に仕上げなければならない,原稿や抄録などを終わらせ,昨日は友人と摩周湖の展望台までクロスカントリースキーで行ってきた.主要道路から展望台までの林道は冬期間閉鎖になっており,登り坂の4KMあまりを汗をかきながら登った.
SKI1.JPG - 29,811BYTES SKI2.JPG - 32,561BYTES
そこから見た景色はすばらしく,人工的な音が全く聞こえない雪原の中で,しばし見とれてしまった.展望台で湯を沸かしてラーメンを食べて,帰りはずっと下り坂.家に帰る前に露天風呂にはいって疲れをとった.気温は寒いが,日差しは確実に春が近いことを知らせているようだ.

4月
13日:3月下旬からFACPの認証式出席のため,渡米,無事帰国した.渡米前戦争がはじまり,飛行機はテロなどで危ないと日本では言われていて,この時期海外に行く人は非常に少なく,飛行機はがらがらだった.ところがアメリカの国内線は満席であり,観光地も非常ににぎわっていた.戦争は戦争,そのことに自分たちの生活を全てあわせる必要はないという考え方なのであろう.これはこれで健全な国民の精神だと思う.日本がもし戦時下にあったらこうはならないと思う.しかし町中では”God bless our troops”などという垂れ幕をあちこちで見るし,車にも国旗が掲げられている.こんなところに戦時下の国を感じた.しかし良い面ばかりではなく,ニュースではCMの写真でピースサインが戦時下では不適当と変更されたり,政府に対して野党議員が批判的なことを行ったことに対してメディアから大きな批判を浴びたりと,自由をうたい,そのためにイラクで戦争をしている国とは思えないような現実も見た.UCLAにも5年ぶり行くことができ,研究室のみんなとも話をすることができた.教授は残っている仕事を完結するため,今年の夏にお金を出すから1週間ほどLAに来ないかと言っていたが,一般病院に勤務している自分にはとうてい無理な話だ.なんとかe-mailで連絡をとりあい,仕事をまとめることで合意した.認証式はSan Diegoだったので,LAからは車で向かった.式では,日本人の先生とはほとんど会って話す時間はなかったが,ドイツ,インド,ソマリアからきたfellowの人たちといろいろ話す機会があり,FACPとしてのこれからの自分の行動に対して大きな影響を受けた気がする.FACPとして最も重要な精神は社会貢献であるが,それに対して自分がどんな行動を起こしていくか.自分よりも他の国のfellowはもっと具体的なプランを持っている.認証式が夜の8時に終了し,翌日は5時に起床.ランニングをしたあと,7時にSan Diegoを車で出発し,LAから飛行機に乗ってと大変疲れて帰国した.成田では税関の担当者が全員SARSに備えてマスクをしていた.出発の時は何もしていなかった.アメリカでは自分が入国したときでも,全員にCDCからのSARSに対する警告のビラが配られ,ごく早期から対応されていたが,これに関しても日本ではまたしても対応が遅れていると思った.もちろん帰国者に対しては,日本ではなんのビラも配られず,危機管理という面ではいつまでたっても日本はだめだと思った.帰国後時差のためまだまだ体が元に戻らないが,たまっている仕事をもくもくとこなしている.

5月
25日:アメリカに行って来たことも遠い記憶の中に追いやられてしまったような気がする.病院は相変わらず忙しい.5/24の朝方,90歳の胆嚢炎の男性が入院.月曜まで待てなくて,胆嚢ドレナージを休日にもかかわらず緊急に行った.この病院は救急から慢性疾患の管理,また自分の専門性発揮する消化器疾患の治療と実に幅広く仕事をさせられる.来月は旭川医大から5年生が1週間見学のために病院へ派遣され,さらに来年度からは卒後2年目の研修医が,旭川医大,北大から研修のため月単位で派遣されることになる.ここではたくさんのことが学べると思う.自分は病院の教育担当者に任命されたが,彼らの教育に携われるのは自分としても幸せである.このような社会貢献は,FACP,内科専門医の最も重要な精神である.一人でも多くの医師に,地域医療を理解してもらえれば幸いである.

6月
22日:昨日で私は40歳になった.当直をしながら誕生日を迎えた.精神的には10代,体力的にも30歳前半のレベルをキープしていると自分では思っている.特に体力については,未だに毎日朝6時半から20Kmのランニングは欠かさないし,時間がとれれば,仕事が終わってからもトラックに行って,300Mのインターバルなどを行い,自分に妥協することなくトレーニングを続けている.日々の鍛錬を継続していると,自分の体力というものは非常に良く理解できる.鍛錬というのは,今の自分の精神を形作る大きな要素である.氷点下20度以下の冬や,暴風雨の中でのトレーニングは確かに厳しいくやりたくないものだが,それを乗り越えることが自分に妥協しない精神を養っていると思う.これは,医師という仕事を続ける上で非常にプラスになっている.医師という仕事は妥協が許されない職業であり,常に謙虚さを持ち続けていなければ,医療事故を招いたり,新しい知識を学ぶ機会を失ってしまう.日々の鍛錬は妥協しない精神だけではなく,謙虚な気持ちを忘れないことを学ばせてくれる.トレーニングで60Km走を一人でやったとき,50Kmを過ぎると体が限界に近くなってきて,すぐに終わりたい,やめたいということばかり考えていた.しかしそれを超えるとこの苦しみに耐えている自分というものを客観的に見ているもう一人の自分が意識できて,この瞬間の苦しみを喜んで受け入れてやろう,さらには,トレーニングによって与えられたこの苦しみに感謝しようという思いに変わった.そのとき謙虚さを持って生きる意味を実感したような気がする.この辺はランナーでなければ理解できないところであるが,日々の鍛錬というものは,実に宗教的でもあり哲学的なものであり,自分の人生のよりどころになっている.40歳になってもレースで全力を発揮して勝つために鍛錬を行う.また自分の人生のために走り続ける.そんな思いは最近15年は変わっていないし,今後も変わることはないと思う.

7月
10日:先週旭川医大から医学生が研修に1週間当院に派遣されてきた.地域医療の見学が目的である.日常業務の合間を縫って,自分なりに学生に対してできうる限りの教育を行った.NHKがその模様を取材し,昨日放映された.地域の病院として教育にも携わっていると言うことがアピールできて良かったと思う.実は学生,NHKの記者両方とも,地域医療の実際の業務に対して,はじめはほとんど理解していなかった.田舎の病院で,数人の老人を相手にのんびりと仕事をしている−そんなイメージしか持っていないようであった.午前中に60人の外来患者を診て,最新のCT機器を使って画像診断を行い,病棟は115床ありほぼ満床で人工呼吸器が5台も稼働している,そんな現実を目の当たりにして彼らは驚いていた.記者は大学病院の臨床とここの臨床が大きく異なり,その辺を強調して報道しようという意図があり,私の診療を見学した学生に,インタビューでどんな点が大学と異なるかを質問していた.そのとき学生は間髪入れずに,「何も大学と変わらないと思います.」と答えていた.カメラが回り続ける中,予期せぬ解答に気まずい雰囲気が流れた.しかしこれこそが,私が常日頃感じていることである.患者さんに対するアプローチ法は,どこであろうと変わらないのは当然であり,学生はその当然なことを本心から答えたのであった.私としては,してやったりであったが,当然のことながら,TVでの放映時にはその場面はカットされていた.何も診療機器のない診療所で少数の老人を相手に,ゆっくりと世間話をする−そんな地域医療に対するファンタジックなイメージは,いったいどうやって形作られるのであろうか?確かにこの診療形態は,地域医療の一つの形態である.しかしそれは大都市周辺で,ベッドを持つ必要がなく,救急などを含めてすぐに近くの総合病院へ患者さんがアクセスできるという地域でのみ成り立つ形態である.そんな診療形態は,少なくともこの町では望まれない.いや北海道の僻地地域医療のどこでも望まれないのではないかと思う.地域医療の現実が理解されなければ,そこで働きたい希望を持つ医師は永遠に現れないと思う.今後も学生や研修医が派遣されるようなので,地道にこちらも教育を行い,そのイメージ正していくしかないと実感した.

9月
7日:8/24のハーフマラソンは,30歳台前半のころのタイムで走ることができて,大満足のレースだった(1時間21分).さすがにその後のダメージが大きく,疲労感や足の筋肉痛が1週間以上続いた.その間に当直で寝不足が続いたりして,先週はついに風邪をひいてしまった.ほとんど練習ができない状態で,本日は15Kmのレースに出場.この時点での全力を出したのだが,タイムは最悪.前半2.5Km程のきつい上り坂があったといえ,1時間以上かかってしまった.やはり,年をとるときちんとトレーニングをして体調を整えないと決して満足のいく走りをすることができないことを再認識した.若い頃は練習が不十分であったり,体調が悪くとも,ごまかしてそれなりに走れた.また天候によってもタイムは左右されなかった.こう考えると,40歳からタイムをねらうためには,レースの回数を減らして,一発にかけることが必要なのかもしれない.最近,医師の名義貸しから端を発した問題で,私の病院も療養型ベットを確保するときに,名義を借りていたこと明らかになって,頻繁に報道されるようになった.私が赴任する前のことであるが,不正は不正で反省しなければいけない.また医局に当院を含めたたくさんの自治体病院が,研究費の名目で多額の寄付を行っていることが報道されている.しかし報道のほとんどは,その事実のみを表面的に報じるだけで,なぜこのようなことが続いてきたかという根本的な問題点には全く触れていない.医療過疎地では,医師を確保することが自治体そのものの存続に関わる問題である.しかし自治体には医師を確保する方法がないのである.これは本来であれば,各自治体のみにまかせていい問題ではない.道や国のレベルで,抜本的な対策がこうじられなければ解決する問題ではない.この現実を知りながら,今まで放置してきた国の姿勢は強く批判されなければならない.財政難の折り,高額の寄付金を医局に寄付してきたのはなぜか?医局から医師を派遣してもらったお礼に他ならない.それ以外に自治体側には選択肢はなかったのだ.
27日:先週は標津町でハーフマラソンに出場.再び1時間21分前半で走ることができて,3位に入賞した.風邪や仕事で寝不足が続いて,体調が不十分であったが,満足がいく結果であった.当直が大荒れだったり,10月の消化器病学会の発表の用意や,町のケアマネージャ対象の講義,病院管理上の仕事,論文の作成と投稿と最近は多忙を極めている.働いてばかりいても仕方がないと言い訳をして,最近一眼レフのデジタルカメラ,キャノンEOS-10Dを購入した.自分では写真にそれほど思い入れがあるわけではないが,これで手元に銀塩一眼レフが二台(一台は結婚するときに結納のお返しにもらったキャノンEOS,もう一台は小学生の時にお年玉を貯めて買った,Pentax MX),コンパクトデジカメが2台,panasonicのデジタルビデオカメラまであることに気が付いた.もともとは,小学生の時に天体写真を撮るためにカメラを買った.最近は撮影後すぐに画像が確認できる,デジタルカメラのスタイルになじんでしまって,銀塩カメラを使うことは天体写真を撮るとき以外にはなくなってしまった.EOS-10Dは天体写真を撮影するにも耐えうる画像が自慢のカメラで,これからいろいろ使い倒そうと思う.とりあえず試し撮りをした画像をアップします.SYARI.JPG - 58,475BYTES
さすがにコンパクトデジカメの画像と比較すると雲泥の差がある.斜里は写真に撮りたい景色が豊富なので,これからいろいろ楽しめそうである.

10月
9日:10/5は今シーズン最後のマラソンレースだった.気温は15度晴れで,コンディションも良好であった.手に昨年でのレースの5kmごとのラップタイムを書いておいて,それを見ながら走った.前半で5分上回るペースで通過し,後半でさらに1分ペースをあげて,昨年より6分早く,3時間12分台でゴールすることができた.膝の怪我をしてから最速のタイムで,なかなか最近10年間3時間15分を切れなかったが,その壁を一気に破ることができた.40歳の今年のシーズンはハーフマラソンを含めて,全て良い記録で走ることができて,肉体年齢が数年若返ったような感覚がある.これは札幌から斜里に来て一年じっくり練習ができたことによるのだろう.札幌は練習環境が最悪であった.町中は信号だらけで,ペースをあげて一定距離走ることができないし,冬は路面が最悪で走って毎年のように転んで怪我をしていた.斜里は練習コースには信号はほとんどないし,冬でも雪が少なく練習がきちんとできる.そのうえ,陸上競技場も自由に使えるため,スピード練習も十分にできる.来週は消化器病学会で発表のため大阪へ行く.そのための準備でマラソンが終わった後も忙しい毎日である.
26日:学会から帰ってきて,内科の医師が一人退職し,daily workに忙殺される毎日が続いている.学会に行ったついでに,望遠レンズを買ってきた.本日は子供の学芸会で,このレンズを使って撮影した.デジタルカメラもついにここまで来たのかとつくづく感心させられる出来であった.最近は暇があれば車で自宅周辺の景色の撮影のために出歩いたり,昨日は古い望遠鏡を持ち出し,天体撮影などもEOS10Dでやっている.ここで撮影した写真を掲載していますので,興味ある人は見てください.

11月
30日:10月末で内科医が一人やめたこともあって,この一月はすさまじく多忙な日々であった.外来患者は診察だけで60人を超えることもあり,これを午前中にすべて診て決着をつけなければいけない.すべてが慢性疾患の患者ではなく,数人は緊急処置が必要な患者が混じっている.また慢性の患者でも,経過観察でやり残したことがないかどうか,短時間で判断をしなければいけない.週3回の外来では緊張の連続である.病棟も満床が続いており,このままで行けば昨年より8000万円以上業績が伸びそうである.しかし疲労がたまってきていて,体調が優れない.

12月
6日:疲れがたまっている.風邪をひいている.土日で完全に休める日が少なく,疲労の回復ができない状態である.土日は当番を決めて休むようにしているが,当番医が手に負えない場合には病院へ呼ばれる.久しぶりに自分の中で真剣に休息をとらなければならないと自覚する状態になっている.
20日:先日天体望遠鏡(10cmED赤道儀)を購入した.
TELESCO.JPG - 41,125BYTES もともと小学校3年生の時に初めて望遠鏡を買ってもらい,ずっと星を見続けて,中学生の時に小遣いをためて一眼レフカメラ,10cm反射赤道儀を購入した.大学生になって写真専用のポータブル赤道儀(写真手前)を購入したきり,しばらく天体観測から離れていたが,EOS10Dという一眼レフデジタルカメラを購入したのを機会に,再び星への興味が再燃してしまった.仕事が忙しいときこそ趣味にも時間を費やすということがこれまでも多かったが,今回も同じ事態になってしまった.研修医の頃はなぜかエレキギターが弾きたくなり衝動買いして指にまめができるほど練習したこともあった.仕事の疲れを趣味に熱中することで発散するという自己防衛なのだと思う.それにしても今時の望遠鏡はすごい.コンピュータ制御で赤道儀がモーター駆動され,観望したい天体を自動的に導入,追尾してくれる(らしい.まだ忙しくてそこまで使いこなしていない).今は仕事の忙しさと,天候の不良のため未だに星を見ることもなく,この望遠鏡は書斎に鎮座している.はやくセットアップをすませて,星空をゆっくりと見たいものである.
30日:先日やっと初めて望遠鏡を外に持ち出して,星空を観望してみた.試しにEOS10Dで月を撮影してみた.ここに一枚アップロードしてあるので,興味がある人は見てください.望遠鏡を使って月を撮影したのは25年ぶりで,この間天体望遠鏡の光学性能そのものは大きく変わってはいないのだが,値段が当時と比べれば数分の1になっている.EDレンズ10cmなどという望遠鏡は,当時はとてもではないが,一般の天文アマチュアが購入できるものではなかった.またデジタルカメラを使って,撮影したその場で写真の結果を確認できるなどと言うことも,その当時は全く想像もできなかった.昔は露出時間を決めるのが難しく,いろいろな条件を考慮して露出時間を計算していたが,今はラフにまず一枚撮影して,その場で結果を見てから露出時間を調節している.良い時代になったものである.



1998-1999年の帰国後の日々はこちら
2000年から2001年の帰国後の日々はこちら
2004年の帰国後の日々はこちら
2005年の帰国後の日々はこちら
2006年の帰国後の日々はこちら
2007年の帰国後の日々はこちら
2008年の帰国後の日々はこちら
2009年の帰国後の日々はこちら
ホームページへ戻る 1