2000年
1月
21日:結局,Y2kは何もなかった.お正月は2日間実家に帰省して,その後はいつも通りの仕事を開始.昨日,消化管内圧測定装置と胃電図のセットアップが終わり,これらもきちんと測定できるようになった.barostatに加えて検査機器は充実してきた.Barostat検査の患者さんも,少しずつ他院から紹介されるようになってきて,軌道に乗ってきた.学生の春休みを利用して,正常対照例も増やせる見通しがたってきた.昨年秋に日本内科専門医会に応募していた研究奨励賞を受賞する事になり,援助金はそれほど多くはないが,非常に名誉なことで嬉しかった.授賞式も4月に行われる.タイトルは消化管機能異常症(functional gastrointestinal disorders)の臨床的解析:欧米との比較.1年後にはまとめて発表しなければいけない.新年早々良い知らせが届いてさい先がいい.
28日:最近は外の病院からもIBSやNUDの症例を紹介してもらえるようになった.患者さんに共通することは,自分の苦しみを今まで誰にもわかってもらえないことが多かったということである.まず患者の話をよく聞き受容する事が,IBSに限らず全ての病気の治療の基本であることは,全ての医者は理解しているはずであるが,外来で時間を長くとれないこともあってか,良く成されていないようである.しかし10年以上も症状が続いて,医療機関に助けを求めて受診を繰り返しているにもかかわらず,一度も症状や悩みを受容してもらえない人がいるというのは,現在の日本の医療状況がひどく歪んでいることを示している.さらに医療関係者の不用意な一言が,その後の患者の人生を大幅に狂わせてしまっているような症例も多い.私は研修医の時代に,当時の教授に患者の受療行動や,患者の求めていることなどについて,大変良い教育をしていただいた.それはなにも特別なことではなく,患者は検査で異常がないと言われるために病院に来るのではなく,苦しみや痛みから救ってもらうために受診する人が多いということである.このような人たちに対しては,検査で異常がないという説明は,何の救いにもならない.教育を受けた研修医のころの診療姿勢は,今も変わらず私の中に生き続けている.こう考えると,卒業後早期にいかに良い研修を積むかは確かに重要だが,医者としての姿勢についてきちんとした指導が,それ以上に重要だと今になって実感している.しかしそれは試験で確かめられるわけではない.このような教育をいかにして行っていくかも,我々大学にいる人間としてしかっり考えていかなければいけない問題であると思う.

2月
8日:先日,この夏に仙台で開かれる,日本適応医学会でのシンポジウム,「消化器病のストレス応答と適応」でシンポジストになるようにとのお誘いを受けた.私の担当分は消化器病における中枢ストレス関連ペプチドの役割である.とても名誉なことであるので快諾した.私以外の演者は,有名な人ばかりなので若輩の自分がお話をさせていただいていいものかとも考えたが,この医局をアピールするよい機会でもあるので,精一杯努めようと思う.
14日:先週いっぱいで留学中にした仕事をやっともう一つまとめ上げて論文として,教授に送ることができた.今はe-mailがあるから,アメリカと日本で距離が離れていても,論文のチェックは簡単にしてもらえる.まだあと一つまとめなければいけない仕事がある.臨床活動の傍らがんばっていこうと思う.週末の3連休は家族と東京に純粋に遊びに行ってきた.帰国から1年半が経過したが,思えばこれまで夏休みもとらずに働きづめで,家族と旅行をしたこともなかった.東京の宿は以前すんでいた目黒だったので,昔走ったコースを朝ゆっくり走って楽しむことができた.子供は浅草にあるウルトラマンの遊園地に行きたいと言っていたので,2日目はそこに一日いた.ウルトラマンと一緒に写真を撮ったりで,子供は大満足だった.私も子供の時は,ウルトラマンを見て育ったので,十分楽しめた.あのころTVで見たヒーローが今はDVDで子供と一緒に見ることができる.技術の進歩はすごいと思う.秋葉原にも顔を出して,先日愛機TP570のHDDを12GBに換装したが,その時に余った6GBのHDDを12700円で売って,19800円で128MBのメモリーを購入した.2/18に発売されるWindows2000に備えて,設備投資をした.日曜日に札幌に帰ってきたが,週末は大雪が降ったようで,除雪が大変だった.
28日:Barostatのコントロールは,学生を利用して順調に数が増えてきている.とりあえず,春の消化器病学会の地方会に発表できそうである.今週週末は斜里に診療応援に行き,さらに研究会が2週連続で続き,4月は日本内科専門医会に研究奨励賞の表彰を受けるために京都へ行かなければいけない.また半分忘れかけていたが,昨年秋に大学の宿舎へ入居希望の申請を出していたのだが,先週突然空きができたので,直ちに引っ越ししてほしいと連絡がきた.家賃が駐車場を入れて2万円弱ということで魅力はあるが,あまりにも急だった.引っ越しはすることにしたが,まだ予定がたたない.なんとか3月中旬までには手続き上引っ越しを完了しなければいけない.部屋は5階でエレベーターはないという.引っ越しするのも大変だろう.

3月
10日:先週末は斜里に行って診療を行ったが,週末から高熱に見舞われ,40度以上の発熱が継続した.生まれてこんな高熱を出したのは始めてである.それにもかかわらず,兼業先での診療は休むわけにはいかず,決死の思いで出勤した.兼業先では消化器系の検査を行っているので,前処置のために前日から入院している人もいるので,こちらの都合で休むわけには行かない.さらにいくら調子が悪くても,こちらの都合は患者さんにはまったく関係ないわけで,それを理由に診断能力や治療の質に影響があってはならない.実際そうできたかどうかはわからないが,プロとして自分はいつもそのように考えて,診療に望んでいる.地獄のような1週間が過ぎて本日は体もやっと少し回復してきた.しかし今週週末は,研究会の出席と引越しの用意で休むひまが全くない.
24日:最近はBarostatの症例が徐々に増えている.コントロールも6例となり,春の消化器病学会の地方会には発表できそうである.DDW-Jの抄録,地方会の抄録,さらにシンポジストを仰せつけられた適応医学会の抄録と,すべて4月上旬の締め切りで,あわただしい.引っ越しもしたばかりで,まだ探したものはすぐにでてくる状態ではない.一つ一つこなしていくしかない.

4月
10日:先週は以前依頼されていた,訳本”胃酸関連疾患の病態と治療”の最終校正とさらに抄録を4つを終わらせ,日本内科学会出席のため,京都に行ってきた.内科専門医会から研究奨励賞を頂き,その授賞式があった.立派な賞状をいただき,感激した.これまで受けた賞はスポーツ関連ではいくつかあったのだが,academicなことで受けたことは初めてであり,今までで一番うれしかった.
京都は桜が満開できれいであったが,内科学会の講演が興味深く,観光は珍しくほとんど行かなかった.来年は横浜で行われるこの会に,今度は自分がその成果を発表しなければいけない.内科専門医の名に恥じない研究にしなければと今から緊張している.
21日:昨日,大学事務のほうから連絡があり,応募していた科研費があたったとのことであった.二年間で210万円の研究費が入ることになる.最近,大変名誉なことが続き,とてもうれしい.また自分の研究分野は(ストレス関連消化器疾患の臨床的研究)これまで日本ではマイナーで,評価や注目を集めることはあまりなかったが,科研と内科学会の研究奨励賞を受賞したことで,この認識が少し変わってきたのかもしれない.日本の消化器病学は,内視鏡が非常に発達したこともあって,形態学が主流であった.良いところはこれまで以上に発展させ,今まで立ち遅れていた分野にも研究の手を差し伸べていかないと,世界の趨勢から大きく外れることになる.アメリカへ留学していたときには,常にそんな風に感じていた.そういう意味では今回の科研の結果は意義深いと自分では思っている.今日は自分でお祝いしよう.

5月
18日:ゴールデンウイークはかぜをこじらせ寝ていた.5/5はひどい体調をおして,ハーフマラソンに出場.昨年より6分も遅い記録でゴールした.練習時間は以前と同じほど毎日確保しているものの,練習の質が最近明らかに落ちている.かぜを頻回にひくのもあるが,自分を追い込む練習ができなくなっている自分もそこに確かにいる.一大奮起しなければ.休みが終わったらすぐに北大の職員として,有珠山噴火に伴う医療応援に行ってきた.避難所の環境は劣悪で,一刻も早く仮設住宅を潤沢に建設しなければと思った.我々の担当する避難所は,立派な町立病院の隣にあり,開設当初は日に60人ほど患者が来たそうだが,今は20人前後.今となっては明らかに有名無実と化している.それでも大学からは医師3名(内科,外科,精神科)と看護婦2名,薬剤師1名,事務2名を派遣している.また病院では応援を行っていることを,ポスターその他を使用して,盛んにアピールしている.最近はなんとおそろいのユニホームまで作っている.患者の人数と,この避難所の立地条件(病院に隣接)を考えれば,この体制で医療応援をすることは,明らかに効率が悪いことは明白である.続けるにしても,何が本当に援助になるか,我々は反省して早急に体制を変えていかなければいけない.さらに言わせてもらえば,今回は噴火や地震で怪我をした人はいない.そう考えればもともと医療が何かを援助しても,被災した人たちには何ら根本的な解決につながらないのである.裏を返せば,被災して死亡者が出たわけではないので,解決にはお金をいくら援助できるかにかかっているわけである.マスコミが盛んに心のケアと報道しているが,こころのケアが必要になった原因は明らかである.解決策も明白である.行政,マスコミ含めて,問題点のすり替えをやってはいけない.(このようなニュアンスで大学の方に個人的な意見を言ったら,一応は話を聞いてくれた.私の意見が通ったかどうかはわからないが,次の週からは医師が1人体制に変更になった.縮小するのではなく,できることは意味がある方面へ力を分散させてやっていくのが理想だ思う.)
26日:前回に続いて,有珠山噴火に伴う医療応援の件であるが,その後事務のほうから,出張旅費が出ているから,印鑑を持ってくるようにいわれた.話を聞いてみると,医療応援は出張扱いなので,出張旅費が出るとのこと.それも3日行くと4万円近い額のお金が支給されるとのこと.私は今回の医療応援に関して,旅費の支給を受けるということは,公務員として趣旨に合わないし,もしそのようなお金があるのなら,避難している人たちに対して,金銭的な援助を行うのが筋ではないかということを,文書で伝えた.2-3日すると,事務から電話がかかってきて,法律上出張扱いにしないと医療応援にはいけないので,どうしても受け取ってほしいとのことであった.こんな調子で公務員はおそらく有名無実と化した,規則というものに従って全ての業務を行っているので,一般の国民とは意識がひどくずれてしまうのであろう.なにが今大切か,そんなことを考えることさえも許されず,そのため結局は一般の人々が常識的におかしいと思うことに対しても,何の疑問も感じなくなってしまうのだろう.とは言っても,末端の事務の担当者をこれ以上困らせるわけにも行かないので,ひとまず旅費を受け取ることにし,それをそのまま有珠山噴火に伴う避難民の方への援助に,寄付することにした.また大学病院の方へももう一度何らかの形で,問題を提議することができないか今考えているところである.

6月
13日:春先に大きなかぜをひいてから倦怠感がとれず,ランニングの練習の質はかなり落ちている.6/11はそんな中フルマラソンのレースに出場した.練習のつもりで完走を第1に走ったが,3時間28分あまりでゴールできた.こんなタイムで満足はできないのだが,体調を考えればまずまずであった.6/3は札幌で消化器病学会の地方会があり,私が今の勤務先に来て,初めてこちらでした仕事をまとめて発表した.実際には同じ研究グループに属する若い先生に発表してもらったのだが,感無量であった.研究体制,機械など全くないところからはじめて,やっとここまで来ることができた.今後もますます仕事を発展させられればと思っている.科研費もあたったので,いよいよ前からしたいと思っていた研究を実行に移すことができるようになった.そのため本日,大学の医の倫理委員会に申請書を提出してきた.今回で2度目なので手順は良くわかっている.あとは後日連絡があって,委員会のお偉方の質問を受けて,答えるだけである.私はアメリカ内科学会の認定医なのだが,こんど専門医に昇格できないか打診してみた.業績は問題ないらしいので,申請することにした.うまくいけば来年は米国で授与式に参加することになるかもしれない.
30日:最近やっと少しずつ満足な走りができるようになってきた.春先のかぜから回復が遅れていたのか,倦怠感が続いていたが,やっとここ数日普通に戻ったようである.来週は日本適応医学会で発表のため仙台に行く.その前に斜里へ出張.出張に行く前に,発表のスライドを作成し,さらに秋の消化器病地方会の抄録を仕上げなければいけない.科研のお金がやっと入金され,使えるようになった.さっそくコンピュータを発注した.ThinkPadA20Pという機種を選定した.画面は15インチで解像度がSXGA+,VRAM16MB,CPUはPentiumIII750,HDDは20GB,RAMは増設して256MBと贅沢三昧の仕様.機械に恥じないような仕事をしなければ.

7月
10日:週末は適応医学会のシンポジウム出席のために仙台に行って来た.学会からは交通費と謝礼としてお金を頂き恐縮した.はたして私の話が学会に相応しかったかどうかは自分ではわからない.しかし本日,学会の方からシンポジウムは好評だったので,学会誌に私の公演内容で総説を書くようにと電話があった.学会自体は小さなものであったが,発表者のレベルは高く,今後さらにすばらしいものへと発展していくのではないかと思った.
31日:先週は夏休みを取って,大学の仕事は休んだが,斜里の方へ1週間,医療応援に行って来た.相変わらず忙しく,一週間で10人以上入院させなければいけなかった.休みといっても働き通しで,さすがに自分も疲れたが,家族も不満を持っているだろう.総合診療部が地域医療についてかかわると宣言している以上,実際に今地域医療が抱えている問題を理解するためには,そこに行って医療を行って感じ取るしかない.休みをつぶしてまで働かなくても良いと実は自分でも思っているのだが,私の応援により地域医療に貢献ができ,またこちらもそこから学べられれば,お互いに得るものは大きいのである.今回得たものを,学生教育に生かしていきたい.それでも,やはりいつか3日でもよいから休みをとりたい.思えば,帰国してから長期の休暇は取っていないのだ.

8月
17日:ついに科研費で注文していた,TPA20Pが到着した.15インチで1400×1050ドットの解像度はすばらしく,大満足である.2週間前に軽いかぜをひいたのだが,どうもその回復が思わしくない.倦怠感が強く満足にトレーニングできない.北海道マラソンまであと1週間ちょっとしかないので,あとは疲労の回復に当てようと思う.
18日:以前,UCLAに留学していた関係から,消化性潰瘍関係の英文書籍の訳本を出版するのに,訳者の一人に加えていただいたのだが,ようやく本日出版された.Sachs教授という,私が留学していた研究室の同じ建物にいた人で,胃酸分泌,helicobacter pyloriの世界的な研究者であるが,その人が書いた本を今回,日本語で出版しようという企画であった.原本は,gastroenterologyの書評でも絶賛されていたので,その訳本を作る意義は大きいと考えていた.出来上がった本を見ると,カラーの図が大変多く,またhelicobacter pyloriの最近の知見もしっかり網羅しており,すばらしい本に仕上がっている.この本が売れても私に印税が入るわけでは全くないが,お勧めです.一度手にとって見てください.

(医学書院発行,胃酸関連疾患の病態と治療,監訳,中澤三郎,12000円税別).
28日:1週前から原因不明の腹痛に悩まされ,倦怠感と食欲不振に悩まされた.昨日は北海道マラソンで,ぎりぎりまで出場を辞めるか悩んだ.結局出場することにしたのだが,いつ腹痛に襲われるのかを心配しながらのレースとなった.気温はスタート時30度ときわめて過酷であった.脱水を避けるために,こまめに給水をしていったのであるが,水を飲むと今度は腹痛がでるという,にっちもさっちも行かない状況に陥った.20Kmは昨年のペースを2分以上上回るペースであったが,それもたたってか,25Km過ぎからは頭痛がひどくなりフラフラの状態で,何度も棄権しようと思った.記録の興味がなくなった時点で,いかにこの苦しみに耐えてゴールするかが自分の目的であると思い直し,歩くようなペースで完走した.記録は3時間48分あまり.過去最低の記録である.おそらく熱中症に近い状態だったと思われるが,帰宅しても食欲不振と不眠,高体温が続いた.しかし本日はほぼ回復.自分なりに昨日はがんばったので満足している.そして次は2週間後の千歳日航マラソン.体力を回復させ,今度こそきちんとした走りをしたい.

9月
12日:
9/10は千歳日航国際マラソンだった.気温にも恵まれ,自分としても満足できる走りができた.今月から,再び学生実習がはじまり,下旬には消化器病学会の地方会,10月にはDDW japanの発表(神戸),10月いっぱいで締め切りの日本適応医学界雑誌から依頼された総説と期限付きの仕事が目白押しである.忙しくなってきた.

10月
5日:科学研究費の来年度の申請,適応学会の総説,学会発表,学生教育などデスクワークが目白押しで,寝不足が続いている.アメリカ内科学会専門医(FACP)の申請も無事終わりそうで,あとは書類を清書して本部に送ればよい段階になった.来年は専門医の授与式のために渡米することになる.FACPを受けたあとは内科専門医会内の国際フェローシップ委員会の委員になり,今後日本の内科を担う若い人たちがどんどん海外に出て,外国の臨床医,研究者たちと対等に議論ができるそんな医師がたくさん出てくるように活動していきたい.自分もFACPの名に恥じないよう,これまで以上に社会貢献を含めた活動を行っていきたい.社会に対して自分が何をできるかについてもっと真剣に考えていかなければいけないと,今回の専門医の申請の時に強く思った.2年前のちょうど今日,私は留学のため日本を離れた.留学2年,帰国して2年.この4年は自分としては本当にあっという間に過ぎたように感じている.留学中は本当にがむしゃらに仕事をして,帰国後はそれを熟成するような形で仕事を進められるようになった.今後もこれまで以上に積極的にいろいろなことに関わっていきたいと思っている.
24日:山のようなデスクワークをすべて終わらせ,明日からはDDW-Japanで発表のため,神戸へ向かう.この一ヶ月は実に忙しく大変だった.仕事のし過ぎと自分で思う.夏休みもとっていない.11月下旬に,有休を1日とって家族と一緒に温泉にでもいこうと思っている.札幌は雪も降ってすっかり冬になってしまった.10/28に札幌に帰ってくるが,翌日はハーフマラソンのレースに出場する.こんなことをやっているから休む暇がなくなるのだろうか?
30日:
神戸から2日前に帰ってきた.学会はいつもどおり(?)大きな見所もないまま終了.私の専門領域(消化管機能)は日本ではマイナーで,座長も内容を理解することが難しいらしく,議論というよりはprimitiveな質問に私が答えるという形に終始することが多い.世界の情勢からすれば,非常に遅れているとしか言えない.それでも,普段はゆっくり会って話をすることができない先輩と,学会という場だからこそ会って話もできるわけで,そのような意味においては有意義であった.また,以前から親しくしてもらっている,先生方の発表を見ることによって,自分も強い刺激を受け,これからもがんばって仕事をしようというmotivationを得ることもできた.さて,学会から帰ってきた翌日はハーフマラソンのレースであった.学会前,多忙だったせいか,疲労感が激しく,当日も出場を取りやめるか少し考えたが,今シーズン最後のレースであったので,出場することにした.気温10度で風は少し強めだったが,良いconditionであった.記録は今の自分の状態からすれば,望むべくもないので,いちかばちか,今の自分が走られるペースよりも早めの人に,無理をしてついて走ることにした.中間点までは,かなりきつかったが,後半は逆に体調が上がり,前半より若干のペースダウンで後半も走りぬきゴールした.タイムは1時間22分7秒で,まずまずであった.来年の5月までは北海道ではレースがなく,冬季練習に入る.雪が降る前に,60Km走などの思い切った練習もやってみようと思っている.

11月
7日:DDW-Japanから帰ってきて,12月上旬までに本家のAGA2001(Atlanta)のabstractをゆっくりまとめようと思っていたら,留学先の教授からe-mailが届いて,やっと私の論文チェックに専従する時間が取れたので,一気に投稿してしまうから,資料を送れとのこと.たまたまその日は特別忙しかったので,1日放っておくと,またe-mailがきて,replyがないのはどういうことか,今忙しいのなら都合のよいときを知らせなさいという催促がきた.週末には仕上げるから何とかしなさいとも.その日は医局で宴会があったのだが,一次会のあとすぐに帰ってきて,真夜中までその仕事にかかりっきりになった.翌日はさらに数時間のうちに2通,仕事の問い合わせがあり,その対応に追われた.教授は2年前と仕事に対する情熱はまったく変わっていないようだ.もちろん自分も変わっていない.寝不足と仕事のし過ぎでふらふらの状態である.休まなければ.
17日:
今週はやっと仕事が一段落して,少し落ち着けている.しかし週末は子供の学芸会でいろいろ時間を取られてしまう.何とか休みを取りたい.11/27は有給休暇を行使して,一泊だけれど近くの温泉で家族で遊ぶことにした.それを楽しみに,仕事を続けている.

12月
1日:人事その他の問題で,医局内がギクシャクして,医局長としてその解決策を探ったりと,ここ数週心労が絶えなかった.そんなこともあり先週の週末は,札幌郊外の温泉へ,家族とでかけ,ゆっくりと休んできた.また,発作的に浪費癖がでて,50万円でコンピューター,SONY PCV-RX70K(P III 1GHz)を買ってしまった.video編集ができる機械で,子供の学芸会の前日に購入したデジタルビデオカメラでとった映像を編集しようと思っている(まだ忙しくてやってはいない).子供が生まれる前は,自分は子供をビデオで記録したりするような人間ではないと思っていたが,ついにこうなってしまった.11月の買い物は総額80万円になってしまった.私はストレスを自覚しているときには以前からこのような浪費癖があったのだが,いまだに直っていないようだ.
25日:
今年もいよいよ終わりに近づいているが,最近私の周辺で,人間関係その他の行き違いから,様々な問題が発生し,その解決に奔走するようになっている.当事者の話を聞いてみると,その問題はほとんど取るに足らないもので,なぜこんなことが一大事になるのか理解に苦しむことが多い.ところが行き違いを修復するのは,当事者たちは興奮して他罰的になってしまうことが多いので,第三者が仲介するのが良い.最近一月以上,なぜか自分は様々な問題解決のための仲介者として働くはめに陥っている.何とか全ての問題を20世紀中に解決できればと思っている.先月購入したコンピュータで,video編集を行っている.ハードウェアのスペックを見ていると,コンピュータ歴の長い自分としては,本当に時代を感じてしまう.はじめに購入したコンピュータは今から13年前で,HDDはついておらず,メモリーは640KB,CPUのクロックは10MHzだった.今の機械はメモリは256MB,CPUクロックは1GHzと最初の100倍になっている.画像,動画の編集ができるというのは実にすごいことであるが,自分が仕事でしている内容は13年前と比べて,その質が100倍かと聞かれると,やっていることはほとんど以前と変わっていないような気がする.
28日:
本日で大学は御用納めである.年末年始は31日から2日まで,医局関連病院の当直が入っている.今年も仕事だ.そういえば一年前の大晦日は大学で当直をしていた.今年を振り返ってみると,1月に内科専門医会から研究奨励賞を授与,4月に科研が与えられたり,7月には適応医学会のシンポジストを依頼されたりと良いことが続いた.しかし後半はさまざまな問題で心労が多く,全体でみると多難な年であったと思う.来年は4月に内科専門医会で発表(横浜),うまくいけば5月にAGAで発表(Atlanta),6月にFACP(アメリカ内科学会専門医)に認定,また論文も2つはまとめることができると思うので,帰国してやってきたこれまでの仕事の集大成の年になると思う.がんばっていこうと,自分自身を励ましている.

2001年
1月
11日:21世紀は,当直先の病院で仕事をしながら迎えた.新年早々からbarostatの被験者がたくさん得られて,研究が進んでいる.科研も来年度で締めで,まとめなければいけないので,気合をいれてやらなければ.それにしても臨床研究は被験者の集まり具合によって,大きくその進行具合が変わってしまう.また,倫理的な面については常に注意を払って行わなければいけないので,動物を使った実験とは比べ物にならないくらい大変である.37歳になった今,自分としては動物を使った基礎的な実験は,もうやるべき時期ではないと考えている.より臨床に直結するような研究を今後続けていこうと決心している(本当はアメリカでやっていたころのような研究を,今もやっていたいと思っているのだが).
29日:
早くも1月が終わろうとしている.1月は研究の被験者がたくさん応募してくれて,barostatの測定も一応終了した.これで論文をまとめることができそうである.この大学にきて2年と少しが経過したが,やっとここではじめた仕事の成果が発表できる.振り返ってみると,ここまでくるのに,たくさんの苦労があった.何もないところから始めて,barostatを購入してもらい,倫理委員会を通して,科研費をあてて,被験者を募って,自分で被験者になって.....自分のことを少しだけ誉めてやろうと思う.論文をまとめて良いjournalにacceptされるよう,がんばろうと思う.

2月
2日:年末にAGAに抄録を送ったが,submission feeをcredit cardから支払うように申し込んだのだが,なんとcardのexpired dateを間違って送信していたことに気づいた.paymentがうまくいかなければ,採択されるか検討されることはないので,急いで訂正のe-mailをofficeに送っているのだが,返事がない.最悪今年のAGAはあきらめなければならないと,今覚悟している.残念である.2000年をこえてから,MonthsとYearをしばしば間違えるようになった.2001は01と略すので,これでは1月と同じである.とりあえず,時差を計算してoffice hourに,直接電話して話して,間違えを訂正しようと思っているが,こんな時,アメリカ人は実に無責任な対応をするので,うまくいくかどうかはわからない.心配である.
9日:
credit cardの一件は,どうしても埒があかずに,仕方がないのでUCLAのlaboのfellowに電話し,状況を話して電話を直接officeにしてもらうことで解決してもらった.聞いたところによると,担当者は私に承諾した旨を書いたメールとfaxを,だいぶ前に送っていると話しているという.全くのうそである.アメリカで生活していたときはこのようなtroubleに良くあっていたので,特に驚きもしないが,時差があるため日本から直接抗議の電話を入れることが難しい今の状況は,なんとも歯がゆいものである.ところでlaboの友達に,私の演題のことを話したら,すでにlaboにはAGAにsubmitされた全演題のscoreが送られてきているという.教授はAGAのmainな構成員だからそのような情報が入ってくるのだろう.私のscoreもしらべてもらったところ,3.8とのこと.その意味を聞くと,応募したカテゴリーの中で,上位から3.8%に位置するという意味であるという.だいたいtop5-10%以内がそのセッションでoral presentationとして採択されるとのことで,そのscoreが正しいとすると,演題採択はもちろん,posterではなくoralでの発表となるかもしれない.これは,これまでの2年間,一人でゼロからこつこつとやってきたことが,世界で認められたことを意味していて,自分のやってきたことが間違っていなかったことを証明するものである.大変うれしかった.まだ正式なものではないので,大手を振って喜ぶのは控えるが,Atlantaに行く準備をはじめようと思う.また冷静に考えると,oral presentationは2年ぶりで(もちろんAGAも2年ぶり),pressureを感じながらこれから準備をしていかなければいけない.今日は一人でお祝い.

3月
26日:AGAは,結局credit card troubleのためか,なんの連絡もないまま,発表期限が来てしまった.webで調べてみると,私のabstractはhitせず,採択されていないことが解った.AGAは演題が採択されてもされなくても,gastroenterologyにabstractが掲載されるのだが,そのabstract proofが2/20までに送られてくることになっていた.ところが,未だにそれは送られてきていない.いくら問い合わせをしても,事務局からのresponseはない.UCLAのfellowたちのところには,とっくの前にmailで採択されたかどうかの結果が送られてきているし,proofも送られてきている.mailで合否の知らせもこなければ,proofさえ届いていないというのは,明らかにおかしい.editorの採点結果はわかっているので,それ以降の事務的な手続きがおそらく,例のcredit card troubleのために進まなかったと思われる.これ以上は自分でどうすることもできないので,今回はこれであきらめて,この仕事は速く論文としてpublishすることにした.残念であるが,このようなtroubleはアメリカに住んでいたときは日常茶飯事で,当事者の自分としてはあまり驚かない.AGAには行きたかったが,来年またtryしようと思う.

4月
9日:AGAからは,結局何のresponseもなかった.事務手続きが完了してないのだろう.4月から医局員が一人,5月からもう一人抜けてしまうことになったので,長期に医局を空けることが物理的に無理になっていたので,良かったとも思ってはいるが,それにしてもひどい.DDWの事務は98年から,学会をorganizeする業者が変わって,それからいろいろなtroubleが起きているとも聞く.安いコストで学会を運営すれば,それだけ人件費その他を削減しなければいけないわけで,そんな弊害がでてきているのではないのかと思う.今週は内科専門医会で,昨年受賞した研究奨励賞の研究成果を発表するために,横浜へ出張する.
24日:
内科学会に出席してきたが,発表は滞りなく終わった.横浜は暖かいと言うよりは暑い気温で,北海道の6月の気候であった.今年の学会は昨年と比べると,内容がいまいちであったような気がする.先週週末は斜里へ診療応援に行ってきた.雪が降っていて,いまさらながら北海道は広いことを実感した.医局員が5月からまた一名減少となり,ついに私は月,火,金曜日に外来を担当することになった.水曜日は兼業で出勤しない日で,木曜は内科系初診患者の振り分けを担当するので,研究する時間も極端に減ってしまうことになる.

5月
11日:5/5は今シーズン初めてのレースだった.ハーフマラソンであったが,3日前に下痢を伴う風邪をひいて体調は最悪で,棄権しようとも思っていた.前日は完全休養にして,当日の朝軽く走ってみると,以外に体が軽い感じがしたので,出場することにした.気温は16度で風は少し強めであったが,最後まで集中力が切れることなく完走できて,タイムは1時間23分02秒であった.この時期のタイムとしてはまずまずである.5kmから15kmは,たまたま大学の陸上部の先輩が出場していて,一緒に走ることができ,とても懐かしかった.今年の2月から今までの練習を見直し,もう一段階走行距離を増やすようにしていて,月間650Kmほどになっている.また筋肉トレーニングも取り入れてこつこつとやっていたが,その結果がでたのかもしれない.やはりどんな状況にあっても,できる限りのことをこつこつとやっていれば,結果は必ず着いてくることが実感できた.これは陸上のレースだけではなく,自分は人生もそうなのではないかと信じている.
25日:
ちょうど今はAtlantaでAGAが開催されている.AGAの期間にあわせて,UCLAの消化器病研究センターのpartyが毎年開催地で行われる.今年も招待状が届いたが,行くことができなかった.無念である.来年こそはと思っている.大学での診療が最近人手不足で結構大変である.総合診療部というと,内科系の振り分けで,専門科へ振り分けが不可能な患者を主として担当して診るわけであるが,そのほとんどが精神疾患の患者である.それゆえ,対応がかなり大変で,もちろん精神科に紹介するわけであるが,紹介するだけでもかなりの手間がかかる.一日にこのような新患を5人もこなすと,夕方にはぐったりである.月,火はこんな感じで一日が過ぎてゆき,水曜日は兼業先の病院で,内視鏡検査,治療を担当している.この日は肉体的な疲れは残るが,充実感がそれなりにある.木曜日は各週で内科系初診患者の振り分けを午前中行う.また学生実習があるときは,午後は講義となる.そして金曜日はまた外来である.研究その他で始めたいことが,ideaとしては結構浮かんできているのだが,なかなか実行に移せないと言う状態になっている.奮起せねば.
31日:
どうも最近体調が不良である.体がだるくて,思うように動かない.それでも毎日トレーニングは続けているから,単に疲労が蓄積しているだけなのかもしれないが.また,左足の踵に,魚の目ができて,走るときに痛む.手術すればすぐに良くなるのだが,しばらくの間走ることができなくなるので,踏み切れないでいる.足の親指を骨折したときも,全く休まずに走り続けたことがあるくらい,走るという習慣は今後も変化することはないと思う.なんとかだましだましやっていくしかない.

6月
15日:先週終末は,ハーフマラソンのレースであった.魚の目が痛くて,また花粉症がひどく,レースは半分あきらめていたのだが出場した.記録は1時間23分58秒でそこそこ走ることができた.昨日は,札幌市内で消化器ストレスフォーラムという研究会で講演をした.話す機会があると,今までの仕事をもう一度見直すことになり,また新たな発見もあるので,このような機会は有用だと感じた.また昨日は,ACPのofficeから,申請していたFACP(アメリカ内科学会専門医)が受諾された旨の連絡があり,来年4/18にPhiladelphiaで認証式が行われるので,参加するようにとofferがあった.日本ではまだほとんどFACPの人はおらず,名誉なことであるが,これは社会に対して医者として貢献するという誓いの証という風に考え,これからも医療に携わっていこうと思っている.また今週は,帰国してから始めた仕事としては,初めての論文をまとめて投稿した.少しずつ,今までの努力が実りつつある.それにしても魚の目はやはり手術をしなければいけないようだ.走るたびに痛み,出血する.

7月
2日:先月誕生日を迎えて38歳になった.体力や記憶力の衰えはあまり感じない.最も,毎日体も頭もトレーニングを続けているので,そう簡単に衰えることもないとは思うが.ただ38歳という年になって,これから自分のやるべきことは何かということは考えるようになった.FACPを取得したというきっかけもあってか,社会に自分はどのようにして貢献していくべきかということが,最近自分の最も考えることである.以前から肝に銘じてきたつもりではあるが,単なる基礎的な研究で,臨床に何ら生かされる可能性がないような仕事は決してするべきではないし,また臨床も今のような大学病院の総合診療部というところで,自分としては中途半端で存在意義がいまいち見いだせないところで,続けていっていいのかといったようなことが疑問点として常日頃頭の中にある.自分の本当にやるべきことは何なのか.
27日:
もう早くも7月も終わりになってしまった.帰国して3年弱.夏休みというものを全くとっていなかった.今年は,久々にとろうと思う.8月4日は,日本内視鏡学会の認定医試験があるので,その後の週を休みにする.内視鏡学会の認定医は,我々の年代であれば元々試験はなく,申請すれば認定医になれた.しかしこの時は逆に無試験でとれる資格なんて意味がないと生意気に考えて,あえて申請しなかった.元々僕はあまのじゃくなところがあって,消化器内科を専門とする医局に属していたときは,自分の周りにいる"いわゆる専門医"が,患者を人として診療することができていない現実を痛感した.そのとき自分はこのような医者にはなりたくないと思い,generalistを目指して,内科専門医の資格を医局で初めて取得した.現在の医局に移ってからは,逆に周囲の医者が,専門性をヒステリックに否定することが多々あり,逆にそれも的はずれかと思う.それで今頃になって,内視鏡学会の認定医を受ける気になったのだ.いろいろな医者と接するうちに,最近わかったことは,自分は本当の意味での専門医になろうと思う.本当の専門医は,自分の専門外でも幅広い知識を持ち,患者がもっとも幸福になれるように,様々な手だてを尽くせる医者である.消化器内科医で画像診断のみにしか興味がない医者ではないし,何の専門性も持たず,その自分たちの能力のなさにも気づかず,総論ばかりで各論は全くわからないという,素人医者でもない.いろいろな職場をまわることにより,様々なtypeの診療形態を見学できたからこそ,このようなことが認識できたので,その意味においてはそれまでの経験はどれ一つとっても無駄ではなかったろう.

8月
14日:内視鏡学会の認定試験のあと1週間夏期休暇をとった.この期間はもっぱら家族サービスに当てて過ごした.息子がクワガタムシに興味を持つようになり,実家にかえって時には,自分も昔に返って,クワガタを探し回った.休みの後半は風邪をひいて寝込んでしまい,そのまま仕事に突入.休養という名目の休みであったが,これでは本末転倒である.2週後の北海道マラソンまでには何とか回復させなければ.
21日:
風邪の回復が思わしくなく,それでも無理を重ねていたが,土曜日になって頭痛,上顎部の痛みがひどくなり,薬を飲んでも痛みが止まらなくなった.兼業先の病院で自分で写真を撮ってみると,左の上顎洞に陰影があり,副鼻腔炎であった.すぐに抗生物質を飲み始めたが改善が乏しい.本日,耳鼻科の先生にも相談したが,抗生剤を続けて様子を見るようにということであった.週末は北海道マラソンで,このままでは出場できないかもしれない.頭が痛くて,事務的な仕事以外,複雑な思考を要するようなものはできなくなっている.
27日:
昨日は,病気のためいろいろ悩んだが,結局レースに出場することにした.朝早くは実に涼しく良いコンディションかと思ったが,スタート時にはすでに30度を超え,おまけに湿度も60-70%と厳しくなった.体調と天候を考えて,完走を第一としてレースのペース配分を組み立てた.5Kmごとのラップは25'44,24'45,25'12,24'39,(中間点1時間45分43秒)24'23,24'21,23'56,24'25そして最後の2.195Kmは10'36で,ゴールは3時間28分07秒であった.前半はjogのようなペースで自重したのだが,それでも20Km過ぎで足にダメージが来て,やばいと思った.それでもだましだまし走っていると,徐々にリズムに乗ることができ,後半は良いペースで押し切ることができた.今の自分の体調を考えるとベストのレースと思う反面,今日は特に足に筋肉痛もなく体にそれほどダメージがないところをみると,まだまだ余力があったのかとも思う.また2週後にもマラソンがある.次回は体調を整えて望みたいが,調整期間が短すぎる.

9月
10日:昨日は千歳日航マラソンがあった.雨降りで気温は20度と絶好のconditionだった.もともと今回の大会で記録をねらおうと思っていたので,前半から積極的にとばしていった.往路はずーっと上り坂が続くのにもかかわらず,中間点が1時間38分で,この前の北海道マラソンより7分も早い.さらに折り返してから下り坂になり一気にペースが上がった.しかしそのせいか,27Km地点で腹痛を起こして失速.道路脇にそれて,用を足した.その後腹痛が断続的に続くため,もうだめかと思ったが,精神的には切れずに走っていた.35Km地点からなぜか体調が復活し,ペースが再び上がって走り抜けるようにしてゴール.タイムは3時間20分22秒であった.今までは一度アクシデントがあると,その時点でもう精神的に切れてしまってレースとしてはそこで終わってしまっていたが,今回はそれがなかった.前半良いペースで走れたことで,3時間10分は今でも条件がそろえば十分ねらえることがわかった.失敗レースであったが,実りが多かった.
25日:
10月のDDWJでの発表とそれに平行して行われる研究会(neuro-gastroeneterologyを考える会)の発表の用意,科研の申請,3つの英語論文を平行して作成と忙しさが増してきた.研究会には私の留学先の教授も出席して講演を行うことになっている.久しぶりの再会である.2週間でマラソンを2レース走ったせいか,そのあと2週間以上が経ったにもかかわらず,どうも疲れが抜けない.

10月
12日:今週の月曜日は体育の日で,札幌市内の健康マラソンに出場した.土日は当直で寝不足,また週末に風邪をひいて,最悪の状態であった.ハーフマラソンに出場したが,結果は見事優勝.タイムは1時間22分26秒とまずまずであった.長距離レースでの優勝は実ははじめてで,スポーツジムの一年間の無料会員券などの副賞ももらって,大変うれしかった.本日,Journal of Gastroenterologyから,論文をacceptする旨を告げるemailが届いた.今の勤務先に来て初めてのpublishされる論文である.うれしいことが2個重なった.しかし,一度は回復したかに思えた風邪が,マラソンレース後再び悪化し毎日がつらい.
23日:消化器病学会に出席して京都から帰ってきた.京都では留学先の教授が来ていて,久しぶりにじっくりと話をすることができた.私がまとめた論文をチェックするために,講演後の懇親会で仕事の話をとうとうとしている.相変わらずの仕事好き.また他大学の教授に対して,私のことを立派な研究者でたくさん仕事をしたのだ等々売り込んでくれている.私は今回,この教授の下で研究ができて本当に良かったと再認識した.教授はneurogastroenterologyという分野では,世界の第一人者である.日本の消化器病学会では,この学問を学会の一つの大きな柱とするために,これからその体制を整えていくとのことであった.学会では留学中一緒だった研究仲間に久しぶりにあえて昔話に花が咲いた.帰国して3年しか経っていないのに,LAでの生活は今思うと夢のようであった.学会に参加して,もう一度基礎的な研究をどしどしやってみたいという希望が強くなった.今もし私に子供がいなかったら,間違いなくもう一度アメリカに行って,研究生活に没頭することになっていただろう.現実とのギャップと,留学時代の仲間の現在の仕事ぶりに対して,嫉妬も少々感じてしまった.しかし自分のポリシーは,いかなる環境下にあっても最善を尽くして努力することである.今の自分に対して問いかけてみる.果たして自分は全力を出しきっているか?

11月
29日:昨日,今年8月に受けた,日本内視鏡学会認定医の試験結果が届いた.合格であった.もともと申請すればとれた資格であったが,あえてとらないでここまで来てしまった.消化器の専門科に身を置いていたときは,画像診断のみの日本の消化器内科のあり方に否定的な考えを持って,自分は内科専門医を目指した.総合診療部という専門性を否定するような雰囲気のareaに足をつっこんで,逆に専門性の必要性を強く認識した.いささか自分でも自分のことがあまのじゃくだと思う.それが自分の良いところでもあり,悪いところでもある.内科専門医,消化器病認定医,FACPそしてこれと,資格はもうこれ以上とることはないだろう.アメリカのテロのこともあって,来年のAGAへapplyすることはやめた.またFACPの認証式も4月にFiladelphiaであるのだが,これも延期することにした.子供がいない自分であれば,なにも考えずにこんな時でもアメリカに行っているだろうが,最近は自重するようになった.

12月
18日:先週,学生時代の恩師が58歳で亡くなった.恩師といっても,私にとっては友人のような存在であり,ランニング仲間であった.昨年も学会の時に自宅に泊めてもらったし,先生も私が留学時代にLAへ遊びに来ていた.昨年会ったときには,一緒に90分間走った.会えば必ず一緒に走っていた.腰を痛めて半年ほど走っていないなかったそうだが,11月下旬から再び走り初めて,そのときから走ると胸痛を自覚していたようである.私のところにも11/29から何通か相談のメールが送られてきた.狭心症の疑いがあるので,すぐに循環器内科を受診するように勧めていたが,説得に応じてやっと行くと言ってきたのが12/4であった.12/5に近医を受診し,ニトログリセリンを5錠もらって,再び大学に戻った.夜の9時頃帰宅し,それから走りにでたらしい.12/6の午前0時に通行人に,すでに路上で死亡しているのを発見された.身元が判明したのは3日後で,その日に息子さんから連絡をもらった.何とか仕事をやりくりし,状況がうまく理解できないまま,飛行機で現地へ向かった.死んだとき身につけていた時計は,私のものとおそろいのもので,毎日の走行時間が記録されている.メールのやりとりを裏付けるように,11月下旬より,15-30分間走った記録が残っていた.12/5ははじめは15分ほどで一度目の記録が終了しており,次の記録は33分34秒で終わっていた.ニトログリセリンは一錠服用してなくなっていることもわかった.おそらく,はじめの15分で一度胸が苦しくなり,ここで薬をのみ,改善してからまた走り出したものと思われる.そして33分34秒で再び苦しくなり,自分でストップウオッチを止め,そのあと意識を失って息絶えたのであろう.昔から練習するときに,死ぬまで走ると冗談めいて話していたが,まさにその通りになってしまった.常人にはニトログリセリンを飲んで走るなどと言うことは理解できないことであるが,私にも程度の差はあれ,同じような行動をしてきた.とにかくこれまでの人生の中で,最も重大な喪失感を今味わっている.走ることが私にできる唯一の供養である.しかし走れば走るほど,一緒に練習した思い出が脳裏をかすめる.いつかは,走って死んだのだから幸せな人生に違いないと,自分で思える日が来るのだろうか?誰にも知られず,路上で死に絶えたことを思うと,哀れでならない.
27日:人間とは不思議なもので,どんなに強い精神的なdamageを受けても,時間とともにそれを忘れるようになるものである.大切な人物との別れによる,重大な喪失感も徐々に回復しつつある.今年ももう終わりである.振り返ってみると,全般的に見ると決して良い年ではなかったような気がする.仕事は一つの論文がacceptされ,現在あと2つの仕事をまとめている.AGAにapplyしたが,credit cardの不具合と事務局の怠慢から,手続きがうまくいかず,出席できなかったことは残念.ランニングの方は,初めてロードレースで優勝したのが唯一良かったことである.内視鏡学会の認定医,FACPを取得したのも今年だった.家族も健康で自分も大きな病気をせずに過ごせた.そう考えると,実は良い年であったのかもしれない.良いことには気づかず,悪い記憶ばかりが残るというのが,自分の性質なのかもしれない.そんな意味でも一年を振り返って,冷静に評価すると言うことは大事なことである.来年がみなさんにとって良い年でありますようにお祈りします.そして自分も良い年になるようにがんばります.来年もよろしく.



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