1998年9月

11日:成田経由で札幌についたのが日本時間の夜9時.13時間の長旅であった.小樽の家内の実家についたのが10時近く.時差でよれよれの状態であったが翌日はすぐに札幌に行き,コンピューターを購入.これがないと仕事になりません.14日に大学へ挨拶に行き,15日に私の故郷足寄町へ着いた.20日は豊頃町で行われたマラソン大会に出場.森下広一選手とともにハーフマラソンを完走しタイムは悪いながらも5位入賞,鮭を一本もらった.
22日:本日から斜里国保病院でアルバイト兼臨床の感を取り戻すためのリハビリ.内視鏡のskillは2年間していなかった割にはそれ程落ちていず,ひとまず安心.大学へは無理を言って11月からの勤務としてもらった.一般病院で救急を含めた実践的な臨床活動が,2年間研究生活を続けた私には必要なのである.

10月

4日:昨日斜里での勤務を終えて足寄へ帰ってきた.斜里での私の2回の当直のときは大荒れで,両日とも一晩で救急車が4-5台入り,良いトレーニングになった.バイト料が入った.2年ぶりのまともな収入でとてもうれしい.しかし過労のためか風邪をひき,本来なら今日はフルマラソンのレースに出場する予定であったが中止.残念.
12日:臨床のかんがだんだん戻ってきた.帰国してから上部下部消化管内視鏡切除術を既に数例経験できたし,挿管しての人工呼吸管理や消化管出血の止血なども,当直が荒れたおかげで(?)することができた.やはり自分は臨床医なのだと実感した.しかしなるべく早いうちに米国でしてきた研究も平行してできればと思っている.
25日:足寄町立病院での勤務を20日で終えた.11/1から北大で勤務というのにまだ札幌で住むところが決まっていない.早々に決めなければいけないのだが,足寄町とカナダのWetaskiwinという町が姉妹都市を結んでおり,毎年互いに町民を送りあって交流を深めるという活動を行っている.私の実家でもカナダからのお客さんをhome stayさせなければいけないことになり,この期間の通訳を頼まれた.この時期にこんなことをしている暇はないのだが,この役目を果たしてから24日に小樽の家内の実家に移った.25日ようやく札幌に行き,速攻でアパートを決定.アメリカと違ってこちらで住居を探すのに,securityのことなど細かいことは考えなくても良いので実に楽である.勤務先からは4Km程離れているが家賃は思ったより安くあがった.職場まではジョギングで通う予定なので交通費はかからない.今回は子供の幼稚園の都合でここに住むことになったが,もともと毎日20Kmはトレーニングで走るので,片道10Km離れたところに住んでも自分ではかまわない事になる.通勤を練習時間に利用できれば一石二鳥.これで職場にシャワーがあれば言うことがないのだが.

11月

9日:大学での勤務が始まった.慣れないことが多いので大変である.つい2ヶ月前まではLAで動物を使って実験三昧の生活だったのが,今は大学で外来をやっている.大学医局の体制はまだお世辞にも出来上がっているとは言いがたいが,新しい医局を自ら作っていかなければならないという希望でいっぱいである.困難なことが山積みしているがそれを一つずつ解決していく楽しみがある.
16日:今月は土日の休みが全くない.アメリカで生活していたころと比べればギャップが激しい.土日にアルバイトをしなければ大学からの給料だけで生活していけないし,だからといって休みなしというのも困る.こちらはついに雪が降り冬になった.99年のAGAの演題締め切りが12/4で一応abstractは書いた.今LAにe-mailで送ってチェックをしてもらっているところである.今,我々の医局には研究室がなく,基礎的な実験はできない.しかし臨床教室という特徴を生かして,患者さんに関する,臨床研究をとりあえずこれからやっていきたいと思っている.
30日:先週はアルバイトその他で非常に忙しかった.富良野に泊まりがけで仕事に行ったり、そのほか当直が多かった.先週木曜日に朝走っていると、道路の段差につまずき、(最近北海道は道路工事ばかりやっている.いったいどうしてなのだろうか?)右足の親指を強打した.それでも毎日走っていたのだが、さっぱり良くならないので本日整形外科に行って視てもらったところ、なんと末節骨の骨折とのこと.もちろんランニングは3週間禁止.といっても走らないわけにはいかないので、なんとか足に負担がかからないよう工夫して、トレーニングを続けるつもり.でも無理を続けると骨片が動いて、うまくくっつかず、偽関節になることもあるとのことで、少し心配である.痛みは右足で強く蹴らなければそんなにない.ただし踏まれたりすると激痛が走る.不運.AGAの抄録締め切りが12月4日で、なんとか書き上げて送付した.やっと一息ついたところである.これからは医局の活動を早く軌道に乗せるために、どんどんがんばって行きたい.それにしても足のことは残念.

12月

21日:外来の合間をぬって,検査機器のセットアップを進めている.holterECG,持続血圧モニター,サーモグラフィーなど.これまで3年間全く使われていない機械ばかりだ.なぜかこの手の機械がこの医局にはある.来年早々に消化管圧モニター,pHモニターなども届くのでいよいよプロジェクトが始まる.さらにうまくいけば来年度から病床が4つだが使えそうである.プロジェクトを軌道に乗せるにはかなりの時間がかかると思っていたが,案外早く始めることができるかもしれない.
28日:昨日,留学するときに大変お世話になった,先輩に帰国後初めて,2年ぶりに会いに旭川に行って来た.先輩は現在地方の病院で臨床医として活動しているが,基礎的な研究業績はすばらしい.しかしどんなに研究業績があっても自分は臨床医であると,常日頃口にしている先生である.research mindをもった臨床医を目標にしている,私の良きお手本である.彼も留学経験があり,帰国後教官のポストが医局になかったために,自分で自由に使える研究費がないという,今の私と同じ状況に当時陥っていた.このとき,彼は様々な研究助成を行っている財団に援助を申し込み,総額1000万円以上の研究費を稼いで,自分の研究を引き続き行ったと言う.そのことを昨日聞き,自分にもファイトが沸いてきた.若手研究者を対象とした研究助成を行っている団体は多い.大学機関に属しているからこそ,そのような募集に応募することができる.今の自分の環境を存分に利用して,私も研究費の獲得を目指して活動を始めることにした.

1999年1月

11日:年末は31日の朝まで当直をして,そのあと故郷に帰省した.元旦からいつも使っている25Kmのランニングコースでタイムトライアルを行い,自己記録を更新した.右足親指の骨折はほぼ直っている.2年ぶりの故郷,日本でのお正月を過ごして,1/4から勤務再開.早ければ来年度から,医局にベッドが割り当てられることになった.着々と臨床研究の準備が整いつつある.今年が私にとっても,この医局にとっても勝負の年になりそうだ.
18日:今週は,外来がインフルエンザのせいかとても込み合って,大変だった.自分も感染したらしく,週末は調子を崩して寝ていた.今,研究費の補助を行っている財団へその申請書類を作成している.アメリカで行った仕事をあと3つ論文にしなければいけないし,今始まっているproject(自律神経機能の総合評価)のプロトコールも確立しなければいけない.その他雑用がたくさんあり,やることがたくさんある.

2月

8日:先日,父親が網走で交通事故に巻き込まれ,自分は運転はしていなかったのだが,股関節脱臼骨折,肋骨骨折,気胸,頬骨骨折などの多発外傷を受け,現在も入院中である.幸い,命に別状はないが,機能障害がどこまで改善するかが心配である.事故の翌日札幌から400kmを一人で運転して網走まで行き,二晩父親のベッドの横で看病をした.割と元気で安心した.1999年のAGAの演題採択結果が届き,応募した三つとも発表できることになった.さらに一つは,私が留学していた研究室が応募した演題の中で,top scoreを獲得したとのことで,教授からお褒めのメールを頂いた.ただし,私が一番自信があった演題は,一番評価が低く,何となく納得がいかない.AGAでは各sectionで応募された演題に点数をつけて評価し,おおよそtopから10%に属する演題は口頭発表となり,その他の演題はposterとなる.さらにtopから15%に属するposter演題には優秀な演題を示す,金色の花のマークが発表の場で渡される.口頭発表はそういう意味で非常に名誉なことなのだが,native speakerではない私が発表するのは大変である.
15日:それにしてもよく雪が降る.毎日20Kmほど走っている私にとっては,路面が滑るだけでなく,でこぼこで不安定なので非常に危険である.年末に骨折した足の指も完治して,体の方にはもう故障はない.冬は特に札幌周辺で,スピードを出して走ることは無理なので,ストレスがたまる.来週週末には研究会で東京に出張するので,このときに久しぶりに速いスピードで走ることができる.楽しみである.確定申告の季節になってきた.今年はアメリカでの収入に対しても申告しなければいけないので,手間がかかる.幸い,なんとか書類を作成し終わり,あとは向こうに送るだけである.57ドルほど手元に帰ってくるようである.本当はアメリカの申告は面倒なので,できればしたくなかったのだが,5月にAGA出席のため渡米するので,入国の際申告を怠っていると,troubleになる可能性があるので,まじめにする事にした.結果的にお金も返ってくるようなので良かったのだが,時間をかなりとられてしまった.おかげでアメリカの税金システムについては,ちょっとした物知りになった.
26日:幸いなことに4月から教室に助手のポストが新設され ,私に当たることになった.これに関連して,大学の事務から何か教室で購入したいものがあれば申し出るように言われた.実際のところ予算はどのくらいか解らなかったので,打診してみると200-300万円程なら,ほぼ問題なく希望が叶うらしい.なんという幸運.旧帝大国立大学恐るべし.そこで私の研究に使用する,消化管の感覚を評価する一連のシステムを買ってもらうよう申請した.総額344万円.もしこの申請が通ればすごいことになる.すでに我々の教室には,24時間に渡って消化管の内圧,pHを測定しそれを解析するシステムがあり,さらにドップラーエコーが近く納入され,これを使って胃の排出能を測定する手はずになっている.これに内臓知覚を評価するシステムが手に入れば,消化管の機能異常症を総合的に評価できる体制が整うことになる.もちろんこれだけの設備がそろっている施設は日本にはないと思う.結果が楽しみだ.2/20は研究会で上京,2/21に帰って,2/22の夜には斜里に入り23-25まで斜里国保病院で診療応援.斜里は流氷が来ていて寒かった.でもなぜかこの街にいると私は落ち着く.

3月

9日:先週週末は父の見舞いに行って来た.事故直後から比べるとその回復具合に驚かされた.なんと松葉杖で歩行が可能になっていた.申請した機械は予定通り購入されることになり,なんと解析用の専用コンピュータ(50万)も一緒に買ってもらえることになった.AGA(アメリカ消化器病学会)の演題は3題全て採択され,なんとうち2題は口頭発表になった.非常に名誉なことではあるが,その用意が大変である.3/2の読売新聞北海道版の夕刊にこのHPが紹介された.今でもかなり頻繁に留学を希望している人達から問い合わせのメールが私のところに来ているが,できる限り何らかの手助けができればと思っている.
15日:月末に札幌である研究会の発表の用意と,急に依頼を受けた医学部の4年生向けの3回にわたる医学英語の講義の準備を今週中に仕上げなくてはならないことになった.まだ余裕があるだろうと思っていたのだが,来週の月曜からは斜里町立病院へ3泊4日の出張が予定に入っていたので,実質,今週中に全てを完了させなければいけないのであった.発表のスライドと講義の資料の作成はかなり骨が折れる.それにしても私ごときが英語の講義などして良いものなのだろうか?2年の留学から帰ってきたばかりという経歴を見込まれてのことだと思うが,はっきり言って語学のセンスがない自分には不適と思う.
29日:3/22は斜里に行くために千歳空港に行ったのだが,吹雪で飛行機は欠航.深夜バス,JRとも満席.結局23時発の夜行で向かったが,席は全くなく,仕方がないので床に新聞紙を敷いてごろ寝した.朝の6時に網走について,斜里に着いてすぐに診療開始.木曜の夜に札幌に帰ってきて土曜日は夜,研究会で発表.日曜はアルバイトで仕事とハードスケジュールであった.さすがに疲れからか,風邪気味である.先日アメリカに送った確定申告の書類はきちんと手続きされ,計算通り56ドルrefundされてきた.帰国したと言っても,滞在期間中の収入については確定申告を行っていないと,米国の入国の時に問題となることがあると聞いていたので,これで安心して5月のAGAに出席できる.


斜里は嵐で流氷が戻ってきて,真冬の趣でした.斜里岳も真っ白でした.とてもきれいです.

4月

20日:4月になって,我々の医局にも新人が入局してきた.また今月から内科系の患者の各科への振り分けが,全て当科が受け持つことになった.理想を言えば,紹介状を持っていない新患は,全て当科が見ることになれれば良いと思うのだが,院内でのコンセンサスもまだ得られてはいないし,こちら側もスタッフが不足していることから実行に移せないでいる.総合診療部の大学での役割はどうあるべきかを,この半年間常に自問してきたが,未だに結論が出ない.地域医療を担う医師を育成することが一つの大きな役割であるらしい.またそれは自分でもこれからも深く関わっていきたいと思っている.しかし地域医療を担う医師というのは,どのようなものがふさわしいのだろうか?少なくとも私は留学前に斜里国保病院で一年,その他短期の診療応援を含めるとこれまで1年半以上,地方自治体が運営する病院での診療経験がある.この経験から私には,地域医療を担う理想の医師像がある.ところがこの理想の医師像が,同じ医局の仲間の間でも著しく異なる.プライマリーケアー医,総合医,一般内科医など,一次医療を担う医師のあり方は,各学会,研究会によって目指すものがかなり異なっている.私の立場はあくまで内科医である.そしてsubspecialityとして消化器内科を標榜する(臨床と基礎研究両面で).最近特に思うことは,subspecialityを持つことが重要であると言うことである.一般内科医でもspecialityを持つことにより,逆に非専門分野の領域のことが見えてくる.subspecialityを持った上で,generalに診療することが重要であると思う.また特に北海道の医療事情の特殊性かもしれないが,とにかく隣の町までの距離が遠いため,また交通事情が悪いために,地方の病院はある程度の自己完結的な医療を行わなければいけない.つまり場合によっては,集中治療的なことも行わなくてはいけないし,消化管の内視鏡検査(消化管の内視鏡検査の要求は,地方病院で必須と言っても良いほど強い.)などもやらなければいけない(喘息や心不全で救急で搬入されて,すぐに呼吸管理を始めなければいけないことは良くある.また老人は車の運転ができないので,地域の病院で内視鏡検査その他は行わなければいけない).そういった意味で,私の理想は,救急は一通りのことができて,さらに消化器内科をsubspecialityとし内視鏡検査,治療が行え,その上で,できうる限り広い範囲の内科疾患の知識を持って,心のケアーも含めた総合的な診療ができるという医師がその理想になる.この要求は,非常に高いレベルのものであるが,これを目指していかないと,真の意味での地域医療を担うことはできないと思う.大学から地方の病院に派遣される医師達は,もともと地方に行くのがいやで,ここでの診療そのものも自分自身にとって得るものがなく,大学に帰るまでのつなぎで適当にやっておけばよいと考えているものが少なからずいる.たいしたトレーニングもされていない医師を,地方に派遣する医局のあり方も問題であるが,地域医療の本来の意味を理解していない医師達の認識を大きく変えていかないと,これらの問題は解決しないだろう.地域医療を担う医師は,誰よりも優秀でなければいけないと言うのが私の持論であり,これは真実である.またそんなふうに考えないで診療を行っている医師には,患者も自分の命を決して預けることはないだろう.そして今まで通りの大病院指向につながるのだ.そんなことを毎日考えている.
30日:最近立て続けに親族が亡くなったり,父親が交通事故に遭うなど,全くつきがない.先日も祖母が急死して葬式が終わったと思ったら,今度はいとこが急死.さらに自分を含めて家族全員が風邪にかかってしまい,仕事も一日休んでしまった.今は回復したが,子供はまだ毎日39度台の熱発が続いている.5/15からAGAで発表のため渡米するが,飛行機が墜落するのではないかと,密かに心配している.教室にはついに定価3000万円というエコーが納入され,ゴールデンウイーク明けには,Barostatも納められるとの連絡が入った.いよいよ戦闘開始である.とりあえず今は差し迫ったAGAの発表の用意に集中して,向こうで恥をかかないようにしようと思う.

5月

6日:ゴールデンウイークは,AGAに向けての用意に終わった.スライド原稿も何とか完成し,あとは渡米を待つだけである.5/1付けで辞令があり,文部教官,助手に任命された.なんだか物々しいが,手続きも非常にまどろっこしい.最近はほとんど毎日,意味のない事務手続きのための書類を作成している.5/5は今年のレース第一段で,ハーフマラソンに出場してきた.直前に発熱したり,当日の天候も雨と風でconditionは最低であったが,タイムもそれなりであった.レースに出ると自分の欠点が非常に良くわかり,次に何をすれば良いかがわかる.また普段は一人で練習しているので,他人と一緒に走る機会も貴重である.それにしても悪天候にもかかわらず,皆さん良く休まずにレースに出場するものだと感心している.最も自分も同じ立場であるが.思うに人それぞれのレベルでレースを楽しむのが市民ランナーで,おそらく天候など省みずにレースに赴く人々は,その中でもかなりの競技指向であり,今現在の自分の能力を最大限発揮するために,走っているという人なのではないかと思う.自分の体力を限界まで試すことは,今の社会ではなかなかできない.私も5年ほど前までは,順調にタイムも伸びて,レースに出て入賞するのが嬉しかった.怪我をして3年ほど満足に練習ができなくなり,その結果タイムも落ちてしまったが,その時は故障が直ればまた思うように練習ができて,再び記録は元に戻ると考えていた.1年前に故障がほぼ完治し,満足に練習ができるようになったが,タイムは故障前のレベルには回復していない.最近これが老化という意味なのかと自分なりに納得している.そう思うようになった時はショックだったが,今は逆にどれだけ今の競技レベルを維持できるかと言うことに集中している.この調子で練習をして,体を維持していけば(体脂肪率は現在8%である),70才ぐらいになると,マスターズの世界記録に近づくかもしれない.そんなことを目標に毎日練習している.今でも自分は競技者であるという自負がある.
14日:いよいよ明日olrandoに向けて出発.学会は5/16-5/19で,発表は5/16,5/18,5/19の三日である.5/17は唯一のお休み.観光は無理だが,みあげものは買うことができる.最近,私の親族は,不運の連続なので,私自身も飛行機が墜落しないものかと心配している.それでは無事帰国できたら,またお会いしましょう.向こうへはデジカメを持っていくので,学会の様子を後日報告します.
31日:AGAから無事に帰って来ました.orlandoは遠い.自宅を出てからhotelに着くまで26時間もかかってしまった.発表は多くの質問が寄せられたが,全て自力で答えることができ,成功であった.予定通り5/21に帰国したが,悪性の風邪をひいてしまい,未だにまだ回復していない.AGAはすばらしい学会で,非常に刺激的であった.ぜひ来年も演題を応募して参加したいと思った.それには今年の12月上旬までに実験をまとめなければならない.かなり難しいとは思うが,がんばっていきたい.AGAへ参加の旅の記録はこちらへ

6月

7日:AGAから帰ってきてから,風邪がずっと治らず,おまけに歯も痛くなり,歯科に行ったら,歯根が化膿して上顎洞まで炎症が及んでいるとのこと.体調は最悪である.毎日走っていても,満足に走れたことが最近は全くない.アメリカで感染したvirusは強力なのかもしれない.ついにBarostatが納入されたが,初期不良でまだ動作していない.いずれにしろ患者さんに対しての検査は,大学の倫理委員会の許可が得られてからではないとできないのだが,自分たちを被験者にして予備実験を開始しようと思っているので,現在メーカーに早急な交換を要請している.こちらの方はまだ始まるのに時間がかかりそうであるが,ドップラーエコーを使用した研究は,すぐにでも開始できるように今週セットアップを完了した.いよいよスタートである.
21日:体の方はやっと回復したようである.実験の方も予備実験がだいたい終わり,いよいよ本格的に臨床データを集める段階になった.予備実験は自分や医局の人に協力して行ったが,まだまだ数を増やさなければいけないのだが,ちょうど都合がよいことに,7月に入ってから,自分が学生の講義を受け持つことになっているので,この時に少し自分の研究のPRをして,協力を要請しよう.ところで最近IBMのthinkpad570を衝動的に買ってしまった.久しぶりに物欲を刺激するコンピューターで,今たいへん満足している.これでsonyのVAIOと2台になった.1台は自宅で使っている.VAIOもそうだったが,自分にとってコンピューターは,その機械の仕様がすばらしいと言う理由ではなく,見た瞬間の印象が購入理由の大きな要素になっている.これでしばらくは無駄使いができなくなってしまった.最後に私は今日で36才になりました.

7月

2日:先週週末は発熱と,ひどい下痢に襲われた.熱は4日間継続し,下痢は2日で治まったが,60回程トイレに行く羽目になり,体重が激減した(なんと49.5Kg).おまけに月曜日は斜里国保病院に診療援助で行かなければならなかったので,下痢止めと,解熱剤を飲みながら診療を続けた.今は快復したが,まだ体の衰弱は強く,遅くまでは起きていられない.そんなわけで,ほとんど仕事も進まなかった.そんなところに学生の講義も始まり,雑用で仕事がさっぱり進まなくなっている.まずは早く体調を元に戻さねば.
12日:少しずつ体の方は回復してきているようだが,まだまだ長時間走ったりはできないようだ.10日は消化管運動関係のシンポジウムが東京であり,日帰りをした.それにしても東京は暑い.昨年までLAにいたのにどうしてと思われる人もいるかもしれないが,LAは砂漠の中にあるので,空気はきわめて乾燥しているため,気温が40度になってもそんなに暑く感じない.東京は湿度が高いのと,人が非常に多いのが私の性分に会わない.超音波を利用した胃排出の予備実験は徐々に進んでいるが,なかなか診療といっしょだとデータを集めるペースが進まない.測定自体も90分かかるので,この間つきっきりになってしまう.まあ,測定が今の系でうまくいく事がわかったので,あせらずにはまず健常者のデータを集めていくしかない.
19日:今週も週末は東京へ研究会出席のために日帰り.日々マラソンへ向けてのトレーニングはしているが,最近一度に長距離を走る時間が確保できなかった.昨日は,なんとか時間を作って30Km走を行った.坂のあるコースで2時間30分もかかってしまったが,まずまずの走りであった.それにしても最近の札幌は本州並の暑さと湿気で,トレーニングをするのがつらい.医局のコンピューターがまたクラッシュ.(何とかしてくださいFujitsu).添付されているリカバリーCDに入っているwin98のシステム自体に問題がありそうなので,今度はそれを使わず,手持ちの市販されているwin98をinstallした.英語版も同じようにinstallして,dual bootにしているが,どうも英語版の方が安定している.コンピューターの管理は私がやらなければいけないので,クラッシュするたびに,相当の時間を取られてしまう.なんとかならないものだろうか?

8月

2日:北海道なのに梅雨のような天気が続いている.やっと計画していた研究が少しずつ始まった.自律神経機能の総合的評価として,心血管系,消化器系,内分泌系などの検査をいわゆる自律神経失調症の患者に対して行っている.まだデータは少ないが,検査で何らかの異常がある人とそうでない人が存在することが明らかになりつつある.何らかの自律神経機能異常が存在する人は,それが原因で症状を来している可能性があるが,何も異常がない人は,自律神経の機能異常というよりは,明らかな精神疾患と考えて対応を検討した方が良いというのが,今までのところの印象である.もう少しこの検査を続けて傾向を確かめていきたい.Barostatはやっときちんとsetupが終了し,いつでも測定を開始できる.現在大学の倫理委員会にBarostatを使った研究の開始を申請中である.
17日:先週は夏休みをとってそれを利用して,斜里に行って来た.半分は仕事でほとんど休養にはならなかったが,札幌を離れて地方に行くだけでも,精神的に休まる.それにしても今年の夏は暑い.Barostatの倫理委員会への申請は,倫理委員会にかかる前に幾つか注文が付けられ,今その書類を作成している.なんでも,倫理委員会を通さないで,運営委員会の判断だけで検査が始められるような雰囲気である.それなら早期に許可が下りるので,ラッキーである.北海道マラソンが迫って来た.最近やっと調子が良くなってきて,練習も何とか満足ができるレベルになってきたが,疲労からか腰痛に悩まされている.なんとか間に合わさなければ.

9月

7日:北海道マラソンは無事終わり,ゆっくりと走ったので体自体のダメージはないのだが,膝は痛む.Barostatはようやく学内の倫理委員会で審査が始まった.早期に許可されることを祈っている.胃排出は検査手技に関しては全く問題がなくなり,最近はストレスの負荷により排出能がどのように変化するのかなどについて,検査を行っている.こちらに関してはこのまま研究を進めていけばなんとかまとまりそうである.サーモグラフィーに関してもプロトコルが確立したので,現在検査が進んでいる.10月からはポリクリが始まるので,時間が取られるが,反面検査の実習という名目で,学生を被験者として健常者のデータが集めることができるので楽しみにしている.
24日:9/12は千歳日航マラソンに出場.3時間22分で完走.膝が痛むので全力で走れないので,体力は全く消耗していない.なんとか完治させなければ.Barostatを使った研究は,やっと学内の倫理委員会の許可がおりて,いつでも始められるようになった.10月からはポリクリが始まり,学生教育に時間を取られるが,どんどんやっていこうと思う.

10月

7日:学生実習がはじまり,忙しくなった.時間は取られるが,若い人と話をしていると楽しい.なんとか将来,高いレベルの地域医療を目指すような医師を,なるべく多く志望してもらうようにと思って接している.自分の地域医療での経験は,実習グループの中で興味深く聞いてくれる人も多いので,2年後どのような志望になるか楽しみである.
18日:10/17は北海道ロードレースに出場.あいにく朝から吹雪きという天候で非常に寒かったが,タイムはここ3年間で一番良かった.全力を出しきって走ることができたのは久しぶりである.そのため今日は筋肉痛.筋肉痛になることも最近では珍しくなった.全力が出し切れないと,筋肉痛にはならない.それにしてもこの時期から雪が降ると,冬がとても長く感じられる.日本消化器病学会が来週に行われるが,その用意を現在している.留学中にやった仕事の焼き直しなので,用意は割と楽である.消化器病学会の認定医の更新のために,点数を稼がなければいけないが,そのための学会発表である.本当はここで,新しい仕事をたくさんしてAGAで再びpresentationするのが,大きな目標である.

11月

8日:10月の最後の週末は,日本消化器病学会で発表するために広島に行って来た.広島は以前から行きたいと思っていたところで,学会出席よりも実は平和博物館の見学が主な目的と行って言い程,今回の広島行きを楽しみにしていた.長崎の平和記念館は数年前に行ったことがあり,その悲惨さに胸が熱くなったのは今も覚えている.広島の博物館も実にすばらしかった.原爆を投下した米国を非難するのではなく,何故原爆が投下されたかについて,淡々と事実を展示してある.日本人いや世界の指導者達にも是非とも訪れてもらいたい施設だと思った.

博物館の周辺は爆心地で,原爆投下後24時間以内に数万人がなくなったという.川縁を歩いていても,その時の惨状が目に浮かぶようであった.
ところで学会自体は,はっきり言って非常につまらなかった.ほとんど得るものがなく,やはり日本で仕事を発表しても意味がないと言うことを再認識した.なんとか2001年のDDW(Jpanではない)には演題をもって乗り込みたいと思う.

広島城も原爆で消失し,これはその後,再建されたものとのこと.人だけではなく,植物も動物も文化遺産までも戦争は破壊し尽くしてしまう.広島城周囲は整備されたランニングコースになっていて,私もここでトーレニングしてきた.
26日:ついに昨日,Barostatを使用して,直腸の感覚の評価を行った.被検者は自分である.ほとんど機械も自分で操作して行った.前処置として高圧浣腸を生まれて初めてかけられ,バルーンも初めての検査で手際が悪かったので,2時間以上継続して直腸に留置され,かなり疲れた.おまけに途中でコンピュータのモニターに障害が突然起きて,blackoutして全く使用不能になり,医局から別のモニターを調達しなければならなかった.しかし検査自体は非常にうまくいき,これで実際に患者を使ったstudyが問題なく行えそうである.学内の倫理委員会の許可待ちや,機械の不調などがあり,ここまで到達するのに数ヶ月を要した.しかし1例を問題なく検査できたので,これからはそのデータの蓄積が課題になる.手技的にはもう問題ないので,これからどしどし検査を行い,研究を進めていきたい.昨日は検査の成功が嬉しくて,自分一人で夜,床についても悦に入っていた.

12月

14日:12月に入って,雪も降り積もり,この時期になるとロサンゼルスに留学していたことを思い出す.カリフォルニアは常夏で,冬でも日差しが強く,過ごしやすかった.Barostatの検査も先週もう一例追加し,controlとしてのデータを確立するためにはあと4例ほど必要である.いざとなれば自分の両親を被検者にすることもできるが,学生にボランティアをお願いしようとも思っている.1月から医局長を自分が引き継ぐことになり,また雑用が増える.時間をやりくりして研究を進めていこうと思っている.
28日:Barostatの検査は昨日,初めてIBSの患者さんを被検者に行った.倫理委員会に提出した承諾書と説明書を患者さんに手渡し,きちんと説明を行った後,承諾を得た.今回は直腸のみの評価を行ったが,予想通り腸管感覚の過敏が存在することが解った.まだcontrolが少ないため,統計学的に明らかに異常であるとは言えないが,この研究は今後大きくのびていく可能性があるということが解った.今後は早急にcontrolを増やして,IBSの治療に使用されている様々な薬剤が,腸管感覚に影響を与えないかどうかについても調べていきたい.これはIBSの新しい治療薬の探求につながる.
31日:本日はY2Kで病院に泊まり込み.昼頃こちらに来て,仕事をして18時頃に食事に出かけたが,食堂はほとんど休み.仕方がないのでコンビニで弁当を買うことにした.ところが弁当もほとんど売り切れ.カップラーメンで我慢した.そう言えば昼もカップラーメンだった.1900年代の最終日は寂しく過ぎていく.来年もよろしく皆さん.



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