原理講論試験

総序

創造原理

堕落論

人間歴史の終末論

メシヤの降臨とその再臨の目的

復活論

予定論

キリスト論

緒論

復帰基台摂理時代

モーセとイエスを中心とする復帰摂理

摂理歴史の各時代とその年数の形成

摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代

メシヤ再降臨準備時代

再臨論

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参照:原理講論 予定論 ()内の数字は原理講論のページを示す。

1、神のみ旨に対する予定について説明せよ。(240-242)

 「み旨」とは創造目的を復帰することにあるので、復帰摂理の目的の完成をいう。神は人間を創造されて創造目的を完成するみ旨を立てられたが、人間の堕落により、そのみ旨を達成できなかったので、神はそのみ旨を完遂なさるために、それを再び予定して、復帰摂理をされるのである。神は善の主体であり、創造目的も善であり、従って、復帰摂理の目的も善で、その目的を成就する「み旨」もまた善でなければならない。故に、神は創造目的に反するもの、又、障害となるものを予定なさらない。

 神は唯一、永遠、不変、絶対者であられるので、復帰摂理のみ旨も唯一、不変、絶対的なものでなければならないので、このみ旨に対する予定は絶対的である。従って、このみ旨のために立てた人物がそれを完成できないときは、代理人物を立てても、この絶対的なみ旨を摂理されるのである。

2、神のみ旨成就について説明せよ。(243-244)

 創造原理によれば、神の創造目的は、人間がその責任分担を完成することによってのみ完成できるようになっているので、そのみ旨成就にあたっては、あくまでも、人間の責任分担が加坦されなければならない。従って、復帰摂理の目的を完成されるにあたっても、その使命を担当した中心人物が、その責任分担を遂行することによってのみ、そのみ旨は成就されるのである。

 神のみ旨成就に対する予定は、復帰摂理の目的を完成させようとされる「み旨」は絶対的であるが、み旨成就はどこまでも相対的であるので、神がなさる95%の責任分担に、その中心人物が担当すべき5%の責任分担が加担されて、はじめて完成される。人間が担当した責任分担は、神がその責任分担として担当された苦労と恩賜にくらべて微小なものであったが、摂理における中心人物達が彼等の責任分担を全うしなかったが故に、復帰摂理を延長させてきたという事実を知るとき、この軽微な責任分坦が、人間自身においては、如何に大きく、難しいものであったかが、推察できる。

3、中心人物として召命を受ける人物はどのような条件を満たすべきか? (246-247)

復帰摂理を担当した選民の一人として、生まれなければならない。
善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。
その個体がみ旨を成就するのに必要な天稟を先天的に持つ。
後天的な条件がみな具備されていなければならない。
天が必要とする時期と場所に適合する個体

4、予定説の根拠となる聖句を三つあげ、原理的に説明せよ。(248-250)

ロマ8/29,30「神はあらかじめ知っておられる者たちを…あらかじめ定め…あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには更に栄光を与えて下さる。」

  神は全知であられるから、如何なる人間が復帰摂理の中心人物になりえる条件を備えているかをご存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、あらかじめ知っておられる人物を予定し、召命なさるのである。彼は召命された立場で自分の責任分坦を完遂するとき、はじめて義とされ、神が下さる栄華に浴することができる。ただ聖句には、人間の責任分丹に対するみ言が省略されているために、それらが、ただ、神の絶対的な予定だけでなされるように見えるのである。

ロマ9/15,16「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、慈しもうとする者をいつくしむ。』ゆえに、それは人間の意思や努力によるのではなく、ただ、神のあわれみによるのである。」

  人物を選んで、あわれみ、あるいはいつくしむのは、神の特権であり、人間の意思や努力によってできるのではない。従ってこの聖句は、どこまでも神の権能と恩寵とを強調するためにくださったみ言なのである。

ロマ9/10-13「胎中のときからヤコブは愛し、エサウは憎んで、更に長子エサウは、次子ヤコブに仕えるであろう」

  これは復帰摂理路程のプログラムを合わせるためであった。エサウは、カインの立場にあるので、神の憎しみを受ける立場におり、ヤコブはアベルの立場におり、神の愛を受けられる立場であったから、このように言われたのである。

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