原理講論試験

総序

創造原理

堕落論

人間歴史の終末論

メシヤの降臨とその再臨の目的

復活論

予定論

キリスト論

緒論

復帰基台摂理時代

モーセとイエスを中心とする復帰摂理

摂理歴史の各時代とその年数の形成

摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代

メシヤ再降臨準備時代

再臨論

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参照:原理講論 キリスト論 ()内の数字は原理講論のページを示す。

1、創造目的を完成した人間の価値を述べよ。(252-254)

神と完成した人間との二性性相的な関係から

 無形の心に似た実体対象として創造されたのが体であるように、無形の神に似た実体対象として創造されたのが、人間である。神と完成した人間とが四位基台をつくって一体となれば、人間は神の心情を完全に体恤できる生活をするようになるので、この関係は断ち切ることのできないものとなる。このように創造目的を完成した人間は、神が常に宿ることができる宮となり、神性を持つようになるので、神のような価値を持つようになる。

人間創造の目的を中心として、

 神が人間を創造された目的は人間を通して、喜びを得るためであった。人間は誰でも、他の人が持っていない特性を各々持っている。個性が全く同じ人は一人もいない。従って、神に内在している或る個性体の主体的な二性性相に対する刺激的な喜びを、相対的に起こすことができる実体対象は、その二性性相の実体として展開されたその一個性体しかないのである。故に、創造目的を完成した人間は誰でもこの宇宙間において、唯一無二の存在である。(天上天下唯我独尊)

人間と被造世界の関係から

 創造目的を完成した人間は、霊人体で無形世界を、肉身では有形世界を各々主管するように創造されているので、全被造世界の主管者となる。また有形、無形の二つの世界は、人間を媒介として、お互いに授受作用をすることにより、はじめて、神の実体対象としての世界をつくるのである。人間の霊人体は無形世界を総合した実体相であり、その肉身は有形世界を総合した実体相であるので創造目的を完成した人間は天宙を総合した実体相ともなる。従って人間は天宙的な価値をも持っている。

2、イエスが神御自身であるという聖句を原理的に述べよ。(258-260)

ヨハネ14/9,10「私を見た者は、父を見たのである。どうして、私たちに父を示して欲しいと言うのか。私が父におり、父が私におられることをあなたは信じないのか」

 イエスは創造目的を完成した人間として、神と一体であられるので彼の神性から見て、彼を神とも言える。しかし彼はあくまでも神御自身となることはできない。神とイエスとの関係は、心と体の関係に例えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、、体はそれ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神と這えるが、神御自身になることはできない。

ヨハネ1/14「そして言は肉体となり、私たちの内に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の一人子としての栄光であって、恵みと真とに満ちていた」、ヨハネ1/10「世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」

 この世界はイエスによって創造されたと記録されているので、結局、イエスを創造主であると見るようになった。しかし創造原理によれば被造世界は個性を完成した人間の性相と形状を実体に展開したものであるが故に、創造目的を完成した人間は被造世界を総合した実体相であり、また、その和動の中心でもある。故にこのような意味から、この世は完成した人間によって創造されたともいえる。従ってこのみ言は、イエスが創造目的を完成した人間であるという事実を明らかにしただけで、彼が、創造主自身であるということを意味するものではない。

ヨハネ8/58「アブラハムの生まれる前から私はいるのである」

 イエスは血統的に見ればアブラハムの子孫であるが、彼は全人類を新生させる人間祖先として来られたので、復帰摂理の立場から見れば、アブラハムの祖先になる。従って、このみ言も、イエスが神御自身であるという意味から言われたのではない。

3、完成人間とイエスの価値について述べよ、又、イエスと堕落人間の相違について述べよ。

創造目的の完成からに見た人間とイエス。(256-257)

 完成した人間は神のような神性を持つはずの価値的な存在であり、唯一無二の存在であり、天宙的な存在である。イエスは、まさに、このような価値を持っておられる方である。しかし、イエスが持っておられる価値がいくら大きいといっても、創造理想を完成した男性が持っている価値以上のものを持つことはできない。このようにイエスは、あくまでも創造目的を完成した人間として来られた方である。

堕落人間とイエス(261-262)

 イエスは創造目的を完成した人間としての価値をみな備えておられるので、天使をはじめ、全ての被造世界を主管する資格を持っておられる。またイエスには原罪がないので、サタンが侵入できる何らの条件もない。そしてイエスは神のみ旨を完全に知っておられると共に、その心情をも完全に体恤した立場において生活しておられる。

 それに対して、堕落人間は、自分より低級に創造された天使を仰ぎ見る程度の賎しい立場に落ちてしまい、原罪があるのでサタンの侵入できる条件がそのまま残っている。そして堕落人間は神のみ旨とその心情世界を知ることができない。従って、人間は堕落した状態に留まっている限り何らの価値もない存在であるが、真の父母としてのイエスによって新生され、原罪を脱いで善の子女になればイエスのように創造目的を完成した人間に復帰されるのである。ここには、父と子としての順位があるだけでその本然の価値にはすこしの差異もないのである。

4、イエスと聖霊による霊的新生について述べよ。(266)

 父母の愛がなくては新たな生命が生まれることはできない。聖霊の感動によってイエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒達は、その愛によって新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生されるのである。これを霊的新生という。

 ところが、人間は霊肉ともに堕落したので、なお、肉的新生を受けることによって、原罪を清算しなければならない。イエスは、人間の肉的新生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになる。

1